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2014年1月19日日曜礼拝説教「祈りの精髄としての主の祈り? 神の支配としての神の国は、人の心の中から始まる」マタイによる福音書6章10節前半

14年1月19日 日曜礼拝説教

「祈りの精髄としての主の祈り?神の支配としての神の国は、人の心の中から始まる」
 
マタイによる福音書6章10節前半(新約聖書口語訳8p)
 
 
はじめに
 
昨年末のことです。妻がどこで仕入れて来たのか、安倍晋三首相が、招かれた結婚披露宴でするスピーチで最も受ける祝辞が、「家庭の幸福は妻への降伏から」というものだと教えてくれました。
 
「幸福」と「降伏」をかけたわけで、まあ、至言ではあります。「確かに」と思ってしまいます。
 
では、安倍首相夫婦の間で揉め事があった場合、安倍首相は奥さんに対して自分の方から「御免」と謝るのかと言いますと、どうもそうでもないようです。
 
年が明けた一月五日に配達された朝刊に、作家の曽野綾子と首相夫人の安倍昭恵の「新春対談」が掲載されていました。
 
曽野綾子 けんかをしても晋三先生の方がさっと謝られるのでは?
安倍昭恵 そういえば、謝らない!「ごめんなさい」というのを聞いたことがないです。
曽野綾子 じゃあ、どうやってけんかをお収めになるの?」
安倍昭恵 なんとなくで。いつの間にかお互いが忘れてしまうという感じです。
曽野綾子 夫婦の間というのは、うやむやにするのが一番でしょうね。国と国の間もそうなのかも。うやむやにできない国が周りに多くて困りましたね。
 
昭恵夫人は夫からの「ごめんなさい」を聞いたことがないそうですが、対談の終りの部分には、すべてを帳消しにするようなエピソードが語られていました。
それは、一年に一回の結婚記念日のときに安倍首相から届くメールで、それには「昭恵のおかげで今の僕がいます」とあるそうなのです。つまり、「妻への降伏」を身を以て実行しているとも言えるのかも知れません。
ところで「降伏」には条件付きの降伏と無条件降伏とがありますが、人生の幸福は「天にいますわれらの父」である創造主なる真の神への無条件降伏であると言っても過言ではありません。
 
「主の祈り」の三回目、そして神に関する祈願の二番目は、神の支配についての祈願ですので、そこで神の支配に服するとはどういうことかについて教えられたいと思います。
 
 
1.「我らの父」である神の支配としての神の国の到来を祈る
 
「主の祈り」の神に関する三つの祈願の二番目は「み国を来たらせ給え」です。
 
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、…御国(みくに)がきますように」(マタイによる福音書6章9、10節前半 新約聖書口語訳8p)。
 
伝統的なプロテスタントは二番目の祈願を「み国を来たらせたまえ」と祈りますが、先週もご紹介したローマン・カトリックと聖公会の共通口語訳は「み国が来ますように」で、カトリックの文語訳は「み国の来たらんことを」でした。
 
なお、原文は「御国(みくに)」の前に明確に「あなたの」とありますので、あくまでも「天にいますわれらの父」であるあなたの「み国がきますように」という祈願です。
 
では「御国」とは何であるのかということですが、「御国」と訳された原語は「バシレイア」です。そして「バシレイア」は統治とか支配を意味する用語でもあります。
 
国、あるいは国家とは何かということについて、Wikipediaで検索しますと、「国家(こっか)は、国境線で区切られた領土に成立する政治組織で、地域に居住する人々に対して統治機構を備える。領域と人民に対して排他的な統治権を有する政治団体もしくは政治的共同体である」と定義しています。
 
つまり、一定の領土、領海、領空という「領域」と、そこに住む「人民」つかり国民や住民、そして統治権力という三つの要素を備えていることが国家成立の条件なのですが、第二次世界大戦後、世界とりわけアジア諸国にとっての厄災となっているお隣の大陸国家は、虎視眈々とその境界線を拡張しようと躍起になっていますし、その属国としての地位を長く誇り?、先進国一歩手前でもがきにもがいている半島の南側にある国家も、大東亜戦争に敗れた日本が主権を回復する寸前のドサクサに、まつで火事場泥棒のように勝手に海の上にラインを引いて日本の領土、竹島を纂奪してしまいましたが、一応、国家ではあります。
 
