2013年9月8日 日曜礼拝説教
「ルカによる福音書の譬え話?金持ちとラザロの譬え―現世での生き方が来世の運命を決める」
ルカによる福音書16章14~31節(新約聖書口語訳117p)
はじめに
在世中のイエス・キリストはその説話において、しばしば「譬(たと)え話」というものを用いました。
「譬え」を英語で「パラブル」というのですが、「パラブル」はギリシャ語の「パラ」と「ボレー」からできていて、「パラ」は「横に」、「ボレー」は「投げる」を意味します。それで、そこから「パラボレー」とは「横に投げる」、つまり、「譬え話」という物語の横に、語り手が本当に伝えたいことが投げられている、それが譬え話です。
ですから、譬えの末梢部分に拘るのではなく、話の趣旨、中心を読み取ることが譬えの正しい読み方、解き方というわけなのです。
そしてイエスは一般のユダヤ人民衆に対し、「譬え話」という手法を用いることによって、深遠な神の国の真理を分かり易く語ろうとしたのでした。
そこでこの秋の日曜礼拝では、ルカによる福音書から「譬え話」を抜き出して、二十一世紀の今、日本という国を生きている私たちが知るべき真理と教訓を、ご一緒に把握し咀嚼をしたいと思います。
第一回目はよく知られている「金持ちとラザロ」の「譬え話」を取り上げて、「現世での生き方こそが、来世の運命を決める、だからこそ、現世での生き方が重要なのだ」というイエスの教えを学ぶことに致しましょう。
ところで、イエスが語られた「譬え話」を正確に理解する上で何よりも重要なことは、語り手の意図に沿って解釈を施すということです。
そのためには、物語がどのような状況で語られたのかを知ること、そしてそのためには物語のみに目を向けるのではなく、物語の「前後の文脈」(これをコンテキストと言うのですが)を知ることが大切です。
キリスト教の教職者を養成する神学校の必修科目の一つに「聖書解釈学」という教科があります。聖書は間違って解釈しますと、大変な禍をもたらしかねません。そこで聖書を正しく解釈する「聖書解釈学」は聖書を取り扱う牧師にとって必須教科なのです。
一世紀の中ごろに使徒として活動したパウロが書いたとされる手紙は、一世紀の末には地中海世界のキリスト教会に広く読まれるようになりました。
しかし、ある者たちはその手紙に勝手な解釈を施すことによって、教会の中に混乱を起こしていたようです。
「このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている」(ペテロの第二の手紙3章15節後半、16節 新約聖書口語訳375p)。
聖書解釈学の第一の原則は「読み込むな、読み取れ」です。つまり、著者や登場人物が言わんとすることを汲み取る、「読み取」るのが正しい読み方であって、自分の考えや思想、先入観などを「読み込」んではならない、ということです。
なお、勝手な読み込みを聖書に施して、素朴な人々を惑わしているのが「エホバの証人」とか「ものみの塔」とかを呼称するカルト団体です。このような人々が家庭訪問をして来ましたら、婉曲にしかしきっぱりと訪問を断ることが賢明です。
「読み込むな、読み取れ」は、私たちの日常会話においてもそうですし、文学作品などを鑑賞する際の原則でもあります。そして、「読み取」るために必要なことが前後の文脈(コンテキスト)を注意深く調べることなのです。
たとえば、野口雨情が一九二二年(大正11年)に発表した童謡「シャボン玉」です。
シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで こわれて消えた
これだけを聞けば、「風が吹いてシャボン玉が飛んだ、飛んだのはシャボン玉だけでなく、屋根までもが飛んでいってしまった、飛んでった屋根は壊れてどっかに消えてしまった」と解釈することも可能です(実際、そう解釈していた人もいるそうです)。
でも、「シャボン玉が家の屋根の高さにまで飛んだ」と解釈するのは、作詞者が屋根までもが飛ばされるような竜巻のことを童謡にするわけがない、主題はシャボン玉だ、という常識で歌詞を理解していると共に、次節の歌詞から、「こわれて消えた」のは屋根ではなく、健気にも屋根の高さにまで飛んだシャボン玉のことであることがわかっているからです。
