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2013年9月29日日曜礼拝説教「ルカによる福音書の譬え話? 種まきの譬え―多くの実を結んだのは柔軟にしてかつ堅忍不抜の精神で培われた心であった」ルカによる福音書8章4~15節

13年9月29日 日曜礼拝説教

ルカによる福音書の譬え話? 種まきの譬え―豊かな実を結んだのは、柔軟にしてかつ堅忍不抜の精神で培われた心であった」
 
ルカによる福音書8章4~15節(新約聖書口語訳98p)
 
 
はじめに
 
大相撲の秋場所は今日が千秋楽です。今場所はエジプト出身の大砂嵐が十両上位で活躍をし、幕内では大学相撲出身の遠藤が玄人をうならせるような相撲を取ることから、なかなかの盛り上がりを見せているようです。
 
寝屋川市出身の豪栄道が関脇の地位で今場所も勝ち越しましたのは、まことにご同慶の至りでしたし、交野市出身の勢(いきおい)は前頭筆頭の位置にあって前半は負けが混んでさっぱりでしたが、後半に入り、やや立ち直ってきたようです。来場所は頑張ってほしいものです。
 
教会のホームページを管理してくれている片平牧師(都島中央キリスト教会)から、牧師のプロフィールを載せてはどうかと勧められたため、簡単なプロフィールを書いて送ったのですが(掲載する際、ついでに似顔絵まで描いてくれました)、「好きなもの 各種格闘技のテレビ観戦」とした後に、(ただし、大相撲は除く)と入れようと思ったほど、もう何年も前から相撲はまったく見なくなっていました。
 
最近、八百長問題が騒がれ、無実を訴えていた中国(内モンゴル)出身の関取が復帰を果たしましたが、八百長に関して言えば二十数年前はもっとひどくて、それ以来、「大相撲は真剣勝負の格闘技などではなく、日本古来の伝統芸能だったのだ、相撲取りが星のやり取りをするのも、相撲界が互助会なのだから当然かも」と思うようになって、相撲観戦はしなくなっていました。
 
しかし、遠藤のような力士が出てくるとまた盛り上がるかも知れません。遠藤が相撲界の悪しき習慣に染まらないようにと願うばかりです。ただ、残念なことに足の故障で十四日目から休場ですが。
 
さて、大相撲と言いますと、大関、横綱への推挙、昇進伝達式において力士が述べる口上に、いつのころからか、四字熟語を入れるのが慣例となりましたが、そこで思い出したのが、三代目若乃花が十五年前の横綱推挙の際に述べた口上、「堅忍不抜の精神で精進して行きます」でした。
「堅忍不抜」、実にいい言葉です。
 
 
この言葉は十一世紀の支那の政治家であり詩人でもあった蘇軾(そしょく 蘇東坡 そとうば)の錯論(ちょうそろん)という作品の中の言葉だそうで、「堅忍」は我慢強いこと、「不抜」は意志がしっかりしていて揺るがないことですから、誘惑や困難にもたじろがないでそれらを跳ねのける強さを意味します。
 
今週は「種まきの譬え」を通して、「御言葉」という神の「種」が柔軟かつ堅忍不抜の精神に支えられた「心」の畑に蒔かれた時、そこに豊かな「実」を実らせるということを教えられたいと思います。
 
 
1.硬い心に蒔かれた種は、発芽自体が困難である 
 
ところで、「譬え話」とは、難しい真理を分かり易く説く、つまり真理をより「明らかにする」ための手法であると申しましたが、実は目的はもう一つあって、それは真理を「隠す」ためでもあったのでした。
 
イエスの周りには真面目な求道者もあれば、好奇心だけのやじ馬も集まっていました。ですから、「譬え話」は話を聞きに集まった人々が本物か偽物かを見分ける、つまり篩にかけるという性格も持っていたのでした。
 
「そこで言われた、『あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、『見ても見えず、聞いても悟られないために譬えで話すのである』」(ルカによる福音書8章10節 新約聖書口語訳98p)。
 
