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2014年5月4日日曜礼拝説教「神を畏れて心を守る 箴言? 正しい者は七たび倒れても、また起き上がる―復元力ということ」箴言24章16節

2014年5月4日 日曜礼拝説教 

「神を畏れて心を守る 箴言? 正しい者は七たび倒れても、また起き上がる―復元力ということ」
 
  箴言24章16節(旧約聖書口語訳910p)
 
 
はじめに
 
韓国の旅客船、セウォル号の沈没事件(4月16日)は真相が明らかになるにつれて、人が起こした災害、つまり「人災」であるだけでなく、役所という国民に奉仕すべき行政の構造的欠陥、そして国民に奉仕すべき官吏、官僚の未熟さ、無責任さが招いた「官災」であるという見方が表面化してきました。
 
初期の対応如何によっては乗客全員の救出が可能であったという見方もあることから、船長を始めとする操船担当者たちの無節操さ、船舶の運航を管轄する当局の無責任ぶり、そして救助活動を担う関係機関の無為無策の対応などに、韓国内から非難の声が上がるのは無理からぬことです。
 
事故の直後から日本の専門家の間では、事故の直接の原因として、船が持つ復元力の限界を軽視した無茶な改造と、無法どころか無謀ともいえる過積載が挙げられていました。
儲けを捻出するため規定の三倍以上の貨物を積み込み、その過積載を誤魔化すために、船底に入れて重心を保つバラスト水を少なくしていたのではないかという指摘がもしも事実であるならば、犠牲となった三百人の無辜の乗客たちがまことに哀れでなりません。
 
復元力を失っていた船が潮流の激しいコースを取れば、転覆をするのは必然ですが、それにしても改めて考えさせられたのは、復元力を保つことの重要性でした。
 
聖書にはこの、態勢を立て直して安全を保ちつつ、なおも目的地に向かって前進する力としての復元力というものを、神は神を恐れる者にも備えてくださっているのだと書かれています。
 
そこで今週は旧約聖書の知恵文学の一つである箴言から、「正しい者は七たび倒れても、また起き上がる」という、復元力についての真理を学びたいと思います。
 
「箴言(しんげん)」とは何かといいますと、「箴(しん)」は「箴(いまし)める」ですから、正典としての「箴言」は単なる格言以上の教訓、いましめの言葉を集めたものといえます。
 
古代のヘブライでは律法の周知を祭司が、神からの預言の伝達は預言者が受け持ちましたが、それらは共に、上意下達(じょういかたつ)的、トップダウン的な上から下への言葉でした。
 
しかし、時代を経るに従って、ユダヤ社会には下から上へ、つまり人間から神への問いかけというかたちをとった運動が出現します。それが文学というかたちとなって凝縮したものが知恵文学と呼ばれるもので、その代表的なものが「伝道の書」であり、「ヨブ記」でした。
 
今月取り上げる「箴言」はそれらの知恵文学の一つとして、捕囚期後の紀元前三世紀ごろにユダヤ社会の中で編纂されたものだと、学者は言います。
 
 今年の礼拝では一月から四月まで、新約聖書を取り上げてきましたので、この五月は旧約聖書の「箴言」に溢れている実践的、現実的な知恵を通して、神の恵みの力とその豊かさを味わいたいと思います。
主題としましては「神を畏(おそ)れて心を守る」です。
 
 
1.正しい者は、すなわち神を畏れ、その神によって義なる者と認められた者は
 
 
さて箴言は、神を畏れる正しき人は、試練を超えて常に前進すると、躊躇うことなく言い切ります。
 
「正しい者は七たび倒れても、また起き上がる」(箴言24章16節前半 旧約聖書910p)。
 
 「正しい者は」とあります。
箴言という知恵文学において、原語は異なってはいても頻繁に使われているのが「正しい者」と訳された言葉です。
「正しい者」とは如何なる者であるのか、ということですが、「正しい者」とは「心が神に向かって真っすぐである者」という意味です。それで、「直き者」と訳されたりもします。
 
「正しき者よ、主によって喜べ、さんびは直き者にふさわしい」(詩篇33篇1節 774p)。
 
 旧約聖書には、「正しい人」として称賛された人は綺羅(きら)、星のごとくにおりますが、その代表的な人物は何といってもヨブでしょう。
 
「ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全(まった)く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」(ヨブ記1章1節 697p)。
 
