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2013年3月24日棕櫚の日曜日・受難週礼拝「キリストのあがないの有難さ―なぜキリスト教なのか」ペテロの第一の手紙1章18、19節

20133月24日 棕櫚の日曜日・受難週礼拝説教

「キリストのあがないの有り難さ―なぜキリスト教なのか」
 
ペテロの第一の手紙1章18、19節(新約聖書口語訳367p)
 
 
はじめに
 
 宗教を分類すると、上りの宗教と下りの宗教に大別することができます。
上りの宗教とは何かと言いますと、人間が滝に打たれたり、断食をしたり、とにかく一生懸命に修業して自らを練磨し、穢れを除くことによって、清い神様がおられる天の高みへ近づいていくというもので、では、下りの宗教とは何かと言うと、それは、尊い神さまの方から、低きに呻き苦しむ人間のレベルにまで下ってきてくれるもの、というわけです。
 
この下りの宗教を難しい言葉で言えば啓示宗教というのですが、種別で言えばユダヤ教、キリスト教、イスラム教などがこれにあたります。しかし、イエス時代、ユダヤ教は実質的には律法主義、善行主義という、上りの宗教に変質してしまっておりました。
 
ところで、さまざまの弱さを持ち、おのれの愚かさに泣くことの多い普通の人間にとって、上りの宗教は壁が険しいため、かえって苦しみを増加させるものでしかありませんでした。そこで、単に天から啓示をするだけでなく、高き天から人の姿をとって人間界にまで降りてきてくれたのが神の御子のイエス・キリストだったのです。
 
今日は教会暦では棕櫚(しゅろ)の日曜日と呼ばれ、イエスが子ロバに乗ってエルサレムに入城した記念日なのですが、そこで今週は、なぜキリスト教でなければならないのか、ということについて、改めて学び直したいと思います。
 
 
1.人はみな、完全なあがないというものを必要としている
 
 今年の一月半ば、アルジェリアの天然ガス精製プラント関連施設において、イスラム系武装集団による人質拘束事件が起こりました。
結果、残念なことに日本人を含む多数の人がテロの犠牲となってしまいましたが、日本人が拘束されたという報道を聞いた時、最初に頭に思い浮かんだのは、身代金狙いによるテロ事件か、という印象でした。
 テロリストによる過去の人質拘束事件では、日本政府は、人命は地球よりも重い、などというわけのわからないことを言って、簡単に莫大な身代金を支払ってしまうという事実から、テロリストにとって日本人はいい鴨なのです。
 
 ところで身代金とは、捕虜や奴隷を解放するために支払われるものですが、この、身代金を支払うことによって、囚われている人を自由へと解放することを聖書は「あがない」と呼んでいて、これこそが聖書を理解する鍵の言葉なのです。そしてペテロの手紙の著者は、手紙の宛先のクリスチャンたちを、「あがない出された」人々としています。
 
「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎は生活からあがない出されたのは、」(ペテロ第一の手紙1章18節前半 新約聖書口語訳367p)。
 
 「あがない出された」(18節)の原語は、身代金を支払って買い戻す、あるいは解放するという意味を持つ言葉です。そしてこの身代金は通常、人を解放するにあたって、十分かつ完全で、お釣りがくるくらいのものでなければなりません。
 
 先日、世論調査会社として有名な米国のギャラップ社が毎年行っている、米国人が外国に対して持つ好感度調査結果が発表されました。
 対象となった二十三か国中、今年の日本は、九十一パーセントのカナダ、八十八パーセントの英国、八十五パーセントのドイツに次いで第四位(八十一パーセント)でした。昨年は五位でしたので、一つ上がっていることになります。
 
今なお、有色人種に対する差別意識が残っている米国で、黄色人種の日本人がこれだけの好感度を持たれているということは、日本人の品性や品格の高さを証ししていると見ることも可能です。
因みに中国の場合、中国を好むとする米国人回答者は四十三パーセントで、好まないとする回答者は五十二パーセントでした。韓国は、といいますと、韓国は毎年の調査対象には含まれていません。なぜなのかは不明です。
 
劣化が年々進んでいるとはいえ、それでも日本人の品格が全世界で今なお称賛されている原因の一つには、日本古来の伝統文化があり、また伝統仏教や神道、そして日本化された儒教の教えによる教育が日本国民に浸透しているためであると言われています。
それゆえに私たちは浅薄で狭量な一部の宣教師がするように、他宗教を頭から否定、排撃したり、あるいは蔑んだりすべきではなく、むしろ、その正当な功績に対しては敬意を払わなければなりません。
 
