2013年4月7日 教会開設記念礼拝説教
「イエスの悲願 ― ついにひとつの群れ、ひとりの羊飼いとなる」
ヨハネによる福音書10章16節(新約聖書口語訳156p)
はじめに
王制時代のイスラエルでは、王さまはしばしば羊飼いに譬えられました。そして、預言者は、良き羊飼いのもとでは民は幸せになるが、悪しき羊飼いのもとでは国は滅びるとして、王様に対しては、神を崇める良き羊飼いであることを求めたものでした。
近年、歴史を好む女性が増えてきて、そのような女性を「歴女」と呼ぶそうで、特に武将に「萌える」女性を「武将萌え」というのだそうです。
ただ面白いことに、男性に人気の織田信長を好む女性は多くはないそうです。
私もまた子供のころは、歴史、特に戦国時代の歴史に興味を持っていたものですが、長ずるに及んで戦国武将の、とりわけ織田信長や豊臣秀吉などの行跡を知るにつけ、彼らに対しては、否定的な気持を持つようになりました。
中でも、天下統一を目指して己を神の如く位置づける一方で、敵どころか己に忠誠を捧げてきた家臣や領民までも情け容赦なく使い捨てるという残酷無情な性格の織田信長には、憧憬どころか嫌悪感すら抱くようになりました。
天下統一、権力の集中というおのれの野心の実現のために、人を平気で利用してきたのが織田信長という人物ですが、その対極にあるのがイエス・キリストです。
実は織田信長とイエス・キリストには、その生涯の目標において共通するものがあります。織田信長の場合、彼は日本国を一つにまとめて(天下統一)、その国の上に自らが絶対権力者として君臨することを願いましたが、イエス・キリストもまた、羊飼いとして羊の群れを一つにし、自らが唯一の羊飼いとしてその群れに臨むという願いを持ちました。
では両者の違いはどこにあるかと言いますと、信長には家臣や領民は自らの野心実現のための捨て駒にしか過ぎなかったのに対し、良き羊飼いであるイエス・キリストにとっては、自らに逆らって迷い道を行く愚かな羊のような民でさえ、命を賭けてまでも守るべき大切な存在であったということでした。
今年もこうして、池の端の四阿(あずまや)において、教会の開設を記念する礼拝を行っておりますが、今年は特に、イエスが持った良き羊飼いとしての悲願を受け継ぐべく、聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。
そこで本年の教会開設記念礼拝の主題は「イエスの悲願 ― ついに一つの群れ、ひとりの羊飼いとなる」です。
1. 良き羊飼いとしてのイエスの悲願
ヨハネの福音書の十章は、イエス自らの良き羊飼い宣言として有名なところですが、最初に私たちは、イエスの呻きともいうべき声を聞きたいと思います。
ところで教会とは何か、と言いますと、神を父とする神の家族、あるいはイエス・キリストを羊飼いとする羊の群れに譬えられます。
羊の群れは「囲い」の中にいてこそ安全に守られますが、囲いの外にいる羊は迷い羊として、常に狼や盗人から襲われるという危険に晒されています。
イエスの願いは、囲いの外にいて迷っている哀れな羊たちを、安全な囲いの中に導き入れることでした。
「わたしはまた、この囲いにいない他の羊がある」(ヨハネによる福音書10章16節a 新約聖書口語訳156p)。
そしてこの「囲いにいない他の羊が」教会の中に導かれて、神の家族としてついに一つの群れとなり、イエスという一人の羊飼いのもとで安全にそして安心して暮らすようになる、それがイエスの悲願であったのでした。
「そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼いとなるであろう」(10章16節d)。
私たちもまた、心の耳にイエスの悲願の呻きを聞いて、イエスの心を心とすることにより、教会という羊の囲いの外にいる羊たちに、より一層、心と思いとを向けたいと思うのです。
2.良き羊飼いとしてのイエスの覚悟
「囲いにいない羊」について言及したあと、イエスは言葉を継いで、聞いている弟子たちにご自分の覚悟を披歴します。
それは、ご自身が彼ら、囲いの外にいる羊たちを導く、という覚悟でした。
「わたしは彼らをも導かねばならない」(10章16節b)。
「彼ら」すなわち、迷っている羊たちをわたし自身が導く、とイエスが言われたのでした。ですから、先に囲いの中に導かれている私たちもまた、このイエスの覚悟に共鳴して、自分が出来ることを行っていきたいと思います。
出来ればイエスのこと、イエスについての出来ごとを語りたいと思います。機会を見て、自らの経験を証ししたいと思います。教会での奉仕にも、これからも出来る範囲で邁進していきたいと思います。
毎週の礼拝に出席するということもまた、実は大きな働きなのです。礼拝に参加するということ自体が、イエスの働きに参加することでもあるのです。
もしも事情で礼拝出席が叶わない場合には、教会のために祈る、牧師のために祈る、それも大きな働きです。
そして、今からすぐにでもでき、そして誰もが出来ることがあります、それは、まだイエスを知らない、知らされていない家族、親族、友人、知人など、身近な人のために執り成しの祈りをすることです。
大事なことは、「わたしは彼らをも(囲いの中へと)導かねばならない」というイエスのその覚悟に対して、共感し共鳴することなのです。
3.良き羊飼いとしてのイエスの確信
イエスは私たちにとっては信仰、礼拝、祈りの対象です。しかし同時に信仰のお手本でもあります。イエスは何よりも信仰の模範として私たちの前を歩いてくださいました
イエスにとり、「囲いにいない他の羊が」囲いの中に入ってきて、「ついに一つの群れ」となり、「ひとりの羊飼いとなる」という願望は単なる夢ではなく、確信でした。
「彼らも、わたしの声に聞き従うであろう」(10章16節c)。
「彼ら」、今は迷っていて「囲いにいない他の羊」も、真の羊飼いであるこの「わたしの声に聞き従う」という確信がこの言葉であったのです。
今は「神などいない」と嘯(うそぶ)き、「信仰などは弱い者が持つ逃避だ」などと強がって、信仰に背を向け、宗教をバカにする人々がいることは事実です。
それはまさに、教会に行く前までの私でした。しかし、私が信仰に導かれることを信じて、倦まず弛まず祈り続け、時期を見て教会へと誘ってくれたのが、その八か月ほど前に、教会に行くようになっていたすぐ上の兄でした。
そして、教会に誘われたときに、後になっても不思議なほど、素直な気持ちで応じたのは、兄が積み重ねてきた祈りのおかげであったのでした。
信仰を持って欲しいと願う人の名をあげて日夜執り成しの祈りを捧げると共に、その人がいつの日か、イエスの言葉に耳を傾け、その「声に聞き従う」日が来ることを、誰よりもイエス自身が心から信じているということを覚えて、このイエスの姿勢に倣い、思いを新たにして、同じ確信に立ちたいと思います。
イエスの悲願、イエスの覚悟そしてイエスの確信を、私たちも今年の悲願、覚悟、そして確信としたいと思います。