2014年6月1日 六月日曜特別礼拝説
「日本人とキリスト教? 日本の神々とキリス
ト教の神」
使徒行伝17章16~34節前半(新約聖書口語訳211p)
はじめに
昔から「日本人は宗教的に無節操だ」とする批判があります。
どういうことかと言いますと、結婚式はキリスト教形式で挙げる、クリスマスの時期になればどこもかしこもジングルベル、クリスマスケーキ、クリスマスプレゼントでクリスマス一色、でもその一週間後に年が明けて新年を迎えると、無病息災、商売繁盛、家内安全を祈願するため、わざわざ電車に乗ってまで有名神社に初詣に出かけ、受験シーズンには合格祈願の絵馬を奉納し、七五三は地域の神社に宮詣りをする、でも、身内が亡くなれば当然のようにお寺からお坊さんを呼び、有り難いお経をあげてもらって仏式の葬儀をする、など、年中(ねんじゅう)行事や通過儀礼を見る限り、確かに日本人は節操がない、といえるかも知れません。
ところで日本の宗教人口はどれほどかということですが、文部科学省の平成二十五年度の統計によりますと、何らかの宗教を信じている信者総数は日本全体で一億九千七百万人もいるそうです。ほぼ二億ということになりますが、そのうち、神道系が一億百万人、仏教系が八千五百十万人、キリスト教系が百九十万人、その他が九百十万人なのだそうです。
でも、日本の総人口は生まれたばかりの赤ん坊を入れても一億三千万人ですから、日本人の半数が一つの宗教を持ち、もう半数が二つの宗教を信じているということになるわけで、まことに摩訶不思議な数字です。
しかし、この統計なども見ようによっては日本人が宗教的であるしるし、日本人が大らかな心の持ち主であると見ることもできなくはありません。
では、宗教心があればそれでよいのか、ということですが、偉大なもの、尊崇すべきものを仰ぎ、日々の営みが順調であることを感謝するという姿勢は大切です。が、しかし、何をどのように、そして何のために拝んでいるのかということもまた、大変重要なことであると思われます。
教会ではここ数年、六月から十一月までの第一日曜日の礼拝を、どちらかといいますと初めての方々を対象にした特別礼拝を開催してまいりました。
一昨年は全体主題として主に創世記から「神と人間」を、昨年はキリストの十字架の死の意味について解説した「十字架の物語」を、それぞれ六回にわたってご紹介しましたが、今年は「日本人とキリスト教」というテーマで、日本の神々、先祖崇拝、日本神話、日本の精神的伝統、日本仏教の教えなどを正しく評価すると共に、本物のキリスト教は日本人にも受け入れられる宗教であるということをお伝えすることができればと願っております。
そこで第一回目の本日は、「日本の神々とキリスト教の神」をテーマに、人はなぜ、神を崇めるのか、真に崇めるべき神とは如何なる神であるか、ということについて、ご一緒に考えたいと思います。
1. 神の資格とは何か
嘗ては熱心なユダヤ教徒としてキリスト教会の迫害者であったサウロが、回心をしたあと、使徒パウロとなって地中海世界に向かって精力的に伝道活動を展開したことが、その後のキリスト教伝播の礎となりました。
パウロの一回が数年に及ぶというその長期伝道旅行は合計三次に及びました。そしてその第二回目にあたるヨーロッパ伝道旅行では、文化、学芸の都市として抜きん出た評価を得ていたギリシャ・アテネに足を踏み入れることとなりました。西暦五十年か五十一年のことです。
アテネの住民はパウロの語る教えに興味を持ち、彼をアレオパゴスの評議所に連れて行きます。
「そこで、彼らはパウロをアレオパゴスの評議所に連れて行って、『君の語っている新しい教えがどんなものか、知らせてもらえまいか…』と言った」(使徒行伝17章19節 新約聖書口語訳211p)。
「アレオパゴスの評議所」(19節)とは、軍神アレス(アーレース)がこの丘(パゴス)で裁判を受けたという故事から命名された場所で、アテネ最古の法廷として新しい哲学や宗教などを審査する機能として存在していたようです。
因みにアレスは、ギリシャ神話ではゼウスとヘラの息子でオリンポス十二神のひとりです。彼は海神ポセイドンの息子を殺害したという罪で裁判にかけられるのですが、情状酌量の余地ありということで無罪とされます。
なお、オンラインゲームの戦軍神アレスは、このアレスをモデルにしたのでしょうか。
さて、その「アレオパゴスの評議所」において、パウロは並み居るアテネの知者たちに向かい、キリスト教の神について、その属性について熱く語り出します。
