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2014年2月16日日曜礼拝説教「祈りの精髄としての主の祈り? 『悪しき者の誘(いざな)いより、我らを救い出だし給え』と祈る」マタイによる福音書6章13節

14年2月16日 日曜礼拝説教

「祈りの精髄としての主の祈り?「悪しき者の誘(いざな)いより我らを救い出し給え』と祈る」
 
マタイによる福音書6章13節(新約聖書口語訳8p)
 
 
はじめに
 
テレビは今、ソチでのオリンピック報道一色です。スノーボードで日本人中学生が銀メダルを取ったということで世界中が仰天し、フィギュアスケートで十代の少年が金メダルを獲得したことで日本中が狂喜乱舞した先週でした。
しかし、その陰で、金メダルが確実視されながら四位に終わった、スキージャンプの高梨沙羅という十七歳の少女の映像が繰り返し流されていました。
 
期待という重圧が、微妙な狂いを生じさせたのかも知れません。不運な風が吹いたのかも知れませんし、体調に問題があったのかも知れません。
しかしこの天才少女のインタヴューの言葉と態度に、日本人の持つ謙虚さ、慎ましさ、周囲への慮りという美徳を見て、ここに本来の日本人がいる、ここに大和撫子がいる、という思いを持ったものでした。
 
期待されながらの四位は本人にとっては大きな試練となることでしょうが、ある意味、十七歳でオリンピック金メダルという頂点を極めてしまったら、次の目標がどうなるのかという心配もありました。
大学検定も合格しているようですし、しばらくは学生生活を楽しんではどうかと思ったりもしています。
 
ところで、沙羅という名前は沙羅双樹からつけらたのでしょうか。
 
沙羅双樹は釈迦、つまりブッダの生誕時と入滅時に出てくる有名な木ですが、一方、そのブッダが悟りを開いたのは菩提樹という木の下でした。
菩提樹というのは釈迦の別名、ボーディに由来するとネットの辞典にはありましたが、彼はそこで悪魔の誘惑を退けて、悟りを開いたのだそうです。
 
その数百年後の西暦二十七年ごろ、イエスもまた悪魔の誘惑を退けて、公的な活動に入っていきました。
そのイエスは弟子たちに「主の祈り」を教えるに際し、現在、過去、未来における、人が必要とする事柄について祈るように勧めました。
 
その第一の祈願は現在を生きるために人が必要とする「日用の糧」を求めることであり、第二は過ぎ去った日々における「罪」あるいは「負債」の清算を祈ることであり、そして三つ目の未来に関する祈願が「悪しき者から」の救出を願うことでした。
 
今週は三つ目の祈願、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」についてです。
 
 
1.「力なき者であるがゆえに、悪しき者から救い給え」と祈れ
 
イエスは弟子たちに対し、未来への祈願として、試みに遭わせることはせず、悪しき者の手から救出してくださるよう、「天にいますわれらの父」に祈れ、と言われました。そこでまず「マタイ」の方を読んでみましょう。
 
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、…わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」(マタイによる福音書6章9節前半、13節 新約聖書口語訳 8p)。
 
では、「ルカ」ではどうかと言いますと、祈願は「試みに会わせない」ことを願うようにとだけで、まことにシンプルです。
 
「わたしたちを試みに会わせないでください」(ルカによる福音書11章4節後半 106p)。
 
 ということは、この祈願を補足するために、ルカの原型に「悪しき者からお救いください」(マタイ)という祈りが付加されたのではないかと、学者は説明します。
 
三つ目の祈願で「試み」(13節)と訳された「ペイラスモス」という原語は、聖書では前後の文脈から、時には「試み」、時には「誘惑」と訳されています。
 
では、「試み」と「誘惑」はどこがどう違うのか、またそれは誰がするのか、ということですが、昨年末の最終礼拝でも説明しましたように「実は同じ事柄、事象、経験、状況であっても、それは時には誘惑となり、時には試練、試みとな」(2013年12月29日最終礼拝「試練の中で『神の真実』を知る」)るのです。
 
 どう違うのかと言いますと、「対象者を悪へと堕落させ、挫折させる意図で試みられるものが誘惑であり、反対に対象者を鍛え、強め、向上させる目的で許されるものが試練です」(同上)。
 
