【お知らせ】2024年3月より、寝屋川市錦町に移転しました。

2013年6月23日日曜礼拝説教「信仰の祖アブラハムと妻サラとは、その生涯を宿り人として生きた」創世記23章1~20節

2013年6月23日 日曜礼拝説教

「信仰の祖アブラハムと妻サラとは、その生涯を宿り人として生きた」 
   
 創世記23章1~20節(旧約聖書口語訳26p)
 
 
はじめに
 
 日本に観光に訪れる外国人が増えているそうです。
五年前、国土交通省の外局の一つとして設置された観光庁は、訪日外国人旅行者数を七年後の二〇二〇年初めまでに二千五百万人とすることを念頭に、これを二〇一六年までに千八百万人としたいと考えている一方で、日本人海外旅行者数を二〇一六年までに二千万人、を目標としているとのことです。
 
 また観光庁はこれらの他に目標として、訪日外国人の満足度が「大変満足」と回答する割合を二〇一六年までに四十五%にすること、そして「必ず再訪したい」と回答する割合を六十%とすることを目指すそうですが、既に達成しているのではないかと思うくらい、日本の評判はよいようです。
 
 サーチナという各国のブログを紹介するネット欄に先週、日本在住の中国人の体験が載っていました。
 
 京都でのことだったそうです。
バスに乗ったところ、運賃が二百二十円なのに、手持ちの小銭が百九十円しかない、ところがバスの両替機は五千円札や一万円札には対応していない、青ざめ困惑していたこの人に運転手が声をかけたので、「三十円足りない」と正直に話したところ、「取り敢えず手持ちの百九十円を払って、残りの三十円は次に乗った時に払ってくれればよい」と言ってくれた、これが中国なら途中下車させられ、しかも罵られたかも知れないそうで、感激したこの人は次にバスに乗る予定がなかったにも関わらず、運転手の信用に応えたいと、帰りもバスに乗って三十円を払ったというのです。
 
筆者はそのブログの最後で、「日本人の誠実さ、民度、開けた文化のおかげで日本での生活はとても過ごしやすく、安心感があって楽しい」と結んでいるそうです。
 
 外国人が日本に来て驚くのは、とにかく町が清潔であること、交通規則が守られていること、店員が愛想よく、そして礼儀正しいこと、住民のだれもが親切であること、食事のメニューが豊富でどれも美味しいことなどの他に、治安がよく守られていること、つまり安全であることのようです。
とりわけ安全性の面では、深夜になっても女性が平気でひとり歩きをしている国などは、日本以外にはないでしょう。
 
 しかし、江戸時代の日本は、諸外国に比べれば遥かに安全であったとはいえ、長期の旅は命がけであって、水盃を交わして旅に出たようです。
 
元禄時代の俳諧師である松尾芭蕉の紀行作品、つまり旅行記として名高い「奥の細道」は、芭蕉が曾良という弟子を伴って、西行の五百年忌にあたる今から三二四年前の元禄二年の五月に江戸深川を発って、現在の北関東、東北、北陸を経て滋賀までに至る五カ月間の旅の記録です。
 
特にその出だしを古文の時間に暗誦させられた記憶のある人も多いと思います。
 
月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅にしせるあり。
 
予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思いやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やや年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もも引の破をつづり、笠の緒付けかえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかかりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、面八句を庵の柱に懸置(松尾芭蕉著「奥の細道 一」)。
 
 「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして行きかふ年も又旅人也」という冒頭の有名過ぎるくらい有名な言葉は、「月日、すなわち年月というものは、過去から未来へと百代にもわたるような、それでいて二度と還ることのないような旅人であって、行きかう年、つまり行く年来る年もまた、同様である」という意味です。
 
 そして芭蕉は続けます、船頭として船の上で一生を過ごす人も、馬子として身すぎ世すぎをする人も、その日々の暮らしそのものが旅のようなものであって、旅を棲みかとしているのだ、西行をはじめとして、昔の人も多くは旅の途上で亡くなっている、
 
