2013年7月7日 七月日曜特別礼拝説教(第二回)
「十字架の物語?イエス・キリストは、罪びとを最後の審判から救うために到来した救世主であった」
ルカによる福音書23章27~31節(新約聖書口語訳131p)
はじめに
落語には古典落語と新作落語があるのですが、古典落語の中でも特に有名なのが「お血脈(おけちみゃく)」という噺です。
昔、信州信濃の善光寺というお寺に、お血脈のご印、つまりハンコがあって、お布施として百疋(現在の貨幣価値でいうと二万円ほど)を納めると、おでこにお血脈のご印を押してもらえる、そしてそれを押された者は生前の罪障一切が消滅されて、だれでも極楽往生することができるという有り難い代物でした。
そのご利益が評判となり、有象無象が我も我もと善光寺に押し掛ける始末で、その結果、みなが極楽に行ってしまう、そのため地獄に行く者がいなくなって、地獄は開店休業状態、衰微の一途を辿る状態となってしまったというのです。
そこで危機感を持ったのが地獄の主の閻魔大王(えんまだいおう)で、緊急会議を招集して地獄の建て直しのための善後策を協議したところ、そこに進み出たのが視目嗅鼻(みるめかぐはな)という者、そして、「我が地獄にとって禍の種である血脈のご印なるものを善光寺から盗み出してはどうか」という意見を開陳します。
そしてこれが閻魔大王の意にかなって採用されたのですが、扨、だれを盗みに行かせるかと言うことになった時、適当な人材が見当たらない、閻魔大王を中心として地獄の幹部が鳩首協議をした結果、あの男が最適と一同から推挙されたのが、豊臣秀吉の首を狙って捕まり、油の煮え立った釜で釜ゆでの刑に処されたという大泥棒の石川五右衛門であったといわけです。
この五右衛門、閻魔大王による直々の指名を光栄に感じ、信濃に行って夜陰に乗じ、忍術を使って善光寺の奥へと忍びこみ、ついに目的の血脈のご印を盗み出すことに成功します。ただ、盗み出したまではよかったのですが、そこに思いもかけない落とし穴があったというわけです。
実は五右衛門、大変な芝居好きであった、そこでこの成功に気をよくして思わず芝居気たっぷりに見栄を切って、「はは、ありがてぇ、かたじけねぇ、まんまと首尾よく奪い取ったるお血脈のご印、これさえありゃあ大願成就、かたじけねえ、ありがてぇ」と言って盗んだばかりのそれを自分のおでこの前に押し戴いたものだから、五右衛門、そのまま極楽に行ってしまった、というのが噺のオチの古典落語です(講談社発行「古典落語」229p)。
なお、この落語は動画で視聴することが可能です。「落語 お血脈」で検索しますと、NHKの人気健康番組「ためしてガッテン」で司会を務めている立川志の輔がまだ若かった頃に歯切れよく演じていた噺を楽しむことができます。
ところで、唯物史観つまり、すべては物質でしかない、という考えが入ってくるまでの日本人は、人は死後、地獄か極楽のどちらかに行くと素朴に信じていたようです。
しかし、この唯物史観なるものが入ってきた結果、死後などというものはなく、人は死んだら終わりなのだという唯物論の影響を受ける者が日本全体に増えてきました。
でも、実際はどうなのでしょうか。死後の生命はないと信じるのは勝手ですが、もしも死後のいのち、死後の世界があるのだとするならば、やはり、死後に対しての備えが必要です。まさに「備えあれば憂いなし」だからです。
では、人の死後にはいったい、何があるのでしょうか。
1.人はみな誰も、その死後に生前の行いに応じて神の審判を受けなければならない
人がどのように考えようと、あるいは信じまいと、大事な事は何が事実かということです。
「地球が太陽の周囲を回っているのではない、太陽が地球の周りを動いているのだ」という天動説を信じている人がいたとして、だからといって地球が太陽の周りを回っているという事実に変わりはありません。
私がアンチキリスト教であった理由の一つは、中世のキリスト教会が天動説に固執して、地動説を唱えた学者を迫害したということを聞いていたからです。
死後はない、と信じるのは自由です。しかし、死後はないと思い込み、人の存在は死によって消滅すると主張し続けたとしても、死んだ後に、もしも意識があったとするならば、そして死後に対して何の備えもしていなかったとすれば、その人は悔やんでも悔やみ切れないのではないかと思うのです。
イエス・キリストはローマ法に関して全くの無実であるにも関わらず、それどころかそれまでの人生において一点の染みもない日々を生きてきたにも関わらず、自己保身に走ったローマの官僚、ユダヤ総督ピラトにより国家反逆という罪状で十字架刑を宣告され、即日処刑ということでエルサレム郊外に設けられていた刑場へと連行されていきました。
