2014年5月25日 日曜礼拝説教
「神を畏(おそ)れて心を守る 箴言?
激情を排して穏やかに日々を暮らす、
それが健康と長寿の秘訣」
箴言14章30節 旧約聖書口語訳897p
はじめに
東日本を襲った大地震、大津波の二週間後に書いた「3・11東日本巨大地震について」という小論を、時々読み直します。
巨大地震の翌年に教会のホームページが立ち上がりましたので、礼拝説教でオリブ山におけるイエスの終末に関する予告箇所を取り上げた関係上、その参考資料としてホームページで読めるようにと、片平先生に掲載作業を依頼しました。二〇一二年十月のことです。
一年半が過ぎて、三千五百を超える閲覧があるようです。もっとも長文ですので、全文を読んでもらえているかどうかは定かではありませんが。
書いた私自身もこれを時々、開いて読むことがあるのですが、読むたびに改めて、日本人の心の気高さに心を打たれます。
今はせっせと反日の論陣を張っているお隣の国の三大新聞が揃いもそろって、震災直後の日本人の落ち着いた対応を絶賛していました。
犠牲者が数万人に達する自身や津波の大災害の中でも、日本人は落ち着いて秩序ある対応ぶりを見せ、世界中を驚かせている。避難所やショッピングセンター、ガソリンスタンド、地下鉄の駅で日本人が愚痴をこぼさず数時間並ぶ。避難所では食べ物を他の人に譲る人情と思いやりが溢れる。
…最悪の災難を前にして忍耐心と冷静さを失わない日本人の姿は我々を驚嘆させる。英国のフィナンシャル・タイムズは、「日本の市民意識は人類の精神が進化するという事実を見せてくれた」と賛辞を送った(2011年3月15日 東亜日報社説「日本の危機対処に学び、静かに支援しよう」 12p)。
わたしたちは大規模な自然災害が過ぎた後に発生する多くの秩序と混乱を目撃してきた。(だから)こうした記憶のため、日本人の冷静さがよりいっそう引き立って見えるのかも知れない。
惨状を前にして泣き叫ぶ日本人はほとんど見られない。
…一つの国の真面目(しんめんぼく)は大事件を迎えてこそ表れる。それがまさに国民性だ。全身が凍りつくような恐怖の前で、日本人は落ち着いた国民性を遺憾なく発揮している(同3月14日 中央日報社説「大災難より強い日本人」 13p)。
巨大地震、巨大津波をめぐる文章を書いた目的は、直後に出回った「巨大地震が日本に対する神からの警告、刑罰、天罰だ」とする意見や、大災害を「世の終わりの前兆」と決めつける見解が全くの的外れであるということを、少なくとも教会の関係者にわかっておいてもらう必要がある、と考えたからでした。
そして、その流れの中で、沈着冷静に危機に対応している日本人、とりわけ被災した東北の人々に対する外国人の評価、特に、興奮や激情、怒りという感情と遠いところにいて、自身よりも更に困難の中にいると思われる他者に気を使う日本人の振る舞いに対しての、外国人からの率直な賛辞を紹介したのでした。
ただし、驕ってはなりません。それは先祖の遺産であって、現代の日本人が努力して身につけたものではないからです。大事なことは、神の前に謙って、神とご先祖に感謝をすることだと思います。
さて、五月は知恵文学の一つである「箴言」から、「神を畏れて心を守る」という全体主題のもと、前半は「神を畏れる」ということ、後半は「心を守る」ということで、「箴(いまし)」めを学んでいます。
先週は守るべき「心」としての「思慮」に重点を置きましたが、今週は「心」が持つもう一つの側面である「感情」に焦点を絞ってまいりたいと思います。
1.感情の暴走は健康を損ない、寿命を縮める
旧約聖書で「心」と訳されている言葉は、もともと体の器官である「心臓」を意味する言葉でした。
ただ、古代ヘブライ人は体と心とを一体として考えていましたので、心臓→心→思慮、あるいは心臓→心→感情として捉えていたわけです。
それは、「胸が痛い」という感情を表す場合、心臓のあたりを手で抑える日本人にも共通することです。
箴言は言います、感情の暴走、爆発は対人関係を破壊すると共に、自らの健康を損ない、結果として寿命を縮める、と。
「穏やかな心は身の命である、しかし、興奮は骨を腐らせる」(箴言14章30節 旧約聖書口語訳897p)。
最初に、この箇所の後半の言葉について考えたいと思います。ここでは箴言は、日本風に言うならば「短気は損気」なのだと言います。