「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしているかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神はすべての人々に命と息と万物を与え、またひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めてくださったのである」(17章24~26節)。
パウロがそこで強調したことは、彼が信じる神こそが万物の創造者である、ということでした。
キリスト教の神さまは「この世界と、その中にある万物を造った神」(24節)である、それがキリスト教の主張です。
またキリスト教の神は「すべての人々に命と息と万物を与え」(25節)、「ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めてくださった」(25節後半、26節)「天地の主」(24節)、すなわち、天と地の支配者、統治者そして本当の所有者であるということも、パウロは続けて紹介します。
その上で、パウロは言います、自分が伝えている神は、独立自足の神であるがゆえに、人が「手で造った宮などにはお住みにな」(24節)らないし、「また、何か不足でもしているかのように、人の手によって仕えられる必要もない」(24節後半、25節前半)神である、いうなれば、キリスト教の神こそが「絶対的第一原因」である、と。
しかも、この神はユダヤ民族のみならず、人類をこよなく案じ、慈しみむ、情の厚い神である、それが、パウロが伝えるキリスト教の神の特質でした。
難しい用語を使えば、宗教学的に言えば神の最大の資格は、「絶対的第一原因」でなければならないということでした。そしてそれはギリシャ哲学、ギリシャ宗教の常識でもありました。
「第一原因」とは、その存在が自分以外の何ものかの影響を全く受けず、常に自主的、自律的に行動する、ということです。簡単に言えば自主自存ということです。
そのような思索の結果、物事を突き詰めて考えるギリシャ人は、神の側面から情というものを剥ぎ取ってしまったのでした。
例えば、同情するというのは、心を動かされることである、たとい心情という情の部分であったとしても、他者から動かされたということがあれば、それは他からの影響を受けたことを意味する、しかし、それでは「第一原因」といえなくなる、というわけです。
そこでギリシャ人は神の概念から情という側面をそぎ落としてしまったのでした。
その結果、どうなったかと言いますと、ギリシャの神さまの場合、人が失意の中で呼ぼうと叫ぼうと、まったく心を動かされない無情ともいうべきイメージの神となってしまったのでした。
しかし、パウロが伝えている神は違います。キリスト教の神は、ご自分が創造してこの地上に住まわせた人間ひとりひとりが気がかりであると共に、人の側から探し求められることを望み、喜ぶ神なのです。
「こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見出せるよようにしてくださった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない」(17章27節)。
神が神である以上、神は万物の創造者であり、天地の支配者であることが前提です。しかも、それでいて情愛に満ち溢れた「第一原因」でなければなりませんでした。それが、神が神であることの資格です。
そして、キリスト教の神さまは、これらの三つの資格を有する神なのです。
2.日本の神々とはいかなるものか
では、日本人が崇め、頼る神とは、そもそもどのような神さまなのでしょうか。
実は、多くの日本人は宗教心に富みながら、自分が崇めてる神の正体を知らないようなのです。それはアテネの住民の場合ととてもよく似ています。
パウロはアレオパゴスの評議所における演説の冒頭、アテネの人々の宗教心の厚さを評価しました。
それは町のあちらこちらにある礼拝所、宗教施設で、由緒が不明な神が祀られていることに気づいたからでした。
「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのに気がついた」(17章22節後半、23節前半)。
「知られない神に」(23節)とは、謂われも実体もよくわからない、という意味です。しかし、宗教心豊かなアテネの人々は、その宗教心のゆえに何ものともわからない神々を手厚く祀って拝んでいたのでした。
自然に恵まれた環境を生きてきた日本人の場合、自然の恵みに感謝をし、自然と共存する中で宗教心を育んできたようです。