シャボン玉消えた 飛ばずに消えた
産まれてすぐに こわれて消えた
「シャボン玉」の前年に三木露風が発表した「赤とんぼ」につきましても、同じことが言えます。
夕焼け小焼けの赤とんぼ
負われて見たのはいつの日か
歌詞の中の「負われて見た」、つまり背「負われて見た」を、「追われて見た」つまり追い掛けられながら見た、と思い込んでしまっている人は結構いるようです。
以前、軽井沢で行われた神学校の教師研修会の帰途、関西から参加した教師たちと昼食のために滋賀県のとある蕎麦屋さんの二階にあがり、「美味かった」と言い合って帰る際、その二階の出口の横の衝立にあったのが「赤とんぼ」の歌詞で、そこにはしっかりと、「追われて見たのはいつの日か」と書かれていたものでした。
これだって、次の歌詞を見れば、語り手が小さかったころに、おんぶをされて赤とんぼを見たことがわかる筈なのです。
姐(ねえ)やは十五で嫁に行き
お里の便りも絶え果てた
夕焼け小焼けの赤とんぼ
止まっているよ 竿の先
「姐や」とは当時、家の事情で子守りとして働いていた十代前半の少女たちのことです。つまり作者は「竿の先」に「止まっている」赤とんぼを「姐(ねえ)や」の背中に「負われて見た」という小さいころの思い出を言っているということがわかります。
1.富の蓄積が、良き来世を保証するものではない
そこで本論です。最初に取り上げる「金持ちとラザロ」の譬えは、頑迷固陋なパリサイ人をイエスが諭す目的で語られました。それがわかるヒントは、譬えが語られる前のパリサイ人とイエスとの問答にあります。
「欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った」(ルカによる福音書16章14節 117p)。
パリサイ人が反応したのは「人は神と富とに兼ね仕えることはできない」というイエスの弟子たちへの教えに対してでした。
「どの僕(しもべ)でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(16章13節)。
「パリサイ人」とは「モーセ五書」という成文律法と、その具体的な適用例である「先祖からの言い伝え」という口伝律法を、共に神の律法、トーラーとして崇め、その条文をことごとく遵守することを誓った人々のことでした。
しかし、パリサイ人たちの中のある者たちは、「律法を遵守すれば、神がその人を富ませる、だから、富んでいるということは神に受け入れられかつ喜ばれているしるしだ」と考える者たちもいたようです。
彼らが十三節の「これらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った」(14節)理由はそこにありました。このような背景があってイエスは「金持ちとラザロ」の譬えを語り始めたのです。
「ある金持ちがいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持ちの玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた」(16章19~21節)。
やがて、このラザロが死に、そして金持ちも死にます。しかし、死は終わりではありませんでした。死後、ラザロは救済され、金持ちは死者の世界の「黄泉」で目覚めます。
「この貧しい人がついに死に、御使いたちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持ちも死んで葬られた。そして黄泉(よみ)にいて苦しみながら目をあげると、アブラハムのふところにいるラザロとが、はるかに見えた」(16章22、23節)。
「イエスをあざ笑った」(14節)パリサイ人たちの理解では、金持ちが富んでいたのは神が彼を祝福していたから、だったからであって、当然、金持ちは死後、「アブラハムのふところ」(22、23節)で憩う筈でした。
しかし、イエスの譬えでは、神の祝福から除外されていた筈の貧しいラザロが「アブラハムのふところ」(同)にいて、金持ちは死者の国である「黄泉」(23節)で苦しんでいます。