私芭蕉もいつのころからか、空に浮かぶ雲に誘われるようにして…と言って、旅に出かけたくなった心境を綴り、旧暦の春三月、今でいえば五月の半ば、「三里」という膝のつぼにお灸をすえて、深川から隅田川を舟で出かけて千住から陸路、北へ向かうのですが、その深川は私の生まれた所で、しかも千住は私の先祖が代々、木材問屋を営んでいた所ですので、そういう意味でも「奥の細道」には親近感を覚えます。
 
 この旅から帰ってきた五年後、芭蕉は、大阪の御堂筋で息を引き取ることになるのですが、亡くなる一週間ほど前に詠んだ句が、「病中吟」と言われる有名な句でした。
 
   旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る
 
 この芭蕉より三千有余年以前、信仰の祖アブラハムと苦楽を共にしてきたサラが死去します。そこで妻のために墓所を得るべく、先住民と交渉している時にいみじくもアブラハムの口から出たものが、「私は旅の者であって、寄留者、宿り人である」という言葉でした。
 
 二月から続けてきたアブラハムの物語もいよいよ大詰めとなりました。今週も心をこめて聖書の物語を追いたいと思います。
 
 
1.信仰の祖アブラハムと妻サラとは、人生は旅、人は旅人との理解のもとに波乱万丈の生涯を生きた
 
 アブラハムを残して妻のサラが亡くなりました。享年百二十八でした。
 
「サラの一生は百二十七年であった。これがサラの生きた年であった」(創世記23章1節 旧約聖書口語訳26p)。
 
 サラは神に呼び出されたアブラハムに付いてカナンに来たのが六十二年前、六十五歳の時でした。
爾来二十五年、神の恵みによって奇跡的にイサクを生み、そのイサクが三十七歳になった時、カナン中部の町、ヘブロンで亡くなったのでした。
 
「サラはカナンの地のキリアテ・アルバすなわちヘブロンで死んだ」(23章2節)。
 
 二人は避難先のエジプトからカナンに戻ってきたあと、このヘブロンに天幕を移し(13章18節)、ここで神の啓示を受け、神の約束を確認しました。 
 
とりわけサラの場合、このヘブロンのマムレ地区のテレビンの木の傍らに設置された天幕の中で、ソドムに行く途中の神の使いから、アブラハムとサラとの間に男の子が生まれるという告知を直接受けたのでした(18章10節)。
アブラハムは何度も神の言葉を聞き、また神の顕現を経験しておりますが、サラが神の使いと接したのは後にも先にもこの時だけでした。
 
 神の使いの告知に対して「そんなことはあり得ない」と心の中で苦い笑いを漏らしたサラに対して神の使いが、「主なる神には不可能なことはない、来年の春にはあなたは乳飲み子を抱いているであろう」と宣告して去って行ったのもヘブロンであり、サラが待望の男の子を生んで、育て上げたのもこのヘブロンでした。
いうなれば、ヘブロンはサラにとっては第二の故郷とも言うべき土地であったわけです。
 
 しかし、死は無情にも誰に対しても容赦なく訪れてきて、その結果、残された者は悲嘆にくれることとなります。アブラハムも同様でした。アブラハムは糟糠の妻を失い、そして悲しみ泣いたのでした。
 
「アブラハムは中にはいってサラのために悲しみ泣いた」(23章2節)。
 
創世記はアブラハムがサラの亡骸の前で「悲しみ泣いた」と記しますが、この一句からアブラハムのサラに対する想いが伝わってくるようです。
 
そしてこのあと、アブラハムはサラの葬りのために墓所を持つことを決断して、ヘブロンの先住民であるヘテ人との交渉にあたります。その交渉の開始にあたってアブラハムは自らを瞠目すべき言葉で紹介します。
 
「アブラハムは死人のそばから立って、ヘテの人々に言った、『わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが、』」(23章4節)。
 
 「わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者です」(4節)という言葉は、彼の生涯を貫く変わらぬ自己理解であったのです。
 アブラハムとサラとは、人生は旅、人は旅人という理解のもとで、波乱万丈の生涯をこのカナンの地で送ったのでした。
 そういう意味においては、現代を生きる私たちと信仰の祖アブラハム、またその妻サラとの間に違いはないのです。
 
