2013年9月15日 日曜礼拝説教
「ルカによる福音書の譬え話? いなくなった羊、なくした銀貨の譬え―見つけ出されたのは掛け替えのないものであった」
ルカによる福音書15章1~10節(新約聖書口語訳115p)
はじめに
ここ数年、夏に愛用していた帽子を紛失してしまいました。日曜日の夜には確かに有ったのです。でも、月曜の朝、出かけるためいつものように家の帽子掛けから帽子を取ろうとしましたら、そこにある筈の帽子がないのです。考えてみましたらそこに掛けたかどうかも判然としません。置き忘れたか、落としたかです。一応、心当たりのところをあたってみました。しかし、帽子を見つけることはできませんでした。
それはメッシュの黒い帽子で、畳んでバッグに入れても、取り出せば直ちに元のかたちに戻る上、洗濯しても形も色も変化をしないという、なかなかのすぐれものでした。
そこでやむなく、同じものを買おうとしてそれを購入した店の売り場に行きました。しかし、同じものはありません。何しろ、購入したのは三年も四年も前のことです。同じものがある方が不思議かも知れません。
もちろん、紛失したものが手許に戻ってくるのがベストです。しかし、帽子の場合、同じものでなくても、同じ形、同じ材質のものであればよいのです。別に思い出があるというわけでもありません。要は夏の日射しを避けるという帽子本来の機能を果たしてくれればよいのです。勿体ないと言えば勿体ないのですが。
しかし、世の中には、同じものは他にはない、代替えのきかない、まさに掛け替えのない、というものがあります。
そして、その掛け替えのないもの、とりわけ、神にとって掛け替えのない存在、それが私であり、あなたなのです。
先週から始まったルカによる福音書の譬え話の第二回目は、「いなくなった羊、なくした銀貨」の譬えを取り上げて、神の愛の大きさ、慈しみの深さをご一緒に読み解きたいと思います。
1.いなくなった羊、なくした銀貨は持ち主にとり、掛け替えのないものであった
先週も申し上げましたが、譬え話を正しく読むために大事なことは、その譬えがどのような状況で語られたものなのかを知ることです。
そこで、有名な「放蕩息子の譬え」を含めた三つの譬え話がどのような状況下でなされたのかについて見てみましょう。
専門家によりますとイエスの時代、ユダヤ社会にはパリサイ人たちからヘブライ語で「アムアーハーレツ」と呼ばれる人々がいたとのことです。
その意味は「地の民」であって、もともとは土着の民、つまりネイティブを意味したのですが(「アブラハムは立ちあがり、その地の民ヘテの人々に礼をして、彼らに言った」創世記22章7、8節)、いつの間にか差別の蔑称となっていたのでした。
「アム アーハーレツ(地の民)」と呼ばれていた人々は、様々の理由でトーラーつまり律法を守ることのできなかったため、その呼称を受け入れるしかない人々でしたが、しかし、彼らは人を分け隔てしないイエスを慕ってイエスのもとに集まり、またイエスも好んで彼らを受け入れ、しばしば食事を共にしておりました。
「さて、取税人(しゅぜいにん)や罪人(つみびと)たちがイエスの話しを聞こうとして近寄ってきた」(ルカによる福音書15章1節 新約聖書口語訳115p)。
ユダヤ社会で「取税人」(1節)は不正な人間の代名詞であるだけでなく、ヘロデ家やローマ帝国の徴税を請け負うところから、同国民からは売国奴として蔑まれていました。
また諸種の事情によって娼婦に身を落としていた女性たちは「罪人」(同)として軽んじられておりました。
これらの人々はユダヤ会堂からは締め出され、裁判では証人となる資格を剥奪されていたと言われています。
イスラエルは一種の宗教共同体です。そして彼らはその共同体の落伍者として認識されていました。
ですから、イエスのような律法教師ともあろう者があのような罪深い者たちと交わるのは如何なものかと、パリサイ人たちはイエスを批判したのです。
「するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、『この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている』と言った」(15章2節)。
そのような状況下で語り出されたのが「いなくなった羊」、「なくした銀貨」、そして「家出した次男坊」の譬え話でした。
「そこでイエスは彼らに、この譬えをお話しになった」(15章3節)。
どういう譬えかと言いますと、一つは百匹の羊のうちの一匹がいなくなったら、羊飼いはそのいなくなった一匹を見つけるまで、捜し歩くであろうという話で、もう一つは十枚セットの銀貨の一枚をなくした女性が、銀貨を見つけるまで家中隈なく捜そうとする筈だ、という譬え話でした。