十字架を担ぐイエスの(実際に死刑囚が担いだのは横棒であって、縦棒ははじめから刑場に運ばれていました)その後ろには、大祭司らに扇動されて「イエスを十字架にかけよ」と叫んだ民衆たち、つまり地中海世界やヨルダン川の東方など、外地から祭のために上ってきた巡礼たちと、一方、罪のないイエスの処刑を悲しみ嘆いてやまないエルサレム在住の女性たちとが泣きながら付いていきました。
「大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行った」(ルカによる福音書23章27節 新約聖書口語訳131p)。
ところが、イエスは突如、後ろを振り向き、悲しみ嘆いている女性たちに向かって、「わたしのために泣くな、むしろ、自分自身のため、そして自分の子供らのために泣け」と言ったのです。
「イエスは女たちの方に振りむいて言われた、『エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい』」(23章28節)。
そしてこう言ったあと、続けてその理由を説かれたのでした。「それは、神の審判は確実にある、しかも、その審判は人によっては極めて苛酷なものとなる、だからだ」というわけです。
「『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかた乳房とは、さいわいだ』という日がいまに来る」(23章29節)。
これはどういうことを意味しているのかと言いますと、人は誰もがその死後、それぞれの生前の行いに応じて、その生き方そのものを神に審査され、それによって、死後の運命が決められるという、最後の審判についてイエスが言及したものだったのです。
西暦五十年代の半ば、使徒パウロはギリシャ・コリントの集会に宛てた書簡の中で、人は一人の例外もなく死後に最後の審判を受けると明言しました。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ、悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(コリント人への第二の手紙5章10節 282p)。
実は、この箇所の口語訳には「体によって」という言葉が抜けています。つまり、正確に言えば、人は誰も「自分の〈体によって〉行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならない」、これがこの箇所の原文の正しい訳文です。
そして、その審判の対象となる事柄は、人が生まれてから死ぬまでの生前のすべての営みであって、それは外に現われた行為や言動だけでなく、人が心の中で考えたこと、想像したことすべてが対象となるのです。
ではだれが対象であるかと言いますと「わたしたち皆」です。例外はありません。そういう意味ではパウロ自身も無論、対象者のひとりでした。
そして、その時になってあわてても遅いのです。何の準備もないままに死を迎え、そして「キリストのさばきの座の前にあらわれ」(10節)つまり、この最後の審判に出頭し、裁判の結果、後悔の臍を噛んでもすでに手遅れです。
イエスの時代、子沢山は神の祝福を受けた徴しとされていました。反対に子供が欲しくても子を持てない女性は神の祝福から漏れた者と考えられていたものでした。
しかし、神と神の言葉を無視した生き方を親も子供もし続けて、その結果、親子ともども神の審きにあった場合、子供たちが神の審きの中で苦しみもがく様を見た親が、ひとりでだけ苦しんでいる人を見て、「彼女は私と違って子供がいないだけ、まだましだ」と言うことになる日が来る、とイエスは警告したのでした。
一時期、「24時―トゥエンティ・フォー)」という米国のテレビドラマが評判になりましたが、ドラマの中で主人公のジャック・バウアーが、容疑者に対して刑を軽くする、あるいは犯罪を見逃す代わりに重要な情報を提供するように交渉する場面がよく出てきました。
これを「司法取引」と言いまして、陪審員制度を持っている米国特有の制度なのですが、その背景にあるものが何かと言いますと、それが神の審判という信仰なのだそうです。
つまり、この地上では巨悪を罰するために、あるいは国全体の治安を維持するためにと見逃された罪も、神による最後の審判で審かれる筈である、だから今は罪に問うことはしない、というわけです。
そういう点では道家思想を説いた老子の「老子道徳経」の第七十三章にある、「天網(てんもう)恢恢(かいかい)、踈(そ)にして漏らさず」という有名な言葉にも共通するものがあるかも知れません。
「天網」とは岩波書店発行の「老子」(蜂屋邦夫訳註)によれば、「自然の道理を、人を絡め取る天の法網として捉えたもの」だそうです(331p)。
「恢恢(かいかい)」とは広くてゆったりとしていることで、「踈」とは細かくないということ、つまり、「天が張る法網は一見、目が粗くて、悪を見逃しているように見えるがそんなことはない、悪は決して見逃されることはないのだ」という意味です。