一方、二国に比べて民主化が進んで民度も文化レベルもはるかに高く、経済的にも発展している台湾は「国家」ではなく「地域」という扱いなのですが、台湾こそ立派な国家として扱われるべきだと思われます。
 
ところでその来たらんことを求めよとされた「御国」とは何なのかを正しく理解することこそ、聖書を正しく理解する秘訣であるとも言えます。
 
神の国の到来を熱心に待ち望んでいたユダヤは誰もがみな等しく、それを地上に建てられる政治的、軍事的国家であると思い込んでおりました。そしてその思い込みはイエスの弟子たちも同様であって、それは復活したキリストへの弟子たちの問いにも表れています。
 
「さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、『主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか』」(使徒行伝1章6節 180p)。
 
 でも、「御国」すなわち神の国は、目に見えるかたちで待望されるものではなかったのでした。それはイエスがエルサレムに向かう途次、イエスがパリサイ人たちの質問に応えた答えで明らかにされました。
 
「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、『神の国は、見られるかたちで来るものではない』」(ルカによる福音書17章20節 119p)。
 
 「見られるかたち」とは可視的な、という意味です。少なくとも地上的な意味での領域を持つものではない、というもの、それがイエスが示す「御国」「神の国」だったのです。
 
 イエスが言う神の国とは神の「バシレイア」つまり、神の統治、神の支配を指すものでした。つまりイエスは主の祈りにおいて、神の支配としての御国の到来を祈るようにと言われたわけです。
 
 
2.神の国は先ず、イエスを信じ仰ぐ者の心と人生に始まる
 
では、「御国」すなわち神の支配はどのようなものなのか、どこでどのように始まるのか、と言いますと、それはイエスを主として信じ仰ぐ者の心の中に建てられる、とイエスは言われたのでした。
 
「また、『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカによる福音書17章21節 119p)。
 
 「あなたがたのただ中」(21節)とは第一に、あなたがたの心の中に、という意味です。
 
聖書には心と訳されている言葉は数多くありますが、代表的なものが「カルディア」です。「カルディア」はもともと、心臓を意味しましたが、古代の人は人間の精神的、感情的機能としての心と、体の重要な臓器である心臓とを同一視しました。
 
「あなたの宝のある所には、心もあるからである」(マタイによる福音書6章21節)。
 
現代でも感覚的に心の痛みを表現する場合、心臓がある左胸を押さえることが通常です。そして心理学が発達している現代においても精神的機能としての心と肉体機能としての心臓とを関係づけていますし、文学も同様です。
 
心理学は人の心には表面の意識としての理性と、内奥の意識としての無意識に分けて、これを深層心理などと呼びました。
ガラスのコップに氷を浮かべた場合、上に浮かんでいる部分が意識、沈んでいる部分が無意識、深層心理というわけです。
 
通常、人を動かすものは表層部分の理性ですが、本音は隠れた無意識の部分にあり、そして人を支配しているものが、実はこの隠れた部分なのです。
イエスが言われた「あなたがたのただ中」(21節)とは、この意識の下に隠れている深層心理、無意識に他なりません。
そこは住宅で言えばお客さんを応接する玄関先や客間ではなく、日常の生活空間としての居間であり、キッチンであり、寝室であり、書斎です。
 
 「御国が来ますように」(マタイによる福音書6章10節)という祈願はまさに、この私の心、日常の生活を営む心の中心部分にこそ、神の支配が及びますように、そのために私は今日もあなたに降伏し、この心をあなたに明け渡して服従をします、という祈りを捧げることなのです。
 
 
3.神の国は次いで、神の御名を崇める者たちの間に実現する
 
そしてもう一つの意味が、パリサイ人に答えたイエスの言葉、「あなたがたのただ中に」はにありました。それは「あなたがたの間に」ということでした。もう一度、ルカの福音書を開いてみましょう。
 
「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカによる福音書17章21節後半)。
 
 口語訳も新改訳も「あなたがたのただ中に」と訳した「ただ中に」という言葉は確かに「中に」を意味する言葉なのですが、それは「間に」とも訳せます。
 
「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(同 新共同訳)。
 
 イエスは当然これをギリシャ語ではなく、恐らくはヘブライ語で語った筈ですから(最新のユダヤ学ではイエス時代の日常語はアラム語などではなく、ヘブライ語だというのが通説のようです)、これが心の中を指すのか、間を指すのかは、断定することはできませんが、両方を意味するものと言ってよいでしょう。
 
