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2014年4月6日召天者記念合同墓前礼拝説教「主の慈しみに生きる者の生と死は尊い」詩篇116篇15節

14年4月6日 召天者記念合同墓前礼拝説教

「主の慈しみに生きる者の生と死は尊い」

詩篇116篇15節(旧約聖書口語訳854p)

  
はじめに
 
教会の納骨堂が献堂されて、今年で二十七年目になります。「揺り籠から墓場まで」という言葉がありますが、神の祝福の祈りを受けてこの世に生を享け、献児式で祝福の祈りを受け、生涯にわたって信仰を貫き、神のみ心のままにこの世の生を卒えて天に旅立つ人生こそが理想です。
 
しかし、「終り良ければすべて良し」とも言いますように、神なき生活から人生の中途で、あるいは晩年に至って真の信仰を持ち、神と共に歩み続けた人生のその終わりに、神の憐れみによって国籍を付与された天に凱旋をするというケースもまた幸いであると言えます。
 
そこで今年、二〇一四年春の墓前礼拝における説教題は、「主の慈しみに生きる者の生と死は尊い」です。
 
 
1.主の聖徒とは主の慈しみに生きる人を意味する
 
 最初に詩篇の一節を読みたいと思います。バビロン捕囚期の後に書かれたと言われている詩篇百十六篇の十五節です。
 
「主の聖徒の死はそのみ前において尊い」(詩篇116篇15節 旧約聖書口語訳852p)。
 
 実は十五歳の春に生まれて初めて行った教会の講壇の後ろに、墨痕鮮やかな筆致で書かれたこの聖句が掲げられていたことを思い出します。
 
「主の聖徒」と言いますと、つい聖人、セイントを思い浮かべて、自分には関係ない、と思ってしまいがちです。
しかし、旧約学者によりますと、ヘブライ語の原語は「聖なる者」という意味ではなく、「詩篇では…神を愛する者と、神に愛せられる者との二つの意味を持つ」のだそうです(手塚儀一郎「旧約略解 詩篇」591p 日本基督教団出版局)。
 
つまり、「主の聖徒」には能動的な意味と受動的な意味とがあるようです。
ですから詩篇の二十八篇二十五節では「愛する者」という理解で、「いつくしみある者」と訳され、三十二篇六節でも「神を敬う者」と、能動的な意味で訳されたのでしょう。
 
そういう点で新共同訳は両方の意味を包含しつつ、どちらかと言いますと受動的な意味での訳として、「主の慈しみに生きる者」と訳したのだと思います。適訳であると思います。
 
「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価(あたい)高い」(詩編116編15節)。
 
 「主の慈しみに生きる人」とは主の慈しみの中にあって、神に愛され、そして神を愛して日々を生きているすべての人を意味すると思われます。
 
わたしたちは、時には自らに失望したり、自信を失うなどして気持ちが落ち込んでしまうということがありますが、たとい失敗の多い、悔むことの多い人生を生きていたとしても、神を大事に思い、神なくしては生きることができないと思っている限り、その人は「主の慈しみに生きる人」、つまり「主の聖徒」なのです。
 
 ところで興味深いのはリビングバイブルの訳です。
 
「神様に愛されている、かけがえのない人々」(同 リビングバイブル)。
 
 リビングバイブルは口語訳や新改訳のような直訳ではなく、思い切った意訳であるため、ところによっては読み込み過ぎの訳を施しているように思える箇所もあるのですが、「主の聖徒」を受動的に「神様に愛されている人、かけがえのない」としたこの訳は、ほんとうにすばらしい訳だと思います。
 
 私たちは聖人ではないかも知れません。しかし、「神様に愛されている、かけがえのない人々」であることは間違いのない事実です。
 
 
2.主の慈しみに生きる人の生は、神の目に価高い
 
ところで、「主の慈しみに生きる人」の命は神の目には極めて価値があるのだと、詩人は言います。もう一度、ご一緒にお読みしましょう。
 
「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価(あたい)高い」(116編15節 新共同訳)。
 
実は、前述の聖書学者は「そのみ前において尊い」を、「神はその聖徒の死を惜しんで、聖徒を守り、容易に死を許したまわないこと」であると解釈します(前掲書)。
 
つまり、主なる神にとって、その「聖徒」、「主の慈しみに生きる人」の生こそが重要なのであるということになります。
そして、この解釈に基づいて訳されたものがリビングバイブルです。
 