 この「種まき」の譬えは集まってきた大勢の群衆に向かって語られました。そして真意を理解できた者だけがイエスの許に残ったのです。
 
「さて、大ぜいの群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬えで話された、『種まきが種をまきに出て行った』(8章4、5節前半)。
 
 イエスの時代、ユダヤの農夫が行う種まきには二通りの方法がありました。
一つは種をまく人が畑を行ったり来たりしながら種を蒔き散らしていく方法、そしてもう一つは種を入れた袋の角に穴を開けて、それをロバの背中に乗せ、袋が空っぽになるまでロバに畑を歩かせるというもので、現代の日本人から見れば何とも大雑把で悠長なやり方でした。
 
 ですから、中には道端、つまり畦道に落ちる種もありました。しかし、畦道は人が通るところですから種は踏みつけられもしますし、おまけに道は固いときています。
ですから、そこに落ちた種は芽を出すことができません。その結果、鳥がきて、種を食べてしまいます。
 
「まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった」(8章5節)。
 
 その正確な意味を弟子たちにのみ、イエス自身が解説をします。
 
「この譬えはこういう意味である。種は神の言葉である。道ばたに落ちたのは、聞いた後、信じることも救われることもないようにと、悪魔によってその心から御言葉が奪い取られる人たちのことである」(8章11、12節)。
 
 イエスの解き明しから、「種」が「神の言葉」(11節)、そして種が落ちた「道ばた」が人の「心」(12節)であることが明らかになります。 
 
踏み固められた「道ばた」のような心、それは硬化した心を意味します。
「宗教なんて所詮」とか「キリスト教なんて」などの先入観や偏見で心が固まってしまっていて、福音を聞こうともしない心、聖書の言葉に耳を塞いでしまっている頑なで強情な考え方、生き方を意味します。
 
心があまりにも固いため、「神の言葉」という「種」は地中に入ることができません。
その結果、「道ばたに落ち」(5節)た種を「鳥」が飛んで来て食べてしまうように、神と人間の敵である「悪魔」により「その心から御言葉が奪い取られ」(12節)てしまうということになってしまうのです。
 
ですから、心が素直な年代のうちに福音を聞く機会を持つことが大切です。
 
歳を取るということは知恵を得る機会を増やすことにもなりますが、反面、考え方が保守的になってしまうため、新しい情報を受け付ける柔軟性が失われる嫌いがありますし、さらに、信じるということに対して騙されまいぞ、という警戒心を持つようになる場合もあるのです。
そう言う意味では、心が柔かい今が決断の時なのです。
 
「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル人への手紙3章15節 345p)。
 
 強情な心に対するペナルティは、ますます強情になっていくことであるとも云われます。
ですから、神の御言葉を聞く機会、そして信じ受け入れる機会を先に延ばしてはなりません。
 
 
2.浅い心に蒔かれた種は、結実までには至らない
 
道ばたに落ちて、鳥に食べられてしまった種の次に、せっかく芽を出しながら、実を結ぶまでに至らなかった種についてイエスは言及します。
それは土の薄い石地に落ちた種と、茨の間に落ちた種でした。
 
「ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった」(8章6、7節)
 
 この二つの共通点は、芽を出しはするのですが、成長する前に枯れてしまう、あるいはある程度までは成長しても、実を結ばずに終わってしまう、ということです。
 
 これらは一時的な信仰者を指す譬えです。確かに信仰の芽は出ることは出るのです。神の実在も信じ、聖書が神の言葉であることも信じ、イエスが主であることも信じはするのです。
しかし、信仰がある程度まで成長したところで挫折してしまいます。それはなぜでしょうか。
 
 一つは外側から来る試練に負けてしまうからです。
 
「岩の上に落ちたのは、御言葉を聞いた時には喜んで受けいれるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである」(8章13節)。
 
「岩」とありますが、これは石地のことです。表面は土で覆われているのですが、その数センチ下は岩地、石地になっているという土地のことです。
 
そこは「水気がないので」(6節)「根」(13節)を張ることができません。その結果、「枯れてしまった」(6節)、つまり、「根がないので」(13節)信仰が試される「試練」(13節)に耐える能力も根性もないため、せっかくの「信仰を」簡単に「捨て」(同)てしまうのです。
 
