2014年2月2日 日曜礼拝説教
「祈りの精髄としての主の祈り?「『我らの
日用の糧を今日も与え給え』と祈る」
マタイによる福音書6章11節(新約聖書口語訳8p)
はじめに
ある時、宣教師がアフリカの大草原で腹を空かしたライオンと出会いました。宣教師は逃げて逃げて逃げまくりましたが、いかんせん、二本足の人間が四足(よつあし)のライオンにかなうわけがありません。捕まるのは時間の問題です。
そこで宣教師は必死に逃げながら、願えば直ちに応答したもう神に向かって祈ったのでした、「天の神よ、神の使者であるこの私を食らおうと、すぐ後ろに迫ってくるこの罰あたりの畜生に、神を恐れるということを教えてやってください」
そして、あわや追い迫るライオンの餌食になるかと思われたその瞬間、なぜかライオンは宣教師を追い掛けることをやめてその場に立ち止まったのです。そして天を仰いでひと言、ライオンが祈りました。
何と祈ったのか、と言いますと、ライオンはこう祈りました、「天の神さま、今日の食事を感謝します」。
つまり、祈りは確かに答えられた、というのがこのジョークの落ちです。
実はこのジョークは私がまだ独身であった頃に、馴染みにしていた定食屋に置いてあった週刊誌、確か週刊新潮の、世界のジョークという欄で見つけたものですが、これをあちこちで使用したり紹介したりしていたところ、けっこう拡散をするようになりました。
そこでしばらく封印をしていたのですが、ずいぶん時間も経ちましたし、久しぶりに我が教会においてご披露する次第です。
ジョークの中で、畜生のライオンはご馳走を前にして「今日の食事」を天の神に感謝しました。ならば人間においては猶のこと、ではないかと思います。畜生に劣っては人間の名が廃れます。
ところで「主の祈り」は、前半が神に関する祈願、そして後半は人の必要に関する祈願によって構成されているということを申し上げましたが、今週は人についての祈願の第一番目の、現在の必要である「日用の糧」についての祈願です。
1.人が日用の糧を必要としていることを、神は熟知している
人の必要に関してイエスは、人が現時点で必要としているもの、過去の事柄に関して必要とするもの、そして来るべき厄災への防衛という未来に関する必要の三つについて祈るように教えられました。そしてその順序は「現在、過去、未来」です。
「現在過去未来」と言えば、渡辺真知子という歌手が歌った「迷い道」という歌の出だしがこれであったことを思い出します。昔も今も人はみな、現在、過去、未来において迷い道を迷いつつ生きているのかも知れません。
さて、人が今現在を生きるため、生命を維持するため、つまり生存するために必要とするもの、それが「日用の糧」です。そしてイエスは弟子たちに対し、この「日用の糧」を日々神に求めるようにと教えました。
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、…わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」(マタイによる福音書6章9節前半、11節 新約聖書口語訳8p)。
この祈願に関して、我々が祈る祈りは「我らの日用の糧を今日も与え給え」ですが、ローマン・カトリックと聖公会(英国アングリカンチャーチ)の共通訳は「わたしたちの日ごとの食物を今日もお与えください」です。
そしてそれまでのカトリックの文語訳は「我らの日用の糧を今日我らに与え給え」でした。
現代訳で「食物」(11節)と訳された「糧(かて)」(祈祷文)の原語の「アルトス」はパンのことであって、これは日本的に言えば米でありご飯のことであり、庶民的に言えばメシ、オマンマつまり、生命をつなぐに必要な食事を意味します。
そして人が「食べていく」ためには収入が必要となります。収入を得るためには人は働かなければなりませんし、働くためには仕事が必要であり、仕事をするためには就職の機会が必要であり、そして就職するためには最低限の健康と体力が必要であり、健康を保持するためには薬剤や医療というものが欠かせません。
つまり「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」(11節)という祈りは、生命維持のための最低の必要要件の保証を祈願する祈りであったのです。
飢餓は、そして飢餓をもたらす旱魃(かんばつ)や水不足は生物にとって、最大の敵の一つでした。しかし、生物のうち、人類のみはその叡智によって、旱魃という災い、水不足という難題を克服して、食糧問題に取り組んできました。
以前にもお話しましたが、台湾が親日である理由の一つには、日本が統治するまでは、文明から隔絶された化外(けがい)の地、疾病だらけの瘴癘(しょうれい)の島と呼ばれていた台湾に、日本国が行ったインフラ整備にありました。