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っていた者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか」(15章4節)。
「また、ある女が銀貨十枚を持っていて、ものその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか」(15章8節)。
羊飼いにとって「いなくなった一匹」(4節)は他のものでは代用できないもの、我が子にも等しいかけがえのない羊でした。
一方、なくなった「銀貨」の場合は、少し説明が必要です。「銀貨」(8節)と訳された言葉は「ドゥラクメー」、ギリシャ銀貨の「ドラクマ」のことです。なおドラクマという貨幣単位は統一通貨としてのユーロが導入されるまで、現代のギリシャにおいて使用されていたそうです。
イエス時代、ユダヤには三つの種類の貨幣が流通していました。シェケルなどのユダヤ貨幣、デナリなどのローマ貨幣、そしてドラクマに代表されるギリシャ貨幣でした。
「ドラクマ」の貨幣価値はローマ貨幣の「デナリ」とほぼ一緒で、「デナリ」銀貨はたとえばぶどう畑で働く労働者の一日分の賃金にあたりました。
ですから彼女は男の労働者が夜明けから日没まで働いて稼ぐ一日の給料分を紛失してしまったことになるわけです。
この譬えを聞いて、「失くしたものは仕様がない、少し倹約をして、工夫しながら銀貨の残り九枚で十日分を食いつないだら何とかなるのでは」と思う人もいるかも知れません。
しかし、当事者にとって「なくした」一枚は決してなくなってはならないものだったのです。
英国の新約学者のバークレーによりますと、一枚欠いたら不完全になるもの、それがこの銀貨であったということでした。
パレスチナでは、既婚女性のしるしは銀の鎖に一〇個の銀貨をつけた髪飾りだった。…(その)髪飾りは結婚指輪と同じ意味をもっていたからである。(それは)借金の返済のためにすら、(借金取りは)それを彼女から取り上げることはできなかった(ウイリアム・バークレー著 柳生 望訳「聖書註解シリーズ4 ルカ福音書」225p)。
もしもそうであるならば、彼女が家の中でなくした銀貨を必死で探すわけが理解できると思います。羊飼いにとって行方不明になった一匹の羊同様、彼女にとって、なくした銀貨はまさにかけがえのないものであったのでした。
ところで、「百匹の羊を持っている者」(4節)、そして「ある女」(8節)が誰のことをイエスが言っているのかと言いますと、それは勿論イエス・キリスト自身のことです。
では「いなくなった一匹」(4節)、「なくした」(8節)「一枚」(同)の銀貨は誰を意味するのかということですが、それは「パリサイ人や律法学者たち」(2節)が「地の民」として蔑み、宗教的、社会的落伍者として批判した「取税人や罪人たち」(1節)のことでした。
本来、居るべきところ、あるべき立場から落伍してしまった人々、それが「アム アーハーレツ(地の民)」と呼ばれた「取税人」や娼婦たち「罪人たち」でしたが、実は彼らを蔑んでいた「パリサイ人や律法学者たち」もまた、神の目からは行方不明となった一匹の「羊」であり、所在がわからなくなってしまった一枚の「銀貨」だったのです。
そして今日、日本人の多くは居るべき檻を離れて野山を彷徨う「羊」、床の片隅に落ちた「銀貨」のようなものなのですが、しかし、まことに有り難いことに、イエス・キリストはその日本人一人一人をかけがえのない者として「見つけるまでは」(4、8節)と「捜し歩」(4節)き、「注意深く捜」(8節)してくださっているのです。
2.かけがえのないものを見出すために、持ち主はいかなる犠性も厭わなかった
いつのまにか居なくなってしまった一匹の羊の捜索に関して、ルカ福音書による譬えでは「(羊飼いは)いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか」(4節)という短い反語文を見るのみですが、「見つけるまでは」という言葉の中には、いなくなった一匹を何としても見出す、見つけるまでは帰らない、如何なる犠性を払ってでも、いなくなったその羊を連れ戻さずにはおかない、という羊飼いの決意、覚悟が籠っています。
この譬えを主題にした聖歌がきょうの説教後に歌う予定の聖歌四二九番「九十九匹の羊」です。
他人は言います、「九十九匹は無事に檻(おり)に残っているのですから、一匹くらい、いいじゃないですか」
しかし、羊飼いは答えます、「いや、行方がわからなくなっている羊も私の大事な羊なのだ。だから、どんなに深い山道であろうとも、そこに分け入って見つけるつもりだ」
羊飼いはそう答えて、途方に暮れ、死に瀕している羊の泣き声を頼りに、深い流れを渡り、危険な暗い夜道を捜し続ける、しかし、その羊飼いの手や足は茨で傷ついて血を流しているが、それでも、捜索を止めない、という歌詞です。