 四十二章もの長大な物語であるヨブ記の主人公のヨブの人となりと行いとは、兎(う)の毛でついた程の隙も欠けもないほどの、完全無欠な人物でした。
 
聖書は彼を「その人となりは全く」、つまり人格は高潔で「潔白」(新改訳)、「無垢」(新共同訳)、「パーフェクト」(英語欽定訳)かつ、「正し」い人であり、「悪」と言われるものに関しては「遠ざか」る、すなわち潔癖すぎるくらい潔癖であったようですが、それはヨブが「神を恐れ」る人であったからでした。
 
ヨブ記の物語自体は、古代中東の雰囲気を漂わせていますが、著作年代は比較的新しいもののようです。
 
そもそもヘブライ語の聖書(正典)は三つに分類されておりました。
一つは「律法」、つまり創世記からはじまるモーセ五書です。そして二つ目は「預言者」で、ヨシュア記、サムエル記、列王記などの歴史書とイザヤ書、エレミヤ書などの預言書がこれにが入り、そしてその他の文書群が「諸書」と呼ばれていました。この「諸書」はさらに三つに分かれていて、最初のものが「真理」とされ、詩篇とヨブ記と箴言がこれに入れられていました。
 
福音書が旧約聖書を指して「律法」あるいは「律法と預言者」、あるいは「モーセの律法と預言者の書と詩編」(ルカ24章44節)と呼ぶのはこの三つの分類によるものです。
これらの(旧約)文書は作成順に編纂されましたので、その伝からいえば、「諸書」に分類されているヨブ記は比較的新しい文書であるということになります。
 
ヨブ記の主題は「神義論」であると言われています。
神義論とは、この世に悪があるにも関わらず、神が義であるということを論証しようとする神学用語ですが、具体的には、「正しい者が何ゆえに苦しまなければならないのか」という主題をめぐる論議であるといえます。
 
ですから、ヨブ記が聖書に入れられたのは、そのような問題、神の民である選民、罪なき民が何で苦難を受けるのか、という疑問に対する答えとして、つまり、「正しい者は七たび倒れても、また起き上がる」ことの証拠として、ヘブライ語聖書に編入されたのではないかと考えることもできます。
 
 
尤も私たちの場合、自己愛性人格障害でも無い限り、自分自身が潔白で過ちのない正しい人間である、と言い切ることのできる者は多くはないと思います。とりわけ日本で生まれ、日本の教育を受けた日本人の場合、自らを正しいと言い切ることのできる人は稀のようです。
 
 しかし有り難い事に、神学用語には「受け身の義」という言葉があります。「義とされる」と受け身で言います。つまり、自分自身で自らを義とする、正しい人間として認定するのではなく、他から、すなわち、義なる神から義とされる、義と認められるというものです。
 
たとい、ヨブのようにどこから見ても「正しい人」ではなく、むしろ問題だらけであっても、欠け多き者であったとしても、神が義としてくださるのであればその人は義人、「正しい人」なのです。そこにキリスト教の福音の希望があるのです。
 
 
2.七たび倒れても、すなわち何度も打ち倒されるような目に遭ったとしても
 
 
さて、箴言は、「正しい人」は何度も打ち倒されるような目に遭ったとしても再起できると言います。つまり、復元力が働く、という訳です。
もう一度、読んでみましょう。
 
「正しい者は七たび倒れても、また起き上がる」(24章16節)。
 
 「七たび倒れても」とは、幾度となく打ち倒されるような目に遭ったとしても、という意味です。
そういう意味では義人のヨブは、再起不能に見えるような状態にまで叩き伏せられるという目に遭いました。
 
何の予告も前触れもなく、言語を絶するような耐え難い試練がヨブを次々と襲います。しかもその背後には後述するように、ヨブの正しさの動機、意図をめぐる神とサタンとのやりとりがあるのですが(ヨブ記1章6~12節)、とにかく、ヨブは人生における宝物ともいうべき大切なものを次々と失います。
 
第一に、彼の莫大な財産が使用人もろとも、盗賊の襲来や自然災害等によって一挙に消え失せてしまいました(1章13~17節)。
 
第二に彼が愛してやまない七人の息子と三人の娘の全員が会食中、突然の大風によって倒れた天幕の下敷きになり、全員が圧死をしてしまうという悲劇に遭遇します(1章18、19節)。
 
