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2013年8月11日日曜礼拝説教(「信教の自由を守る日」に寄せて)「今、求められていること、それは自虐からの脱却」ペテロの第一の手紙5章5節

 20138月11日 日曜礼拝説教(「信教の自由を守る日」に寄せて)

「今、求められていること、それは自虐からの却」

ペテロの第一の手紙5章5節(新約聖書口語訳371p)
 
 
 
はじめに
 
私たちの教会が属している教団は八月十五日を「信教の自由を守る日」と定めています。
しかし、「信教の自由」も、国あってこその自由です。国家が蹂躙され、あるいは他国の支配に屈するようになれば、自由も人権もあったものでありませんし、たとい独立は保持し得たとしても、身に覚えのない汚名を着せられて末代までも辱められるようなことになれば、神の栄光を穢すことにさえなりかねません。
 
そこで本日の礼拝ではいつもとは少し趣を変えて、国際政治問題、社会問題そして歴史問題に踏み込んで、私たち日本人が、そして日本のキリスト者が意識的に取り組む必要がある喫緊の課題についてご一緒に考えたいと思います。
 
本日の礼拝説教テーマは「今、求められていること、それは自虐からの脱却」です。
 
「イマジン」という歌をご存知のことと思います。元ビートルズのジョン・レノンが一九七一年に発表した歌です。
 
ジョン・レノンはこの作品の歌詞の冒頭に「イマジン」つまり「想像してみよう」という言葉を置いて、「想像してみよう、天国もない、地獄もない、あるのは青い空だけ、想像してみよう、国家なんてない、だから殺すことも殺されることもない。想像してみよう、宗教もない世界を、(宗教もないから)みんな平和に暮らせる」と言葉を繋ぐのですが、その詞には、死後の命を否定するだけでなく、あたかも宗教が平和の敵であるかのような宗教否定の唯物思想と、なまじ国家などがあるから戦争が起こるんだ、国家なんかなければいいのに、という無政府主義的思想(アナーキズム)を窺わせる思想を歌った歌、それが「イマジン」です。
 
 そもそも、国家というものは国家を国家たらしめる主権、領土、領海と、国に所属する国民の生命、安全、人権、財産などの大事なものを守るために神が備えたものなのです。ですから、国家は否定をしたり、敵対視したりする対象ではありません。
この夏も多くの日本人が海外に出かけていることと思いますが、国家が保障するからこそ、日本政府が発行するパスポートが世界中で通用するのです。
 
夏の高校野球が始まりました。私は性格が捻くれているのか、今は高校野球にあまり関心がありません。最も昨年は別で、神奈川県代表の桐光学園高校二年生ピッチャーの松井裕樹が、快刀乱麻を断つが如く、バッタバッタと三振の山を築く光景に、胸のすく思いをしたものですが。ただし、松井の高校は予選で敗退したため、この夏の甲子園には出ていません。出ていれば観戦するのですが。
長い目で見れば予選敗退は松井のために幸いであったと思います。なぜかと言いますと、大事な肩を酷使せずに済むからです。
 
 高校野球に興味を失くしたきっかけは、二十一年前の明徳義塾高校による星稜高校の四番打者、松井秀喜に対する五打席連続の敬遠作戦でした。
明徳の投手は松井との対決を熱望したそうですが、監督の指示は五打席とも敬遠。結局、この敬遠策が功を奏して明徳は星稜に勝利をするのですが、そこまでして勝ちたいのか、と呆れたものでした。こうなりますともう、高校野球の精神は雲散霧消してしまいますし、それはもはや高校生のための野球などではなく、勝利を請け負った職業監督の戦いに堕してしまう、それが甲子園の側面だと思うようになったからです。
 
打者が一球ごとにベンチを見て監督の指示を仰ぐのは異様です。選手はいつから監督のロボットや将棋の駒になり果てたのでしょうか。いつのことでしたか、選手が「監督を甲子園に連れて行ってあげたい」と言っているインタヴューを見て、本末転倒も甚だしいと慨嘆したものでした。
「高校」野球であるならば、試合が始まったら監督は引っ込んでいるというわけにはいかないのでしょうか。
 
特定のピッチャーに、無理を承知で連投に次ぐ連投を課し、その結果、有望なピッチャーが肩を壊して投手生命を縮め、以後、啼かず飛ばずの末路を辿るのも、結局は優勝請負、勝利至上の職業監督が前面に出てきているからだと思うのです。試合が始まったら監督は応援席に引っ込む、そうしたら「高校」野球といえるのではないかと思います。
 
