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2013年8月18日日曜礼拝説教「詩篇を読む?全能の神をわが羊飼いとして仰ぐ幸い」詩篇23篇1~6節

13年8月18日 日曜礼拝説教

「詩篇を読む?全能の神をわが羊飼いとして仰ぐ幸い」
 
  詩篇23篇1~6節(旧約聖書口語訳p)
 
 
はじめに
 
相変わらず、アベノミクスへの批判が絶えませんが、それならばアベノミクスに代わるような良案があるのかと言いますと、批判者は批判をするばかりで一向に対案を出そうとしません。
つまり、ケチをつけることが目的の批判であることが知られてしまいました。
 
確かにTPP交渉参加、あるいは消費税率引き上げの問題など、下手をすればまた滝壺に転落するような危険性もある現下の状況から、庶民の一人としてはハラハラドキドキの時期ですが、政治とは、国民生活の「安定」と「安全」「安心」の三つの課題の向上を目的として営まれるものですので、傍観視するのではなく、為政者のために神の助けと祝福を祈りたいと思うのです。
 
エジプトにおける政治混乱が収まりそうにありません。エジプトは二年半前、アラブの春とやらで独裁政権が倒れ、一年後に実施された大統領選挙においてムスリム同胞団に推されたモルシという人が大統領になりました。
 
しかし、この新大統領、経済政策の失敗も何のその、支持母体であるイスラム原理主義組織、ムスリム同胞団の意向を受けて性急にイスラム化の政策を推し進めたことから反発が募り、ついに軍部のクーデターによって大統領は軟禁状態に置かれ、その結果、暫定政権が発足したのですが、暫定政権側がイスラム同胞団を非合法化する方向であるということから、危機感を持ったイスラム同胞団はデモを敢行し、これを治安部隊が力づくで抑え込むという事態により、現在までに千人近い死亡者が出ています。
 
世界を見ますと、なんだかんだ言っても日本という国はほんとうに恵まれています。そしてこの恵まれている国であっても、生活や暮らしの「安定」、生命や身体の「安全」、そして心や精神の「安心」は、まだまだ不十分です。
 
況して、古代においては誰もが求めて止まない「安定」と「安全」そして「安心」は保障の限りではなかったのです。
しかし、古代の、神を信じる神の民には力強い後ろ盾がありました。その後ろ盾の存在について、今週は詩篇の二十三篇から教えられたいと思います。
 
 
1.全能の神が必要を満たしてくれるから、「私には乏しいことがない」と言える
 
物事を分かり易く説明する方法が比喩です。比喩には色々あって、先々週の説教で引用しました「興奮は骨を腐らせる」(箴言14章30節)の「骨」は、人体の中の骨格部分を指すのではなく、人の全存在を意味します。
つまり、興奮すなわち嫉妬の感情がその人の全体を腐らせる、ダメにしてしまう、という意味です。このような用法を「代喩(だいゆ)」と言います。
 
なお、「主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」「その人は、水路のそばに植わった木のようだ」(詩篇1篇2、3節新改訳)は「明喩(めいゆ)」という用法を使っています。「~のようだ」と比較したことがはっきりしているからです。
 
比喩の中には「隠喩(いんゆ)」と言いまして、「~だ」と言い切るものもあります。その例が今朝の聖書テキストです。
 
「主はわたしの牧者であって」(詩篇23篇1節前半 旧約聖書口語訳766p)。
 
 ところで「牧者」とは何かということですが、「牧者」とは羊を飼う「羊飼い」のことで、少々古い言い方です。ですから、口語訳よりも新しい新改訳や新共同訳は羊飼いと訳します。なお、牧師という呼称はこの「牧者」からきていて、「羊飼い」という意味です。羊のような神の民を大牧者である神に命じられて世話をするからです。
 
「主は私の羊飼い」(新改訳)。 「主は羊飼い」(新共同訳)。
 
古来、イスラエルでは、国民の指導者や政治家などが羊飼いの役目を担いました。指導者というものはまさに「先憂後楽」、民に先だって憂い、そして民に遅れて楽しむ者の筈なのですが、中には自分と自分の身内の利益を優先させて、神から委ねられた群れを後回しにしてしまう者もいましたので、神自らが迷える民の羊飼いとなると宣言する場合もありました。
 
「わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自分を養うが、わが羊を養わない」(エゼキエル書34章8節後半 )。
 
「主なる神はこう言われる、見よ、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す」(同 34章11節1 198p)。
 