その結果、宗教心の赴くままに、有り難いと思われるもの、崇敬すべきもの、厳かに感じられるものを素直に拝むようになり、それが太陽を生命の源とする太陽崇拝、太陽信仰となって、結果、天に?(かがや)く日輪すなわち「?日(かび)」が「カミ」に変化して崇められることとなったのではないか、とされます。
それは「天道」という言葉から、太陽を「おてんとさん」と親しみを込めて呼び、ご飯が食べられるのも「おてんとさん」のおかげ、いつも見ている「おてんとさん」に恥ずかしくない生き方を、などと、素朴な日本人には自然、とりわけ太陽を神として崇める宗教性が定着したというわけです。
一方、日本には怨霊信仰というものはあったようです。つまり、怨みを残してこの世を去った者の霊を鎮めるというもので、その代表的な例が菅原道真を祭神とする天満宮でしょう。
なお、他に怨霊として名高いのは、不遇の内に死んだ平将門や崇徳天皇などです。
また、愛する祖父母や両親などが惜しまれて亡くなっても、現世を生きる孫や子どもたちをあの世から見守ってくれているという素朴な観念があったようで、それが死者への信仰、崇敬となったと考えられています。
現世、つまり「現世(うつしよ」で生きている者は「現身(うつしみ)」と言いますが、人が亡くなりますと存在自体が消滅するわけではなく、「幽世(かくりよ)」に移って、そこで「隠身(かくれみ)」となって存在するとされました。
その「隠身(かくれみ)」の「くみ」がいつしか省かれて「カミ」となったのではないかと、宗教学者は言います。
そしてもう一つの謂れが「上(かみ)」が「カミ」となったのではないかという説です。
高位に位置する者を「お上(かみ)」などと言いますが、極めて高い立場にあるものを「上(かみ)」とするうちに、いつしかそれが「カミ」となったのではないか、というわけです。
日本人に限らず、人が太陽の恵みに感謝するということは自然なことです。
ただし、論理を突き詰めていって、太陽を恵みの賜物として有り難く思うと共に、その太陽を人類の生存と幸福のために創造した存在にこそ、感謝の気持ちを現わすことが真の宗教心であるということに、日本人が気付く日が来ることを願うものです。
また、死者を悼み、先祖の存在を有り難く思うことは、人として当然のことです。そして、その上で、先人たちやご先祖さまの人生を陰に陽に、守り支えて下さった大いなる存在に対して、日本人の目が行くようになればと願います。
さらに、世知辛いこの世を弱い者が生き抜く上で、その弱者を守る者として、強者をまことの神が「お上」として人の上に立ててくださったということに気づけば、あらゆる「お上」の上に君臨する本当の神を崇めて平安に至ることも可能です。
そうすればいわゆる「お上」というものを徒に忌避するのではなく、「お上」の働きを正当に評価した上で、「お上」の「お上」である本当の神に目が向くのではないでしょうか。
よくよく考えますと、日本の神、あるいは神々のイメージは、キリスト教の神のイメージの断片であったり、片鱗であったりしているようです。
行き過ぎた言葉狩りのせいかも知れませんが、あまり目に触れなくなった言葉が「群盲、象をなでる」です。
目の不自由な人たちが象を触った後に、それぞれの感想を述べます、象の足を触った人は、「象は柱のようだ」と言った、腹を撫でた人は「象は壁のようだ」と言い、尾を触った人は「象は縄のようだ」、そして牙に触れた人は「象はパイプのようだった」と、それぞれの経験や感触を述べたという寓話です。
日本人は全容を見ることができない、という意味ではありません。むしろ逆です。古代ヘブライ人のように創造者である神からの直接啓示を受けたわけでもないのに、素朴な直観に基づいて、創造者なる神の側面を、あるいはその属性を部分的であったとしても何とか受け止め、伝えてきた日本人の宗教性に驚くのです。
そういう意味では、日本人は決してキリスト教の神から遠いところにいるというわけではないように思えます。パウロが言った通りです。
「事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである」(17章27節前半)。
神は日本人から「遠く離れておいでになるのではない」ということは、小論「3・11東日本巨大地震について」の結びの部分でも触れましたが、キリスト教の倫理観と見紛うばかりの高い倫理観を持つ日本人が、その豊かな宗教性により、いつの日にかキリスト教の神を知るものとなり、キリスト教の教理を受け入れるであろうことを信じたいと思うのです。