 そしてもう一つ、そもそも甲子園大会は都道府県の代表校によって争われるものであるにも関わらず、代表校によっては、出場選手の多くが他府県出身者で占められている学校もある、という事実を知ったこと、それも興味を殺がれるきっかけでした。
特にひどかったのは数年前の東北の代表校で、チームのレギュラーのほとんどは大阪府の出身者であって、彼らは大阪では競争が激しくてレギュラーになるのは難しい、ならば地方からということで、一時的に住民票を地方に移して甲子園に出場していたわけですが、そんなのは果たして「おらが故郷代表」と言えるのかどうか、です。
 
自分が生まれ育った地域を故郷とするのは、自然の感情です。甲子園大会というのはそういう素朴な郷土愛の発露の機会なのかも知れません。
そしてこの郷土の延長にあるものが、ジョン・レノンが否定する「カントリーズ」つまり国、国家なのであって、郷土愛の延長線上に自然に育まれるものが国を愛する心なのではないかと思います。
 
人が故郷を愛するように、国あるいは国家は愛の対象です。そして残念なことに、戦後の日本人は愛の対象である自らの国を憎み、国家の一員であることを恥ずかしく思うように育てられてきたのでした。
 
 
1.今、日本人と日本の教会に求められていること、それは誤った自虐からの脱却
 
今年も敗戦の日である八月十五日が近づいてきました。戦後、日本はひたすら世界の優等生であることを目指して経済復興、経済成長に力を注ぎ、戦後二十年足らずで国際オリンピック大会を成功させ(一九六四年 東京)、二十五年で世界万国博覧会を実施する(一九七〇年 大阪)程の国となりました。
 
しかし、その原動力の一つには、過去の日本を恥ずかしく思う自虐という自己認識があった、と言われています。
自虐とは自分で自分を虐めること、虐待をすることです。では何で日本人は自らを虐待するのかと言いますと、日本は悪い事をしてきたという刷り込みが植え付けられているからで、それは具体的には過去の日中戦争、そして日中戦争に続く米英などを相手に戦った大東亜戦争(太平洋戦争)が悪しき侵略戦争であったとする理解に基づいて形成されました。
 
自虐という自己理解の最たるものが、広島市の平和記念公園に設置された「原爆慰霊碑」に刻まれている文章です。碑にはこうあります。
 
安らかに眠ってください。過ちは、繰り返しませぬから
 
この碑文には主語がありません。主語がないので一読して、「過ち」を「繰り返しませぬ」と決心したのが誰なのかが曖昧ですが、原爆を投下した米国を指したのではないことは明らかです。
つまり隠された主語は日本であり日本人なのです。原爆を投下されて無数の悲惨な被害者を出した日本がなぜ、「過ちは、繰り返しませぬ」と誓わなければならないのでしょうか。後に、主語は日本人を含む人類全体を意味するというようになったそうですが、それがこじつけであることは誰でもわかることです。
 
戦勝国が敗戦国を裁く報復裁判といわれた東京裁判(極東国際軍事裁判)においてただ一人、被告人たちの無罪を主張したのがインドのパール判事でしたが、彼が一九五二年、広島で行われた世界連邦アジア会議出席のため、来日した時のことでした。
 
会議終了後、パール判事が記念公園を訪れて菊の花を手向けて慰霊碑に黙祷をささげた際、碑の文章を、通訳を通して知るや否や、不審の色を浮かべて語った言葉が次のような言葉でした。
 
この「過ちは繰り返さぬ」という過ちは誰の行為をさしているのか。むろん日本人をさしていることは明らかだ。それがどんな過ちであるのか、わたしは疑う。ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたものは日本人でないことは明瞭である。落としたものの責任の所在を明らかにして、「わたくしはふたたびこの過ちを犯さぬ」というのなら肯(うなず)ける。この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではないし、その戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることは明瞭だ。
 
(中略) 国民がその良心をゆがめられた罪悪感をになって卑屈になっているあいだは、進歩も発展もない。原爆を投下した者と、投下された者との区別さえもできないような、この碑文が示すような不明瞭な表現のなかには、民族の再起もなければまた犠牲者の霊もなぐさめられない(ラダビノード・パール著 田中正明編著「パール博士『平和の宣言』」91、92p 小学館発行)。
 
パール博士は「国民がその良心をゆがめられた罪悪感をになって卑屈になっているあいだは、進歩も発展もない」と言っていますが、自虐とはまさにこの「その良心をゆがめられた罪悪感をになって卑屈になっている」状態を意味するのです。
パール博士にとり、何でもかんでも、とにかく私が悪かったと謝ってしまう日本人が歯痒かったのではないかと思われます。
 
