2013年8月25日 日曜礼拝説教
「詩篇を読む?神の言葉は枯れた魂を生き返らせる」
詩篇19篇7~11節(旧約聖書口語訳763p)
はじめに
私も長く生きていますが、この夏ほど猛暑、炎暑、酷暑という言葉を実感した夏はありません。そういう中で、八月の最終日曜日を迎えました。
この夏は特に祈りを深め、信仰を養うため、「詩篇を読む」と題して詩篇一二一篇、三十四篇、二十三篇を読んできましたが、今週は最後の詩篇です。
そこで、今週は聖書が神からの唯一無二の啓示であること、聖書の一番の効用は私たちの魂の蘇生にあること、そして聖書は読む人により、また読み方により、甘美にして何物にも替え難い魅力を持つものとなるという三つのことを確認したいと思います。
今朝、取り上げる詩篇は第十九篇です。題して「神の言葉は枯れた骨を生き返らせる」です。
1.唯一無二の教え、それは神の言葉、聖書
詩篇の十九篇は二つの詩篇から成っています。一節から六節までは大自然、つまり神が創造した被造物である、この広大な天体の規則的な運行、とりわけ太陽がもたらす恩恵について流麗な表現で詩的かつ文学的に語ります。
「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。…それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない」(詩篇十九篇1、6節 旧約聖書口語訳762p)。
キリスト教神学ではこれなどを「自然啓示」あるいは「一般啓示」などと言います。しかし、天体が「神の栄光をあらわ」(1節)す、とはいっても、それは間接的なものであって、痒いところを靴の上から掻くようないわゆる隔靴掻痒的な啓示です。
もしも「自然啓示」が神を示す決め手であるならば、世界の民族の中でも自然に対する畏敬感情が特に強い日本人は、とっくの昔にユダヤ教やキリスト教のような唯一神信仰を持っていることでしょう。
しかし、「自然啓示」には限界があるため、日本人は個々の自然を崇めて、これを礼拝の対象とするにとどまってしまいました。
この「自然啓示」という間接啓示に対し、神自身が直接、選民イスラエルにご自身を啓示したもの、それが「トーラー(律法)」と言いまして、モーセの「十戒」であり、その「十戒」を基礎にしてまとめられた成文律法、そして成文律法をより細密に解釈した、口伝律法と言われるものでした。
成文律法が「モーセ五書」であり、口伝律法が「先祖からの言い伝え」です。
「自然啓示」に対してトーラー(律法)は神の民に対して、神が特別に啓示をしたものですのでこれを「特別啓示」と呼びます。
また「自然啓示」は神を間接的に示す「間接啓示」であるのに対し、トーラーという「特別啓示」は神を直接に示したものですので、これを「直接啓示」と言うわけです。
そしてこの神からの特別な啓示、直接の啓示である「トーラー」「おきて」「律法」の唯一無二性、卓越性を謳ったものが十九篇の後半、七節以降なのです。
「主のおきては完全であって」(19篇7節前半)
「主のあかしは確かであって」(19篇7節後半)
「主のさとしは正しくて」(19篇8節前半)
「主の戒めはまじりなくて」(19篇8節後半)
「主を恐れる道は清らかで」(19篇9節前半)
「主のさばきは真実で」(19篇9節後半)
なお、一節から六節までに「神」と訳されている言葉の原語は通常、神を表わす「エル」あるいは「エール」ですが、七節以降の「主」と訳されている言語は「ヤーウェ」です。
「ヤーウェ」は神が選民として選んだイスラエルにご自分を紹介する際に示した神の名前です。つまり、「神」が普通名詞であるならば「ヤーウェ」は固有名詞というわけです。
「主のおきて」(8節前半)の「おきて」の原語はトーラーで、律法のことです。
そして七節後半以降の「主のあかし」(7節後半)、「主のさとし」(8節前半)、「主の戒め」(8節後半)、「主を恐れる道」(9節前半)、「主のさばき」(9節後半)は、このトーラー、つまり「おきて」の多様な役割や側面を表現したものであって、トーラー(おきて)の性格を端的に表現したものが「主のおきては完全であって」(7節前半)の句です。
「完全」とは完璧、パーフェクトということで、完全無欠、傷が一切ない、誤りがない、という意味です。
「完全であ」(7節前半)るからこそ、「主のおきて」(同)は揺るぎなく「確かであって」(7節後半)、更に「正しくて」(8節前半)まっすぐであり、「まじりなく」(8節後半)純粋で、「清らかで」(9節前半)あり、嘘偽りがなく「真実であ」(9節後半)るという特徴を持つのです。
つまり、ここで強調されていることは「信頼性」です。
