キリストは赦し難い敵のために神の赦しを祈った
色眼鏡
ある主婦が肉を買おうとスーパーに行きました。肉売り場で肉を選んでいたら、お隣に中年のカップルが。
奥さんらしき人がガラスケースの中の肉に手を伸ばしたところ、「それは色が悪い!」という男性の声。そこで女の人が別の肉を取ろうとしたところ、またまた「それも色が悪い!」
男性なのにずいぶんシビアな人だなと思った主婦がその声の主の顔を見たところ、何とその顔にはしっかりと濃い目のサングラスが(笑い)。これは実話です。
どんなに新鮮で良い肉であっても、サングラスをかけて見れば不良品に見えてしまうものです。
人はとかく、人や物事を見る際に先入観や偏見という色眼鏡ごしに見がちで、そのために対象を正しく把握することができないということがあります。
私も十代のころ、無知であったため、「キリスト教は外国の宗教だ」、「宗教なんて、弱い人間が頼るものだ」と勝手に思い込んでいたものでした。
しかし、その考えは偏見でしかありませんでした。
色眼鏡をはずす
「奴は悪人だ」という偏見と先入観で、イエス・キリストは十字架にかけられてしまいました。西暦三十年四月七日の金曜日のことです。
十字架刑というのは、両足は縛られて台の上に乗せられますが、両手には太い釘を打ち込まれて、そのまま死ぬまで放置されるという、拷問と処刑の両方を兼ねた極めて残酷な死刑方法でした。
もしも冤罪(えんざい)で処刑されたならば、通常、人は何を叫ぶでしょうか。恐らくは自分が無実であることを訴え、あるいはよく調べもせずに自分に死刑を宣告した司法当局に対する恨みを叫ぶことと思います。しかし、十字架上のイエス・キリストの口から出たものは、冤罪を訴える言葉でもなく、敵を呪う言葉でもなく、また、復讐を神に求める言葉でもありませんでした。
驚くべきことにイエス・キリストは神に向かい、赦し難い敵たちのために「父よ、彼らを赦してください」と、心からその赦しを祈ったのです。
「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをゆるしてください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』」(ルカによる福音書23章34節)。
かつてこのような人がいたということをあなたは聞いたことがあるでしょうか。このイエス・キリストの物語は、その場にいた人の証言によるものなのです。
私たちは物事を無意識のうちに色眼鏡で見ているということがよくあります。そのような場合、かけている色眼鏡をはずして見たら、それまでとは違った風景が見えてきて、その結果、新しい発見をすることができるかも知れません。
暑さの盛りですが、街角の小さな教会に足をお運びになり、聖書の講話とゴスペルを通して、日々の歩みを見つめるひとときとなさってください。十字架の物語は、あなたの人生に何ごとかを語りかけてくれることと思います。
ご来会をお待ち申し上げております。