ところで、「譬え話」の解釈においては、細部には拘らずに大筋を掴むこと、その上で話の中心ポイントが何かを探るということが大事なのです。この「譬え話」では「ラザロ」はあくまでも脇役であって、重要なのは「金持ち」の方です。
イエスがパリサイ人たちに言いたかったこと、それは富の豊かさ、財の蓄積が必ずしも、良き未来、幸いな来世を保証するものではないのだ、ということでした。
昨年の七月、日本人と韓国人研究者の共著による、韓国という国と韓国のキリスト教を分析した優れた研究書が出版されました。「韓国とキリスト教」という著作です。
同書は第一章で、韓国最大の教会として知られる、首都ソウルの中心地ヨイドにある純福音教会の「成長」の理由を、「霊的に恵まれ、物質的に恵まれ、病苦から解放される」という「現世の祝福の過度の強調」に帰着するとする、上智大学教授の見解を紹介し(同書27p)、第五章では、同教会の創立牧師の年収が八千万円にのぼるという、二〇〇七年に超大型教会を番組で取り上げたテレビ局の調査結果を報告しています。
イエスの対話の相手のパリサイ人がこれを知ったならば、「どうだ!」と胸を張ったかも知れません。
しかし、同書にはその牧師さんと対極にあるような著名な教職者の例が紹介されています。韓国有数の大教会として知られる永楽教会を生み出した韓 景職(ハン・ギョンジク 1902―2000)牧師です。
韓は韓国有数の大型教会の担任牧師としてだけでなく、その社会奉仕の業績が教会を超えて尊敬の念を集めている。著者はいずれも永楽教会とは無関係であるが、韓の生き方には尊敬の念を禁じ得ない。
(中略)韓の業績は海外でも評価され、一九九二年には宗教界のノーベル賞と言われるテンプルトン賞を受賞した。(中略)韓牧師は賞金一〇二万ドルを受け取ると、すぐに北朝鮮宣教のために全額を献金した。彼が「一分間、百万長者になった」と言って笑ったという有名な逸話がある(浅見雅一・安 延苑著「韓国とキリスト教 いかにして“国家的宗教”になりえたか」168、9p 中央新書)。
韓は清貧な生涯を送った。自身の名義で所有した不動産もなく、預金通帳ひとつなかった。貧しい人々にすべてを分け与えたのである。七〇歳になったのを契機に自ら設立した永楽教会から退いた。その際に永楽教会から家を与えられたが、自分には大きくて贅沢すぎると辞退している。余生は韓国教会と海外布教のために働き、二〇〇〇年四月にソウルの小さな住まいで、九八歳で亡くなった。彼の遺したものは、数着の衣類の他は、四〇年余り使用した一人用のベッドとメガネ、そして愛用の聖書だけだったという(同書 169p)。
韓国は専ら、人殺しのテロリストを英雄として崇めるような国ですが、韓 景職牧師のような人こそ、真の英雄、国民の模範として称えてはどうかと思います、余計なことかも知れませんが。
もっとも、日本人と異なり、「内貧外華」、つまり「内面がどんなに貧相であろうと、外側がきらびやかであるなら、それでよい」というあり方をモットーとする彼の国では、私たちが感銘を受ける韓景職牧師のような生き方は愚かにしか見えないのかも知れませんが。
「ラザロと金持ち」の譬えを通してイエスが教える教訓の第一は、富の蓄積が良き来世を保証するものではない、ということでした。
2.現世での生き方こそが、来世の運命を決める
イエスの譬えはまだ続きます。この「譬え話」を通してイエスが二番目に言いたかったこと、それは現世での生き方が来世の運命を決める、ということであったようです。譬えを読み進んでみましょう。
「そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。アブラハムは言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた』」(16章24、25節前半)。
以前、「セカンドチャンス」と言いまして、キリスト教神学において、人が死んだ後に悔い改めて救済されるチャンス、つまり「セカンドチャンス」があるかどうか、という問題をめぐる神学論争がありました。そして、その論議において、この「金持ちとラザロ」の「譬え話」の中に「その根拠がある」「いや無い」という議論があったということをあるセミナーで聞いたことがあります。