新政権の登場以来、憲法論議が活発になってきましたが、見逃すことができない論議が、「憲法は政府を縛るものである」、つまり憲法は暴政から国民を守るものだという、一方に偏った主張がいつの間にか大手を振って闊歩するようになってきたことです。
確かに憲法は為政者を縛るものであることは事実です。しかし、憲法は同時に国民を縛るものでもあるのです。だからこそ、現行憲法でも国民の三大義務として、労働、教育、納税の三つを国民の義務としているのです。憲法は政権側を規制する一方、他方で国民を縛るものでもあるのです。
つまり憲法とは、一つの国において政治を司る為政者と、国を構成する国民とが、共に遵守し尊重すべきものとして定められたものなのです。そしてこの憲法に該当するもの、それが「十戒」でした。
そして、国家と国民の関係を規定するものが憲法であるように、国家と国家の関係を規定するものが条約であるということは誰もが知っています。
ところがこの、国と国との間に結ばれた条約を無視する国が、日本の現地民間企業を悩ませています。
つい先ごろ、韓国のソウル高裁と釜山高裁で、戦時中に日本で徴用されたとされる韓国人労働者たちとその遺族が日本企業(新日鉄住金、三菱重工業)に賠償を求めた訴訟の判決がありました。そして、予想されていたこととはいえ、両高裁は日本企業に対して、賠償金の支払いを命じる判決を出したのでした。
韓国の裁判所は戦時徴用を強制と決めつけていますが、当時は半島出身者も日本人として日本の法律の下にいました。そして徴用は日本人すべてを対象としていたのです。ですから訴訟を起こした韓国人労働者の当時置かれていた法的立場を無視しての判決は不当である可能性が高いのです。
また、百歩譲って、その「戦時徴用」において十分な報酬が支払われなかったということがあったとしても、戦時下における個人補償を含めた日韓における戦後処理は一九六五年に締結された「日韓基本条約(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)」という二国間の条約において、日本だけでなく韓国も「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認」(日韓請求権協定第二条)しているのです。
この条約において日本側が韓国側に支払いを約束した金額は一ドル三百六十円換算で無償三億ドル、有償二億ドル、合計五億ドルの供与と、三億ドル以上の民間借款で、最終的に十一億ドルという巨額なものでした。
皆さまは当時の韓国の年間の国家予算がどのくらいかご存知でしょうか。日韓基本条約が締結された一九六五年当時の韓国の年間国家予算は僅かの三億五千万ドルしかありませんでした。
ですから、無償、有償、借款合わせての日本からの経済援助金はその三倍にものぼる巨額なものだったのです。
そしてこの中には実は個人補償金も含まれておりました。条約交渉の中で韓国政府は一括での受け取りを主張し、個人補償は政府の責任で行うということで条約は締結されました。
しかし、韓国政府は日本からの供与の中に個人補償分が含まれていることを国民に秘密にしたまま、当然、その金は個人補償には回さず、すべてを経済復興に注ぎ込んでしまったのでした。そしてその結果が「漢江(はんがん)の奇跡」と呼ばれる韓国の経済成長でした。
そして、この事実、特に個人への補償金を韓国政府が一括して受け取っていたという事実を、政府が国民に対して公表したのは条約が締結されて四十年も経ってからだったのです。
ですから多くの韓国民は自分たちが自力で経済復興を成し遂げたのだと思い込んでいたのでした。しかし、日本の金がなければ経済成長などは絵に描いた餅だったのです。
この事実から、もしも個人補償を求めるのであるならば、それはそのまま韓国政府に求めればよいのであって、日本側に請求するのはお門違いなのです。
ところがこの事実をソウル高裁も釜山高裁も知っていながら、国民感情に阿って国と国との間で締結された国際条約を無視し、不当な判決を下したのでした。
今回の判決は、韓国という国が法治国家などではなく、事情や情緒を優先する「情治国家」(黒田勝弘著「韓国反日感情の正体」38p 角川学芸出版)でしかないこと、国際条約よりも国内法を優先させるような無知、無法な国であるということを端無くも露呈させることとなりました。まさに国際的な笑い物、それが今回の判決です。
つまり、私たちが相手にしている国は、汚ない言葉を使うと、「条約なんかは糞喰らえ」という民度の国なのだということを心得ておく必要があるのです。
この国を見ていると、ついつい箴言の警句を思い起こしてしまいます。
「蛭(ひる)にふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ』と言う」(箴言30章15節前半 新改訳)。