この聖歌はエリザベス・クレフェーンというスコットランドのエディンバラ生まれの女性の作詞によるもので、その死後にスコットランドの雑誌に発表されたそうです。
そして彼女が亡くなった五年後の一八七四年、米国の大衆伝道者として知られるドワイト・ムーディーがこのエディンバラで伝道集会を行うため、音楽担当のアイラ・サンキーと共に汽車で向かうその車中で、たまたま信仰雑誌にあった「九十九匹の羊」の歌詞をサンデーが切り抜いてポケットに入れておいたというのです。
やがて伝道集会が始まり、集会でムーディーは「迷える羊」というタイトルで説教をし、説教後、説教に合った招きの讃美をアイラ・サンキーに依頼したところ、汽車の中で切り抜いていた詩を思い出したサンキーが、それをポケットから出して即興で歌ったのが聖歌四二九番の「九十九匹の羊」だった、というエピソードが伝えられています。
因みに、「ムーディーは福音を語り、サンキーは福音を歌う」と言われたそうですが、その晩、幾人もの人がイエス・キリストを主として信じる決心をしたとのことでした。
また、銀貨をなくした女の場合も、「彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか」(8節)と、ありますが、ユダヤの家は小さな窓があるだけですので、部屋は昼間でも暗く、失くした物を見つけるのには難儀をするのだそうです。
つまり八節は、すべての家事や仕事を一時中断してでも、なくした銀貨を発見しようとする熱意を示す言葉です。
一週間前の夜半、地球の裏側のアルゼンチンはブエノスアイレスにおいてフリーアナウンサーの滝川クリステルが二〇二〇年のオリンピックを東京に招致すべく行った、フランス語のプレゼンテーションを聞いておりました。
そのプレゼンテーションの中で日本文化の「おもてなし」の一例として、失くした現金が確実に戻ってくるという東京の安全性を語りました。
彼女はこう言いました。
もし皆さまが東京で何かを失くしたならば、ほぼ確実にそれは戻ってきます。たとえば現金でも。実際、昨年、現金で三千万ドル以上が落し物として東京の警察署に届けられました。
「三千万ドル」は日本円で三十億円です。それが拾った人によって警察に届けられたというのです。こんな都市は世界広しと雖も日本以外、皆無でしょう。
一方、古代のユダヤでは羊を狙う盗賊が各地に跳梁跋扈していました。檻を抜け出し、羊飼いの庇護と管轄の下を離れて彷徨い出た羊に待っている運命、それは崖から転落死するか、狼に食われるか、はたまた羊泥棒に捕獲されて売り飛ばされるかで、とにかく悲惨なものだったのです。
そういう背景を考えますと、改めて、羊の飼い主、銀貨の持ち主にとり、一匹の羊、一枚の銀貨がかけがえのないものであり、そしてそれを見出すためには如何なる犠性も厭わないという並々ならぬ情熱を感じさせる譬えなのですが、まさに真の羊飼いであるイエス・キリストは、道に迷った私たちのために、神の御子という尊い身分、立場、あり方を捨てて、人そのものとなってくださったのでした。
「キリスト様は神様なのに、神様としての権利を要求したり、それに執着したりはなさいませんでした。かえって、その偉大な力と栄光を捨てて、奴隷の姿をとり、人間と同じになられました。そればかりか、さらに自分を低くし、まさに犯罪人同様、十字架上で死なれたのです」(ピリピ人への手紙2章6~8節 リビングバイブル)。
この箇所はキリストの謙卑、謙遜を示したところとして有名で、事実、ここで著者が言いたいのは、教会という信仰共同体の中では、誰もが「謙遜であれ」という教えであって、著者はその謙虚さの模範としてのキリストについて言及をしているのですが、それらの字句に隠されているもの、それは、「何故に尊い神の子が人となり、死刑囚となったのか」という理由です。
それは一言で言えば人類の罪の身代わりとなるためであったという事実にありました。
イエス・キリストの犠性は、罪の結果としての滅びから、しかも永遠の滅びから私ひとり、あなたひとりを救出するためであったのでした。
そういう意味で、外の掲示板と入り口に掲げた「キリストの犠性はあなた一人の回復のためであった」という本日の説教題は、「羊」と「銀貨」という二つの譬えの中心ポイントでもありました。
3.かけがえのないものが見出された時、大いなる喜びが天と地に満ち満ちる
この二つの譬えは、いなくなった羊を捜しあてた羊飼いの歓喜、なくした銀貨を見つけた女の感激を描写することにより、かけがえのないものが見出された時の喜びを表現します。
「そして見つけたら、喜んでそれを肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう」(15章5、6節)。
「そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう」(15章9節)。
