2014年6月8日 聖霊降臨日礼拝説教
「ローマ人への手紙八章? 言葉に表し得ない
心の呻きを、神の御霊は祈りに変える」
ローマ人への手紙8章26、27節 新約聖書口語訳243p
はじめに
今日の日曜日は教会暦で「聖霊降臨日」と申します。イエス・キリストが墓からよみがえった日曜日から数えてちょうど五十日目の日曜日、ユダヤ暦の「五旬節」の日に、イエスの約束の実現を待ち望んでいた弟子たちに天から聖霊なる神が降臨してくださったのでした。西暦三十年のことです。
「五旬節」とは五十番目という意味で、ギリシャ語で「ペンテコステ」となります。
元々はエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民が、解放者モーセに率いられてエジプトを脱出し(これをエクソダスと言います)、シナイ半島にあるシナイ山で十戒を付与されたことを記念して設けられた祭、それがこの「五旬節」でした。
それもあってこの日は「律法授与の日」とされる重要な日であり、その後、イスラエル民族がパレスチナに定住するようになってからは小麦の収穫を祝う「小麦刈りの初穂の祭」(出エジプト記34章22節)として、盛大に祝われておりました。
ところで絶望を「死に至る病」と言ったのは、デンマークの思想家、セーレン・キェルケゴールでした。十九世紀半ばのことです。
失望の段階では人にはまだそれなりに期待というものが有り、そのために「祈ろう、祈らねば」という思いが残っているのですが、しかし、望みを失うという失望を通り越して、望みが絶えるという絶望になりますと、祈ろうという気持ちにすらならなくなってしまいます。
そういう意味では、「死に至る病」に罹る前、絶望に至る前の失望という段階で、つまり、「祈ろう、祈らなければ」という気持ちがまだ残っている段階で神を呼ぶ、神に呼ばわる、ということが大切です。
困るのは「祈ろう、祈らなければ」と思っても、いざ、祈ろうとすと、祈りの言葉が出てこないという場合です。どうしたらよいのか。
でも、まことに有り難いことに、その答えが聖書にあるのです。
そこで今年の霊霊降臨日の礼拝では、言葉に表し得ない心の呻きを祈りに変えて神に届けてくれる、神の御霊の働きについて教えられたいと思います。
1.聖徒の弱さ、祈り得ない弱さを、内なる御霊は共に代って担い助ける
聖書の中で最も重要な文書はどれかというならば、迷うことなくローマ人への手紙であると答えます。では、ローマ人への手紙の中で最も重要な章はどこかと聞かれたら間違いなく、八章を挙げるでしょう。それほど、八章は重要な箇所です。
機会がありましたら、八章全体の講解説教を実施したいと願っていますが、今年の「聖霊降臨日」では、二十六節と二十七節を取り上げたいと思います。
八章の後半部分で著者のパウロは、神の御霊の働きとして、神に懸命に従っている聖徒が抱える弱さを補い、そして助け支えるという、助け手としての機能を挙げます。
実際、私たちは日々の暮らし、歩みの中で、色々な種類の弱さ、とりわけ信仰の弱さというものを感じているのですが、それは世界の中心都市であったローマにある集会の信徒も、変わることがなかったようです。
「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、私たちはどう祈ったらよいかわからないが」(ローマ人への手紙8章26節前半 新約聖書口語訳243p)。
「弱いわたしたち」(26節)とありますが、これを直訳しますと「私たちの弱さ」となり、しかもこの場合の「弱さ」には複数形が使われていますから、色々な「弱さ」ということになります。
その色々な「弱さ」の中でも、何と言いましても信仰の弱さ、信じ抜く上での弱さなどの「弱さ」が、私たちを悩まし、前進を妨げることがあります。
この、信仰の弱さはとりわけ、祈りの面で現われるようです。すなわち、「どう祈ったらよいかわからない」(26節)という、祈り得ない弱さです。
この「どう祈ったらよいかわからない」(同)ということは、祈り方の決まりや手続き、テクニックなどのことではありません。
これは「祈らなければならない」と頭ではわかっていても、いざ、祈るとなると、何をどう祈ったらよいのかわからない、また祈る上でのエネルギーが出てこないという困惑状況を意味します。
