2013年11月10日 日曜礼拝説教
「ルカによる福音書の譬え話?良きサマリヤ人の譬
え―イエス・キリストこそ瀕死の者に愛の手を差し伸べた『良きサマリヤ人』であった」
ルカによる福音書10章25~37節(新約聖書口語訳105p)
はじめに
私たちの教会では就学前の子供たちが、あらゆる危険や災害から守られて、心身共に健やかに成長することを願い、子供祝福式を七五三の直前の日曜礼拝に行っておりますが、今年はそれが本日、十一月十日の礼拝です。
七五三の行事は徳川幕府三代将軍家光の時代に始まったと言われています。家光の側室お玉の方(後の桂昌院)は亀松と徳松という二人の子を家光に生みましたが、亀松は三歳で早世してしまいます。
そのために家光は、徳松が数え年五歳になった慶安三年(一六五〇)十一月十五日に五歳の祝いをし、その健康と無事の成長を祈ったとのことで、それが七五三の始まりとされています。因みにこの徳松が後の五代将軍綱吉です。
子供の無事の成長を願うのは将軍家も武士も、そして庶民も変わりはありません。とりわけ、流行り病が頻発し、それに対する医療も未発達で、衛生状態も良くなかった昔の日本では、子供が大人になる前に亡くなるという事例は珍しくないことでした。そのため、七五三詣りという行事が広まっていったそうなのです。
七五三は一般には五歳の男児、三歳と七歳の女児を対象にしますが、元々は三歳の男女の「髪置(かみおき)」、五歳男児の「袴着(はかまぎ)」、七歳女児の「帯解(おびとき)」の三つの行事からなっていて、それぞれに子供たちの無事の成長を祈るという意味が込められていました。
しかし、子供たちの無事の成長という場合、単に体が丈夫に育つというだけでは不十分です。心が育たなければなりません。
心が育つということは他者に対する配慮、とりわけ弱者に対する思いやりの心が育てられなければなりません。しばしば、いじめっ子が体格の良い子であることも珍しくはないからです。
そして、人を思いやる心、人への愛情は、「自分が愛されてある」という実感と体験から生まれると共に、「愛するとはどういうことか」という愛の手本を見ることによって育っていくものです。
そこで今週はいわゆる「良きサマリヤ人の譬え」を通して、聖書が教える真理、教訓をご一緒に体得したいと思います。
1.永遠の生命を受ける唯一の条件、それは隣人愛を徹底することであった
「良きサマリヤ人の譬え」はあまりにも有名な反面、譬えの本来の意図が曲げられて伝わっている嫌いがあります。そこで本日はキリストが伝えようとした本来の意図を探り、その意味を心と生活の中に受け入れたいと思います。
今回も譬え話の背景について考えることとします。端緒となったものは「ある律法学者」のイエスに対する質問でした。
「するとそこへ、ある律法学者が現われ、イエスを試みようとして言った、『先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか』。」(ルカによる福音書10章25節)。
「ある律法学者」(25節)は「永遠の生命」(同)の受け方について質問をしました。とは言いましても「イエスを試みようとして」(同)とありますように、その動機はイエスの教師としての理解度や見識の深さ、さらにはその信頼性を試そうとしたところにあったのですが。
この「永遠の生命」(25節)の獲得は当時のユダヤ人が持つ最大の関心事でした。
「永遠の生命」には二つの側面があります。一つは量的な面、つまり時間的長さとしての永遠の命という永久性で、もう一つは質的な面、つまり、神との不断に続く良好な関係という関係性でした。
律法学者の問いに対してイエスは逆に質問をします、「律法には何とあるか、あなたはそれをどのように理解しているか」と。
これに対して律法学者は得意げに答えます、「それは神への忠誠と、隣人への愛の実践です」と。
「彼は答えて言った、『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」(10章27節)。
この二つはそれぞれ、モーセ五書の四つ目の文書の申命記六章五節と、三つ目のレビ記十九章十八節にある戒めです。
