2013年4月7日 召天者記念合同墓前礼拝説教
「救い主は、死者と生者の主となるために生き返られた」
ローマ人への手紙14章8節(新約聖書口語訳251p)
はじめに
私どもの教会では、毎年この時期、教会の納骨堂の前で、先に天に召された方々を偲んで、召天者記念合同墓前礼拝を行っております。
今年は夜来の風雨により、納骨堂の周囲の桜の花も半分ほど散ってしまいましたが、それでも案じられていた雨は何と、開会と同時にピタッと止んで、青空が顔をのぞかせ始めました。
一般の人なら、ここで、自分の普段の心がけがよいからだ、とジョークを言うところでしょうが、気象予報では雨は昼からあがるとありましたので、それが少しだけ早くなったということで、それはそれでまことに有り難いことでした。しかしながら近年、日本の気象庁が発表する天気予報の正確さには驚くばかりです。
さて、教会の納骨堂も兄弟姉妹の篤志によって建立されて、今年で二十五年となります。十年ほど前のことですが、公園墓地の管理事務所から電話があり、何事かと思いましたら、「許可も受けずに墓地の改修をしたのはけしからん」というクレームでした。「いや、建立してから一切、手を加えていない」と答えましたら、「そんな筈はない、奇麗すぎる、まるで最近建て替えたばかりにしか見えない」と言いますので、「それは石屋さんの仕事がよかったからでしょう」ということで一件落着となったことを思い出します。
確かに二十五年経っても、表面の御影石は奇麗なままで、彫られた文字も鮮明です。これも兄弟姉妹が折に触れて、清掃に来てくれているからだと思い、改めて感謝を致します。
さて最近、著名な歌舞伎俳優が相次いで亡くなりましたが、一方、東京銀座の歌舞伎座が建て替えられるなど、歌舞伎は依然として人気です。
ところで歌舞伎の台詞にはよく、「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」という言葉が出てきます。
親子の縁はこの世限りであるのに対し、夫婦は来世まであるが、主従、つまり主君あるいは主人と、家臣あるいは家来の関係は前世、現世、来世の三世、あるいは来世のそのまた来世の三世まであるのだという、その繋がりの強固さを示す言葉です。
恐らくは封建時代に、封建制度を維持する上で作られた概念であるとは思うのですが、その典型が忠臣蔵の物語で、これは通常、家臣が主君のために命を捨てることを美徳とする武士道の鑑として礼賛されてきました。
もっとも、私など(性格がひねくれているからなのかどうかはわかりませんが)個人的には、もしも仇討をするのであれば、主君に切腹を命じ、お家断絶の処分を下した将軍家に対して行えばよいのであって、ある意味では殺人未遂事件の被害者ともいうべき吉良上野介の屋敷に討ち入って、老人の首をとるというのは何ともお門違いではないかと、昔から思ったりもしているのですが。
それはそれで措くとして、たしかに新渡戸稲造が英文で書いた「武士道」はほんとうに素晴らしく、日本人が保持してきた品性の気高さの源を悟らせるものとして、出版された当時、国内外の読者の心を打ったと言われています。
事実かどうかは定かでありませんが、ぬいぐるみのテディ・ベアで有名なセオドア・ルーズベルト米国大統領が日露戦争の仲介に尽力したのは、ハーバード大学で同窓であった金子堅太郎から贈られた新渡戸稲造の「武士道」を一晩で読んで、日本人の精神に深い感銘を受けたことも一つのきっかけであったという話しがあります。
歌舞伎や文楽が今に至るまで存続している理由には、「武士道」でも解説されている、家臣が主君のために命を捨てるという場面を美しいと感じる感性が日本人にあるからだと思います。
しかし、私たちは今日、その逆の意味において、つまり主である側から下の者と永遠の契りを結ぼうとされている救い主に、満腔の感謝を捧げたいと思うのです。
1.救い主は死んで生き返られた
この墓前で第一に確認することは、私たちの希望の根拠が空虚なものではなく、確かなものであるということ、すなわち、私たちが信じる救い主は、死んだけれども生き返られて、今も生きているお方だということです。