そして、このような、いざ祈ろうとする時に行き詰まっている者を「助けて下さる」(26節)のが神の「御霊」(同)なのだとパウロはいいます。
ここで、「助けて下さる」と訳された原語について、「ローマ人への手紙」の権威である松木治三郎(故人)は、これは三つの言葉の複合語であると説明しています。
このスュンアンティラムバネタイは、スュン(共に)とアンティ(代って)とラムバノマイ(重荷をになう、軽くする)の三つのことばからなっている。…自分でどうすることもできない私たちの絶望的な弱さ無力さの下に、み霊が(入)いりこみ、私たちに代って、私たちをになう(松木治三郎著「ローマ人への手紙 翻訳と解釈 317p」日本基督教団出版局)。
しかも神の御霊の「助け」はレディメードではなく、一人一人の弱さに合わせての「オーダーメード」であって、それがとりわけ、神への祈りの場面において現われるのだと、パウロは励ますのです。
2.言葉に表せない切なる呻きをもって、内なる御霊は神に執り成す
では御霊の助けはどのようになされるのかと言いますと、「イエスは主なり」と告白をした時に、イエスを信じ受け入れた者たちの内に来られたキリストの霊、御霊なる神によってなされます。
すなわち、内住の御霊は、私たちがどうしても言葉に言い表すことできないような内なる苦悩(それはしばしば、たとい人に話をしても理解してもらえないというような呻きですが)というものを、正しく悟り、理解した上で、その人に代って神に向かって呻き、執り成しをしてくださると、パウロは言うのです。
「なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせないような切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」(8章26節後半)。
先月末の五月二十九日、内閣総理大臣より、スウエーデンのストックホルムで行われていた日朝協議において、長年の懸案であった北朝鮮による拉致問題が、解決に向けて動き出した旨の発表がありました。
確かに同日、政府が発表した日朝の合意文書、特に北朝鮮側による合意文書には、かつてない程の前進が見られるような文言がありました。
第1に、…拉致被害者および行方不明者を含む全ての日本人に関する調査を包括的かつ全面的に実施することとした。
第3に、全ての対象に対する調査を具体的かつ真摯に進めるために、特別の権限(全ての機関を対象とした調査を行うことのできる特別な権限)が付与された特別調査委員会を立ち上げることとした。
第5に、拉致問題については、拉致被害者および行方不明者に対する調査の状況を日本側に随時通報し、調査の過程において日本人の生存者が発見される場合には、その状況を日本側に伝え、帰国させる方向で去就の問題に関して協議し、必要な措置を講じることとした(北朝鮮側合意文書)。
日朝双方の合意文書を丁寧に読み、そして内閣官房長官の説明を聞く限り、北朝鮮も今回は腹を固めたように見え、この結果、何人かの日本人が帰ってくることが期待されます。
勿論、卑劣な誘拐犯が、自分たちが誘拐した人間の消息を、誘拐実行犯だけで調査するということを約束したという合意ですから、考えて見ればこれほど理屈の通らない理不尽なこともありませんが、それでも、かつてない程の変化であることは間違いありません。
それほど、現時点での彼の国は、政治的、経済的、外交的に切羽詰まった状況にあるというわけです。
ただし、調査報告の結果の中に、政府認定の被害者が含まれるかどうかは定かではありません。
実は交渉の水面下では、誰を帰すかということは日朝の間ではほぼ調整済みで、その中には横田めぐみさんや有本恵子さんは入ってはいないという情報も漏れてきているようですが、それでも、打開に向けて一筋の曙光が見えたこともまた、確かなようです。
三十七年前に拉致された横田めぐみさんのお母さんの横田早紀江さんは、十三歳の娘が行方不明となった後、深い悲しみの中にいましたが、ある時、クリスチャンの知人から紹介された旧約聖書のヨブ記を通して、「人知の及ばないことも神の手の中にある」という希望に導かれ、そしてクリスチャンとなりました。
その横田早紀江さんが心のよりどころとしている聖句が詩篇の一節なのだそうです。
