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2013年11月24日日曜礼拝説教「ルカによる福音書の譬え話? 家出した兄弟たちの譬え 後篇―兄息子もまた、父の心も愛も悟らぬ家出息子であった」ルカによる福音書15章25~32節

2013年11月24日 日曜礼拝説教

「ルカによる福音書の譬え話? 家出した兄弟たちの譬え 後篇―兄息子もまた、父の心も愛も悟らぬ家出息子であった」
 
ルカによる福音書15章25~32節(新約聖書口語訳116p)
 
 
はじめに
 
この三週間ほど、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで」一日を始めています。NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」の後番組として十月から始まったのが「ごちそうさん」です。
 
東京篇はまあまあ面白かったのですが、幼いころから食べるということに異常な執念を燃やす洋食屋の娘のヒロインのめ以子が、嫁ぎ先の大阪の旧家で小姑から陰湿なイジメを受けることになる大阪篇では、とにかくヒロインのめ以子が受けるイジメが尋常でなく、しかもその底意地の悪い意地悪をこれでもかこれでもかと続ける小姑役を演じている女優の顔が、演技を通り越して役柄ピッタリの冷血顔で、よくぞまあ、これほど役とピッタリのタイプの女優を見つけたものだと感心してしまいます。
 
物語が進むにつれて、明るいヒロインのがんばりにさしもの意地悪小姑も改心し、ついにはヒロインの軍門に降る、という展開になっていくものと思われますが、そのパターンは日本人にはなじみのあるものです。
 
まだテレビが家々に普及する前の昭和三十年前後の街頭テレビの時代、大柄なシャープ兄弟の悪辣な反則に相棒の木村政彦が生贄となり(実は木村政彦は「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と謳われた程の柔道の強豪であって、あくまでもショーであるプロレスの試合の話し合いの中で、やられる役を担当したようなのですが)、それまで彼らの乱暴狼藉に耐えに耐えてきた力道山が、ついに伝家の宝刀、空手チョップをふるって悪役のアメリカ人レスラーを蹴散らすという場面が来ると、テレビの前の黒山の群衆は熱狂して拍手喝采をしたものでした。 
 
ですから、街頭テレビならぬ地デジテレビの前の視聴者が溜飲を下げる場面は明日からのお楽しみということになると思います。もっとも和枝という名の小姑の陰険な意地悪に辟易して、一度、ドラマから離れた男性視聴者の多くはもうこの番組に戻ってくることはないような気がしますが。
ともかく、もしも物語が予想通りに展開すれば、朝の苦痛ともサヨナラです。
 
それはさておき、この小姑に良く似ているのがイエスの譬え話に出てくる放蕩息子の兄息子です。
今週はその兄息子の話を通して、弟息子だけでなく、兄息子にも注がれた父の驚くべき恵みと愛とに、イエス・キリストの姿を見たいと思います。
 
 
1.兄息子は父の弟への扱いにより、自己愛と被害者意識の塊であったことを露呈した
 
ユダヤ人が愛する旧約文書の一つである箴言には、兄弟というものは悩みの時のためにこそ、この世に生み出されたのだとあります
 
「友はいずれの時にも愛する、兄弟は悩みの時のために生まれる」(箴言17章17節 旧約聖書口語訳901p)。
 
 そうであるならば、畑仕事から帰ってきて、僕のひとりから、家出して消息不明となっていた実の弟が何年ぶりかで帰郷したと聞き、また喜んだ父親が祝宴を開いていると知った兄は、さぞや喜んで一目散に家に駆け込んだことだろうと誰もが思うのですが、豈はからんや、僕の話を聞いた兄は怒り狂い、また不愉快極まりないという雰囲気で、家に入るのを拒否します。
 
「ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえたので、ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事(なにごと)なのか』と尋ねた。僕は答えて言った、僕は答えた、『あなたの御兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。兄はおこって家にはいろうとしなかったので」(ルカによる福音書15章25~28節前半 新約聖書口語訳116p)。
 