「なぜなら、キリストは、死んで生き返られたからである」(ローマ人への手紙14章9節c 新約聖書口語訳251p)。
イエスは「死んで生き返られたから」(9節)こそ、「キリスト」すなわち救い主なのです。
「死んで」というのは人類の罪と罰を背負って、という意味です。
そして「生き返られた」というのは、その死が人類の罪を清算するのに十分であるということを神が認めたことを意味します。
私たちが信じ、そして望みをかけているお方は、救い主としての役割を見事に果たして生き返られ、そして今も生きている救い主なのです。
2.救い主は主となるために生き返られた
救い主の有り難さは、人類の罪と罰を清算してくれただけでなく、私たちの主となるという目的をもって生き返られたことにもあります。
「なぜなら、キリストは、…主となるために、死んで生き返られたからである」(14章9節b、c)。
「主」には二種類あります。一つは下の者たちに君臨し、命令を下し、そしておのれに従わせる権力者としての「主」です。
このたび、一向に減らない職員の不祥事に業を煮やした大阪市が、給与明細に「懲戒処分…人ごとではありません」と記載し始めたとのことです。言い分としては税金を払っている市民に代わって、ということなのでしょうが、どうもそこには権力を持っている者特有の、驕りというものを感じてしまいます。
もう一つは、明らかに上下の関係であるにも関わらず、下に対して責任を持ち、見守るためにその位置に就く「主」という姿です。
そしてイエスの場合は、罪びとを罪から救い出してそれで終わり、というのではなく、最後の最後まで責任をもって面倒をみる、という意味で「主」となってくれた、まことに有り難いお方なのです。
弱く頼りない私たちを最後まで見守る「主となるために、死んで生き返られた」(9節c)お方、それが私たちの主「キリスト」です。
3.救い主は死者と生者の主となるために生き返られた
しかも救い主の救いの対象は何と、「死者」から「生者」までです。
「なぜなら、キリストは、死者と生者の主となるために、死んで生き返られたのである」(14章9節)。
救い主は第一に「死者…の主となるために、死んで」そして「生き返」(9節)ってくださいました。
現時点でイエスはあらゆる「死者」にとって「主」です。それはこの地上において「イエスは主なり」と告白をして、地上の生を全うした信者はもとより、あらゆる「死者」にとっても「主」なのです。
日本には怨霊信仰というものがあります。不遇な死を遂げた死者が怨みを晴らすために怨霊となって祟る、という観念です。
学問の神様として名高い天神様は、怨みを遺して死んだと言われる菅原道真を祭ったものですが、イエスはそのような「死者」の世界においても最高の「主」です。
愛する者を天に送った方々は、「生き返られた」主がその愛する者にとり、永遠に主でもあるということに希望を持っていただきたいと思います。
そして、様々の理由で冥界に旅立った者を、徒に恐れる必要がないということも覚えたいと思います。私たちの主キリストはすべての「死者」にとって主なのですから。
さらに、イエスは生きている私たち「生者」にとっても「主」なる神なのです。
このたび、改定常用漢字表に新しく「鬱(うつ)」という漢字が入りました。「鬱」という字は、「リンカーンがアメリカンコーヒーを三杯飲む」という順序で書けばよい、というのがその書き方として知られていますが、この字、「鬱」は鬱蒼として茂るというように、エネルギーが充満する様を表わすという意味もある反面、悶々として鬱屈していてどうにも抑え難い気持ちを示す場合にも使われます。
私たち生きている者も、時には両方の意味で「鬱」という感情に支配されたり、影響を受けたりすることがあるのですが、しかし、救い主はその悩める私たち「生者の主となるために」にも「死んで生き返られ」、そして常にその傍らを歩んでくださるお方なのです。
今日、私たちはこの墓前において、「キリストは、死者と生者の主となるために、死んで生き返られたのである」という事実を改めて意識し、希望をもって力強く、日々の務めに全力を尽くすという気持ちを表わしたいと思います。