このタイプはキリスト教というものを、見かけだけで憧れたり、感情中心で浅く信じただけですので、問題が起こった時に、「こんな筈ではなかった」と言って信仰から離れてしまうのです。
 
 もう一つのタイプは、その人の内側から生じる生活の心遣いや富むという快楽により、信仰の成長を妨害されて実を結ぶに至らないという人たちです。
 
「いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである」(8章14節)。
 
 「生活の心づかい」(14節)という「いばら」は、日々の暮らしの中で、神の御心よりも自身の価値観を優先させること、神に好意を持たれることよりも、世間とうまく付き合うことの方が大事と考える生き方を意味します。
 
また「富や快楽」(同)とは「富むことという快楽」という意味で、富むことこそが人を幸福にする第一条件と考え、経済的な損得を判断の優先基準とすることです。
そういう人の場合、富の誘惑というものが「いばら」のように成長して、そのため、時間にせよ、エネルギーにせよ、金銭にせよ、とにかく自分のものを神に費消することは勿体ないことと考えるようになり、信仰は持ってはいても、死んだような有名無実の信仰になってしまうのです。
 
浅い心にまかれると、御言葉の「種」は、せっかく発芽はしても枯れてしまい、たとい生きていたとしても実を結ぶには至らないという結果に終わってしまうということを、イエスは警告したのでした。
 
教会を訪れながらいつの間にか教会から縁遠くなってしまうという人の場合、その理由には確かに止むを得ないというものもある反面、心の土壌が薄いままであるため、地中深くに根を張ることができなかったり、「いばら」の成長に邪魔されてしまって、実を結ぶに至らなかったという例も多くあるようです。
 
 
3.柔軟で堅忍不抜の心に蒔かれた種は、豊かな収穫をもたらす
 
では、多くの実を実らせる土地とはどのような土地なのでしょうか。また、どのような心が豊かな収穫に至らせるのでしょうか。
 
 この譬えでは、種をまいた人は同じ人です。種の蒔き方も一緒です。気象状況も一緒です。同じように雨が降り、同じように太陽が照りつけました。そして何よりも種そのものも同一品種です。また、ある土地にだけ、特別な肥料を施したというわけでもありません。
 
しかし、ある種は鳥に啄ばまれることもなく、枯れることもなく、伸び悩むということもなく、見事に成長して多くの実を結ぶに至ります。
 
「『ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ』。こう語られた後、声をあげて『聞く耳のある者は聞くがよい』と言われた」(8章8節)。
 
 どこが違うのかと言いますと、豊かな収穫をもたらした土地は「良い地」(8節)であったということでした。
 
「良い地」とはどういう土地のことかと言いますと、イエスの解説では御言葉を聞いた際に、御言葉を「正しい良い心でしっかりと守」った人であり、さらには困難な状況を「耐え忍んで実を結ぶに至」った人のことだそうなのです。
 
「良い地に落ちたのは、御言葉を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである」(8章15節)。
 
 これを一つの言葉で表現しようとすれば、もっとも当てはまる言葉が「堅忍不抜の精神」ということでしょう。
 
 実はルカは福音書を書くに際して、マルコによる福音書を底本としております。そしてマルコは良い地にまかれたものについて、ただ一言、それは「御言葉を聞いて受け入れ」たからであるとしています。
 
「また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言葉を聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」(マルコによる福音書4章20節 56p)。
 
 これが、つまりマルコの記録がイエスの言葉のオリジナルだったのでしょう。そしてルカの解説はおそらくは、ルカが福音書を執筆した当時の原始教会が施した解釈と適用であったのだと思われます。
 
多くの人が御言葉を聞くということに慣れてしまい、聞くということがあたかも「受け入れ」(マルコ4章20節)ていることと思い込む人が増えてきていたのかも知れません。
 
ですから、ルカは御言葉を「聞いて受け入れ」るということは、これを「正しい良い心」(15節)、つまり邪心のないまっすぐな素直な心で「しっかりと守る」(同)ことなのだということを強調しようとしたのだと思われます。
 