神は人を誘惑することはなさいませんが、使徒パウロは、堕落させるという目的で人を誘惑する者を「サタン」と呼びました。
 
「そうでないと、自制力のないのに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑するかも知れない」(コリント人への第一の手紙7章5節後半262p)。
                   
 この「サタン」とはもともと「敵」を意味する言葉で、人にとって不利なことを訴える告訴人を指す場合に使われます。その「サタン」が人に仕掛けてくるものが誘惑なのです。
 
一方、マタイにおける「主の祈り」では、「悪へと堕落させ、挫折させる意図で」人を誘惑する者を「悪しき者」(13節)と呼び、その「悪しき者」の企みから「お救いください」と祈ることを弟子たちに命じたのでした。
 
 この「悪しき者」訳された原語の「ポネーロス」は邪悪という意味で、この言葉に冠詞が付きますと「悪魔」となるそうです。
つまり、「悪しき者」とはこの場合、神と人類の敵である「悪魔」、「サタン」を意味します。
 
しかし、この誘惑というものは巧妙に仕掛けられてきますので、私たちは人に仇なす「悪しき者から」私たちを「お救いください」と、「天にいますわれらの父」に祈ることが求められているのです。
 
 「お救いください」(13節)と訳された言葉の英語は「レスキュー」です。
つまり危険な誘惑からの救出、救助を願う祈り、それが「悪しき者からお救いください」(同)、「悪より救い出だし給え」(祈祷文)でした。
 
 但し、この祈りを祈る場合も必要なことは、誘惑の危険性と、自分自身の力というものを正しく知っているということです。
 
 戦国時代の鹿島、今の茨城県に、塚原朴伝という剣豪がいたそうですが、伝えられているエピソードは、私たちにはとても参考になります。こんな話です。
 
朴伝が住んでいる地域に、人が通ると後ろ足で突然蹴る癖のある馬がいた。朴伝の弟子がこの馬の近くを通りかかったところ、馬はいきなり、この弟子を蹴ろうとした。しかし、その寸前、弟子はひらりと体をかわして何ごともなかったかのように涼しい顔をして通り過ぎて行ったので、これを見た人々は朴伝に向かい、口々に「先生、あのお弟子こそ、先生の後継ぎにふさわしいのでは」と称賛したところ、朴伝は苦い顔をして、「あれは未熟者だ」と言い捨てた。
納得のいかない村人たちは、朴伝が通る道にその気性の荒い馬を繋いでおいた。朴伝はどう出るかを見るためにであった。ところが朴伝はその馬を見るや、遠く迂回して向こう側を通って行ってしまった。
村人は言った、「朴伝先生は馬を怖がった、大したことはない」 
これに対して朴伝は説いた、「本当の名人は危険を察知する、そして危険には近寄らないのだ、万が一ということがあるからである。その点において、あの弟子は不用心にも危険な馬に安易に近づいた。まだまだ修行が足りない未熟者なのだ」
 
 私たちは自らが力なき者であるという自覚のもとに、誘惑には近寄らないよう用心すると共に、折りに触れて、「悪しき者からお救いください」(13節)、「悪より 救い出だし給え」(祈祷文)と神に祈ることが求められています。 
 
 
2.「弱き者であるがゆえに、試練に会わせ給うな」と祈れ
 
 マタイとルカに共通しているものが「試みに会わせないで」くださいという祈りです。
 
「わたしたちを試みに会わせないで、…」(6章13節前半)。
 
 「明らかに誘惑でしかないものであっても、その誘惑を退けて勝利をすれば、誘惑自体が踏み台となって人を成長させますので、それは試練と呼ばれることになる」(試練の中で「神の真実」を知る 2013年12月29日礼拝説教)というのであれば、尼子十勇士の一人、山中鹿之助が三日月に向かって祈ったように、「我に七難八苦を与え給え」と、試練の到来を積極的に求めるべきなのでしょうか。 
 
しかし、そうではなく、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出だし給え」と祈るようにとイエスは命じます。
 
この「試みに会わせないで」の「会わせないで」という言葉は、「導き入れる」とか「運び入れる」という意味の動詞です。つまり、これは「我らを試みの中に導き入れ給うな」という意味の祈りです。
 
繰り返しますが、神は悪へと誘うために人を誘惑することは決してなさいません。では、人が誘惑に陥るのはなぜか、それは欲に惹かれてしまうからです。
 
「だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神からきたものだ』と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るような方ではなく、また自ら進んで人を誘惑するようなこともなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである」(ヤコブの手紙1章13、14節 360p)。
 