しかし、両者共にナンセンスです。なぜかと言いますと、聖書解釈学では「譬え話」、そしてヨハネの黙示録やエゼキエル書、ダニエル書などの「黙示文学」を教理の材料とすることはできないという原則があるからです。
それは、見方や取り方によっては全く正反対の、あるいは奇妙奇天烈な解釈ができてしまうからなのです。
そしてもう一つおまけに、専門家によりますと「ラザロと金持ち」の「譬え話」はイエスのオリジナルではなく、当時、民間に流布していた伝説「貧しい律法学者と金持ちの取税人」という話をイエスが改変して用いたものだったそうなのです。
ですから、ラザロが死後に連れて行かれた「アブラハムのふところ」(22、23節)なるものは、イエスがそのように信じ、教えていたものではなく当時のユダヤ教の一つの考え方だった、ということになります。
紀元前五八六年のソロモンの神殿崩壊以前の古代ヘブル人にとって、「黄泉」は死者の誰もが行く場所、義人も悪人も一様に行く所と考えられていました。
しかし、紀元前五一五年の第二神殿再建後に形成された初期ユダヤ教の、特に紀元前後の時代になりますと、「黄泉」は地獄とほぼ同義語とされて、そこは異教徒などの罪人が行くところ、そして律法を遵守したまじめなユダヤ人は「パラダイス」(23章43節)に行くとされました。
ユダヤの指揮官でありながら第一次ユダヤ戦争においてローマ軍に降伏して生き残った後、文筆家、歴史家として名を馳せたヨセフスはその著書で、パリサイ人の死後観について言及しています。
そして彼らは、〔霊〕魂(プシュケー)は不死の力を持っていること、さらに、生前に有徳の生活を送ったか否かによって、地下において、よき応報なり刑罰なりがあるものと信じている。
すなわち、悪しき魂の行きつくところは永遠の牢獄であり、善き魂のたどるところは新しき生への坦坦たる大道なのである(フラウィウス・ヨセフス著 秦剛平訳「ユダヤ古代誌 新約時代篇 イエスの時代」14p 山本書店)
問題は何が「悪しき魂」で何が「善き魂」かということです。なおここではラザロがなぜ「アブラハムのふところ」に連れていかれたのかということについて触れる必要はありません。
また、アブラハムの「あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている」(25節)という言葉は、そうなった理由や原因を述べたものではなく、両者の過去の状態、そして現在の状態を述べたものなのです。
では、明暗を分けたもの、とりわけ「金持ち」が「黄泉」に落とされた理由が何かということについて、英国の新約学者、ウイリアム・バークレーは大胆にも「(金持ちを)牢獄に入れたものは彼のしたことではない。彼を地獄に落としたものは、彼のしなかったことであった」と断じています。
彼はラザロに、玄関から立ち退くように命じなかった。ラザロが食卓から投げられたパンをとっても彼はそれを阻止しなかったし、通るときに足蹴にしたりもしなかった。彼は、自分からはラザロに酷なことをなにもしていなかった。
(金持ちの)罪は、ラザロに何の注意も払わなかったということだ。彼はなんとなく、ただ景色の一部としてラザロを見ていただけだった。贅沢三昧に日を送る彼のかたわらに、ラザロが苦痛と飢えにさいなまれていても、彼はそれをごく当たり前のこととしか考えなかった。
(中略)(金持ちの)罪は、この世の苦しみと困窮に対して想像力を欠いたことにある。…彼の刑罰は、いわば無視した者への刑罰だったといえよう。
(中略)(金持ちの)罪は悪いことをしたことではなく、何もしなかったことである」(ウイリアム・バークレー著 柳生 望訳「聖書註解シリーズ4 ルカ福音書」238p ヨルダン社)。
確かにパウロはギリシャ・コリントの集会に対し、最後の審判における裁定基準は、人の生前の行為であると言っています。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(コリント人への第二の手紙5章10節)。
但し、口語訳には「自分の行ったことに応じて」の前にある「体によって」がなぜか抜け落ちているのですが。
(なお、「最後の審判」については七月七日の礼拝説教「十字架の物語?イエス・キリストは罪びとを最後の審判から救うために到来した救世主であった」に述べています)