 有り難い事に、かつては神なき人生を流離っていた漂泊の私たちは、神の恵みによってある日ある時、神に救い上げられて、聖徒たちと同じ神の国の国籍を持つ者、また神の家族としての立場を持つようになりました。
 
「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである」(エペソ人への手紙2章19節)。
 
 もちろん、私たちは天に「国籍」を持つ者であると共に、一方ではこの地上にあって、一つの国家に国籍を持つ者として、国民としての権利と義務に与っています。
 
先週の金曜日、有名キャスターの乗ったヨットが米国サンディエゴを目指す途中の宮城県金華山沖千二百キロメートルで沈没した際に、救援要請に応えて飛来してきた海上自衛隊の飛行艇によって、キャスターと盲人のヨットマンが波逆巻く海から救出されるという事件がありました。
 
その救出されたキャスター(因みにこの方はお隣の枚方市在住です)がテレビカメラの前で感極まりつつ涙ぐみながら言った言葉が、「たった二人のために十一人の(海上自衛隊の)皆さんが犠牲になるかも知れないという思いで(高波の中)着水して下さった。『素晴らしい国に生まれたよね』と(パートナーにも)言ったんですが…」でした。
 
当時の現場の状況は波の高さが三メートルから四メートル、風速は十六メートルから十八メートルという悪条件下で、奇跡とも思える救助を可能にしたものが海上自衛隊岩国基地に所属する第七十一航空隊の隊員たちのレスキュー技術の高さと、US-2という世界最高の性能を誇る国産の水陸両用の飛行艇の存在でした。
 
これが他国で起こった事案であるならば技術、性能の不足から、彼ら遭難者は間違いなく海の藻屑となっていた筈でした。
まさに「素晴らしい国に生まれた」という幸いを本人、関係者のみならず、日本人の誰もが実感させられた救出劇でした。
 
 そして「素晴らしい国に生まれた」幸いを感謝しつつも、前途に何が起こるかわからないもの、それが人生という旅です。華々しく出航した二人のヨットマンも、まさかこんな形で計画が挫折するとは想像もしていなかったことと思います。
 まさに人生は先の見えない旅なのです。
 
 松尾芭蕉の「奥の細道」への旅には弟子の曾良が同伴しましたが、私たちの人生の旅には、たといその旅が苛酷で一見孤独であるかのように見えたとしても、アブラハムとサラとを導き支えた神が、人生という旅路を歩む私たちの傍らを、変わることのない真実な神、全能の父なる神として同伴してくださっているのです。このことを今週、改めて肝に銘じたいと思います。
 
 
2.信仰の祖アブラハムと妻サラとは、人生という旅の目的を祝福の基となることに置き続けた
 
 このあとアブラハムは妻を葬る墓地を入手するために、土地の風習に従って、礼を尽くして複雑な交渉に入っていくこととなるのですが、そこでまず、亡き妻のための墓地を取得したいという意思を町の長老たちに表示します。
 
「アブラハムは死人のそばから立って、ヘテの人々に言った、『わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが、わたしの死人を葬るため、あなたがたのうちにわたしの所有として一つの墓地をください』」(22章3、4節)。
 
 「ヘテの人々」とはメソポタミア文明の担い手の一つであった「ヒッタイト」の流れを汲む部族でしょう。
「人々」とはこの場合、土地の名士や有力者たちを意味します。そして、アブラハムは具体的な物件をあげて、土地の所有者との交渉の許諾を彼らから得ようとします。
 
「アブラハムは立ちあがり、その地の民ヘテの人々に礼をして、彼らに言った、『もしわたしの願いをいれて、わたしの死人を葬るのに同意されるなら、わたしの願いをいれて、わたしのためにゾハルの子エフロンに頼み、彼が持っている畑の端のマクペラのほら穴をじゅうぶんな代価でわたしに与え、あなたがたのうちに墓地を持たせてください』」(23章7~9節)。
 
 結果としてアブラハムは、エフロンという土地所有者が提示した法外な土地価格をその言い値で丸呑みにし、正式に購入契約を交わすことによって、墓地とその周辺の土地を取得することとなります。
 
「こうしてマムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、畑も、その中のほら穴も、畑の中およびその周囲の境にあるすべての木も皆、ヘテの人々の前、すなわちその町の門にはいるすべての人々の前で、アブラハムの所有と決まった」(23章17、18節)。
 
 このような煩雑な購入手続きを経て、アブラハムは妻サラを買い取った墓所に葬ります。
 
「その後、アブラハムはその妻サラをカナンの地にあるマムレ、すなわちヘブロンの前のマクペラの畑のほら穴に葬った」(23章19節)。
 
 不思議なのはアブラハムほど裕福であるならば、なぜ前以て広大な土地を取得しようとしなかったのか、ということなのですが、それは彼とサラとが、自分たちがカナンの地へと神によって呼び出された目的を認識し続けていたからでした。
 
彼らは第一に、カナンの土地はいつの日にか、彼らの子孫に与えられることになるという神の約束を信じておりました。だから、土地の取得に執着しなかったのだと思われます。
そして第二には、彼らの存在目的が、世界にとって神の祝福の基となり、神の祝福の媒介者となるためであるということを忘れていなかったからでした。
 
祝福の基となるとは、生活で神の恵みを証しするということです。その意味において、社交辞令という要素を差し引いたとしても、土地の人々のアブラハムへの評価は、彼がロトとは違って、この地において神の祝福の基、祝福の媒介者として生きていたことを証しするものと言えるでしょう。
 
「あなたはわれわれのうちにおられて、神のような主君です」(23章6節)。
 
なお、第一の約束はその数百年後、モーセの後継者ヨシュアによって実現し、第二の約束はアブラハムの子孫のダビデの子孫として生まれたイエス・キリストによって、具体的にはイエス・キリストの十字架の死による贖いと、その贖いが効果を持つことを証明したキリストの復活によって実現することとなります。
 
ただし、第二の約束の実現によって、第一の目的は既に完了しておりますので、一九四八年のイスラエル共和国の建国は、神とアブラハムとの契約は何の関係もなく、当然、預言の成就などでもありません。このことについては、七月十四日の礼拝説教でご説明したいと思います。
 
 今日、アブラハムの子孫とは血筋や民族に関係なく、アブラハムの信仰を受け継ぐキリストの教会のことです。
私たちキリストの教会こそ、信仰の祖アブラハムとその妻サラの信仰を受け継ぎ、その使命を担う者、神なき世界にあって神の祝福の基、祝福の媒介者として召されているのです。
 
 
3.信仰の高嶺を目指す者の人生という旅の究極のゴールは、神がいます天の故郷にこそある
 
 アブラハムが土地の所有に執着しなかった理由として、後代、それは彼が天にある故郷を目指していたからであるという解釈が生まれてきたようです。原始キリスト教会もそうであったようです。
 
「(アブラハムは)信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。…しかし、実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった」(ヘブル人への手紙11章9、10、16節 新約聖書口語訳355p)。
 
 ヘブル人への手紙の著者は、アブラハムたちが地上の土地や暮らしに執着しなかったのは、「天の故郷を熱望していた」(16節 新共同訳)からだと言うのですが、某大手新聞の社説ではありませんが、ちょっと待ってほしい、果たしてそこまで断言できるのかと思います。
 
 なぜなら、古代ヘブル人にとっては、人は死によってその存在を終了するものであったからで、ですから「もっと良い、天にあるふるさと」といった発想は彼らにはなかった筈なのです。
 それは古代の様相を色濃く反映しているといわれるヨブ記の記述に表れています。古代の人々にとっては現世の祝福こそが神の祝福の現われでした。長寿、健康、財産、子沢山という目に見える祝福こそが、祝福の徴でした。
 
しかも時代が進んでからも、死者の世界、すなわち黄泉あるいは陰府は善人も悪人も一様に行くところであって、そこは希望がない、暗い場所と信じられていたのでした。
 
死後の世界が天国と地獄に大別されるようになったのは紀元前後のことです。
ですから、アブラハムもサラも、地上の人生を精一杯生きて、そして死を迎えた筈なのです。アブラハムにとって死は愛する者との永久の別れでした。だからこそ妻サラの死を「悲しみ泣いた」(2節)のだと思われます。
 
