キリストは罪びとを最後の審判から救うために到来した
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古典落語に「お血脈(けちみゃく)」という有名な噺(はなし)があります。
信州信濃の善光寺にお血脈という印鑑があって、百疋、今の貨幣価値でいえば二万円ほどを払うと、これをおでこに押してくれる、すると押された人の罪障が一気に消滅して、どんな極悪人でも極楽往生できるというので、それこそ押すな押すなの盛況となりました。
しかし、みんなが極楽に行ってしまうので地獄は開店休業状態で衰微の一途、そこで閻魔大王が対策会議を開いて協議したところ、地獄にとっては禍の元であるそのお血脈なるものを盗み出してはどうか、という案が採用されて、選ばれたのが釜ゆでにされた石川五右衛門でした。彼は夜陰に紛れて善光寺に忍び込み、忍術を使って首尾よく目的のものを盗み出したまではよかったのですが、思わず昔の癖が出て、「まんまと首尾よく…、ああ、ありがてえ、かたじけねえ」と芝居気たっぷりに見栄を切ってそのご印を額の前に押しいただいたので、そのとたん、そのまま極楽に行ってしまった、というのがオチの噺です。
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人はなぜ死を恐れるのでしょうか。一つはこの世の生活への未練があるからであり、もう一つは家族をはじめとする、愛する者との別離の悲しみを味わわなければならないからです。しかし、それだけではありません。人は死んだらどうなるのか、死んで骨や灰となってその存在を終えるのか、死後の世界があるのか、あるとしても、果たして自分は極楽や天国に行けるのか、それとも地獄に堕ちてしまうのか、と不安になるからでもあるのです。
ところで聖書にはこうあります。
「人間には、一度死ぬことと、死んだのちに審判を受けることが定まっている」(新約聖書 ヘブル人への手紙9章27節)。
地上でどんなに長寿を誇っても、人はいつか必ず死を迎えます。例外はありません。そしてどんな人も死後、神の審判を受けることになるのです。これを「最後の審判」と言います。すべての人は真の神の前に出て行って、生前の生き方を評価される審判を受けなければならない、と聖書は言います。
そして審判の結果、死後の行き先が決まるのです。そこではコネも賄賂も効きません。すべてが白日のもとにさらされて、公平に審かれます。
しかし、有り難いことに、イエス・キリストは、脛に傷持つ私たち罪びとをこの最後の審判から救うために、天から下ってきてくれた救い主なのです。
このイエス・キリストを七月七日の礼拝でご紹介いたします。ぜひこの礼拝にお越しください。あなたさまのご来会を心より歓迎致します。