「喜」(6、9節)び、と言えば、一週間前の日曜日の早朝五時二〇分に尽きるかも知れません。ロゲIOC会長が二〇二〇年のオリンピック開催都市選考の結果を「トーキョー」と発表したとき、大袈裟に言えば列島中が歓喜に包まれました。
もっとも、個人的には「親日国家のトルコ・イスタンブールでも」と思っていた人もいたことと思います。しかし、直前に韓国政府が東北と北関東計八県の水産物輸入禁止措置を発表するという行動に出ましたが、これは明らかに国家による招致妨害です。
しかも群馬、栃木は海が無い上、水産物を韓国に輸出など、していないのですから妨害意図は明白です。
そして、この無礼極まりない措置を聞いて、「二〇二〇年のオリンピックは何としても東京に」という思いになった日本人も大勢いたと思うのです。私もその一人でした。彼の国は何と大人げない国であることか、と思います。
二〇二〇年のオリンピック東京招致の成功は、久しぶりの明るいニュースとなって日本列島を駆け巡りましたが、この感動の経験は、時代、内容、規模の違いはあっても、実は「いなくなった羊」(6節)を見出した羊飼いの歓喜、「なくした銀貨」(9節)を見つけた婦人の感激が如何ばかりであったかということを私たちに想像させる縁(よすが)となったと思います。
イエスは二つの譬えを締め括るにあたって、「パリサイ人や律法学者たち」(2節)に向かい、彼らが日常的に蔑んでいる「取税人や罪人たち」(1節)の悔い改めこそが、神の喜びたもうところであるということを強調します。
「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にあるであろう」(15章7節)。
「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使いたちの前でよろこびがあるであろう」(15章10節)。
この譬え話のキーワードは「悔い改め」(7節)ということです。「悔い改め」とは単なる反省を言うのではなく、人生の方向転換を意味する言葉です。
たとえば、行く先を間違えて目的地とは反対の方向に向かう電車に乗ったとします。その場合、人はどういう行動に出るでしょうか。「ああ、またやってしまった、私は何てバカなんだろう」と反省しつつ、間違った電車にそのまま乗り続ける人はいないと思います。間違いに気付いた時点で間違った電車から降りて、正しい方向に向かう電車に乗り換える筈です。
そして、そのような一連の行動が「悔い改め」なのです。
私たちもかつて、的外れの人生を生きていましたが、人生の方向転換、神を目指して進むという乗り換えを果たしたのでした。
そしてその時、実は「大きいよろこびが、天にあ」(7節)ったのです。「神の御使いの前で」大いなる「よろこびがあ」(10節)ったのです。
それは、二〇二〇年のオリンピック開催国が東京に決まったという最終結果を聞いた、招致委員会のメンバーや関係者全員の、踊り上がって喜んだ姿の映像が参考になることでしょう。
実は、かつての日、私たちがそれまで固く閉ざしてきた心の戸を開いて、戸を叩くイエスを救い主キリストとして受け入れたその瞬間、イエス・キリストを中心とした「大きいよろこびが」(7節)、「天」(同)において、「神の御使いの前で」(10節)爆発したのでした。
そこにはあのガブリエルがいて、そしてミカエルもいて、しばらくは千軍万馬の「御使い」の万歳の声が天にこだました筈でした。
とりわけ、宣教困難と言われる日本において、時間がかかったとは言え、この私が、そして皆様が「イエスは主なり」と告白をしたということは、難産であればあるだけ、天におけるその「よろこび」(7、10節)は大きかったことと思われます。
今、「イエスは主なり」という信仰告白を堅くしている方は、これからも、そして生涯かけてその告白を大事にしていただきたいと思います。
また、しばらく、教会の交わりから遠ざかっている方で、この説教をペーパーで、あるいはホームページから読んでおられる方々に申し上げたいと思います。
あなたがかつての日、心の戸を開いてイエスを心に迎え入れたその時、確かに天においては「大きいよろこび」(7節)があったのだということを認識していただければ幸いです。
大事なことは何か、それは神へと向かうこの方向から決して降りないこと、乗り続けること、そして間違いに気付いて方向転換を志すような人が一人でも出るようにと祈り励むことです。
イエス・キリストが案じている迷える羊は、この街に、そして私たちの周りに今も数多くいるのですから。
また、もしも何らかの事情で途中下車をしているのであれば、是非もう一度、神へと向かう電車に乗り込んでください。
なぜならば、あなたは今もイエス・キリストが愛してやまない「一匹」の「羊」であり、かけがえのない「一枚」の「銀貨」なのですから。