そこでイエスは二つのことを言います、一つ目は、「それが正しい答えである」ということ、そして二つ目は、「あとは理解しているそのことを実践しさえすれば、あなたも永遠の生命を受けることができる」というものでした。
「彼に言われた、『あなたの答えは正しい。そのとおりに行いなさい。そうすれば、いのちが得られる』」(10章28節)。
これは、人が永遠の生命を受ける道あるいは方法として、あらゆる時代を通じて正当かつ有効なものでした。そしてそれは現代でも正当かつ有効な方法なのです。ただし、それを完璧に実践をしていればの話ですが。
特に二つ目の、隣人への愛を徹底的に実践した者には、誰であっても神は永遠の生命を与える筈です。そういう意味において、律法学者の答えは正しかったのです。
但し、それを理性であるいは理屈で理解しているということと、実践で行動に表わしていることとは別です。理解することは大切です。しかし、頭で理解しているからと言って、それでよいのではありません。
では、理解は無意味なのかといいますと、そうではありません。頭での理解は真理に到達するための入り口であり、第一段階なのです。ですから、理性によるキリスト教教理の習得はきわめて大切なことなのです。
「永遠の生命」を受ける条件が、神への忠誠と、隣り人への徹底的な愛の実践であるということについては、イエスもまた同様の見解を持っていたのでした。
2.徹底した隣人愛のモデル、それが譬えに示された「良きサマリヤ人」であった
しかし律法学者はイエスの言葉、特に「そのとおりに行いなさい」という言い方に「カチン」ときたようです。彼には、自分は隣人愛を実践している、という自負があったからです。
そこでこの律法学者はイエスに「私は隣人愛を実践しています、これ以上、私が実践しなければならない隣り人とは誰のことでしょうか」と訊き返します。
「すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、『では、わたしの隣り人とはだれのことですか』」(10章29節)。
この問いに対してイエスが語り出したものが「良きサマリヤ人の譬え」でした。
「イエスが答えて言われた。ある人がエルサレムからエリコに行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま逃げ去った」(10章30節)。
「エリコ」(30節)は「エルサレム」(同)の東二十七キロにある、古代から連綿として続いている町であって、祭司やレビ人が多く居住していたと言われています。なお、現在はヨルダン川西岸地区に含まれている町です。
ただ、「エルサレム」は標高七百メートル、「エリコ」は海抜二百五十メートルと、その標高差は激しく、しかもその間の道は曲がりくねった険しい道で、旅人はしばしば盗賊の餌食になったそうです。
そして一人の旅人が襲撃されてしまいます。「強盗どもが彼を襲い」(30節)、情け容赦なく身ぐるみを剥がし、半死半生の目に遭わせて逃走してします。そしてそこにエルサレム神殿に仕える祭司とレビ人とが相次いで通り掛かります。
しかし律法に精通し、神に仕えている筈の彼らは我が身かわいさから後難を恐れ、見て見ぬふりをしてその場を通り過ぎていきました。
「するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、彼を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った」(10章31、32節)。
そして「サマリヤ人」の登場です。譬えをそのまま読むことにしましょう。
「ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った」(10章33~35節)。
「サマリヤ人」(33節)という言い方には二つの意味があります。
一つは民族的な意味でのそれでした。
サマリヤはもともと、北イスラエル王国の首都でしたが、紀元前七二一年、アッシリヤのサルゴン王による侵略を受けて滅亡してしまいます。