 詩篇二十三篇の特徴は作者と主なる神との関係の親密さにあります。作者は「主はわたしたちの」とは言わず、「主はわたしの」牧者であると言い切ります。
そして続けて告白します。主なる神が私の羊飼いであるのだから、私は乏しくなることはない、と。
 
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」(23篇1節)。
 
 古代、民衆の多くはその日暮らしの毎日でした。一日の労働は夜明けと共に始まり、日没で終わりました。八時間労働どころか十二時間労働が普通で、暑い夏の場合などは十三時間労働になったりもした筈でした。
 
神の配慮としての安息日規定、週休一日制度があるために過労死は免れることは出来ましたが、それだけ働いても、やっと食べていくことができるという生活状態でした。
そのような暮らしの中で詩の作者は言い切ります。「主なる神が自分の羊飼いとなってくれているから、暮らしを維持する上で私には乏しいことがない、足りないことがない」と。
つまり、日々の暮らしと生活の安定は保たれている、と告白します。
 
 その羊飼いである主なる神が、自分の羊をどのように養ってくれているのかという描写が二節と三節前半の言葉です。
 
「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ(る)」(23篇2、3節前半)。
 
作者にとって主なる神は、物質的、経済的に、そして精神的、心理的に羊の生活と暮らしの安定を保障し、必要を満たしてくれる羊飼いなのです。
そして何よりも有り難いのは、私たちが「主はわたしの羊飼いです」と告白する前に、主なる神が私たちに向かって、「あなたは私の羊である」と宣言してくださっている事実があることです。
 
全能の神、主なる神が羊飼いとして私の必要を満たしてくれるので、つまり、暮らしと生活の安定を保証してくれるので、「私には乏しいことがない」と言えるのです。
 
 
2.共に戦ってくれる全能の神が傍にいるから、「私は禍いを恐れない」と言える
 
生活や暮らしの安定と共に、この世において私たちが必要とするもの、それは生命や身体の安全です。私たちの羊飼いである主なる神は、ご自分の羊の状態をよく知っていて、その必要を慈愛深くも満たしてくれるお方ですが、同時に、その羊のために戦ってくれる羊飼いでもあるのです。
 
私たちが恐れるものには、災害や病気や事故、外からの攻撃などの、外側から降りかかってくる災いと共に、自分にも責任の一端があると思わずにはいられないような、身に覚えのある禍いというものもあります。
しかし、羊を守る羊飼いは問題に対し、共に取組み、共に戦ってくれる羊飼いなのです。
 
「主は、…み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(23篇3節後半、4節前半)。
 
 先週、高校野球を見なくなったと申しましたが、実は日本のプロ野球への関心も薄らいでいて、朝刊でセ・パ両リーグの順位を把握するくらいです。嫌いな巨人と楽天が共に首位に立っているので余計、なのかも知れませんが。
 
 先週水曜日の夜、たまたま点けたテレビに、阪神タイガースのマートン選手が激高してアンパイアに執拗に抗議をしている場面が映っていました。マット・マートン選手は自らがクリスチャンであることを世間に明らかにし、信仰の証しを大事にしている人です。
 
「醜態を晒しているなあ、マートン兄弟よ」と思いながらチャンネルを変えたのですが、翌々日金曜の朝刊スポーツ欄には、「マートンおわびの決勝弾」という見出しで、試合後のお立ち台でマートンが「『すみません、ばか外人です。きのうはごめんなさい』とフアンに謝罪。チームの勢いまで奪った行為に『軽率だった』と神妙に振り返」たという、好意的な記事がありました。
 
マートンにはマートンの言い分があったと思います。しかし、アンパイアの裁定は絶対です。
新聞によりますと、翌日の木曜日、来日中の、奥さんの父親と、甲子園で行われている高校野球を「少年のような気持ちで見た(本人談)」ことが初心に戻るきっかけとなったようですが、神を信じるマートン選手のことですから、興奮から醒めたあと、神の前に祈り、悔い改めて、その結果、「み名のために正しい道に導かれ」(3節後半)たのであろうと思いました。
 
隣国を見るまでもなく、独り善がりの正義感に基づく怒りの感情は、常軌を逸した行動に至らせることがあります。しかし、生ける神を羊飼いとして仰ぐ者は、怒りの感情をいつまでも引き摺らず、反省をし、悔い改めことを躊躇しません。
少々大袈裟に言えば、マートン選手は色々な意味での「死の陰の谷」(3節)に入りこんでしまっていた、そしてその死の陰の谷から羊飼いなる主によって引き上げられるという経験をしたのではないかと思います。
 
