2013年12月1日 待降節第一主日礼拝説教
「希望の物語その1 ザカリヤとエリサベツの場合
(前)『あなたの祈りは聞き入れられた』ー神の応
答」
ルカによる福音書1章5~17節(新約聖書口語訳82p)
はじめに
日本には正直であることが美徳とされる伝統があります。しかし、「正直者が馬鹿を見る」という諺がありますように、不正直で悪賢い者がずる賢く立ち回って利益を得るのに対し、正直であるがゆえに不利益を被っている正直者がいるのも事実です。
しかし反面、「正直の頭(こうべ)に神宿る」ともいいます。これは、正直な者には神様のお恵みやご加護がある、ということを教えるものです。
大事なことは、正直であるということを、それが利益となるか不利益となるかという損得勘定の問題としてではなく、たとい損をすることがあったとしても正直に生きよう、という生き方を貫くことであって、そういう人が社会の大多数を構成する世の中こそ、健全な社会であるといえます
ところで教会暦では今週から「アドベント、待降節」に入ります。「アドベント」とは「来臨」を意味するラテン語から来たもので、イエス・キリストの生誕日であるクリスマスを迎える心備えをすると共に、再びの来臨、つまりキリストの再臨を待望する期間、それが待降節なのです。
そこで今週から四週間、日曜日ごとに、ルカによる福音書の序章の記述から、キリストの生誕にまつわる出来事が織り成す、希望の物語を読み解いてまいりたいと思います。
今週と来週は祭司階級の末端に位置する祭司ザカリヤとその妻エリサベツの物語から、「正直者の頭(こうべ)に神宿る」という事実を通して、敬虔に生きる者の祈りを聞き入れられる神に、思いを向けることにいたしましょう。
1.神は敬虔に生きる者を、常に覚えておられる
ルカによる福音書の冒頭に登場する人物がザカリヤとその妻エリサベツです。ザカリヤは先祖代々祭司の職にあり、妻エリサベツも祭司階級の出身者でした。
「ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツと言った」(ルカによる福音書1章5節 新約聖書口語訳82p)。
ザカリヤは祭司の職責を忠実にそして瑕疵なく長年にわたって果たし、
妻エリサベツもまた、祭司の妻として夫の職務遂行を側面からサポートし、神の前をまじめに敬虔に生きてきていました。
「ふたりとも神のみ前に正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく行っていた」(1章6節)。
彼らは「神のみ前に正しい人」(6節)つまり正直者であって、「主の戒めと定め」(同)すなわち、十戒とモーセの律法のみならず、成文律法と同等の重みを持つ口伝律法としての伝承や細則を「みな落ち度なく行っていた」(同)熱心な信仰者だったのです。
でも、彼らには一つの屈託がありました。二人は跡継ぎに恵まれていなかったのでした。
「ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに老いていた」(1章7節)。
著者のルカは「エリサベツは不妊の女であった」(7節)と決めつけていますが、それは無理もありません。
不妊の原因が男性にもあるということが、それも男女半々であるという医学的事実が解明されてきたのはごく最近のことです。
ですから今から二千年も前の古代では、不妊の原因は女性にのみあると見做されて、泣く泣く婚家を去らなければならないという女性も大勢いたようです。
しかし幸いなことにこの二人についてはそういうトラブルもなく平穏な日々を過ごすことができたのですが、子が出来ぬまま、二人は「年老いて」(7節)きたのでした。
彼らが切に願ってきたのは、跡継ぎとなる男児の誕生でした。なぜならば、もしも跡継ぎが出来なければ祭司の家系はザカリヤの代で断絶をしてしまうことになるからです。
祈っても、祈っても一向に祈りの答えも兆候もないまま、歳月は無情に過ぎていくように、二人には思えたかも知れません。
しかし、神は敬虔に生きる者を常に覚えていて、天からその目を地上に注ぎ、また切なる呻きには常に耳を傾けていてくださるお方なのです。
紀元前六世紀のバビロン捕囚から故国に帰還したユダヤ人が作ったとされる詩篇が一〇二篇です。詩人は歌います。
「主はその聖所、高い天から見渡し、大空から地上に目を注ぎ、捕らわれ人の呻きに耳を傾け、死に定められていた人々を解き放ってくださいました」(詩編102編20、21節 新共同訳)。
詩篇の多くは神殿で朗唱されました。当然、ザカリヤもエリサベツもこの詩篇を知っている筈です。
それは彼らの力となり慰めとなったことと思います。敬虔に生きている者には、神が天から目を注いでくださっている、それは彼らの実感であった筈でした。
2.神は敬虔な者の祈りを、時が満ちた時に聞き入れられる
ユダヤではモーセの兄で大祭司であったアロンの息子たちの子孫が祭司職を受け継ぐことになっておりました。しかし、ナダブとアビウは父アロンに先だって死に、しかも彼らには子がなかったため、エレアザルとイタマルの子孫が代々、祭司の務めを果たすことになりました。そして、祭司たちは二十四の組に分けられました。