「興奮は骨を腐らせる」(30節後半)とありますが、「骨」(同)というのは解剖学的な意味での「骨」のことではありません。人間の生命を支える中心、つまり生命活動そのものを意味します。
ですから「骨を腐らせる」とは、生命にダメージを与え、結果としてその人の寿命を縮めさせることになる、という警告です。
この部分を日本語訳はそれぞれ、工夫を凝らして訳出します。
「激情は骨を腐らせる」(14章30節後半 新共同訳)。
「激しい思いは骨をむしばむ」(同 新改訳)。
「嫉妬深いと寿命を縮めます」(同 リビングバイブル)。
口語訳が「興奮は」、新共同訳が「激情は」、新改訳が「激しい思いは」、そしてリビングバイブルが「嫉妬深いと」と訳した原語は、熱心とか妬みという激烈な感情を表す言葉です。
そこでリビングバイブルは「嫉妬深いと」と訳したものと思いますが、この箇所では激しい嫉妬心を含めた、抑えきれないほどの否定的な感情の爆発した様を言っていると思われます。
そういう意味でこの時期、隣国の国民的特徴である「火病」という病理について触れることは、有益であるかと思います。私たちが目にする韓国ドラマで、常に柔和で優美な紳士淑女として描かれる韓国の人々が、実際生活の中でしばしば起こす感情の爆発を「火病(かびょう ひびょう)」というのだそうです。
フリー百科事典の「ウィキペディア」から引用します。
火病または鬱火病は、怒りの抑制を繰り返すことでストレス性障害を起こす精神疾患を指す。アメリカ精神科協会では、火病を朝鮮民族特有の文化依存症候群の一つとして精神障害の診断と統計の手引きに登録している。
症候としては、疲労、不眠、パニック、切迫した死への恐怖、不快感、食欲不振、消化不良、動悸、呼吸困難、全身の疼痛、心窩部に塊がある感覚などを呈する。
…原因としては家族間での諍いなどの個人や家庭に起因するもの、貧困や苦労などの社会経済的な問題に起因するものなどがあり、それらを解決しようにもうまくいかないことによる諦め、怒り、悲しみなどが原因となる。
…かつては患者の80パーセントが女性だったが、近年は男性の患者も増加傾向にある。
2012年現在、韓国の小・中、高校生のうち、648万人のうち105万人(16,2%)は、うつ病の兆候や暴力的な傾向を示す「要関心群」で、そのうち22万人は、すぐに専門家の診断や治療を受けるべき「要注意群」であることが分かっている(ウィキぺディヤ「火病」概説より)。
なお、少し古いのですが、十一年前の、韓国の三大紙の一つの東亜日報には「20歳の男性の45%が対人関係障害の可能性」という記事が掲載されておりました。
この数値は、米国やヨーロッパなど先進国の平均11~18%に比べて、2,5~4倍に達する。
研究チームによると、人格障害は自分の性格に問題があることに気づきにくく、家庭や社会生活、対人関係に支障があり、周りの人々を苦しめるという特徴がある。
また、自分の問題を他人や社会のせいにし、極端な反応を示す。
研究チームは、今回の調査で、12種類に分けて人格障害の有無を測定した結果、1種類以上の人格障害があると疑われる人が71.2%に達した、と発表した(東亜日報「20歳の男性の45%が対人関係障害の可能性」李成柱 2003年2月10日)。
このように、自国の実情を隠さずにそのまま報道する姿勢には感心しますが、しかし、「1種類以上の人格障害があると疑われる人が71、2%に達した」という発表は衝撃的です。
ただ、その病理に、「自分の性格に問題があることに気づきにくく、家庭に社会生活、対人関係に支障があり、周りの人々を苦しめるという特徴がある」という指摘、とりわけ「自分の問題を他人や社会のせいにし、極端な反応を示す」という特徴があるという分析は、個人の集合体でもある彼の国の、すぐに感情的に激高して、兎にも角にも「日本が悪い」と言って謝罪と賠償を要求する対日姿勢などにも現われているのかも知れません。
最近になって我が国に起こってきた嫌韓ムードは、メディアを通して美しく見えていた彼の国の実の姿に、様々の情報を通じて一般の日本人が気がついてきたせいなのでしょうか。
実際、街中の書店の棚には韓国研究の専門家による「悪韓論」「呆(ぼう)韓論」「犯韓論」という題の新刊本が並んでいますが、ついには韓国在住の韓国人が書いたという「韓国人による恥韓論」という本まで発行されるようになりました。
隣国の人々がこれらの指摘を悪口や誹謗としてではなく、客観的な分析、指摘として受け止めることができれば、再生の可能性はある筈です。