ただし、この「あがない」ということに関しては、キリスト教以外の他宗教には、それが上りの性格が強いものであれ、反対に下りの傾向が強いものであれ、罪の奴隷状態にある人類を解放するには力不足であり、不完全なのです。
なぜならば、支払われるべき身代金には不足があってはならないからです。そこで、お釣りが出るくらいの完全なあがないは、イエス・キリストの神のみが成し遂げることとなったのでした。
 
 
2.人はみな、偶像礼拝からの解放というあがないを必要としている
 
 問題は、何からの解放か、ということです。聖書は通常、罪からの解放ということを言います。確かにそうなのですが、では罪とは何なのか、ということです。
罪からの解放と言いましても漠然としていて、日本人の多くは、特に普段、真面目に暮らしている人にとってはピンと来ないというのが実情です。
 
 そこで罪というものを偶像礼拝という視点で考えてみたいと思います。
 
昨年の秋、国境の島、長崎県対馬の観音寺というお寺から、韓国の窃盗団によって、観世音菩薩坐像という県の文化財に指定されている仏像が盗み出され、その後、これが韓国で見つかり、返還をめぐって韓国の司法当局が、過去に韓国から略奪された可能性がある、だから、返還を差し止めるという仰天の判決を下して問題になっているところに、もともとこの座像があったとされる韓国の浮石(ぷそく)寺というお寺の僧侶が対馬にやってきて、八五〇円相当の寺のマスコット人形と小さな仏像で問題の解決を図ろうとした、という漫画みたいな出来ごとが、最近世間を賑わしました。
 
何が真実かと言いますと、十四世紀末に半島に成立した李朝(李氏朝鮮)が、儒教を国教として仏教を迫害し、揚げ句に寺や仏像を破壊する挙に出たことから、仏像の破壊、焼却を惜しんだ日本人が廃棄された仏像を日本に持ち帰った、あるいは引き取ったというのが実情なのです。
 
このたび韓国の司法によって返還を差し止められた菩薩坐像は、確かに十四世紀前半に浮石寺で造られたもののようですが、この仏像には傷があり、光背もないそうです。つまり、破壊の対象となったというしるしがあるのです。そして浮石寺というお寺に李朝時代に廃寺になっていた時期があり、その時に対馬に持ち込まれたと考えられています。倭寇による略奪云々は根拠のない、とんでもない言い掛かりなのです。
彼の国は法治国家の筈なのですが、日本が絡むと法律を度外視した放置国家になってしまうのは、まことに残念なことです。
 
ところで、イスラム教の原理主義もそうですが、極端なキリスト教の場合、どんなに文化的価値の高い仏像であっても、それは偶像であると決めつけて、その結果、像を製作することも、そしてこれを崇めることも偶像礼拝として非難します。
 
実際、二年前の東日本巨大地震のおり、韓国の江南(カンナム)の教会の牧師さんが信じ難い発言をしたと伝えられました。彼はこう言ったそうです。
 
「日本が普通の国と違い、世界で一番傲慢で偶像と鬼神が多い国で、今回の地震を通じて、日本が体質改善をする国なるだろう
 
そして日本が傲慢な理由が何かと言うと、それは
偶像の数が八百万を超え、一億を超える国民すべてが各種の偶像にお辞儀をするからだ
というわけです。
 
 つまり巨大地震や大津波は、偶像礼拝に対する日本人への神の刑罰だ、という、何とも非神学的で乱暴極まる無知の論理を展開するのですが、そこで今日の棕櫚の日曜日では改めて、キリストによる「あがない」という観点から、偶像礼拝とは何か、ということを正しく学びたいと思います。
 
確かにモーセを通じてイスラエルにもたらされた十戒は、偶像を製作することも、これを礼拝することも禁じてはいます。
 
「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない」(出エジプト記20章4、5節前半 旧約聖書口語訳102p)。
 
以前、北海道のある若い日本人牧師が韓国の教会を訪問した際、土産に持参した木彫りのアイヌ人形を、目の前で捨てられたという話しを聞いたことがあります。ジョークではありません。実話です。
十戒の二番目の戒めが禁じていることは通常、二つです。一つは「刻んだ像を造ってはならない」(5節)ということと、「それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない」(同)ということです。
 
しかし、偶像礼拝の本質は別にあります。そのことを教えてくれたのは、左近 淑(さこん きよし)東京神学大学教授(当時)による説教集「混沌への光 現代に語りかける旧約聖書」(ヨルダン社)の中の記述でした。
 
 「宗教史的には、像とは神の霊の住居であり、神の住居である像の在る所に神が現在する、と解せられる。逆にいえば、像の存在しない所には神は現在するとは考えられないのである。像をつくることの最大の問題はここにある」
 