ところで、四節には、羊のために命懸けで敵と戦う羊飼いのイメージがあります。
 
「あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます」(23篇4節)。
 
 「むち」(4節)と「つえ」(同)は羊飼いの必需品でした。
「むち」は先に金具のついた棍棒のことで、羊飼いはこれで羊の群れを襲う獅子や狼を撃退しました。
また「つえ」の柄は記号のクエスチョンマークのように丸く曲げられていて、これで道に迷った子羊を正しい道に戻し、崖下に落ちた子羊を引き上げたりもしました。
 
危険を顧みずに羊を助け、体を張って敵と戦ってくれる羊飼いが一緒なので、羊のように爪も牙も持たない者たちも勇気づけられて生きることができるのです。
 
「慰めます」(同)は励ます、勇気づけるという意味の言葉です。
 
 このように弱い者と共にいて戦いを共にしてくれる「主が共におられるから」(4節)、人生の「死の陰の谷を歩む」(同)ような状況に陥っても「わざわいを恐れません」(同)と告白することができるのです。
 
ただし、作者は禍いに遭わないとは言っていません。禍いが来ることがあっても「わざわいを恐れません」と言っているのです。
 
この詩篇の前書きには「ダビデの歌」とあるところから、作者はダビデだという人もいるのですが、恐らくは、無名の作者がダビデの生涯を追想しながら作った詩であると思われます。
 
旧約のサムエル記には、王の将軍として数々の武勲を立てながら、その圧倒的人気を恐れた王サウルに追われて、各地を放浪していたダビデが、サウルの子であり、親友でもあるヨナタンに対して、自分の置かれている危機的状況を説明した言葉が記録されています。
 
「わたしと死との間は、ただ一歩です」(サムエル記上20章3節後半 423p)。
 
 この時のダビデは身の置き場のない、いつどこで命を失うかもわからない危機的状態を生きていたのです。
文字通り、彼と死との間はただ「一歩」(3節)の距離しかなかったのです。しかし、この「一歩」がそれ以上縮まることは決してありませんでした。
サウルが戦いの中で死んだ後、イスラエルの王位に着いたのは神によって選ばれたダビデだったのです。
 
ダビデのためにダビデと共に闘う神、全能の主なる神によって、ダビデと「死との間は、ただ一歩」のままであったのです。なぜでしょうか。それはダビデと「死」との間に主なる神が立ち塞がってくれていたからでした。
 
敵との戦いにおいては勇猛果敢な武将であったダビデでしたが、サウルとの関係においては、羊飼いなる神が彼の命と体の安全を保証してくれる守り手であったのでした。
 
この主なる神を「わたしの羊飼い」とするものは、その偉大なる助けにより、「共に戦ってくれる全能の神が傍にいるから、わたしは禍いを恐れない」と告白することができるのです。
 
 
3.全能の神が恵みをもって追い掛けてきてくれるから、「私は問題に立ち向かえる」と言える
 
生活や暮らしの安定、生命や身体の安全と共に、人が必要とするもの、それは心や精神の安心です。
 
ご自分の羊の必要を満たし、羊の敵と戦ってくれる羊飼いなる神は、敵の手を逃れてその天幕の中に逃げ込んでくる者を歓迎し、客としてもてなすと共に、もしも手傷を負っているならば手当てをし、介抱もしてくれる慈悲深い主人に譬えられています。
 
「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油を注がれる。わたしの杯はあふれます」(23章5節)。
 
 「宴」は食卓のことです。古代イスラエルにおいては、強盗や敵に追われた旅人が自分の天幕に逃げ込んできた場合には、その旅人を受け入れ、食事を提供し、傷ついていれば手当てをするという習慣があったとのことです。
「敵の前で、わたしの前に宴を設け」(5節前半)という記述はその習慣を窺わせます。つまり、主なる神が私たちを客として遇し、もてなしてくれるというのです。
 
「礼拝を捧げる」と言います。「献金を献げる」と言います。牧師、教職者は「身を献げた」献身者です。しかし、私たちが何かをする前に神ご自身が私たちのために身を捧げてくださり、尊い命を捧げてくださったのです。
 
 礼拝とは何か、と言いますと、基本的には主なる神が私たちを客として招いてくださり、供応してくださるというそのことが礼拝のベースにあって、その神へのお礼として捧げるものが日曜ごとの礼拝であり、讃美であり、奉仕であり、感謝の献金であるわけです。
 