「神様に愛されている、かけがえのない人々が、そう簡単にいのちを落とすことなど、許されるものですか」(116篇15節 リビングバイブル)。
 
それは親が我が子を思う気持ちを考えればよくわかる筈です。子供がもし、高熱が続けば、親は疲れていても寝ずに看病するものです。それは親にとって子供が「かけがえのない」(リビングバイブル)大切な存在だからです。
 
そのように、「神の慈しみに生きる人」すなわち、「神様に愛されている、かけがえのない人々」の命や暮らしは神の大いなるみ腕によって支えられているのであって、それはその人の存在が神の目に高価で尊いからなのだ、というわけです。
 
だからと言って高慢になって、異教徒や異端とされた者を蔑視してはなりません。西欧のキリスト教の歴史は実におぞましい歴史です。そして、それは近代どころか、現代に至って、やっと修正され始めてきたのです。
 
昨晩、オーストラリアの首相が来日しました。日本とのEPA(経済連携協定)交渉のためです。恐らくは日本側としては自動車の関税を撤廃してもらう代わりに豪州肉の関税を大幅に下げるということで妥協することになると思いますが、同国は中国をめぐる安全保障の観点から、日本にとっては重要な国であることは間違いありません。
 
しかし、英国の囚人の流刑地であったオーストラリア大陸に入植した人々が、キリスト教徒ではないからという理由で、アボリジニという先住民を狩猟、すなわちスポーツハンティングの対象にするなどして殺戮を行い、その結果、アボリジニの人口を二百年足らずで一割に激減させてしまったことなどは、許されることではありません。
 
実は先週のはじめ、オランダのハーグにある国際司法裁判所が、南極海における日本の調査捕鯨の是非を問うオーストラリア政府提出の案件に判決を下しました。結果は日本側の全面敗訴、でした。
 
近年、この国が反捕鯨運動の先頭に立って日本に対する抗議活動を行っていることは、その過去の歴史と矛盾すると非難されますが、その心理的背景には、彼らの父祖が過去に犯した忌まわしい「人道に対する罪」への償いという贖罪意識があるのかもしれません。
 
この国は二十世紀の末になって、やっと過去に目を向け始めて、彼らキリスト教徒同様、アボリジニやタスマニア先住民もまた、神の憐れみと慈しみの下にある人間であるということを悟ったようです。
もっとも、タスマニア先住民は入植者たちによってとっくの昔に絶滅させられてしまっているのですが。
 
「主の聖徒」の解釈を間違えますと、かつてのオーストラリア人と同じような間違いを犯すのです。それは、十七世紀に新大陸の東海岸に入植した「敬虔な」清教徒(ピューリタン)たちのネイティブ、いわゆるアメリカインディアンに対する目を覆うばかりの非道な仕打ちにも言えることなのですが。
 
大切なことは神の目で自らの生を、そして他者の生の価値を正しく判断することなのです。そして、昔も今も、「主の慈しみに生きる者の」生は、「価高い」のです。
 
 
3.主の慈しみに生きる人の死は、神の目に尊い
 
 そして、たとい地味であっても目立たなくても、自らの務めを忠実に果たして感謝の気持ちで日々を生き抜いた者、「神の慈しみに生き」た人が最後に迎える死は、決して犬死などではなく、神の目には価高いものとして評価される、それがこの詩篇の一節が強調することです。
 
 口語訳は「そのみ前に」と訳しましたが、原語は新共同訳や新改訳の訳の通り、「主の目に」です。
 
「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」(詩編116篇15節 新改訳)。
 
 「主の目」は「主の聖徒たち」(新改訳)すなわち、「主の慈しみに生きる人」(新共同訳)「神様に愛されている、かけがえのない人々」(リビングバイブル)に常に注がれており、死の淵を目前にして、まさに命の灯が消えそうになる時にも、それは変わることはありません。
 
今は天に住まいを移した愛する者たちについては、その遺族の方々にとり、年月がいくら経とうがいつまでもかけがえのない者も同様であって、主なる神はその「死」を高価で「尊い」ものとして、栄光の生への出発地点に変えて下さったのでした。そこに希望があります。死は消滅ではないからです。
 
そしてそれは今、時には苛烈な戦いの中を生き、時には平穏無事を楽しんでいる私たちにも希望と励ましの基でもあります。
人はいつの日にか、おのれの死と向き合うことになります。その日まで、「主の目」の前を「主の慈しみに生きる者」として、感謝と祈りを絶やさずに歩み続けていきたいと思います。
 
 
来年また、この墓前において、主を讃美し、主に祈り、そして神の言葉で励まされたいと心より願っております。