「エレアザルの子孫のうちにはイタマルの子孫のうちよりも長たる人々が多かった。それでエレアザルの子孫で氏族の長である十六人と、イタマルの子孫で氏族の長である者八人にこれを分けた」(歴代志上24章4節 旧約聖書口語訳595p)。
ザカリヤは「アビヤの組の祭司」(5節)でした。「アビヤ」は二十四組のうちの八番目の組です
「第八(のくじ)はアビヤに…当たった」(歴代志上24章10、18節)。
祭司はこの二十四組が半月に一回の割合で、エルサレム神殿において、祭儀に関する務めを行います。
そしてザカリヤが所属する「アビヤの組」(5節)の当番の際、ザカリヤはくじ引きで香を焚くという栄誉ある務めを担うことになります。
イエスの時代、祭司の数は多く、バークレーによりますと、当時祭司の総数は二万人を超えていたそうで、そうなりますと一組あたり、八百人です。そのために人によっては一生の間に一回もくじにあたることのないまま、務めを終えるという人も多くいたことになります。そういう意味ではザカリヤはまことに幸運であったといえます。
「さてザカリヤは、その組が当番になり神の御前に祭司の務めをしていたとき、祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことになった」(1章8、9節)。
そのザカリヤが自らに訪れた幸運を噛みしめながら香を焚いていたその時、突如、神の使いが現われてザカリヤに語りかけます。
その御使いが何と言ったかと申しますと、それは、「ザカリヤよ、あなたの長年の祈りはついに神によって聞きいれられたぞ」という、涙がこぼれるような有り難い宣告だったのです。
「香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。すると主の使いが現われて、香壇の右に立った。ザカリヤはこれを見て、恐怖の念に襲われた。そこで御使いが彼に言った、『恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈りは聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を生むであろう』」(1章10~13節前半)。
それはザカリヤとエリサベツの長年にわたる切なる「祈り」(13節)が神についに「聞きいれられた」(同)というものでした。
人の祈りと神の応答の間には時間的なズレがあるように思える場合があります。「祈りを聞き入れてくださるのなら、もっと早く答えてくださればよいのに」と人は思います。
しかし、時を決めるのは主権者である神です。神が最も良い時と考えたその時がベストの時なのです。
神は敬虔に生きている者の捧げる祈りや願いに対し、時にかなった応答をしてくださるお方です。大事なことは祈り続け、願い続けることです。
神学校の通信科で学んでいる学生さんのブログをネットで読みました。
スクーリングの授業「牧会学」の時間、講師は牧会経験豊かな牧師さんで、「先生がゼロから教会開拓をして今に至るまでの豊富な経験談を交えた授業は臨場感にあふれ、それが授業であることを忘れてしまうほどでした」というその授業において、講師が語った言葉でこの学生さんは「感極まって」「またもや授業中に落涙」するほどであったそうです。
この年配の学生さんの心を揺さぶった講師の言葉とは何かと言いますと、
「クリスチャンホームの子供はどんなに教会から離れたとしても、祈られているし、神の憐れみによって必ず呼び戻されます」という、講師の長い牧会経験から生まれた言葉だったそうです。
「クリスチャンホームの子供は…祈られている」、だから「必ず(神の許に)呼び戻され」る。
親が祈り、牧師が祈り、教会の仲間が祈ってきた、その祈りは時にかなって神に聞き入れられるのだ、それは親にとっては大いなる慰めであり、励ましです。
人は人でしばしば、種々の事柄を勘案した末に、自分なりに時を定め、そして「神様、この祈りをいついつまでに叶えてください」と祈る傾向があります。
しかし、未来を知る全知の神は、最善の時を定めていて、その時が来た時に全能の力を表わすのです。
ザカリヤの悲願ともいうべき祈り、男児誕生は、神が定めた時に実現することとなったのです。
3.神は敬虔な者が持つ、敬虔なる願いを実現してくださる
でも、敬虔な者の祈りと雖も、願いは人の願い通りに叶うとは限りません。それは神の御心に適い、また神の御計画の実現のために叶えられるという原則があるからです。
ザカリヤの願いは、一部は実現し、そして一部は願い通りにはなりませんでした。
ザカリヤの願いは跡継ぎの男児が生まれることによる祭司の家系の存続にありました。そういう意味では男児誕生の告知は朗報でした。
しかし、あなたの妻「エリサベツは男の子を生む」(13節)という告知に続いて語られた御使いの言葉は、その男児が、ザカリヤが期待する祭司の職の後継者ではなく、預言者的働きのために生まれることを明言します。