3.宗教は果たして「阿片(アヘン)なのか
最近、歌の部門でミリオンヒットを飛ばしたこともあるような有名な芸能人が、覚醒剤使用の容疑で逮捕され、連日、ニュースで報道されていました。
薬物と言われるものには化学合成したものと、植物を精製したものがあるようですが、芥子(けし)を精製したものが阿片(あへん)なのだそうです。
阿片には感覚を麻痺させるという効果がある一方、幻覚症状を来たらすなど、極めて危険な薬剤であって、そのため我が国では「麻薬及び向精神薬取締法」「あへん法」で一般人は使用と所持が禁じられています。
阿片と言いますと、十九世紀に英国と清(中国)との間で行われた阿片戦争が有名ですが、もう一つ、その数年後に、二十五歳のカール・マルクスがその著作「ヘーゲル法哲学批判・序説」で述べた「宗教は阿片である」という言葉が広く知られています。
宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸に対する抗議である。宗教は、悩める者のため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆の阿片である(カール・マルクス著 花田圭介訳「ヘーゲル法哲学批判・序説」マルクス・エンゲルス全集第1巻 415p 大月書店)。
「宗教は阿片」という言い方は、マルクスのオリジナルではなく、マルクスと親交のあった詩人として名高いハイネの文章から取られたものであるとのことです。
しかし、出典がどうであれ、この著作の全体を読む限り、マルクスが宗教、具体的にはドイツのキリスト教そのものを批判したものであることは疑いの余地がないようです。
それは、国家体制の庇護の中にあって、支配者による民衆の搾取に目をつぶり、民衆の目を現実の矛盾から逸らせて、いわゆる天国への希望を説くだけであった当時のキリスト教批判でもあったと思われます。
民衆の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは、民衆の現実的幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてえがく幻想をすてろと要求することは、その幻想を必要とするような状態をすてろと要求することである。宗教の批判は、したがって宗教を後光とするこの苦界(くがい)の批判をはらんでいる(前掲書415p)。
そして、もしもドイツにおける宗教、すなわちキリスト教がそうであるならば、キリスト教という宗教は一般民衆を現実から一時的に逃避させる「阿片」の役割を果たしていたと批判されてもやむを得なかったと思われます。
宗教が陥り易い罠は二つあります。
一つは現世利益(げんせりやく)や繁栄を売り物にすることであり、そしてもう一つはその対極にあるもので、この世は所詮過ぎ行くものであるのだから、この世の事柄には深入りしないで、ひたすら神の国の到来を待ち望むことを教えることでした。
マルクスが問題にしたのは、後者の方であると思いますが、しかし、人がいつかは死ぬ存在である以上、来世への希望を保証しない宗教は、真の宗教とは言えません。
だからこそ、パウロはアテネの知者たちに対し、嘲られることを承知の上で、敢えて死人の復活の希望を説いたのでした。
「神は義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによって、それをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」(17章31節)。
アレオパゴスにおけるパウロの弁証の結果は、三つの反応となりました。一つは嘲りでした。
「死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、」(17章32節前半)
二つ目は態度の保留でした。
「また、ある者たちは、『この事については、いずれまた聞くことにする』と言った(17章32節後半)」。
そして三つ目が、真摯な態度による前向きな反応でした。
「しかし、彼にしたがって信じた者も、幾人かあった」(17章34節前半)。
真の宗教は現実の苦悩や各種の問題から目を背かせることはしません。むしろ、問題に取り組むエネルギー、知恵を与えると共に、人類の永遠の課題である、死んだら人はどうなるのかという死後の運命について、確固たる希望を約束するものです。
良い宗教は決して「阿片」などではありません。そうではなく、人が正しく生きる上で無くてならぬもの、それが正しい宗教であり、正しい神信心なのです。