私たちがアブラハムを模範とするわけは、彼が地上における厳しい歩みを、神の言葉に縋りながら、目には見えない神を仰いで誠実に生き抜いたからです。それ以上でもなく、それ以下でもありません。
 
アブラハムの知識には時代的制約がありました。しかし、イエス・キリストを通し、また使徒のパウロを通して知識の制約から解放されたキリスト以後の神の民には、信仰の高嶺を目指す信仰者の究極のゴールが、神がいます天の故郷、永遠の都であることが明らかにされたのでした。
 
そしてその分岐点となったものこそ、西暦三十年四月九日日曜日早朝に起きたイエス・キリストの墓からの復活、死者の世界からのよみがえりの事実だったのです。
 
「するとこの若者は言った、『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえってここにはおられない』」(マルコによる福音書16章6節 新約聖書口語訳81p)。
 
信仰の祖アブラハムが知らなかった、あるいは隠されていた信仰の奥義、特に復活の秘義という恵みを、今日の私たちは教えられ、知らされているのです。だから、キリスト者こそ、神からの使命を生きたアブラハムに倣って、地上における責任を立派に果たしながら、「天の故郷を熱望」しつつ、恵みの高嶺を力強く目指すという生き方が可能となるわけです。
 
中国の古典に「韓詩外伝」という「詩経」の詞句を関連付けて分かり易く説く説話集がありますが、その中に「起きて半畳、寝て一畳」という言葉があるとのことです。
どんな人間も起きて座っている時に必要なのは畳半畳で、余程背の高い人でない限り、寝る時に必要なのは畳一畳分、というわけです。もっとも、私たちの教会の男性の方々は百八十センチを越える方々が多いので、畳一畳分では足りないかもしれませんが。
 
「イワンのばか」などで有名なトルストイの民話にある、「人間にはどれだけの土地が必要か」を思い出します。
 
ロシアにパホームという小作人がいた、一生懸命に働いてきた、
やがて小さな土地を持つようになったが、もっと広い土地が欲しいと思う毎日であった。
 
そこに旅人が来て、パキシールという所では僅かな額で好きなだけ広い土地を買うことができるという情報をもたらしてくれた、ここの人々は遊牧民で耕作をしない、そこで、思い切って現地に行ったパホームが村長に贈り物をしたところ、喜んだ村長がお礼をしたいというので、それならば土地をもらいたい、と言ったところ、村長は、好きなだけあげよう、という、値段は?と聞くパホームに対し、村長は、一日、千ルーブリで、と答えた、千ルーブリ? そう、一日歩き回った分を、千ルーブリでお分けする、但し条件がある、その日のうちにスタート地点に戻って来ないと契約は無効となる。
 
そこでパホームは朝早く出かけた、丘の上のスタート地点には村長の狐の毛皮の帽子が目印として置かれた、彼が日没までにそこに帰ってきたら歩いた土地はすべて彼のものになる、歩けば歩くほど、土地が増える、彼は欲を出し、もっともっとと思って歩き続けているうちに、いつの間にか日没が近づいてきていた、焦ったパホームは息せききって日没直前、何とかスタート地点の近くまで辿りつき、必死の思いで村長の帽子を掴んだそのとたん、その場に倒れた、
 
パホームが連れてきていた作男が倒れたパホームを抱き起こしたところ、彼は息絶えていた、作男はそこに穴を掘ってパホームを埋めた、彼が必要としていたのは結局のところ、彼の背丈ほどの広さの土地であった。
 
この民話には当時の帝政ロシアへのトルストイの批判などが隠されているという解釈もあるようですが、「人はどれだけの土地がいるか」というタイトルには考えさせられるものがあります。
 
地上の暮らしは大事にしなければなりません。地上の絆も重要です。しかし、究極の幸せとは何かと問われるならば、それは天に自らの名が記されていることであり、神がいます天の故郷こそ、キリストの復活と言う秘義を知った現代のキリスト者が目指す究極のゴールであることを、改めて確認したいと思うのです。
人生は旅、人は旅人、目指すは天の故郷です。