 兄息子が時間になっても帰宅しない、なぜなのかというと、それは怒っているからだと聞いた父親が外に出てきて兄息子をなだめます。
すると兄息子は堰を切ったように、父親に対してうらみつらみを捲し立て始めます。
 
「兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたのいいつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹もくださったことはありません』」(15章29節)。
 
 「父よ、あなたは因業(いんごう)で吝嗇(けち)の塊のような親父であって、それでもそういうひどい父親に自分は黙々と服従してきた、それなのに…」と、いうわけです。
 
彼はこの言葉と態度によって、自分自身が自己愛の塊であって、しかも心は被害者意識で針鼠のようになっているということを露呈してしまいます。
 
ここに原罪の見本が提示されているといってもいいかも知れません。原罪(罪の根)とは、これまでにも説明してきましたように、その本質は自己神化、つまり自分を神とするところにあります。
そしてその属性とでもいうべき原罪の側面が自己愛なのです。
 
人格に障碍を持つことを人格障害と言います。そしてその一つに自己愛性人格障害というものがあるのですが、この人格障害の特徴は、自分が百パーセント被害者で、相手が百パーセント加害者であると考えるところにあるそうです。
 
ひたすらに自らの義を主張し、その正しさを語って父を一方的に責める兄息子には、自己愛性人格障害者が持つ特有の傾向が見えているといえます。
 
自己愛、それは原罪が持つ属性の一つの現われであって、自己愛が生み出すものが被害者意識なのです。兄息子は弟への父の取り扱いにキレて、その結果、自らが自己愛の塊であり、被害者意識の奴隷であることをそこで証明してしまったのでした。
 
悲しいことなのですが、このタイプの人は悔い改めたり回心したりするということは困難です。なぜならば、罪の意識がないからです。罪の意識がないものですから、悔い改めようとも思わないのです。
 
その典型的な例が、十字架上で口をきわめてイエスを罵り続けた犯罪人でした。
 
「十字架にかけられた犯罪人のひとりが、あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言い続けた(23章39節)。
 
 見かねたもう一人の犯罪人が「たしなめ」(40節)ますが、彼は聞く耳を持たず、イエスに罵声を浴びせかけ続けたようでした。
 
この手の人は自分の罪がわかりません。罪の意識がありませんから、キリスト教という宗教を信奉する「キリスト教徒」にはなれたとしても、イエス・キリストを罪からの救い主とする「キリスト信徒」にはなりにくのです。
罪の自覚がありませんから、キリストがあなたの身代わりに死んでくれたのだと言われてもピンと来ないのです。
 自己愛と自己愛が生み出す被害者意識という感情は、原罪という罪の根っこの具体的な現われです。
 
お隣の国の大統領が米国やヨーロッパにおいて外交交渉そっちのけで日本を非難する「告げ口外交」を展開し、そのため世界から呆れられているのですが、ご本人は真剣です。何しろ自分たちは百パーセント罪のない被害者で、日本は百パーセント罪深い加害者であると信じ込んでいるのですから。
 
それはこのお方の大統領就任直後に行われた「三・一独立運動」なるものを記念する式典の中での、「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、千年の歴史が流れても変わることがない」という演説でも明らかです。
 
それでいて、ベトナム戦争に参戦した多数の韓国軍兵士らが、数十万とも言われるベトナム人女性や老人、子供たちに行った残虐行為に関しては、まるで無かったかのように彼の国のメディアが口を噤んでいるのは、まさに自己愛性人格障害の典型的例証かも知れません。
 
この韓国軍兵士による非道な行為については、ネットによって「ライダイハン」で検索すると無数にヒットします。
「ライダイハン」の「ライ」はベトナム語で動物を含む混血雑種を意味する蔑称で、そして「タイハン」は『大韓』のベトナム語読み」(ウィキペディア)だそうですから、韓国軍兵士によるレイプ等によって生まれて現地に置き去りにされた子供たちのことなのです。
 