 
不幸はそれだけではありません。災いは彼の身にも襲いかかってきたのです。激しい痒みを伴う腫れものがヨブの全身を覆いました。ヨブ記には、「足の裏から頭の頂きまで」とありますが、それは決して誇張ではなかったようです。
 
「サタンは主の前から出て行って、ヨブを打ち、その足の裏から頭の頂きまで、いやな腫れ物をもって彼を悩ました。ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中に座った」(2章7、8節)。
 
 まさに踏んだり蹴ったりです。しかし、ヨブに降りかかった苦難はそれだけではありません。ついに妻が切れたのでした。
 
「すると、彼の妻が彼に言った、『それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい』」(2章9節 新改訳)。
 
 ヨブ記ではヨブの苦難のみがクローズアップされていますが、彼の妻もまた、夫と共に築きあげてきた財産だけでなく、愛する息子たち、娘たちを一度に失った母親です。我が子を失った母親としての心の痛みは言葉には表すことのできないものがあると思います。狂乱するのも無理はありません。
 
 しかしまた、ヨブからすればこのような時にこそ寄り添い合うべき妻の言葉によって、更に打ち倒された気分になったことと思いますが、それでもこの時点では、ヨブはまだ神への信仰と信仰者としての矜持を失ってはおりませんでした。それが妻への返事にも示されています。
 
「しかしヨブは彼女に言った、『あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸いを受けるのだから、災いをも受けるべきではないか』」(2章10節)。
 
 まさに完全にして無欠です。立派としか言いようがありません。「正しい人」であったヨブの本領発揮というところです。小さなことでも文句を言う凡人から見れば、まさに信仰者の鑑、手本です。
 
 そして、試練は続き、ヨブの苦難に追い打ちをかけるものが現われます。
それが、三人の親友たちの訪問でした。彼らはヨブのことを心配し、善意と友情から彼を慰め立ち上がらせるべくやってきたのでした。
 
にも関わらず、語り合えば語り合うほど、両者の溝は広がるばかりとなりました。なぜか。彼らの言い分は、ニュアンスこそ多少は違いますが、「ヨブがこのような目に遭うのは、ヨブに罪があるからに違いない、その罪をヨブが認めて悔い改めさえすれば、苦難は去ることだろう」というものでした。
 
エリパズという友人がヨブを諭します。
 
「考えてみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされたものがあるか。どこに正しい者で、断ち滅ぼされた者があるか」(4章7節)。
 
 これは西暦一世紀のイエスの時代まで、広くユダヤ人社会に浸透していた因果応報という考えに基ずくものでした。
その端的な例が、生まれつきの盲人を見た弟子たちの、彼が生まれつき障害者なのは、彼自身の罪によるのか、それとも親のせいか、というイエスに対する問いでした(ヨハネによる福音書9章)。つまり、悪因悪果、善因善果という思想です。
 
 そして因果応報論でヨブに悔い改めを迫る友人たちの善意の詰問が、ヨブを苛立たせ、悩ませ、ダメージをもたらすこととなったのでした。まさに「小さな親切、大きなお世話」でした。
 
 このようにヨブの身には、起きては倒され、起きては倒されるような、まさに「七たび倒」されるような災難が襲ってきていたわけです。
 
 
3.また起き上がる、すなわちそのたびごとに何度でも不死鳥のように立ち上がる
 
でも、箴言は励まします、正しい者はもはや再起不能と思えるような苦難を受けても、それでも再起をする、と。
もう一度、本日のテキストをお読み致しましょう。
 
「正しい者は七たび倒れても、また起き上がる」(24章16節)。
 
 ヨブに罪ありとする友人たちと、我に罪なしと抗弁するヨブとの論争は幾日も続きました。どちらも譲りません。特に、自身に疾しさを覚えないヨブは、心も体も傷つきつつも自らの正しさを主張して止みません。ついにヨブを説得することを諦めた三人の友人は口を閉ざさざるを得なくなりました。、
 
「このようにヨブが自分の正しいことを主張したので、これら三人の者はヨブに答えるのをやめた」(32章1節)。
 
 そして、そこに神が登場し、自らの義を主張するヨブに問い掛けます。
 
「この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、『無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか』」(38章1、2節 742p)。
 