 では、なぜ「我らを試みに会わせないで(ください)」(13節前半)と祈るのかということですが、迫り来たった誘惑に人が打ち勝ち、結果としてその経験が人を鍛えることになったとしても、やはり人は弱い者であるがゆえに、私を誘惑あるいは試みに遭わせないで下さい、と神に願えと、イエスは言うのです。
 
時には「誘惑」と訳され、時には「試練」と訳される、英語では「テンプテーション」、原語の「ペイラスモス」は、明らかに苦しい試練、すなわち、一見、理に合わない理不尽な出来ごととして迫ってくるようなケースもあります。
使徒パウロの場合、それは頑固な眼疾というかたちで彼を悩ませました。
 
学者によればそれはマラリヤ熱であろうということです。パウロが敢行した伝道旅行は三次にわたりましたが、その伝道旅行の途次、キプロス島から対岸のガラテヤ地方に渡った際に、その地方特有のマラリヤ熱に罹患し、それが彼を悩ませることとなったのではないかということでした。
 
パウロは最初、この疾患を自分を高慢へと誘うサタンの誘惑として理解し、それが自分の身に起こったことは、それによって自分をへりくだらせようとする神の試みであると考えたようです。
 
「そこで高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないようにと、わたしを打つサタンの使いなのである」(コリント人への第二の手紙12章7節 290p)。
 
 そう理解したパウロは、この疾患からの解放を願いました。
 
「このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った」(12章8節)。
 
 つまり、そこでパウロは「試みに遭わせ給うな」と祈ったのでした。「三度も主に祈った」(8節)というのは、数の上での三回と言う意味ではなく、何度も何度も、来る日も来る日も「主に祈った」、嘆願をした、という意味の術語です。
 パウロもまた、自らの肉体的弱さを痛感して、「試練に遭わせ給うな」、できればこの「誘惑」という側面もあるかも知れない「試練」から、私を救い出して下さい、と祈ったのです。
 
 そして、人間の側でなすべきことはここまでです。人は試練のただ中にあってもなお神に向かって、「我らを試みに遭わせず、悪より(悪しき者から)救い出だし給え」と祈ることがゆるされているのです。
 
 
3.「限界を持つ者であるがゆえに、神の霊で支え給え」と祈れ
 
「主の祈り」を弟子のしるしとして与えられていた弟子たちですが、やがて、肝心要の時に、誘惑に負けて無様な姿を晒します。
イエスの逮捕の寸前、イエスはオリブ山のふもとにある祈りの場所、ゲッセマネにおいて、「生きるべきか、死ぬべきか」を決める必死の祈りに入ります。
 
「それから、イエスは彼らと一緒に、ゲッセマネという所へ行かれた」(マタイによる福音書26章36節前半)。
 
 そして、特に選んだ三人の弟子たちに対しては、ご自分と一緒に目を覚まして祈るということを期待しました。
 
「そのとき、彼らに言われた、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい』」(26章38節)。
  
ところが共に祈ることを期待していた三人の高弟は、眠り込んでしまいます。そこでイエスは彼らに対して、誘惑に負けずに祈り続けよ、と指示をします。
 
「それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、『あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい』」(マタイによる福音書26章40、41節前半)。
 
 実は、師の一大事の時に、三人がサタンの「誘惑に陥らないように」(41節)と取った精一杯の行動は、眠りに陥ることだったのです。狸寝入りという言葉があります。これは、狸は危険に遭遇した時に、寝たふりをして危機をやり過ごす、というように理解されてきました。しかし、そうではないそうです。動物学者によりますと、狸はとても小心な動物なので、寝たふりをしているのでなくて、気絶をしてしまっているのだそうです。
 
 弟子たちの場合、イエスのただならぬ様子に、彼らの神経は持ち堪えることができず、そのために自己防衛本能が発動して眠りこんでしまうことになったのだと考えることができます。それ以外に、彼らの状態を説明することができません。
 