私たちは現在、大いなる痛みと混乱の中にある隣国の国民、為政者のために神の癒しと助けとを心から祈ると共に、これらのデータや実情分析を他山の石として捉えることにより、否定的な感情の爆発、暴走が社会を混乱させるのみか、自らの心身の健康を損ない、神から与えられた寿命を縮め、人生を破壊する危険性があることを覚えて、これを自らへの箴(いまし)めとしたいと思うのです。
聖書には「興奮」「激情」とりわけ「嫉妬心」の暴走によって罪のない弟を殺害し、その結果、神からも見放されて地上の放浪者となった人物がいます。カインです。
「カインは弟アベルに言った、『さあ、野原へ行こう』。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した」(創世記4章8節 5p)。
それは、弟アベルの供え物を神が受け入れたにも関わらず、カインの供えたものが神に拒まれたことが原因でした。
「主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた」(4章6節)。
「カインは大いに憤」(6節)りましたが、彼を拒んだのは神です。ならば、恨むならば神を恨むべきですが、あろうことか彼の恨みは「嫉妬」心の爆発となって無関係の弟に向かったのです。的外れの恨みを買うこととなったアベルこそ不運です。
カインは供え物を受け入れてもらえなかった自らの姿勢にこそ、問題があることを知るべきでした。
創世記の記述を良く読めば、「主はアベルとその供え物とを顧みられた」(4節)、「しかしカインとその供え物とは顧みられなかった」(5節)とありますように、供え物ではなく、それに先行する供えた者自身が問題だったのです。
しかしカインは自らを省みることなく、その恨みの矛先を理不尽にも弟に向けたのでした。カインは「自分の問題を他人や、社会のせいにし、極端な反応を示す」タイプの典型例といえます。
げに恐ろしきは「興奮」「激情」しかも的外れの「嫉妬深」さです。
2.激情を排して、穏やかな気持ちで暮らせ
だからこそ、と箴言は強調します。「激情」を排して、「穏やかな」気持ちで日々を送るように、と。
「穏やかな心は身の命である」(14章30節前半)。
「身」とは身体のことですが、それは精神をも含めての人の全体を指します。
「骨をむしばむ」(30節後半 新改訳)ような「興奮」(口語訳)「激情」(新改訳)「嫉妬(心)」(リビングバイブル)を排して、「穏やかな心」(30節前半)、つまり穏やかで安定した感情、情緒を維持することが求められています。
幸い、地理的環境のせいか、伝来の文化、宗教のおかげか、はたまた遺伝子の成せるわざか、とにかく日本人は情感は豊かではあっても、理性と感情、思慮と情緒に関して、極めてバランスのよい国民性を持っています。
それは、恐らくは常に他人の存在を意識し、他人を気遣うという伝統によって培われてきた「おもてなし」の文化の所産かも知れません。
世界中でトラブルを引き起こしているもう一つの隣国の中国人と、世界中から信頼されている日本人とをひと言で言い表した本が一昨年の暮れに改題、改訂されて新しく出版されました。
加瀬英明という外交評論家と、数年前に中国から日本に帰化した石 平という評論家二人による対談集です。
その本のタイトルは「相手が悪いと思う中国人 相手に悪いと思う日本人」(ワック株式会社)です。
対談の中で石 平氏が「何か事が起きると、『相手に悪い』と思うのが日本人、『相手が悪いと思う』のが中国人なんです」と述べていて、その発言の下に(爆笑)とありました(187p)。
「に」と「が」という助詞が入れ替わるだけで、その意味が天と地ほどに違ったものになる例として、これを上回るものを知りません。
確かに温和な国民性を持つとされる日本人も、時には苛立つこともありますし、恩を仇で返されるのみか、してもいないことを「した、した」と諸外国で誹謗中傷されると、流石に頭にきます。
しかし、聖書を通して神は言います、「復讐は私に任せよ」と。
「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ、自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。私自身が報復する』と書いてあるからである」(ローマ人への手紙12章17~19節 新約聖書口語訳249p)。