しかし、悪くない事までも謝る必要はないのです。戦後の教育はひたすら、日本が悪かった、日本人は悪かったと教え、謝罪し続けることを要求してきました。しかし、むしろそれは不義です。
 
東京裁判の実質的主宰者であったダグラス・マッカーサーが更迭、退任後の一九五一年五月、米国の上院軍事外交合同委員会において、日本人が「戦争に飛び込んで行った動機の大部分が(彼らの)安全保障上の必要に迫られてのことだった」、つまり自衛のための戦争であったと証言しているのです。
 
過日の戦争が如何なるものであったのかは、まだまだ検証する余地があります。戦後六十八年、戦勝国の一方的な判断を受け入れざるを得なかった時代は過ぎ去りました。公平で多面的、多角的な検討が必要です。
 
ペテロの手紙において、書き手は読者に謙遜であることを勧めます。
 
「また、みな互いに謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである」(ペテロの第一の手紙5章5節後半 新約聖書口語訳371p)。
 
 自虐と「謙遜」は別物です。自虐とは実態以上に自らを矮小化することですが、「謙遜」とは自分の姿を正確に捉え量ることであって、自身を買いかぶって過大評価したりすることではありませんし、過小評価することでもありません。
 
「謙遜を身につけ」(同)るようにと著者は勧めますが、それは自らを正しく知れ、という意味なのです。
そして日本人に、そして日本の教会に求められているものが何かというならば、それは理由も根拠もない自虐思想から脱却をすることです。
 
 
2.自虐からの脱却のために一刻も早くなすべきこと、それは幻想と捏造の克服
 
では、自虐から脱却するためにはどうしたらよいのかと言うことですが、必要なことは、幻想と捏造という二つの欺瞞を克服することです。
 
幻想とは実態のない幻、事実とは全く違うファンタジーを意味します。そして日本人の自虐意識を高めてきた幻想の一つが、半島の「韓国併合は悲惨な植民地支配であった」とする主張でした。
 
確かに一九一〇年、日本は朝鮮半島を併合しました。しかし、いわゆる植民地支配はしておりません。植民地支配の特徴は搾取にあります。そして西欧諸国によるアフリカ、アジア、中近東支配こそ、搾取を目的とした植民地支配でしたが、日本の朝鮮、台湾統治は西欧のそれとは根本的に違いました。
 
第一に、西欧は植民地の住民に対し、本国と同様の国籍も人権も認めませんでしたが、日本は朝鮮人や台湾人を法的に同じ日本国民として扱いました。
 
そして第二。西欧は植民地から資源や富を搾取するだけでしたが、日本は半島や台湾に多額の資本を投下して、教育を振興し、各種のインフラを整備し、殖産興業を推進するなどして、民生の向上に努めました。
 
この結果、半島の場合、併合後二十五年で人口は五割以上も増加し、学校教育を受けることができるようになった児童生徒は併合前と比べて二十四倍にもなったのです。(詳しいことは昨年の2月12日礼拝説教「敬虔の修練が永遠を左右する―自身に塩を持つ」を)
 
半島の場合、地政学的状況から、もしも日本が統治しなければ、早晩、清(中国)あるいは帝政露西亜に占領統治されて、現在のチベットやウイグルのような悲惨な地域になっていた筈です。それを承知しているからこそ、台湾は親日なのです。
 
誇りだけは高い韓国がこの幻想、ファンタジーから解放されることは恐らくは困難でしょう。しかし、日本人自体が韓国併合を悪とする幻想から解放されるべき時にきていると言えます。
 
もう一つ、自虐意識から脱却するために克服しなければならないことは歴史の捏造という問題を見つめることです。
 
たとえば、日本軍が一九三七年(昭和十二年)に、中国の南京を攻撃した際、南京市民を大虐殺したとされる事件が、実は中国による捏造であったということが、段々と知られてくるようになってきました。
 
 第一、当時の南京市の人口は二十万人です。どうやって三十万人、四十万人もの市民を殺害することができるでしょうか。しかも日本軍の南京駐留後ほどなくして市の人口は以前より二割から三割も増えているのです。虐殺があったのであれば恐ろしくて誰も町には近寄らない筈です。
 
南京虐殺なるものは中国政府のプロパガンダ(宣伝工作)による捏造、つまりでっちあげだったのです。虐殺の証拠写真とされた五百数十葉の写真もすべて、事件とは関係のないものであることは証明済みです。
 
日本をターゲットにした数ある歴史捏造の中でも、特に深刻なのは韓国による「従軍慰安婦」なるものの捏造です。つまり、「戦時中、日本の官憲は半島に住む二十万人もの若い女性たちを家から強制的に拉致、誘拐して性奴隷とした」という根も葉もない主張です。
 