一度、現地を取材した左翼系の新聞社がこの事実を報道したところ、怒り狂った退役軍人たちがこの新聞社を襲って、破壊行為に及んだこともあってか、この問題を報道するメディアは出てきていないことが問題なのですが。
 
 さて兄息子です。彼は父に向かって「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたにそむいたことはなかった」(29節前半)と、自分の生き方を正しいものとして肯定し、にも関わらずその労苦と犠牲に対してあなたは報酬として「友だちと楽しむために子やぎ一匹」(同後半)もくれようとしなかった、あなたはケチだ、因業だ」と父を責めましたが、父はこれを聞き、また兄息子の本性を知って、深く心を痛めたことと思います。
 
 
2.兄息子の親孝行は、世間の評判を気にしてのものであったことが弟の帰還で明らかとなった
 
 
イエスの譬えでは、兄息子の父へのうらみつらみの言葉はまだ続きます。
それは、「こんなに朝から晩まで働きづめに働いて親孝行をしている自分を冷遇しているにも関わらず、譲渡された莫大な財産を放蕩の揚げ句に使い果たした上、恥ずかしげもなく帰宅した親不幸の弟を厚遇して、何と最重要の賓客にのみ出すような料理をさえ振る舞っている、こんなバカなことがあるでしょうか」と、一気呵成に述べています。
 
「それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました」(15章30節)。
 
これらの言葉は彼の意識下に溜まりに溜まっていた憤懣が、弟の帰還とその弟に対する父の取り扱いによって表面化し、それに火がついて爆発をしたものだと思われます。そこで思い出すのが半島特有の精神疾患とされる「火病」です。
 
兄息子の言い分は、極めて歪んでいて一方的ですが、事実関係だけを取り上げればその通りであると言えないこともありません。しかし、兄息子の感情に任せた本音とも言うべきその非難によって、彼自身が隠してきた致命的な問題点が白日の下に晒されることとなったのでした。
 
それは何かと言いますと、彼の親孝行な青年、模範的な孝行息子というイメージが、実は世間体という世間の評判を気にしてのものであって、父への敬意や愛情によるものではなかったという実態が、でした。
 
 「遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子」(30節)という言い方には、自らの欲望のままに動いた行動的な弟への嫉妬の感情、自分だって本当はそうしたかったのだという羨望の気持ちが隠されていると見ることもできます。
 
では彼はなぜ、弟のようにしなかったのか、彼を家にとどめたものは何かと言いますと、「家を出ていった次男に比べ、長男は何と親孝行なのだろう」と言った世間の孝行息子という評判、そして近隣の人々への良好なイメージを保とうとしたからに他なりません。
 
彼は弟と同様、父を鬱陶しく思い、家にいることが不自由であると感じていた、できるならば弟のように家を出て自由を満喫したかった、しかし、そうなれば、長年かかって築いてきた孝行息子というイメージが台無しになる、だから内なる感情や欲望を押し殺し、家にとどまって「何か年も」(29節)父親に「仕えて」(同)、「一度」(同)もその「言いつけにそむ」(同)くことのない模範青年を演じて来たのだということを、当の父親に向かって告白をしてしまったのでした。
 
言うなれば、弟息子は実際に家出を決行し、兄息子の場合は、体は家にあっても心と気持ちでは家出をしていたと言えるのでした。この譬え話を「家出をした兄弟たちの譬え」とした理由はここにあります。
 
 
3.兄息子はそれにも関わらず、自らが弟同様、父の愛の対象であることを知るべきであった
 
 
兄息子の隠された本音を聞いた父親はどのように反応をしたのでしょうか。
 
聖書を身近なものとして読む場合の秘訣は、二つあります。一つは自分自身が登場人物の立場になって、その気持ちを想像することです。 
つまり、この時、父親は兄息子の告白をどのような気持ちで聞いたのだろうか、と考えてみることで、もう一つは、もしも自分自身であったならばどう思っただろうか、ということを想像してみることです。
 