  「こうべに注がれる」(5節)「油」(同)は主人が客を歓迎しているしるしです。「あふれる」(同)「杯」(同)も同様です。
 
主なる神はこの「わたし」を愛し、賓客として迎えてくれているのです。
この「杯」に主なる神のゆるしと慈しみ、憐れみを一杯に受けて、溜まりに溜まった疲れを癒され、心の全体が上から来る平安と安心に包まれる者でありたいと思うのです。
 
 いわゆる従軍慰安婦の問題をめぐって橋下徹大阪市長が内外からバッシングを受けました。この人は思いつきで発言するところから、上げ足を取られて顰蹙を買うところがあるのですが、今回の発言でも「強制はなかった」ということだけを言えばよかったのです。生半可な知識を振り回すからその発言を利用されてしまうのですが、このたび、大阪市長と同姓同名で漢字が一字違いの橋本徹という人のことを思い出しました。
 
橋本徹さんは五十代のときに、三大メガバンクの一つであるみずほ銀行の前身の富士銀行の頭取を務めた人です。
橋本さんは子供の頃、クリスチャンであった母親に連れられて毎週日曜日に教会学校に通い、高校生になってからは特に熱心に聖書を読むようになり、やがて自分の罪深さを痛切に自覚し、イエス・キリストがこの自分の罪を贖うために十字架にかけられたのだということを心から受け入れてクリスチャンになったとのことでした。
 
ところが大学を卒業して富士銀行に入行した最初のうちは信仰を堅持していたのですが、雑事にまぎれていつしか教会から足が遠のいてしまったのだそうです。
 
四十五歳の時、米国のヘラーという金融会社を買収するという密命を帯びてニューヨークに出張いたしました。しかし、予期せぬ事態に次々と直面して夜も眠れないという状態が続いたそんな時、宿泊しているホテルの近くの教会に行って、そこで久しぶりに神に祈り、説教を聞き、讃美歌を歌う中で心に平安が戻り、内に新たな力が湧くという経験をしたというのです。
 
お蔭で懸案の重要案件を実現することができ、それ以後、毎晩、寝る前にベッドの中で聖書を読み、一日の出来事を振り返って神の恩寵に生かされていることを感謝しながら、今に至っているとのことです。
 
実は橋本さんは現在七十八歳ですが、二年前、請われて政府が百パーセント出資する日本政策投資銀行という銀行の代表取締役に就任し、国家的重責を担う立場にいるのですが、それもまた、神からの使命として引き受けたとのことでした。
 
詩篇二十三篇の作者は最後に告白をします。神の恵みと慈しみが私を追いかけてくる、と。
 
「わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしが伴うでしょう」(23篇6節前半)。
 
 口語訳が「伴う」と訳した言葉は、専門家によりますと「追いかけて来る」と訳した方がよいそうです。ニューヨークで信仰に立ち返り、心と精神の平安を取り戻した橋本徹さんの場合も、橋本さんの後を、今も神の恵みと慈しみが追い掛けてきているというわけです。
 
高齢者社会に突入しましたが、主なる神は、神を「私の羊飼い」として仰ぐ者の後を、その「いのちある限り、恵みと慈しみとはいつも(新共同訳)」追い掛けてきてくれるのです。
 
 そして、日々の戦いのあとでわたしたち神の民が戻るところ、それが主の宮です。
 
「わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」(23篇6節後半)。
 
 「主の宮」(6節)とはキリスト以前は建築物としての神殿を意味しました。しかし「主の宮」とは「主の家」(新共同訳)であって、今日では救い主イエス・キリスト自身を意味し、「主の宮に住む」とは、イエス・キリストとの交流を意味するのですが、口語訳が「住む」と訳した言葉は旧約学者の左近淑元東京神学大学学長によりますと、「戻る」という意味でもあり、これをもっと強く訳せば、「悔い改めて引き返す」ということなのだそうです(左近 叔著「低きにくだる神」181p ヨルダン社)。
 
信仰から離れていた橋本徹さんは、ニューヨークで教会に行き、そこで上からの平安と安心を得ましたが、まさにその時、橋本さんは「主の家」に戻り、しかも「悔い改めて引き返」してきたのでした。
引き返すにあたって、「もう遅い」「遅すぎる」ということは決してありません。流行りの言葉で言えば、「いつやるのか、今でしょう」ということになります。
 
そして、今日、改めてご一緒に告白をしたいと思います、「全能の神が恵みをもって私の後ろを追い掛けてきてくれるから、私は平安と勇気をもって困難な問題にも立ち向かっていけるのだ」と。
 
何にもまして幸いなのは、全能の主なる神を「私の羊飼い」として個人的に仰ぐことが許されているということです。