詩篇に戻りますが、「トーラー」つまり「主のおきて」(7節)が「完全」(同)無欠なのは、その信頼性にあります。「トーラー」とは神と神の民との相互信頼に基づく契約をその特徴とします。
「それゆえ、きょうわたしがあなたがたに命じる命令と、定めと、おきてとを守って、これを行わなければならない。あなたがたがこれらのおきてを聞いて守り行うならば、あなたの神、主はあなたたちの先祖に誓われた契約を守り、いつくしみを施されるであろう」(申命記7章11、12節 257p)。
十九篇七節からの作者は、申命記において確認されたこの「おきて」こそ、他に二つとない唯一無二の完全無欠な「おきて」であるということを強調したのです。
そして「主のおきて」(7節)は今日、どのようなかたちになっているかと言いますと、それは旧約聖書三十九巻と新約聖書二十七巻という「完全」(同)なかたちで整備され、「完全」な内容で保存、伝承されているのです。
2.神の言葉、聖書の効用、それは枯れた魂の蘇生
では、この「主のおきて」(7節)すなわち神の言葉、聖書の効用はどのようなものなのでしょうか。作者は断言します、これを守り、尊ぶ者には神からの報酬がある、と。
「あなたのしもべは、これらによって戒めを受ける。これらを守れば、大いなる報いがある」(19篇11節)。
その「報い」(11節)とは具体的には人の魂、とりわけ、日々の営みの中で時には疲れ、ともすれば枯れて行くような魂を生き返らせる、蘇生させるという効用として現われる、と作者は言い切ります。
「主のおきては完全であって、魂を生き返らせ」(7節前半)
ここで「魂」と訳された原語「ネフェシュ」が、先週、比喩について説明した際の「代喩」としての「魂」であるならば、「魂」という言葉でその人の全体を指すと考えてよいわけですし、一方、文字通りの人間の側面としての「魂」であるならば、心理学で言う心、そして心の奥の深層心理とすることもできます。
どちらにせよ、人の大切な命ともいうべきもの、それが「魂」です。
そして、「主のおきて」の効用は、死んでいたような、あるいは疲れ、枯れた人の「魂を生き返らせ」(7節)る、蘇生させるところにある、というわけです。
それはまた、「無学な者を賢く」(7節後半)し、悲哀の中にある者の「心を喜ばせ」(8節前半)、鈍くなっていた「眼を明らかにする」(8節後半)すなわち、眼に光と輝きとを回復させます。
また、「主のおきて」は「とこしえに絶えることなく」(9節前半)、つまり、途中で崩壊したり、行き詰まったりすることなく、しかも「ことごとく正しい」(9節後半)ので、安心なのです。
米国という国は、良くも悪くもキリスト教国で、光と闇とが同居している国であると言えると思います。
米国における闇の部分というのは人種差別、特に黒人差別であって、黒人差別による冤罪事件が一九六〇年代に起きたルービン・カーター事件でした。
ルービン・カーターは「ハリケーン」とあだ名された有名なボクサーでしたが、二十九歳の時、バーで三人の白人を殺害した、という容疑で逮捕され、ニュージャージー州の最高裁判所で終身刑を宣告されます。
でもカーターは、実際は事件とは無関係で、カーターを憎む白人警察官が偽証人を立て、証拠を捏造してカーターを有罪に追い込んだのです。
カーターは獄中で「第十六ラウンド」という本を書いて冤罪を訴えたため、モハメド・アリやボブ・ディランなどの著名人がカーターの再審に動くのですが、再審でもカーターは有罪となったため、いつしか人々の熱も冷めていき、カーター自身も気力を失い、人間不信になって、まさに魂が枯れたような状態に陥ってしまいます。
そんな時、カナダに住む十五歳のレズラ・マーティンという少年―彼は劣悪な養育環境から読み書きもままならない少年で、カナダで三人の保護者によって育てられていたのです―が、カーターが獄中で書いた「十六ラウンド」という本を古本市場で僅かの二十五セントで購入をし、保護者たちに助けられながら苦労して読了した後、里親たちと協力してカーターの無実を晴らそうとして、カーターが収監されている刑務所を訪問します。
しかし、すっかり希望を失くしていたカーターは取り合おうとしません。そこでレズラ少年はカーターに、諦めなければ道は拓けるということを分かってもらおうとして、自分もこれから学業に励む、そしてトロント大学を受験し合格する、と宣言をするのです。
十五歳になるまで読み書きすらろくに出来なかった少年にとって、超難関のトロント大学の合格などはまさに夢のまた夢でしかありませんでした。
しかし、奇跡は起こりました。猛勉強の甲斐あってその三年後、レズラ・マーティンはトロント大学の入試に合格し、合格証書を獄中のカーターに送ります。