「わたしのたましいは黙って、ただ神を待つ。私の救いは神から来る。民よ、どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ」(詩篇62篇1、8節 新改訳)。
「民よ、どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ」という詩篇の呼びかけに励まされてきた横田早紀江さんは、このたびの日朝協議の合意を聞いて、希望を新たにしたことと思います。
旧約聖書には、失望と深い悲しみのただ中で、「心を神の御前に注ぎ出」した女性(ひと)が出てきます。ハンナです。
時は紀元前十一世紀の前半のこと、北パレスチナの山地で暮らすハンナの悩みは子供が出来ないことでした。
「エルカナには、ふたりの妻があって、ひとりの名はハンナといい、ひとりの名はペニンナといった。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった」(サムエル記上1章2節 旧約聖書口語訳382p)。
先祖から受け継いできた家名と嗣業を子孫に残すことを至上命題としていた古代のイスラエル人として、夫エルカナは後継ぎの男の子を得るべく、止むなくハンナとは別に、ペニンナという妻を家に迎えたのでしょう。
しかし、夫の気持ちがハンナにあることに苛立ったペニンナは事あるごとに執拗にハンナを苦しめ、神を恨ませようとします。
「また彼女を憎んでいる他の妻は、ひどく彼女を悩まして、主がその胎を閉ざされたことを恨ませようとした。こうして年は明けたが、ハンナが主の宮に上るごとに、ペニンナは彼女を悩ましたので、ハンナは泣いて食べることもしなかった」(1章6、7節)。
あるとき、家族で神殿に詣でた際、ハンナは家族から離れてひとり、神の前に出て祈りをします。
「ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた」(1章10節)。
でも、彼女の唇は動いてはいても声が聞こえなかったため、神殿にいた祭司のエリは、ハンナが酒で酔っぱらっていると思い込んで、「酔いを醒ますように」と、見当外れの忠告をハンナにしました。そこでハンナは事情を説明します。
「しかしハンナは答えた、『いいえ、わが主よ、わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだんではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。はしためを、悪い女と思わないでください。積もる憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言っていたのです』」(1章15、16節)。
時代は西暦三十年の聖霊降臨の出来ごとよりはるか千年以上も前のことです。しかし、神の霊は当時も「弱い」者を「助け」(ローマ8章26節)るべく、活動をしていたのでした。
ハンナの説明で誤解をといた祭司はハンナを祝福し、ハンナも自分の心の思いが神に届いたという確信を得て、家へ戻って行きます。
「こうして、その女は去って食事をし、その顔は、もはや悲しげではなくなった」(1章18節後半)。
「不幸な女」(15節)であることを自覚するハンナという女性の心の痛みと苦しみを、彼女自身と「共に」し、彼女に「代って」その「重荷を担い」、その心の呻きを祈りに変えて神に届けたのは、この時代にも休むことなく働いていた神の御霊であった筈です。
神の御霊の「助け」があったからこそ、ハンナは「主の前に心を注ぎ出」(サムエル上1章15節)す祈りができたのだと思われます。
そして、昔も今も変わることのない神の御霊は、キリストの復活後の五十日目、約束を待ち望む弟子たちに、公的かつ劇的に降臨をしたのでした。
祈りたいと思う、しかし、心が重荷を押しつぶされて、どうしても言葉が出てこない、という場合、祈り得ないという弱さの中にある者の内側で、神の「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、」(ローマ8章26節後半)天にいます神に対して、「わたしたちのためにとりなして下さる」(同)のです。
3.御霊の思いを神は知り、神の思いを御霊は知って聖徒のために執り成しをする