その中でも特に感謝をされているものが、浜野弥四郎による上下水道の完成であり、八田與一(はったよいち)による烏山頭(うさんとう)ダムの建設でした。
上下水道の完成は台湾の衛生環境に劇的な改善をもたらしました。そして巨大ダムの完成は不毛の大地を収穫豊かな豊穣の地に変え、その結果、住民は悲惨な洪水の恐怖からも救われたのでした(2012年6月10日「信仰の祈りは山をも動かす」参照)。
現在の日本は確かに問題は依然として山積していますが、他国に比べると「パン」の問題を解決している、あるいはしつつあるといえるかも知れません。
しかし、驕り高ぶってはなりません。人のみが持つ叡智も、創造者である神が備えてくれたものであって、人は神が授けてくれたその賜物を用いて問題を解決してきたのです。
ですから富める者も貧しき者も共に、創造主である神の前に謙って、「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」(11節)と祈り、そして食事のたびごとに神への感謝の祈りを捧げ、食事のあとには「ごちそうさまでした」と、神への感謝を表すべきなのです。
「天にいますわれらの父」(9節)は、私たちが「日用の糧」「日ごとの食物」(11節)を必要とするものであることをよくよくご存じである神さまです。
2.人生を彩りかつ豊かにするもの、それが日用の糧である
しかし、「日用の糧」は食物、収入、仕事、健康、薬剤、医療などのいわゆる肉体的必要を満たすものだけを意味するのではありません。
確かに経済は大事です。そういう意味において、たとい主義や主張が自らのそれと異なっているからといって、現在進行している「アベノミクス」という経済政策を揶揄したり、その失敗を願ったりすることは、神の喜ぶところではありません。
この四月には消費税が上がりますが、個人的には増税は一年遅らせてその代わり、景気の良くなった来年の春に一気に十パーセントにしてはどうかなどと思っていたのですが。今さら言っても詮無いことですが。
「日用の糧」は人の最低限の生命維持のためだけでなく、その生命活動を豊かなものとするために与えられるものなのです。
職業の三要素というものがあります。「自己保存」「自己実現」そして「社会的貢献」です。
第一は何といっても自己保存です。つまり、人が働くのは何といっても自分と家族とが「食うため」です。食べなければ生きていくことができません。
自己実現とはその職業を通して自分に与えられていの天賦の才能や能力を活かし、そのことによって充足感を得るという要素です。
そして社会的貢献とは文字通り、その仕事の遂行自体が直接的であれ間接的であれ、人や社会に役立っていると考えられる要素のことです
理想はこれらの三つの要素が満遍なく盛り込まれているような職業に就くことでしょう。
先週、理化学研究所のチームが万能細胞の作製の仕方を発見した、というニュースが報道されました。ノーベル賞級のことなのだそうですが、そのチームのリーダーはまだ三十歳の女性研究員なのだそうです。
この人の場合、仕事に関しては自己保存よりも自身の才能を活かすという自己実現と、その研究の成果が社会に役立つことになるという社会的貢献の二つの要素の方がはるかに高い割合を占めていることと思うのですが、しかし、社会的貢献どころか自己実現の要素さえも薄い、とにかくその日を生きるため、食うために汗水流して働かざるを得ない、という人も現実には多くいることも事実です。
しかし、自己保存のためだけに生き働いているだけのように思えたとしても、人は肉体的存在であるだけでなく、精神的、心理的存在でもあるわけです。つまり、精神的、心理的に充足していないと行き詰まってしまう生き物、それが私たち人間です。
そして求めよ、と言われた「日ごとの食物」「日用の糧」の中には、いわゆる「食物」以外の要素、具体的には芸術や芸能などを楽しむこと、知識を修得すること、スポーツをすること、会話をしコミュニケーションを取ること、動物を飼育すること、趣味を持つこと、オシャレを楽しむことなど、人生の側面を豊かにする様々なものも含まれているのです。
キリスト教は決して禁欲主義などではありません。一世紀末に書かれたとされる、テモテという教会指導者への書簡において、著者は当時の教会に浸透してきていた過度の禁欲主義を、異端の教えとして否定します。
「これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。それらは、神の言(ことば)と祈りによって、きよめられるからである」(テモテへの第一の手紙4章3~5節 329p)。