前者は自分自身が、時代という制約を飛び越えて聖書の世界に入って行くことであり、後者は聖書の世界の出来事を、やはり時代の限界を破って現在の自分に適用するということで、そういう意味においてきわめて有効な読み方です。
 
この方法はたとい聖書の原語を読むことができなくても、あるいは専門的知識の持ち合わせがなくても可能であって、健全な常識感覚と少しの想像力さえあれば、誰にでもそしてすぐにでも可能です。ぜひ、験してみてください。
 
兄息子が秘密に保護してきた特定ともいうべき本音を聞いた父親はどのように反応したでしょうか。腹を立て、「お前は勘当だ」と言って兄息子を家から追い出したでしょうか。
 
そうではありませんでした。父親は穏やかに兄息子が密かに抱いてきた誤解を解き始めます。
 
弟をえこ贔屓していて、兄の自分に対しては不平等な取り扱いをしているという彼の思い込みに対しては、「お前は家族としていつも私一緒に暮らしていたし、第一、この家も財産も、既にお前の名義になっているだろう、『友だちと楽し』(29節)みたいと思ったならば、自分の裁量で自由にしたらよかったのに」というものでした。
 
「すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ』」(15章31節)。
 
 そして父は言葉を重ねて、「死んでしまった者が生き返ったならば喜び祝うであろう、行方不明になっていた者が発見されたならば、手を取り合って喜ぶであろう、死んだと思っていたあなたの弟、何年も行方知れずになっていた私の息子が生きて帰ってきたのだ、喜び祝うのは当然のではないか」と、兄息子を諄々と諭したのでした。
 
「しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」(15章32節)。
 
 ここまで来ますと、イエスの譬えの真意が理解できます。この「兄息子」は誰のことかといいますと、「イエスの話を聞こうとして」(1節)「近寄ってきた」(同)「取税人や罪人たち」(同)をイエスが「迎えて一緒に食事」(2節)するのを非難した正統的ユダヤ教徒の「パリサイ人や律法学者たち」(2節)のことです。
 
 弟息子にも等しい「取税人や罪人たち」(1節)を蔑みつつ、彼らと食事を共にしたイエスを非難するのは、弟息子の帰郷を喜んで祝宴を催す父親を難詰している兄息子そのものであることを自ら、証明したことになる、というわけです。
 
 では、イエスはそのような自らの義を誇る「パリサイ人や律法学者たち」(2節)を非難しようとしているのかと言いますと、決してそうではないのです。
 
 イエスにとっては、罪を悔いてみ許に来る「罪人たち」(2節)同様、「パリサイ人や律法学者たち」(同)もまた、救済と愛の対象でした。
 
 
 彼らは自分たちこそが忠実なる神の民であるとの自負を持っておりました。それはまさに満々たる自信となって彼らを支えておりました。
 しかし、「親の心、子知らず」で、肝腎の神の御心を察する想像力と聖書に関する知識が彼らには欠けておりました。そしてその結果が、イエスという救い主を十字架に架けるという神に背く暴挙となったのでした。
 
兄息子は父の深い思い、大いなる愛を悟って、父が弟のために催した喜びの祝宴に同席し、そして弟の帰宅を喜ぶべきでした。
 
後年、パリサイ人であり、律法学者でもあったひとりのユダヤ人が回心をして、イエスの心を語り伝える人となりました。
ヘブル名をサウロ、ローマ名をパウロといったこの人は、現在のトルコ中部にあったガラテヤの教会に、キリストを信じる者は違いを乗り越えて一つなのだ、と宣言しました。この言葉を噛みしめて、キリストの譬え話の完了としたいと思います。
 
「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたはキリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ人への手紙3章27、28節 新共同訳)。