そしてレズラの合格証書を獄中で手に取ったカーターは、「俺の十六ランドの終了ゴングはまだ鳴っていない」と、冤罪を晴らすべく、意欲を燃やし、そして紆余曲折を経て、事件から二十二年後、レズラやレズラの里親たちの力を受けて州の裁判所にではなく、連邦裁判所に再審を請求し、そして米国連邦裁判所は州の判決を覆して、ルービン・カーターに無罪を宣告するのです。
この事件とその経過は一九九九年、名優デンゼル・ワシントン主演で「ザ・ハリケーン」という映画になり、日本では翌二千年に公開されました。
私も梅田の映画館でこの映画を鑑賞致しました。その際に購入したパンフレットを改めて見ますと、映画ではレズラはカーターに高校の卒業証書を送ったことになっていますが、実際はトロント大学の合格証書だったそうです。
なおこの話は二月に、「奇跡体験!アンビリバボー」という日本テレビ系列のテレビ番組でも紹介されましたので、観た方もおられるのではないかと思います。
レズラ・マーティンはその後弁護士となって、現在、カナダにおいて冤罪問題にも積極的に取り組んでいるそうですが、レズラ・マーティンもカーターと出会うことがなければ、そこまでの問題意識を持つこともないまま、無為の人生を送ったかも知れませんし、何よりも枯れた魂を抱えて獄中に沈んでいたカーター自身、レズラの熱意に刺激されたからこそ、おのれの問題と向き合う意欲を再燃させることができたわけです。
この話には聖書は出てきません。しかし、その背景や経過を深く知れば知るほど、暗闇を照らし、穴倉に沈んでいる人の「魂を生き返らせ」(7節前半)、「無学な者を賢くし」(7節後半)、更にその「心を喜ばせ」(8節前半)、「眼を明らかにする」(8節後半)キリスト教の精神、「主のおきて」(7節前半)への信頼というものが米国やカナダというキリスト教国に浸透をしているのだということを改めて感じさせられるのです。
神の言葉、聖書は飾りではありません。今もなお、打ちひしがれている者に勇気を与え、枯れた「魂を生き返らせ」(7節)る効用があるのです。
私たちはもっともっと、神の言葉、聖書の効用に目を向けて行きたいと思うのです。
3.神の言葉、聖書の体験、それは何よりも慕わしく、また甘美
最後に、神の言葉、聖書は、それを体験した者にとっては、決して苦痛をもたらすものではなく、何よりも慕わしく、また蜜よりも甘いものなのだということを作者は強調します。
「これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い」(19篇10節)。
新約聖書、特に福音書やローマ人への手紙などを読みますと、一世紀のユダヤ教が律法主義、善行主義として否定的に捉えられているように見えます。
しかし、土岐健治一橋大学名誉教授の「初期ユダヤ教の実像」(新教出版社)などによりますと、イエス時代のユダヤ人らの信仰生活は非常に積極的で明るく、そして口伝律法を含めてトーラー(律法)自体を心から喜び楽しんでいたということです。
どんなによい食材でも、料理の仕方で不味くもなり、せっかくの栄養価もふっとんでしまいますが、同じ食材でも逆にほっぺたが落ちるような美味な料理になることもあります。
聖書の場合、読み方次第で苦くもなれば甘くもなるのです。
以前も申し上げましたが、私は聖書の命令形が苦手でした。命令形が出てくると読み飛ばすのが常でした。心を責められるからです。
でもある時、先輩教職が教えてくれました。命令法は直説法で読むとよい、と。つまり、「~をせよ」「~をするな」という命令形は、神が、「私がそれを出来るようにしてあげよう」という恵みの約束として読めばよいのだ、と。
目から鱗が落ちる思いとはこのことでした。今は出来なくても、神はいつの日にかその命令を実行できるようにしてくれるという希望と信仰、そして感謝の気持ちで読むことができるようになったからです。
そして何よりも、神の言葉、聖書は天地の創造者である神が、私たち罪びとに向かって宛てた愛の手紙なのだということを肝に銘じて読むことです。
聖書全体を通じて主なる神は主張します、「誰が何と言おうと、あなたは私の目にはかけがえのない存在として映っているのだ」と。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43章4節 新改訳)。
このことがわかるようになりますと、聖書は自ずから、金よりも慕わしく、蜜よりも甘いという、神の言葉の慕わしさ、甘美さを実感することのできるものとなり、「昼も夜もそのおきてを思う」(詩篇1篇2節)者となっていくのです。
「詩篇を読む」は今週で終了ですが、これからもそれぞれが詩篇から神の豊かな恵みを味わってください。