 神はまた、ヨブに重ねて問います。
 
「主はまたヨブに答えて言われた、『非難する者が全能者と争おうとするのか、神と論ずる者はこれに答えよ』」(40章1、2節)。
 
 人に対しては自らに非がないこと、自らの義を主張してきたヨブでしたが、相手が神となった時、彼は自らが卑少な存在であることを痛感します。
そして一も二もなく、神の前に無条件降伏をします。
 
「そこでヨブは答えて言った、…わたしは自ら悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。…わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」(42章1前半、3節後半5、6節)。
 
ヨブは結局、どうなったのかと言いますと、どんでん返しが起こります。
 
「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。…主はヨブの終わりを初めよりも多く恵まれた」(42章10、12節前半)。
 
 ヨブ記のこの結末には「繁栄の神学」の影響があるという見解もありますが、それはともかく、ヨブ記を見る上で重要な観点は、「ヨブのすべての財産」が「二倍に増された」(10節)などということではなく、ヨブの信仰が苦難の前と後とで、変質をしたことにあります。
 
ヨブは最終的には自分の義に頼ることをやめて、神によって義とされる、つまり神によって「正しい者」と認証される恵みへと導かれたと言えるでしょう。
 
ヨブのそれまでの拠り所は自らの義にありました。もちろん、義を保つことに払われたヨブの努力は神の認めるところであり、とりわけ、神への従順におけるその動機は純粋そのものでした。
 
だからこそ、神はサタンの、「ヨブが神を恐れているのは、神がヨブを恵んでいるからであって、ヨブの信仰は所詮、ご利益を目的にしたものでしかありません」という挑戦を受けて立ったのです。
 
「サタンは主に答えて言った、『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜はふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう』」(1章9~11節)。
 
 しかし、神はヨブの信仰の動機について、寸毫も疑ってはいませんでした。ですから、ヨブの動機の純粋性を証明するため、敢えてヨブをサタンに任せたのでした。
 
「主はサタンに言われた、『見よ、彼の所有物をあなたの手にまかせる』」(1章12節前半)。
「主はサタンに言われた、『見よ、彼はあなたの手にある』」(2章6節)。
 
 そして、サタンの思惑は外れ、神はサタンに打ち勝ったのでした。
 
「すべての事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」(2章10節)。
 
 ここに見えるのは、ヨブの、神への忠誠心に対する神自身の圧倒的な信頼です。神はヨブを信じていたのでした。信じ切っていたからこそ敢えて、サタンの挑戦を受けたのでしょう。
 
しかしながら、人の義は所詮、人の義でしかありませんせした。ヨブは筆舌に尽くし難い程の試練、不条理としか思えない試練を経、神との対話の中で、自らが積み上げる義ではなく、ただただ神に義とされるという、受け身の義に目覚めたのだと思われます。
 
 ヨブはパウロが言う、行いが正しいから「正しい人」なのではなく、神によって「正しい人」すなわち義人とされた人、すなわち、受け身の義に生きる先駆者となったのです。だからこそ、真の意味において「七たび倒れても、また起き上がる」ことができたのでした。
 
「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(ローマ人への手紙3章28節)。
 
 ところで、病気は人の心を挫き、心身にダメージを与えますが、神の癒しを求める祈りの根拠として読まれる聖句が新約聖書のヤコブの手紙の中にあります。
 
「信仰の祈りは、病んでいる人を救い、そして主はその人を立ち上がらせてくださる。…義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである」(ヤコブの手紙5章15節前半、16節後半 新約聖書口語訳365p)。
 
 「義人」とは、キリストの十字架の贖いを信じ受け入れることによって、神に義とされた人のことを言います。
失敗の多い人生であっても、自らに失望することの多い者であっても、それでもその都度、心から罪を悔いて神に縋る者は、神によって依然として「義人」「正しい人」とされているのです。
受け身の義に生きる者とされたヨブこそ、わたしたちの模範です。
 
長い人生、打ち倒されるような目に遭うことがあったとしても、キリストへの信仰によって「正しい者」とされていることを信じ、「七たび倒れても、また起き上がる」という復元力の働きを経験させていただきたいと思います。