無神論者や唯物論者がいくら神の実在を無視し、あるいは死後の命を否定しても、人は皆、死んだ後に、唯一の神の審きを受けることになるのです。
2.イエス・キリストは、罪びとを最後の審判から救うために地上に到来した救世主であった
イエス・キリストが刑場に赴く途中、しかも、自分に同情を寄せる婦人たちに向かって、敢えて最後の審判に言及したのはなぜだったのかと言いますと、それは、これから私が架かりに行く十字架こそ、あなたがた罪びとを来るべき最後の審判から救うためのものであるのだ、ということを伝えたかったからなのです。
ルカによる福音書によれば、イエス・キリストは「救い主」として誕生したとされています。それはイエスがベツレヘムという町で誕生したとき、町の郊外で羊を飼っていた羊飼いたちに、天使の集団が現われて告げた言葉で明らかです。
「御使いは言った、『恐れるな、見よ、すべての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝える。きょうダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである』」(2章10、11節 85p)。
「救い主」(11節)といった場合、多くのユダヤ人たちはそれを政治的、軍事的な意味で捉えていて、当時、ユダヤを支配していたローマ帝国からユダヤを政治的、軍事的に解放して、パレスチナにユダヤ独立国家を築く王、と理解していました。
ですから、最初、イエスを熱狂的に歓迎していた「民衆」(23章27節)、つまり巡礼者たちが、一転してイエスに向かってこぶしを振り挙げたのは、彼らがイエスに対して持っていた一方的な期待が裏切られたと思ったからでした。
しかし、イエスがこの世に到来したのはこの地上にユダヤ民族のためのユダヤ人国家を形成するためなどのちっぽけな目的のためではなく、「すべての民」(2章10節)、つまりユダヤ人などを超えた全人類、全民族の救済のため、それも、政治改革などではなく、すべての人が「最後の審判」において、神によって無罪を宣告されるために必要な手当てをし、適切な手続きをとるためであったのです。
人は誰もみな、必ず、最後の審判の座に出なければなりません。そしてそこで死後の運命が決まるのです。
落語の「お血脈」に登場する閻魔大王は、通常、地獄に落ちて来た死者を審判する地獄の裁判官であって、その役割は地獄の秩序を保ち、罪びと一人一人に対して適正な刑罰を科すという役割を担っていたようですが、しかし、人間の死後の運命を決める権限は、閻魔大王にはありませんでした。
私たちの死後の運命を決める権限を神から委ねられた者は誰か、それはただ一人、神によって死からよみがえらされて、主の主、王の王とされたイエス・キリストのみです。
「彼処(かしこ)より来(きた)りて生ける者と死にたる者とを審き給わん」(使徒信条 第二条)。
では、一体、どのような人が神の審きを受けて、無罪を宣告されるのでしょうか。そのような人はただの一人も存在しません。人は多かれ少なかれ、あるいが大小の違いはあれ、脛に傷を持つ者だからです。
だからこそ、生前のイエスは一点の染みもない人生を生きたのでした。人としてのイエスが罪の誘惑をことごとく退けて罪なき人生を生きたのは、私たち全人類の罪の身代わりとなるためでした。
そして、自らの罪深さを認めて、イエスをキリストとして信じる者は、あたかもかつて一度も罪を犯したことがない者であるかのように見做され、その結果、最後の審判において、無罪を宣告されるという恵みに与ることができるのです。
その審判の座で人を審くのは、かつてユダヤの法廷で不法な裁判を受け、ローマの法廷で理不尽な刑を宣告されたイエス・キリストです。そして有り難い事に、生涯にわたって「イエスは主なり」と告白して来た者にとって、その審きの座は「良い忠実な僕よ、よくやった」(マタイによる福音書25章21節)というイエス・キリストによる表彰の場に変わるのです。
イエス・キリストがこの世に現われたのは、私たち罪びとを最後の審判から救うためであったのです。そのために主は、弁明もせず、再審を要求する事もせず、有罪宣告を甘んじて受けて、刑場へと向かって行かれたのでした。
3.イエス・キリストは、その愛のゆえに自分のことよりも滅びゆく者を案じた救世主であった
最後に、一連の出来事を読んでいて、気になるところに触れたいと思います。
それは、イエスのために悲しみ嘆く女性たちに向かってイエスが言った一言、「わたしのために泣くな、自分のため、自分の子供たちのために泣け」と言った、聴き方によっては冷たくも思えるような言葉です。