そして「しなかったこと」もまた、「体によって自分の行ったこと」なのです。
イエスはこの譬えにおいて、来世での運命を決めるもの、それが現世での生き方、地上での過ごし方なのだ、ということをパリサイ人たちに言わんとしたかったのかも知れません。
3.幸いな来世への道標は、神からの言葉に隠されている
苦しい「黄泉」に落ちて目が覚めた「金持ち」は地上で自分と同じような生き方をしている五人の兄弟たちのことが気にかかり始めます。そこでアブラハムに向かい、ラザロを遣わして兄弟たちに警告をしていただきたいと嘆願します。
「そこで金持ちが言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告をしていただきたいのです』」(16章27、28節)
自分が無視していたラザロを使いに出して欲しいというわけですから、何とも虫のよい話ですが、金持ちは必死です。
しかし、これに対してアブラハムはにべもなく答えます、「彼らには聖書がある」と。
「アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』」(23章29節)。
ここで言う「モーセ」(29節)とはヘブル語聖書におけるモーセ五書のことで、「預言者」(同)とはヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、小預言書の八書を指しました。
なお、残りの文書は「諸書」に分類され、その「諸書」の筆頭文書が詩篇でしたので、「モーセと預言者と詩篇」と呼ばれる場合もありましたが、ユダヤ人が「モーセと預言者」(29節)と言った場合は、それで聖書の全部を意味したのでした。
つまり、「ラザロを遣わすまでもない、彼らには聖書がある、聖書に聞け」というわけです。
しかし、金持ちは食い下がります。「確かに我が兄弟たちは聖書を尊重していません、しかし、死んだラザロが彼らの所に行ってくれたら、彼らはきっと悔い改めると思います」と。
「金持ちが言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』」(16章23節)。
金持ちの嘆願に対するアブラハムの言葉は、「今の段階で聖書に耳を傾けようとしていない者は、だれかが死の世界からよみがえってきたとしても聞きはしない」というものでした。
「アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」(23章31節)。
ところで、「譬え話」の場合、語り手が最も言いたいことは結びの言葉に凝縮されていると言われています。
そうであるならば、イエスが「アブラハム」に言わせたこの言葉は特に重要です。
この言葉は、「モーセと預言者とに耳を傾けない」(31節)者、すなわち聖書の言葉の実践家であることを自負するパリサイ人たちのような人々に向かって語られたということになるわけです。
確かに彼らはヘブル語聖書を良く知ってはいます。しかし、ヘブル語聖書の究極のメッセージは、神から送られてくるメシヤ・キリストを素直な心で受け入れることに尽きました。
そして聖書とはキリスト証言という性格と目的を持った文書なのです。
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネによる福音書5章39節 144p)。
「死人の中からよみがえってくる者」(31節)の言葉に耳を傾ける者があるとしたら、その人は既に「モーセと預言者」(同)つまり聖書の言葉に素直な気持ちで耳を傾けている人なのです。
そしてそのような人は、どんなに多忙でも、神の言葉に耳を傾ける機会を選択肢の第一に持つのだと、イエスは結論付けています。
もちろん、体調、仕事、家庭環境、居住地などの止むを得ぬ事情で礼拝出席が出来ないという方々もおられます。
でも、聖書は今、膨大で高価な巻き物としてではなく、廉価でコンパクトなかたちで入手することが可能です。また、教会のホームページなどを通して神の言葉を読む機会もあります。
どうぞ、キリスト証言としての聖書が語りかける言葉に「耳を傾け」(31節)る日々の実現を心掛けてください。
そして幸いな来世を確信しながら、幸いな現世を生き抜いていただきたいと思います。