ルカは福音書を執筆した後、続編を書きました。使徒行伝です。ルカはその中で現在のギリシャ北部に位置していたマケドニアでのパウロらの伝道活動を記録するにあたって、ベレヤのユダヤ人の福音に対する姿勢について高い評価を下しています。
 
「そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送りだした。ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教えを受け入れ、果たしてそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった。また、ギリシャの貴婦人や男子で信じた者も、少なくなかった」(使徒行伝17章10~12節 211p)。
 
 ベレヤのユダヤ人の特徴はテサロニケのユダヤ人とは違って「素直であっ」(11節)た、ということでした。これは原文では「育ちが良い」ということなのですが、「捻くれていない、まっすぐだ、素直だ」ということでこう訳されたのでしょう。
 彼らは同じユダヤ人でありながら、先入観や偏見に捉われず、パウロたちが解き明かした「とおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べ」(11節)、その結果、「そのとおり」(同)と納得が行ったため、「多くの」ユダヤ人がキリスト「信者」になったのでした。
 
 そしてベレヤのユダヤ人たちの「素直」さは、会堂に出席していたギリシャ人たちにも感化を及ぼしたようです。当時、ギリシャやローマの宗教に満足できなかったギリシャ人、特に潔癖なギリシャ婦人たちはユダヤ教の清潔さに魅かれて、土曜日に行われていた会堂(シナゴグ)の集会に参加していたようです。
 
こういう人々は「神を敬う人」と呼ばれていました。彼女たちは会堂でパウロの説教を聴いたのでしょう。そしてユダヤ人たちと同じように聖書を研究した結果、キリスト「信者」になったのです。「ギリシャの貴婦人や男子」(12節)とありますが、この「男子」は恐らくは彼女たちの夫を意味したと思います。
 
 ところで一般的には年代の低い方が素直であるとされます。例外もありますが。
ですから伝道者は青少年の時代に神を信じることを勧めたのでした。
 
「青春の日々にこそ、お前の創造者に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならない前に」(コヘレトの言葉12章1節 新共同訳 註 口語訳では伝道の書)。
 
しかし、高齢になっても青年の心を持つことは可能です。以前ご紹介しましたサミュエル・ウルマンの「青春 Youth」という詩を思い起こします。
 
「青春」は我が国では岡田義夫の訳が有名なのですが、秋川雅史が歌って一躍有名になったあの「千の風になって」の作詞者である新井満によりますと、この詩にはオリジナルと改変されたものの二種類があり、そして岡田義夫の訳は改変された方を元にしたものだったそうなのです。
そこで今回は、新井満によるオリジナルの方の自由訳で、サミュエル・ウルマンの「青春」を味わいたいと思います。
 
真の青春とは若き肉体のなかにあるのではなく 若き精神のなかにこそある 
 
薔薇色の頬 真赤な唇 しなやかな身体 そういうものはたいした問題ではない
 
問題にすべきはつよい意思 ゆたかな想像力 もえあがる情熱 そういうものがあるかないか
 
こんこんと湧きでる泉のように あなたの精神は今日も新鮮だろうか いきいきしているだろうか
 
臆病な精神のなかに青春はない 大いなる愛のために発揮される勇気と冒険のなかにこそ 青春はある
 
臆病な二十歳がいる 既にして老人 勇気ある六十歳がいる 青春のまっただなか
 
年を重ねただけで人は老いない 夢を失ったとき はじめて老いる
歳月は皮膚にしわを刻むが 情熱を失ったとき精神はしわだらけになる
 
あなたの心のアンテナが今日も青空高くそびえ立ち いのちのメッセージを受信しつづけるかぎり たとい八十歳であったとしても あなたは常に青春
 
(サムエル・ウルマン原作 新井満自由訳「青春 Youth とは」38、7p 株式会社講談社)
 
 年齢に左右されるのではなく、いつも柔軟に「御言葉を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守」(15節)るよう、努めたいと思います。
 
そして「堅忍不抜の精神」です。この精神を聖霊によって培われ、困難にも試練にも「耐え忍んで実を結ぶに至る人」(同)たちの列に加わり続けたいと切に思います。