結論から言えば、「従軍慰安婦」なるものはなく、貧しいがゆえに親に売られ、あるいは金目当てに自ら募集に応募した人々、それが慰安婦でした。厭な言葉ですが、この人たちは金銭を代価として受け取る職業売春婦だったのです。
 
そしてこの時代、悲しい事ですが売春は合法的職業でした。日本が「売春防止法」を制定したのは一九五六年のことですが、韓国が「性売買特別法」という法律を制定して売春を非合法としたのは何と二〇〇四年、つい最近なのです。そして韓国の悩みはこのあと国内において売春の合法化を要求する売春婦たちによるデモが頻発したこと、そして規制を嫌った十万人もの女性が米国や日本に出かけて行って商売を行い、現地でトラブルを起こしているということなのです。
 
そもそも、この問題が一九七〇年代になって急に浮上した理由は、吉田清治なる詐欺師紛いの元陸軍軍人が、戦時中、済州島で女性たちを日本軍が拉致、強制連行をした、とする証言を各地でし始めたのが起因です。
一九八三年に至って、吉田清治は著書の中でこれを事実として発表しました。著書の第三話「済州島の『慰安婦狩り』」の結びは以下の通りです。
 
私は翌朝、二百五名の済州島の女を船倉へ収容して、定期船は小雨の中を出港した(吉田清治著「私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行」151p 三一書房)。
 
なお、吉田清治はその前年の一九八二年六月、大阪森の宮のピロティホールにおける講演で、慰安婦の強制連行を事実として証言しています。
 
私は昭和一七年から敗戦までの約三年間、数千人の朝鮮民族を強制連行しました。その中には千人近い慰安婦を強制連行致しました(前掲書付録1「私は朝鮮人慰安婦を徴用した」155p)。
 
この吉田清治という詐話師の告白を真に受けて、検証もしないまま、これを事実として大々的に報じたのが朝日新聞でした。
 
しかし、その後、秦郁彦という著名な現代史家が済州島で現地調査を行って、吉田の証言に何の信憑性もないことを明らかにしたこともあってか、吉田清治自身、一九九五年になって、慰安婦に関する自分の主張が自身による創作であったということを告白するのですが、吉田の証言を事実として報道し続けた朝日新聞は、今に至るまで頬かむりをしたまま、誤報を訂正しようとしていません。
 
二十年前には、いわゆる河野談話なるものが出て、その談話で、あたかも日本の官憲の関与があったかのような表現がなされたため、韓国はこの談話を根拠にして日本政府に謝罪と賠償を執拗に求めるようになり、最近は日本の名誉を貶めることに血道をあげて、特に米国等の外国においてまで、日本を指弾する運動を国をあげて行っているのです。
 
勿論、慰安婦制度というものはそれ自体、人権意識の進んだ現代の価値観で見れば是認できるものではありませんし、訴えられていることが歴史的な事実であるならば、謝罪もしなければなりません。しかし、この件に関し、拉致や強制連行の事実は一切ないのです。「従軍慰安婦」という訴えは彼の国の得意技である歴史の整形です。
 
実は中国は、自分たちの主張が捏造であるということは百も承知で騒いでいるのですが、韓国の場合、事実と信じ込んでいるためにより厄介です。それはカルトに嵌ったカルト信者によく似ていると言われています。困ったものです。
 
しかし、だからと言って、韓国や韓国人そのものを忌み嫌ってはなりません。私自身、数人の韓国人の知人がいますが、いずれもバランスのとれた思考の出来る人格者であり、尊敬できる人たちです。
 
大事なのは「事実」です。事実に基づいて冷静かつ論理的に反論しつつ、しかし、大事なのは日本人自身が、幻想というファンタジーの背後にある真実、プロパガンダの裏側に潜む隠された動機というものを知って、根も葉もない幻想と捏造に対峙し、これを克服していくことです。それが、自虐に基づく自己イメージを変える機会となるのです。
 
 
3.幻想と捏造の克服のために取り組むべきこと、それは事実に基く歴史教育と健全な聖書解釈
 
では、幻想と捏造を克服するにはどうしたらよいのかと言いますと、それは二つです。
 
一つは事実に基づく歴史教育を徹底することです。「イマジン」という歌には作者が培われてきたと思われる思想やイデオロギーが隠されています。
 
先週、歌手の桑田圭祐(私は個人的にはこの人の声と歌い方がどうも受け付けないのですが)が五年ぶりに出した「ピースとハイライト」という楽曲が評判なので、視聴をしてみました。
しかし、歌詞にはいくつかの疑問を感じました。「何気なくニュースを見ていたらお隣りの人が怒ってた」という冒頭から、お隣り、つまり韓国の怒りというものを前提にしている気配があります。
 