 「問題になっているのは、よくいわれるように、偶像を〈礼拝する〉ことではない。偶像礼拝が禁止されているのではない。神像をつくることは神のいますところを制限し、神の啓示される場所を人間が勝手に設定することになる。『自分のために像をつくってはならぬ』というのは、神の自己啓示の自由と人為からの超越を保証するためである」(45p)。
 
 少し難しい文章ですが、ポイントは像を造る目的が「自分のために」(4節)であることが問題だというわけです。つまり、人が像をつくるのは、神を像の中に閉じ込めることによって、神に自分の願望を叶えてもらおうとする、偶像を造り、あるいは拝む動機がそこにあるのであれば、それこそが罪なのです。
 
 そしてそれはまた、人が造った像以外の場所に神が存在し、自身を啓示することを制限するだけでなく、被造物である人間が、神が活動する場所を勝手に指定するという冒行為を犯している、だから、自分のために像を造ってはならない、という戒めはまさに「神の自己啓示の自由と」「人為」すなわち人の営みからの神の「超越を保証するため」の戒めなのだ、というわけです。
 
 左近教授は既に故人となられましたが、ここでは大胆にも、「問題になっているのは、…偶像を礼拝することではない。偶像礼拝が禁止されているのではない」と言い切っています。
それは何を拝むかということよりも、何のために拝むのか、あるいはどのように拝むのかという、拝み方こそが偶像礼拝の本質なのだということを指摘をしているように思えます。
 
 これを敷衍すれば、たといかたちの上では偶像を拝んでいるように見えるとしても、礼拝者がそこで切に祈り願っていることが、超越者たる神の御心が地に実現することであり、他者が幸せに暮らすことであり、正義が貫かれる政治が行われることであり、弱い者が護られるような社会が形成されることであるとするならば、それは一概に偶像礼拝として否定されるべきではないかも知れない、そして反対に、断食祈祷をし、請願献金とやらを捧げて、「天の神さま」「キリストさま」「聖霊さま」と呼ばわったとしても、その祈りが自らの、そして自らが所属する家族、一族、グループのためであり、しかも専ら健康であること、社会的に成功すること、経済的に繁栄することだけであるとするならば、それこそが偶像礼拝的礼拝である、ということになるわけです。
 
 モーセの十戒の二番目の戒めを、私たちは「像を造ってはならない」(4節)「像にひれ伏してはならない」(5節)という言葉の方についつい目を向けがちなのですが、この戒めの真の意味を理解する鍵の言葉は最初の、「自分のために」(4節)です。
つまり自分の利得のため、利権のために、言葉を替えれば自己の願望や欲望の充足の手段として、像を造るな、これにひれ伏すな、という意味だということになるのです。
 
勿論、何を拝むか、という礼拝の対象はもちろん重要です。しかし、その対象がいかに正しい神であっても、拝み方が正しくなければその礼拝は価値のないものになるだけでなく、礼拝の対象を利用し、冒をしているという誹りを受け兼ねません。
それは、たとえば、若い女性が、愛情が無いにも関わらず、莫大な資産を目当てに、高齢の大金持ちと結婚をするというような話しに似ているかも知れません。
信仰が利得獲得の手段となるとき、教理的には正統教理であったとしても、それは実は偶像礼拝的礼拝に堕しているということになりかねないのです。
 
「あがない」とは何か、ということですが、「あがない」とはまさに、この、自己の欲望を充足させるための手段としての偶像礼拝的礼拝、という罪からの解放なのです。
そういう意味では、どんなに多数のキリスト教人口を誇っていても、神に喜ばれる信仰とはいえない、という場合もあるわけです。いたずらに人数を恐れる必要はありません。
 
偶像礼拝が問題であるのは、罪の根源が拝み方にこそあるからです。極論すれば、拝み方こそ、吟味しなければなりません。そういう意味での偶像礼拝的礼拝から「あがない出された」者こそ、幸いな人々といえます。
そしてペテロの手紙の対象者はまさに、そういう意味において「あがない出された」人々であったのでした。
 
 
3.人はみな、キリストの血によるあがないを必要としている      
 
 もう一度申し上げますと、かたちとしてある偶像を拝んでいないから偶像礼拝をしていない、とは言えないということです。
偶像礼拝の本質とは、自らの欲望の充足のために神を拝むことに他ならず、そしてそのことを最も強く戒めたのが使徒パウロでした。私たちは、パウロがマケドニアの教会に書き送った手紙の一節に注目したいと思います。
 
「わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」(ピリピ人への手紙3章18、19節 新約聖書口語訳311p)。
 