その後、サマリヤにはサルゴンによって移住させられた異民族とサマリヤに残ったイスラエルの民との混血によって一つの民族が形成されますが、南のユダヤ人からは神の民という立場を穢した「サマリヤ人」として交流を拒まれたため、ゲリジム山に神殿を建てて、モーセ五書のみを正典とする独自の宗教を信奉するようになりました。
ではイエスの譬えに登場した「サマリヤ人」がそのような人なのかと言いますと、必ずしもそうとは限らないのです。実は正統を自負するユダヤ教徒たちは、正統信仰から外れていると彼らが見做す者はそれが同胞であっても、「サマリヤ人」と呼んで、蔑む傾向があったからです。
イエスも血統の点では正真正銘のダビデの子孫でしたが、敵対者からは「サマリヤ人」と罵られたことがありました。
「ユダヤ人はイエスに答えて言った、『あなたはサマリヤ人で、悪霊に取りつかれていると、わたしたちが言うのは、当然ではないか』」(ヨハネによる福音書8章48節)。
当時の宗教的状況を考えると、民族的な意味での「サマリヤ人」がユダヤ教の聖地であるエルサレムからエリコに旅するということは考えにくいことからも、同じユダヤ人でありながら正統ユダヤ人が蔑み、隣人としての扱いをしなかった者を、イエスが「サマリヤ人」として登場させたと解釈する方が理に適っているかも知れません。
譬えに戻ります。律法の精神を軽んじていた筈の「サマリヤ人」は、瀕死の旅人を見捨てることはしませんでした。彼は瀕死の状態で道に放置されている旅人を「気の毒に思い」(33節)ます。彼の同情心が激しく揺り動かされたのです。
そして神に仕える「祭司」や「レビ人」が「向こう側を通って行った」(31、32節)のとは対照的に、「近寄ってきて」手当てをしてやり、しかも「宿屋に連れて行って介抱し」(34節)、更に、翌日、自分が出立するにあたっては、二日分の日当に当たる「デナリ二つを」「宿屋の主人に手渡し」(35節)て、赤の他人である旅人の世話を依頼します。至れり尽くせりの行為です。
実はこの譬えは、もしも徹底した隣人愛の実践によって永遠の生命を獲得する人がいるとするならば、それはこのサマリヤ人のような人であるということを教えているのです。
いうなれば、徹底した隣人愛の実践者のモデル、それがこの「良きサマリヤ人」であるということをイエスは示したのでした。
つまり、この「サマリヤ人」が隣国の住民であるならば、彼が助けた旅人は普段から彼らを蔑む敵国の一人でしたし、もしも律法の実践という観点から異邦人扱いされていたいわゆる「サマリヤ人」であるならば、強盗に襲われたユダヤ人の旅人は「敵」のひとりということになります。
彼がもしも「隣り人を愛し、敵を憎め」(マタイによる福音書5章43節)というユダヤの律法に従うならば、強盗に襲われた旅人は彼の「敵」であるわけですから、「敵を憎め」という教えを実践して、旅人を放置したままその場を通り過ぎても何ら咎められることはないことになります。
しかし、この「サマリヤ人」は彼の「敵」を放置することをせずに、自らが旅人の「隣り人」となり、また旅人を自らの「隣り人」としたのでした。
まさに「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というレビ記の戒めを実践したことになるわけです。
では、かくも徹底した愛を実践した「サマリヤ人」のような人はこの地上にいるか、と言いますと、答えは「ノー」です。
つまり、イエスはこの譬えによって、人は限定的な意味では家族や同胞への愛は実践することができたとしても、敵対関係にあるような者に対しても、家族と同じような気持ちで愛を実践することができるか、それは不可能である、ということを伝えようとされたのでした。
イエスがこの譬えを通して言いたかったことは二つです。
一つは、人が隣人愛の実践によって永遠の生命を得ようとするならば、この「サマリヤ人」のような徹底的な実践が必要であるということ、そしてもう一つはその裏返しになるのですが、罪ある人間が律法の実践によって永遠の生命を得ようとすることは、無理なことなのだ、ということでした。