 ところで、弟子たちがイエスから「陥らないように」(41節)と警告された「誘惑」とは何だったのでしょうか。
一般的には誘惑に陥ることと弟子たちが睡魔に負けたこととを同一視する解釈が施されますが、そうではありません。
この場合の誘惑とは、神のみこころ、すわち神の意志よりも人間の思い、人間の意志の実現を優先させたいと考える考え方のことでした。そしてその誘惑に弟子たちは負けてしまったのですが、誘惑を誰よりも強く感じ、そしてその誘惑と戦ったのがイエス自身でした。
 
「わが父よ、もしできることでしたら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(26章39節前半)。
 
 イエスの願いは十字架によらない方法での人類の救済ということでした。でも、イエスは自分が罪びととして十字架にかかることこそが神の意志であることを知っていたので、長い、厳しい葛藤の末に、「みこころのままに」という祈りへと導かれたのでした。
 
「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」(26章39節後半)。
 
 問題はイエスが弟子たちに言ったという、最後の言葉です。
 
「心は熱しているが、肉体が弱いのである」(26章41節)。
 
どの邦語訳も同じ訳文です。しかし、眠りに陥ったことを注意しながら、その後の言葉が、「気持ちはあっても、体がついていかない」ということを指摘しているのであれば、眠ってしまったのはやむを得ないということになってしまいます。
 
この訳文自体がイエスの言わんとした意味ではないのではないか、という疑問を私は長い間、持っておりました。それは、まだ若かった頃、有志の勉強会において、仲間の一人が翻訳をしてくれたために学ぶことのできたキッテルの「新約聖書神学辞典」の「神の霊(プネウマ)」の項で、エドアルト・シュヴァイツァーという学者が、この個所の全く別の訳の可能性を示唆していたように思ったことがきっかけでした。
 
それは「心」と訳されている原語の「プネウマ」を神の霊、「肉体」と訳された「サルクス」を生来の古き人間性を意味するものとして訳すという可能性を示唆するものであったと記憶しています。
その後、この項目の邦訳が出版されたことを知って購入をしておりましたので、本棚を探しましたが、整理が悪く、どこへやってしまったのか、残念ながら見つけることができませんでした。
 
しかし、私の記憶がどうであれ、もしもイエスがここで弟子たちに対し、「誘惑に抵抗するには肉、すなわちあなたがたの古き人間性はあまりにも弱い、しかし、神の霊は弱き人を助けるべく火のように燃えている、だから、神の意志よりも人の思いを優先させようとする悪しき者の誘惑を退けるには、古い人間性としての肉の力ではなく、神の意志を実現するための助けとして存在している神の霊をこそ信頼し、その神の霊の助けを受けて、私のために祈って欲しい」と言おうとしたのであれば、この場面における違和感は氷解します。
 
もちろん、このような訳がイエスの伝えようとした真意なのか、またその可能性があるのかについては、現段階では断定できませんが、「翻訳は解釈」でもありますから、「心」と訳されている「プネウマ」を「神の霊」と解釈し、「肉体」と訳されている「サルクス」を「肉、すなわち生来の古き人間性」と解釈すれば、このような訳も可能になるかも知れません。
 
もしも、たといそうではなかったとしても、教会に与えられた神の霊、信じる者の内に宿っている神の御霊は、信者が試みの渦中にあって、しばし、苦しみ悶えることがあったとしても、受けた、あるいは受けている試練の意味を悟らせてくれる筈です。
 
そしてその生き証人がパウロでした。パウロの場合、最初、自分が疾病から解放されて、健康体になって活動することが宣教の働きを大きく推進させることになるとの思いで、疾病の治癒を願い出ました。
しかしイエスはパウロに対し、「あなたが肉体的弱さを抱えながら活動することが、神の栄光の現われとなるのだ」と言われたようです。
 
「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全に現われる』」(コリント人への第二の手紙12章9節)。
 
 結果、パウロは生涯、その厄介な病を抱えたまま、働きを継続することとなります。では文句たらたらという状態で従ったかと言いますと、その逆です。
 
「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(12章9節後半、10節)。
 
 限界を持つがゆえに、パウロは肉の力ではなく、神の霊によって支えられたのでした。そして「試練」の中で彼を「高慢」(7節)へと誘う「誘惑」から「救い出だ」(祈祷文)されつつ、その後も謙って神の働きを継続することとなりました。
 
神の霊は今も燃える霊となって、限界のある私たちを未来に待ちうける「悪しき者の誘(いざな)い」から、そして厳しい試みの中から守ってくださるのです。