ただし、物事には順序というものがありますので、神の国すなわち神の支配は、先ず、イエスを主として信じ受け入れた者の心と人生に始まり、そしてイエスを主として信じた者、つまり創造主なる「天にいます」神を「われらの父」として崇める者同士の間に神の支配が実現するという展開になるのです。
 
もちろん、実生活において、とりわけ関係が密になればなるほど、揉め事が起こる頻度は高くなります。
 
しかし、そうなった場合でも落ち込む必要はありません。主の祈りでは「御国がきますように」と、神の支配の実現を将来に求めるかのような表現となっておりますが、「将来」とは「将(まさ)」に「来」たらんとするという表現です。それは「もう、すぐそこまで来ている」という意味なのです。
 
そして、エルサレムへの途次におけるパリサイ人への教えで、イエスは神の国、神の支配は「あなたがたのただ中に(すでに)あるのだ」と、現在形で宣言します。私たちはこの「まさに」と「すでに」の言葉によって、神の支配はすでに始まっていて、それは完成を目指して前進しているのだということを知るのです。
 
歴史的にはキリストがこの地上に来られた時以来、そして私たちの人生という歴史においては、私たちが聖霊によって「イエスは主である」(コリント人への第一の手紙12章3節後半)と告白した時以来、神の支配は終わりに向かって、すなわち完成を目指してすでに始まっているのだということを改めて認識したいと思います。
 
神の支配はイエスを通して天地の神を「我らの父」と呼ぶ「あなたがたの」心の中にすでに生まれており、同時に「あなたがた」の間、すなわち人間関係、対人関係の中にも始まっているのです。もし仮に思うような状態になっていないとしても失望してはなりません。神の支配の到来と実現を祈るようにと命じられたのは、真実そのもののイエス・キリストなのですから。
 
神の支配というとき、思い出すのが中国で十六世紀の明(みん)の時代につくられたとされる伝奇小説「西遊記」の孫悟空です。
三蔵法師のお供として知られる孫悟空は、もともと石から生まれた石猿で、身に付けた神通力をいいことに乱暴狼藉を繰り返す鼻つまみ者でしたが、高慢にも釈迦如来に向かって挑戦的な言辞を弄したため、釈迦から「お前は私の掌(てのひら)から脱することもできない」と言われます。
 
そこで腹を立てた孫悟空は、ひと飛び十万八千里を行くという斗雲(きんとうん 漫画のドラゴンボールの孫悟空の場合は筋斗雲ですが)に乗って天の果てと思われる地点に到達するのですが、そこで五本の巨大な柱を発見します
(因みに現在の一里は四?ですが、この時代の一里は六百?ほどだったそうです。それにしても超高速です。何しろ、白髪三千丈の国ですから)。
 
そこで悟空は真ん中の一番高い柱に墨黒々と「斉天大聖到此一遊」、つまり「俺様、斉天大聖はここまで来たぞ、どうだ」と書いて意気揚々と出発地点に戻ったところ、釈迦が悟空に示したその右手の中指には、何と悟空が天の果てで書いた筈の文字があった、所詮、彼は釈迦の掌を行き来したに過ぎなかったのだ、という話ですが、この寓話は、人類がどんなに知識を増やし、技術を発達させたとしても、所詮、世界を創造した神の支配の手の中にあるのだということを教えてくれます。
 
今日の説教後、讃美歌の二六七番を歌いたいと思います。十六世紀の宗教改革者、マルティン・ルターが作詞作曲したものだそうです。
聖歌では二三三番ですが、今回は一般に知られている讃美歌の方で歌いたいと思います。
 
大いなる神の支配権を認めて、その偉大なる神に降伏することこそ、人生の幸福であるということを確かめながら、讃美したいと思います。
 
(一節)神は我が櫓(やぐら) 我が強き盾
苦しめる時の 近き助けぞ
おのが力 おのが知恵を頼みとせる 
陰府(よみ)の長(おさ)も など恐るべき
 
(四節)暗きの力の よし防ぐとも
主の御言葉こそ 進みに進め
我が命も 我が宝も 取らば取りね
神の国は なお我にあり
 
お一人ひとりの日々の暮らしの中に、今年も神の支配が一段と浸透しますように。