内容に入りますと、「教科書は現代史をやる前に時間切れ そこが一番知りたいのに何でそうなるの」はその通りで、この部分は日本の歴史授業の現状を嘆いているわけですが、「歴史を照らし合わせて助け合えたらいいじゃないか 硬い拳を振り上げても心開かない」は、韓国に行って韓国人に向かって歌ってほしいものです。
「心を開か」ずに「硬い拳を振り上げて」、「歴史を忘れた民族に未来はない」と喚いているのはお隣りの国の人々だからです。
 
おまけに、「歴史を照らし合わせて助け合」うことなどは夢想です。なぜならば、彼の国は自分たちの理解こそが歴史の事実として正しい、だから日本は我らの主張に合わせよ、と主張するからです。
 
確かに何があったのかという正確な事実に基づいた近現代史を学校で教えることは重要なことです。そうすれば、何が事実か幻想なのかを見分けることができますし、歴史の歪曲を見抜くことも可能となります。
 
歴史の幻想と捏造を克服するために必要なのは、確かに桑田圭祐が歌うように、「現代史」をそれも捏造された歴史ではなく、正確な事実が書いてある「教科書」で丁寧に学ぶことであると思います。
 
そしてもう一つ、日本の教会もそうなのですが、特に韓国の教会に取り組んでもらいたいものが健全な聖書教育であり、適切な聖書解釈を身につけるということでしょう。
 
約十年前のことです。ある教区の聖会において、招聘された韓国人講師が会衆に向かい、「どのようにして、私(たち)は天国に行けるようになりましたか」という質問をしたそうです。会衆が答えました。「イエス様を信じることによって、生まれ変わるから」これに対し、講師は答えます、「イエスを信じて救われます。それは基本です。しかし私が求める答えではありません」
 
では講師が求めた答えは何かと言いますと、「私が求める答えは、親が私を生んでくれたからです。(親が私を生んでくれたから)人になったので、(その結果)私はイエス様を信じることができ、神の子となりました」「(だから)親孝行をしなければなりません」というものだったのです。
 
親孝行自体は大切なことです。しかし、この話には信仰による救済という教理と、生活における行為としてのキリスト教倫理が混同されている上に、そこに親孝行という儒教的教えに基づく独特の文化的要素が混入されて話しがややこしくなったわけですが、その後、その教区ではお隣りの国から講師を招聘していないようです。
 
一つの価値観が歴史を変質させ、またキリスト教教理をも歪めてしまうような傾向が、隣国にはあるとするのであればそれはとても残念なことです。
 
正確な事実に基づく歴史教育と、バランスのとれた聖書解釈、神学教育こそが、偏った考え方や見方を排することとなり、また、それによって事実に基づかない思い込みの幻想や意図的捏造を見抜くことが可能となります。
 
そして私たち日本人がそして日本の教会が、幻想と捏造を見抜くことができるようになれば、自ずから、有害にして無益な自虐思想そのものからも解放されて、等身大の自分に誇りを持って生きることができるようになると思うのです。
 
国防、つまり国を守るということには外的な守りと内的な守りとがあります。昔、非武装中立などという夢みたいなことを唱える人々もいましたが、武力による攻撃や侵略行為に対しては、スイスのように軍事的守りを固めることは常識です。
 
しかし、軍事的守りがあれば国防は万全かというと、そうではありません。一国を弱体化するためには内的な侵食という方法がとられます。それが国民の自虐意識を強めてその抵抗力を減殺するという方法であって、戦後の米国の占領政策はまさにこのことを目的として展開され、その意図は見事に達成されてしまいました。そして今、この方法を忠実に実施しているのが東アジアの二国なのです。
 
この内的な守りの必要を強調したのが、原爆慰霊碑を前にしてパール博士が指摘した、「国民がその良心をゆがめられた罪悪感をになって卑屈になっているあいだは、進歩も発展もない」という言葉です。
 
今年も間もなく八月十五日を迎えますが、日本人として、そして日本のキリスト者として、悩みながら、そして考えながらこの問題に取り組んで、そして主なる神に喜ばれる一方、同胞からも信頼されるキリスト者、他国からも尊敬される国民を目指したいと思います。
 
真の謙遜は、事実、実態の正しい認識なくして身につくことはないからです。もう一度、ペテロの手紙を読みましょう。
 
「みな、互いに謙遜を身につけなさい」(ペテロの第一の手紙5章5節)。