しかも、御霊による「とりなし」(26節)は、的外れの祈りになるようなことはありません。
それは神を信じる聖徒にとって時宜に適う執り成し、神の心、思いに適う執り成しの祈りなのです。なお「聖徒」とは徳を積んだいわゆる聖人、セイントのことではなく、神の選びによって異なる者、つまり聖別された者のことです。イエスは主であると告白をした者はすべて、「聖徒」です。
「なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」(8章27節後半)。
ではなぜ、「御霊」(27節)の「とりなし」(同)が「神の御旨にかなう」(同)のかと申しますと、神の「御霊」自身、神の思考、意思、感情、感覚、嗜好というものを良く知っているからです。一方、神もまた、御霊の思いを熟知しています。
「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところが何であるかを知っておられる」(8章27節前半)。
神は創造者であり、全知全能の神ですから、ご自分が創造し、あるいは厳選してこの世へと召し出した人間ひとりひとりのことを、実の親や本人以上に熟知しています。
そればかりではありません。神は御霊の考え、その想いや情といったものをも、御霊同様にご存じです。
なぜ、御霊が「神の御旨にかなうとりなしを」(27節後半)することができ、神が「御霊の思うところが何であるかを知っておられる」(27節前半)のかということですが、キリスト教神学では、神と御霊とが相互に内在しているからであると説明します。
キリスト教教理の中で、理屈ではどうにも分からない、また説明がつかないものが「三位一体」の教理でしょう。
三位一体とは「三位格 一実体」という神学用語を縮めたものです。つまり、「三位格」から「格」を省略した「三位」と、「一実体」から「実」を除いた「一体」を、合成したものが「三位一体」です。
「位格」をラテン語で「ペルソナ」と言います。そして「ペルソナ」から人格を意味する「パースン」という英語が生まれてきたのですが、「ペルソナ=パースン」ではありません。
「パースン」は今でこそ完全に独立をした人格を意味しますが、「ペルソナ」にはそこまでの独立性はありません。しかし、三つの「位格(ペルソナ)」は相互に密接不離の関係にあるのです。
「三位一体」の神の何よりの特徴は、この「相互内在」にあります。
すなわち、父なる神は子なる神と御霊なる神に内在し、子なる神は父なる神と御霊なる神に内在し、そして御霊なる神は父なる神と子なる神に内在しているのです。
だからこそ、神は「御霊の思うところが何であるかを知っておられ」(27節前半)、御霊もまた、「神の御旨にかなうとりなしを」(27節後半)することができるのです。
この「相互内在」という考え方については、大塚節治という、同志社大学の総長を長く務めていた神学者の著書で教えられました。
父なる神のなかに、子なる神、霊なる神がいまし、子なる神のなかに、父なる神がいまし、霊なる神がいまし、霊なる神のなかに、父なる神がいまし、子なる神がいます。相互内在の信仰が正統的教理になったことはわれわれの宗教経験に合致こそすれ、反するものではない(大塚節治著「キリスト教要義」184p 日本基督教団出版局)。
このように、神の御霊の思いを天にいます神は正確に理解をしており、一方、神の思い、神の御旨は御霊なる神が的確に知っているからこそ、その執り成しは的を射たものとなるのです。
祈らねばならないことはわかっている、しかし、失望の波が心に押し寄せてきて、どうにも祈ることが出来ない、祈りの言葉が口から出て来ない、というような時があるかも知れません。
しかし、「イエスは主である」と告白をした時以来、キリストの霊、神の御霊は自分の内に確かにおられるという事実を改めて確信し直しすこと、そしてわが内にいます神の御霊は、神の憐れみと選びによって「聖徒」とされたこの私のために、私に代って呻いて時に適った執り成しの祈りをしてくださるということを信じて感謝をすること、それが人生のスタートであり過程であり、そしてゴールでもあることを覚えて、「心を注ぎ出し」たいと思います。
そこには変わらぬ御霊の助けが豊かにある筈です。それは三千年前も二千年前も、そして二十一世紀の今も変わることはありません。