「復讐するは我にあり 我これを報いん」(19節 文語訳)の「我」はすべてを知る神さまのことで、この言葉はモーセ五書のひとつである申命記からの引用です。
「わたしが報復し、報いをする」(申命記32章35節 新共同訳)。
勿論、主張すべきことは主張すべきです。それは私生活においても、国際政治関係においても同様です。
しかし、世界でも稀な「穏やかな」国民性であるからこそ、日本人は世界中から愛されているのです。この性格を神からの贈り物、賜物と考えて、大らかに日々を暮らして行きたいと思います。それが健康の秘訣、長寿の秘訣でもあります。
「穏やかな心は身の命である」(14章30節前半)。
3.情を担う心は、神の平安で守りまた制御せよ
では、如何にして、「穏やかな心」を育て、保つか、ですが、私たち人間の「心」は、コップに浮かべた氷のようなものであることを理解しておきたいと思います。コップの中の氷の水の上に出ている部分が思慮や分別を掌る理性、知性であって、水の中に沈んでいる部分が感情、情緒ということになります。
先週の礼拝説教では、水の上に出ている「思慮」を担う「心」について考えさせられましたが、水の中に沈んでいる部分である「情」を担う「心」を「穏やかな心」として受け継いできたこと、とりわけ日本人としてこの地に生まれたことに感謝をし、賜物である「穏やかな心」を保つことを心掛けたいと思います。
しかし、また、人の「心」は傷つきやすいものです。トラブルを嫌う温和な性格である者ほど、人知れず、「心」に深い傷を負いがちです。
そこで、神の登場となります。特に神を崇める私たちには、情を担う「心」が、人を超える存在、人知を超えた神の平安によって守られるという約束が与えられています。
マケドニアの教会に宛てて書かれた書簡をお読みします。
「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ人への手紙4章6、7節 312p)。
教会のホームページが立ち上がったのが二年前の六月でした。そこで一応、二〇一二年の一月からの礼拝説教はほぼ、ホームページで読むことができるようにしましたので、私自身も折に触れて過去の説教を読み返して、教えられること、励まされることがしばしばなのですが、いかんせん、二〇一一年以前の説教はホームページで読むことが出来ません。
そこで時々、週報ファイルで過去の説教を読むのですが、五年前の秋の説教、「思い煩わなくてもよいのだ」を読んで、ほんとうにそうだ、と今回、改めて「心」に納得させられました。
神の平安によって守られるものは「心」であり「思い」です。「思い(ヌース)は頭脳の働きをつかさどるところ、心理学では理性、意識の部分です。「心(カルディア)」は意識の底の無意識の部分、感情を意味し、人間活動の中心を指します。
問題に直面すると私たちの心、感情は動揺し、不安にかられます。頭脳は問題の所在や原因を分析したり理解したりしようと努めますが、問題の大きさに太刀打ちできずに、パニックに陥ります。
こうして「心と思い」の両方が不安に押しつぶされてしまうのですが、その「心と思いとを」「人知ではとうてい測り知ることのできない」「神」からの「平安」が「守るであろう」とパウロは言い切ります。
英国の聖書学者ウィリアム・バークレーはそのピリピ書の註解で、「守る」という言葉「フルーレイン」は、「警戒する」という軍隊用語であって、「信仰による祈りの結果、神の平安がわたしたちの心を番兵のように警戒してくれるであろう」と解説しています。
まさに、神からくる平安が、波立ちがちな私たちの心と理性とを警護してくれるのです(2009年11月8日礼拝説教「思い煩わなくてもよいのだ」)。
少々、長く引用しましたが、要人警護を担当する者をSP、つまセキュリティ・ポリスと言います。私たちはキリストによって贖われた神の子という要人です。その要人である「わたしたちの心を」「神の平安が」「番兵のように警護してくれているのです」。
情を担う「心」は自分でだけがんばるのではなく、神の平安によって守り、また制御、コントロールすることが許されているということを神に感謝し、その上で穏やかな日々を送り、神が許し給うのであれば、与えられた寿命を楽しみ、生ける限り、神を讃えて暮らしていきたいと思います。
もう一度、本日のテキストを、今度は新共同訳で読んで、ご一緒に感謝の祈りを捧げましょう。
「穏やかな心は肉体を生かし 激情は骨を腐らせる」(14章30節 新共同訳)。