「その子をヨハネと名づけなさい。…彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒と強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、そして、イスラエルの子らを、主なる神に立ち帰らせるであろう。彼はエリヤの霊と力をもって、みまえに先だって行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」(1章13節後半、15~17節)。
この告知は第一に、生まれる子供が来(きた)るべきメシヤ・キリストの先駆けとして活動する「エリヤ」を彷彿とさせるような預言者となることを意味しました。それはそれで名誉ある知らせです。
しかし、そのためには「ナジル人」という特別な働きのために聖別されていること、つまり、独身のままで神の働きを担うことを意味します。ということは、祭司にならないだけでなく、家系そのものも断絶することを意味します。それはザカリヤにとっては受け入れ難い告知でした。
我が子が「ナジル人」として、神の役に立つ者となる、それは名誉なことである、しかし、折角与えられる子供は跡継ぎになるわけではない、
それは果たして「祈りが聞きいれられた」(13節)ことになるのか、それがザカリヤの新しい苦悩となった筈でした。
このことは、人の祈りへの神の応答が、却って人を困惑させることになることもある、という一つの事例です。
しかし、想定外の出来ごとによって神ならぬ人間が困惑することもご承知の神は、同時に人が気持ちや思いを整理し、ついにはより高い次元での決断に行くことができるよう、必要な時と環境を用意してくれる神でもあるのです。
ザカリヤはこのあと、長い煩悶の時を過ごし、そして信仰的決断を表明することとなります。そのことに関しましては、次週、ご一緒に教えられたいと思います。
一方、女性である妻エリサベツの場合は、夫とは違った反応を示しました。御使いの告知の後、エリサベツは自らの身に起こった変化を知り、受胎を確認した五カ月後、神を崇め讃美をします。
「そののち、妻エリサベツはみごもり、五か月のあいだ引きこもっていたが、『主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました』と言った」(1章24,25節)。
エリサベツの讃美と感謝の理由は神が不妊の「わたしを心にかけてくださって」(24節)子供を授けてくださったことなのですが、それだけではありません。彼女は、神は「人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださ」(25節)った、と言っているのです。
エリサベツのいう「わたしの恥」(同)とはどういうことかを知るためには、ユダヤ社会における宗教的通念を理解しておく必要があります。
古代ユダヤにおいては、多産は神の祝福の現われであり、反対に不妊は神の祝福から除外されているということ、極端な場合には何らかの不始末によって神の呪いを受けているからだという理解が一般的でした。
その通念をエリサベツに当て嵌めますと、当然、エリサベツの社会的評価は下がります。エリサベツは単に不妊であるということによって、しかも現代で言えばその半分の原因は夫にも有るにも関わらず、一方的な見方、謂れなき偏見によって苦しんできたのでした。
とりわけ、「神のみまえに正し」(6節)く生き、「主の戒めと定めとを、みな落ち度なく行って」(同)きたという自覚を持つ身にとって、世間からの無言のプレッシャーは彼女には堪えたのではないかと思います。
勿論、祭司の妻であり祭司の娘でもあるエリサベツにとっては、後継者問題が重要であるという認識は十分にありました。しかし、それはそれとして、彼女自身が抱えてきた苦悩、それは男性であるザカリヤには理解できない苦しみであった筈です。
しかし、女性を創造された神は女性のことをよくわかっているのです。
女性を機械に例えて、辞職に追い込まれた大臣がいましたが、機械が精密であればあるほど、手入れも必要です。そして機械のことを最も良く知っているのは設計者であり製作者です。
そのように、女性を造った神は、女性のことが誰よりも良く分かっているのです。神はエリサベツの苦悩をよくご存知であって、エリサベツの呻きを祈りとして聞き入れてくださっていたのでした。
エリサベツの場合、その苦悩からの解放の実感が、「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」(25節)という歓喜の讃美となったのでした。
神は神を仰いで敬虔に生きる者が持つ、敬虔なる願いに応答してくださる神、願いを実現してくださる全能の神です。しかしその奇跡のみわざの背後には、敬虔な人が敬虔であるがゆえに持つ、人知れぬ苦しみ、悲しみ、そして流す涙をご存知である神の、豊かな感性があるのです。
エリサベツの告白は、神の細やかな感性への讃美、感謝の表れでした。
いま、どうにもならない現実に翻弄されているように思われる方も、祈りと願いを神に申し上げることをやめたりしないで、あきらめることなく、祈り続けてください。
神は今も、神に向かって切に祈る者を「心にかけてくださって」(25節)いるのです。