イエスは譬え話をした後に、律法学者に質問します。
「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか。彼は言った、『その人に慈悲深い行いをした人です』。そこでイエスは言った、『あなたも行って同じようにしなさい』」(10章36、37節)。
最後の「あなたも行って同じようにしなさい」(37節)という言葉をそのまま鵜呑みにして、あなたも「サマリヤ人」のようになりましょうと、愛の実践を説く人や教会が多いのですが、イエスはこの譬えによって愛の実践を勧めたのではありません。
律法学者への「あなたも行って同じようにしなさい」はあくまでも、行いによって永遠の生命を得ようとする者、得られると考えている者に対する言葉なのです。
3.「良きサマリヤ人」として瀕死の者に手を伸べた愛の人、それがイエス・キリストである
そしてルカによる福音書が最終的に言いたいこと、伝えたいこと、そしてわかって欲しいこととは、私たちが人生の途上にあって、人からも見捨てられ、絶望し、瀕死の状態で呻吟していた時に、私たちの姿や状態を衷心から「気の毒に思い」(33節)、「近寄ってきてその傷」(34節)に手当てを施してくれて、最後の最後まで面倒を見てくれた「良きサマリヤ人」こそ、イエス・キリストその人であったということだったのです。
繰り返しますが、この譬えを語ったあと、イエスは律法学者に向かい、「もしもあなたが隣人愛の実践によって永遠の生命を受けたいと思うならば、『あなたも行って』(37節)サマリヤ人と「同じようにしなさい」(同)、そうすれば不死という永遠の生命、神との良い関係という永遠の生命を得ることが出来るだろう、と言いました。
「そこでイエスは言われた、『あなたも行って同じようにしなさい』」(10章37節)。
そして、そう言ったイエスは文字通り、「良きサマリヤ人」となって、私たち罪びとを滅びから救うべく、隣人愛の徹底的な実践者となり、そして十字架に命を捧げてくださったのでした。まさにイエスこそ、「行って(サマリヤ人と)同じようにし」(37節)たお方、しかも唯一のお方であったのです。
古今東西、歴史を通じて模範とすべき愛の実践者は数多おりますが、イエスのように無私の愛、無償の愛による隣人愛を実践した人は他にはおりません。
そういう意味ではイエスのみ、その行いによって永遠の生命を得ることのできた人であったと言えます。
しかしイエスはその永遠の生命を得るという資格を後生大事に抱えて、一人だけの幸せという道を選ぶことはしませんでした。イエスは自らの意志と決断により、その罪なき人生を私たち人類の身代わりとすることによって、人類の罪障を消滅させるという道を選んでくださったのでした。
それが十字架の死、身代わりの死でした。
ですから誰でも、このイエスを主なるキリストとして信じ受け入れるならば、その人はイエスの功績により、ただ信じるだけで量的、質的な意味での永遠の生命を持つことが可能となるのです。
愛の実践は永遠の生命の獲得のための手段などではなく、自分はイエスから無私の愛、打算なき愛で愛されているという喜びが、人を愛の実践へと人を駆り立てるのです。
ローマン・カトリックに、死後二十年で聖人に列せられた神父がいます。ダミアンというベルギー出身の神父です。
彼は所属している修道会から宣教師としてハワイに派遣され、そこでモロカイ島というハワイでは五番目に大きな島にハンセン病患者が隔離され、誰からも世話をされることなく死んでいくという状況を知るに至ります。
そして自ら志願してハンセン病患者の多いモロカイ島に派遣されます。三十三歳の時でした。当時のハワイは米国が併合する前でしたので、文明的には遅れた地域でした。
彼はモロカイ島においてその荒廃した生活環境の整備に全力を尽くしますが、十一年後、彼の身にハンセン病が発症します。
そしてさらにその五年後、ダミアン神父はハンセン病によってこの世を去ることとなりました。四十九歳でした。
ダミアン神父はその愛の実践によって永遠の生命を獲得したのでしょうか。そうではありません。彼を永遠の生命に導いたのはイエス・キリストの十字架の犠性です。