極端な禁欲主義者たちは当時、教会内の若者たちに対し独身であることを過度に称揚したり、信者たちに対し食事を楽しむことを否定したりなど、とにかく自然的な欲望や願望を悪として禁じたようです。
しかし、著者は言います、「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」(4節)のだ、と。
食べるということは人生の喜びとして神が人に与えた祝福です。そして人を精神的存在としても造られた神は、人生を彩り豊かにする精神的、心理的喜びをも、日用の糧として与えてくださるのです。そういう意味において、健全な趣味を持つことは良い事です。繰り返します。キリスト教と禁欲主義とは無縁です。
3.「我らの父」の意志を行うこともまた、日用の糧である
人によっては諸事情により、働く目的は自己保存が中心であって、自己実現や社会的貢献という要素がほとんどないという仕事に従事しなければなならい人もいるでしょうし、趣味を楽しむような時間的、経済的余裕もない暮らしを営まざるを得ないというケースもあるかも知れません。
でも、人生を豊かにする「糧」は他にもあります。その「糧」をエネルギーとしていたのがイエスでした。
ある時、イエスはユダヤを去ってガリラヤに行くことになり、途中、スカルという町で休息をとることになりました。
「ユダヤを去って、またガリラヤに行かれた。しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった」(ヨハネによる福音書4章3~5節前半 140p)。
「サマリヤを通過しなければならなかった」(4節)のは、文字通り、南部のユダヤから北部のガリラヤに行くには中部のサマリヤを通らなければならなかったからであって、それ以上の理由はありません。
空腹と疲労困憊の極に達していたイエスは、町の外れの井戸のかたわらで休息をしていましたが、水を汲みにきた一人のサマリヤの女性に対し、疲れていることも、空腹であることも忘れて、真理の言葉を語ります。
そして人目を避けて日中に水を汲みにきたこの女性、「すべてを投げ出したい日々の中、誰にもわかってはもらえない痛みと涙を持ってた」(2月の讃美「井戸のそばで 詞 若林栄子」)この女性は、イエスが解き明かす真理の光に照らされて、胸を躍らせて町へと戻って行くのですが、その間、町で食物を調達してきた弟子たちがイエスに食事を勧めたところ、イエスは晴れ晴れとした顔で答えます、「私は、あなたがたが未(いま)だ知らない食べ物を今食べて、そして満腹をしているのだ」と。
「ところがイエスは言われた、『わたしには、あなたがたの知らない食物がある』。そこで、弟子たちが互いに言った、『だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか』。イエスは彼らに言われた、『わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである』」(ヨハネによる福音書4章32~34節 141p)。
ここで使われている「食物」(32、34節)の原語は主の祈りの「アルトス」ではなく「ブローマ」という言葉ですが、意味はほぼ同じです。
神に仕えること、「われらの父」の「みこころ」すなわち意志を行うことこそが、神を愛する者たちの空腹を満たす「食物」(ヨハネによる福音書4章32、34節)であることを自ら経験していたのがイエスでした。
イエスはここで身をもって、魂を活かす「食物」があることを教えられたのです。
私たちが自分に与えられた賜物を用いて奉仕をすることも、そして覚束ない言葉であってもイエスの福音を語ることもまた、「わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げる」(同)ことであって、それもまた私たちの「食物」(同)なのです。
それだけではありません。人が貴重な時間を工夫して日曜ごとに教会で開かれている礼拝に出席すること、神への讃美に加わって、そして説教を心を込めて聴くこともまた、「わたしをつかわされたかたのみこころ」(同)すなわち、我らの父なる神の意志を行うという「食物」(同)なのです。
人は肉体生命を支える「食物」を必要とします。精神的、心理的充足をもたらす「食物」もまた必要です。そして人は魂を満たし癒す霊的「食物」によってより良く生かされる存在でもあります。
朝ごとに「我らの日用の糧を今日も与え給え」と祈り、夜には「我らの日用の糧を今日も与え給」うた神に感謝をして、床に着くという日々を送ることは、それが一見、平凡な日常の繰り返しに見えたとしても、父なる神の喜び給う人生です。