「イエスは女たちの方に振りむいて言われた、『エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなた方自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい』」(23章28節)。
常識的に考えれば、無実の罪で処刑されることになる我が身に同情して泣いてくれるのですから、ここは感謝の気持ちを述べるところであって、場合によっては冤罪であることを、声を大にして訴えるか、大祭司やローマ総督への恨みつらみの一言も言って、「そうだ、そうだ、あなたは悪くない」と言ってもらいたいと思えるような、そんな場面です。
しかし、イエスは自身の正当性を訴えるわけでもなく、恨みつらみを述べるわけでもなく、ありがとうと言うわけでもなく、「私のために泣くな、自分のため、子供たちのために泣け」と言ったのは、自分が不当な仕打ちにあっているにも関わらず、最後の審判を目前にしながら、一向に危機意識を持たない人々のことを案じていたからだったのです。
イエスの関心は常に滅びゆく人々に向けられておりました。
「AKB48(フォーティエイト)」というアイドルグループの人気が衰えません。最近、総選挙なるものが行われ、九州に左遷された指原莉乃が大量の票を集めて、不動のセンター大島優子を押しのけ一位に選ばれましたが、このAKB48をめぐって、昨年末、一冊の新書版が出版されました。「前田敦子はキリストを超えた 《宗教》としてのAKB48」という本です。
何で前田敦子というAKBの元メンバーがキリストを超えたのかといいますと、一昨年の総選挙で前田敦子が大島優子に代わって一位になったとき、「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」と言った、つまり、その利他性のゆえに前田敦子はキリストを超えたのだと、著者は大まじめに主張しているのです。
二〇一一年に行われた第三回選抜総選挙の場で、一位に返り咲いたあっちゃんが発したかの有名な言葉、「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」(中略)この言葉に充溢するあっちゃんの「利他性」こそが、前田敦子がキリストを超えたアルファにしてオメガのポイントである。それがキリストがゴルゴタの丘で磔刑を受けているときに発したとされる言葉、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」に匹敵する(いやもしかしたら超えるかも知れない)、自らを犠牲にする者の利他性に満ちた言葉である(濱野智史著「前田敦子はキリストを超えた―《宗教》としてのAKB48」34~36p ちくま書房)。
確かにこのアイドルの言葉には自分のことよりもAKBというグループを想う心情が溢れているように思えますし、それはそれでフアンから見れば感動的であり、利他的と言えば利他的です。
しかし、まじめに論ずるのもばかばかしいのですが、前田敦子というアイドルのどこが「キリストを超えた」と言えるのでしょうか。このアイドルが「利他性」を示した対象は、自分がいま所属をし、そしてそこから多くの個人的利益を得ているグループに過ぎません。
言うなれば愛校精神や愛社精神の発露のようなものです。
著者は「自らを犠牲にする者の利他性に満ちた言葉である」と評価しますが、彼女はいったい「自ら」の何を「犠牲」にしたというのでしょうか。
前田敦子は誰かの身代わりに死んだことがあるのでしょうか。無実の罪で処刑される直前に、自分のことよりもむしろ、滅びゆく者たちの行く末を慮って、一生懸命に神の言葉を解き明かしたのでしょうか。
言論、表現、出版の自由が保障されている日本という国はつくづく良い国だと思います。これが日本でもなくキリスト教世界でもないところで「〇〇〇〇は☓☓☓☓☓を超えた」などと書いたら、著者は抹殺されるところです。
アイドルと比べるまでもありませんが(そして「キリストを超えた」と勝手に評されてしまった前田敦子というアイドルこそ、いい迷惑だと思いますが)、最後の審判という来るべき審きから罪びとを救うために十字架の恥と死を拒もうとしなかったイエス・キリストは、今も、私たち滅び行く人類一人一人を案じてくださっているのです。
一方的な被害者意識と偏狭な心根の持ち主の多い特定の国での歪んだ評価を除けば、日本人はその際立った「礼儀、正直、理性、誠実、信頼性」のゆえに、全世界の人々から愛されています。そして日本人は実は神からも愛されているのです。
ただ残念なことに、多くの日本人は自分たちが神から、そして救世主イエス・キリストからこよなく愛されているということを知りません。
イエス・キリストこそ、私たち日本人のため、日本人一人一人が最後の審判から救われるようにと、この世に到来してくれた救世主なのです。
そのことを、老若男女を問わず一人でも多くの日本人に、もっともっと知ってもらいたいと心から思います。