モロカイ島におけるハンセン病患者への奉仕にダミアン神父を駆り立てたものは、自らが見捨てられた旅人であった時に、キリストが「良きサマリヤ人」として彼に手を伸べてくれたという体験であり、キリストへの感謝であったと思われます。単なるヒューマニズムや同情心では、人は自己満足的な行為しか出来ません。
もちろん、ダミアン神父のように我とわが身をハンセン病患者に捧げるという崇高な自己犠牲的人生を生きよと、聖書は言ってはいません。ただ、キリストとの出会いを経験すると、考え方が変わります。
人は自身が人生という旅において、傷つき見捨てられた旅人であった時に、キリストが良きサマリヤ人として愛の手を差し伸べてくれたという、個人的体験を経ることによって変わります。
「ナルニア国物語」の著者として知られる英国の作家、C.S.ルイスはキリスト教の弁証家としても活躍しました。そのルイスの著作に「悪魔の手紙」という作品があります。一九四二年に刊行され、ベストセラーとなったそうです。
「悪魔の手紙」は原題が「スクル-テイプ レター」とありますように、経験を積んだ悪魔であるスクルーテイプが、修行中の甥のワームウッドに対して送った、人間を神から離れさせる秘訣を教える三十一通の書簡、というかたちから成っているもので、特に第二十一信は、人間の弱点を衝く指摘として考えさせられます。
スクルーテイプは教えます、人間は自分が不運な目に遭ったというだけでは、腹を立てることはしない、しかし、自分の正当な権利を侵害された、奪われたと感じると不機嫌になり、その結果、彼の魂はお前の支配下に置かれることになる、と。
人間は不運な目に遭ったというだけでは、大して腹をたてないが、それを権利の侵害と受け取るときに激怒する。権利を侵害されたという意識は、自分の正当な権利が拒まれたという感情にもとづいている。したがってきみの担当の男をそそのかして、自分には人生において享受すべき正当な権利がたくさんあるはずだと思い込ませることは大いに結構だ。(中略)
さて自由に使うことができると期待していた時間が思いがけず取りあげられることになったとき、やつがとりわけいきりたつということには、君もきづいているだろう。(中略)
彼が立腹するのは、自分の時間を自分の所有物のように考えているために、自分の持ちものを盗まれたように感ずるからなのだ。だからきみは「わたしの時間はわたしのものだ」という奇妙な考えがやつの心のうちから消えないように目を光らせていなければならない。一日の初めにあたって、やつに、自分には自分の自由になる時間が二十四時間あるという意識を持たせるのだ。
この所有物の一部を…宗教的な義務にささげる部分については、気前のいい寄進(註 献金)でもしているように感じさせるがよい(C.S.ルイス著 中村妙子訳「悪魔の手紙」129、130p 平凡社)。
ベテランの悪魔は見習いの悪魔に教えます、「時間というものは神から与えられたものではなく、二十四時間すべてが自分の所有物である、『わたしの時間はわたしのものだ』(130p)と思い込ませておけば、お前のターゲットはお前の物となり、以後、お前は彼の人生を思うままに操ることができるようになる」と。
「二十四時間すべてが『わたしのものだ』と思い込ませていれば、彼は日曜日、礼拝に割く時間も惜しくなるであろうし、奉仕にしても、何も自分が所有している大事な時間を使ってわざわざしなくてもよい、と思うようになるであろう、何しろ、時間の所有者はこの自分なのだから。間違っても実は時間というものは神から授かったものなのだ、などという考えを持つことがないようにせよ、もしもターゲットがそのことに気付いてしまったら、彼はあなたの手から確実に逃れてしまうぞ」というわけです。
そういう意味においても、人なるイエスは私たちと違い、悪魔に対する完全な勝利者であったといえます。イエス・キリストこそまことの「良きサマリヤ人」でした。
すべてはキリストが「良きサマリヤ人」となって自らの人生に現われ、そして打算抜きで面倒を見てくれたという体験から出発するのです。そしてそのことがこの譬えの私たちに対するもう一つの教訓です。