 ここでパウロが「涙を流して」(18節)までも「語」(同)っている「キリストの十字架に敵対して歩いている」(同)「彼ら」(同)とは、誰のことかと言いますと、それはユダヤ教徒ではなく、また異教徒のことでもありません。
ユダヤ教徒でもなければ異教徒でもない、では「彼ら」とは何者か、と言いますと、「彼ら」とは、キリストを救い主と告白しているキリスト教徒たちでした。
 
 彼らの特徴は、彼らがキリスト教徒でありながら、「キリストの十字架に敵対して歩いている」(18節)ことにあります。
 使徒信条を唱えているからクリスチャンなのではありません。「キリスト」「キリスト」と言いながら、彼らが大事に拝んでいる「彼らの神は」(19節)何と「彼ら」の「その腹」(19節)つまり、彼ら自身であり、自身の欲望なのだと、パウロは指摘します。言葉を替えれば、「彼ら」はクリスチャンであると自負しながら、偶像礼拝的礼拝者だというわけです。
 
 神が唯一であること信じている、聖書が誤りのない神の言葉であるということも信じている、しかし、キリストの十字架による死の意味がわかっていない、わかろうとしない、軽視している、だから結果として「十字架に敵対して歩いている」(18節)ということになるのです。
 
 ペテロの手紙が重要なのはここです。著者は手紙の宛先の人々が何によって「あがない出された」のかというと、それは「キリストの」「血によった」のだということを強調します。
 
「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」(1章18、19節)。
 
 「あがない」はキリストの身代わりの死という代償が支払われたことによって実現しました。「あがない」は通常、「贖い」という字を充て、罪の贖いを贖罪(しょくざい)と言います。
「贖い」とは身代金を支払うことによって、捕虜になっている者や奴隷に落ちぶれている者を買い戻すことであり、買い戻すことによって囚われから解放をし、自由の身にすることを指すのだということを申し上げました。
 
 この「贖い」を購入や購買の「購」を使って「購い」とするとピンとくるのではないかと思い、最近は「購い」と書いて「あがない」と読むようにしているのですが、イエスを主とするということは、イエス・キリストがご自分の命を代償にして、具体的には「銀や金のような朽ちる物」(19節)ではなく、「きずもしみもない小羊のような」「尊い血」(同)を流すことによって、私たちを罪から、正確には偶像礼拝的礼拝という根源的罪から救い出してくださったことを意味するのです。
 
 聖餐式とは、この「キリストの尊い血」による贖い(購い)を記念し、そしてその記憶を新たにすることを目的として制定されたものでした。
 
聖餐式は、私たちの教会ではいつのころからか、年に一回、それもこの棕櫚の日曜日の受難週礼拝でのみ、行うようになりましたが、聖餐を受ける際には、この私を罪の本源ともいうべき偶像礼拝の罪から救うべく、愛のゆえに十字架に架かってくださったことを深く感謝するものでありたいと思います。
 
 聖餐式は基本的には洗礼を受けている者が与ることができる、とされています。
しかし、洗礼をまだ受けていなくても、神の実在を信じ、イエスが救世主かであることを認め、神に喜ばれる人生を歩みたいと願っているならば、どうぞ聖餐に与ってください。
 
宗教改革者のジャン・カルヴァンは、「聖餐は弱い信仰を強めるためのものだ」と、その著作の「信仰綱要」の中で言っています。もちろん、聖餐は呪(まじな)いではありませんし、栄養剤でもありませんから、それで元気になる、というわけではありません。
聖餐式に使われる小さなパン切れはキリストの罪のない体を象徴し、一口のぶどうジュースはキリストが十字架の上で流した尊い血潮を象徴します。
 
聖餐に与ることによって、自分自身が原理的には既に偶像礼拝の罪から解放されており、実質的にもその解放の途上にあるということを確信すればよいのです。
 
聖餐式の際、牧師は式文というものを使用します。信じられないことですが、私たちの教会が所属する教団には独自の式文がありません。そこで、牧師たちは色々な団体が発行するものの中から適当と思われる式文を選んで使っているのですが、私が集めた限り、すべての式文にはコリント人への第一の手紙の一節が入れられています。
 
「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」(コリント人への第一の手紙11章27~29節 269p)。
 
 「その飲み食いによって自分にさばきを招く」(29節)など、何とも恐ろしいことが書かれているように思えます。そしてこの部分は誤解されて読まれることが多いために、信者さんたちには無用な恐れを抱かせることがあるようなのですが、しかし、この箇所は、正しく理解しさえすれば恐ろしいどころか、豊かな恵みを味わうことができる言葉なのです。
 
「ふさわしくないままで」(27節)とは、主の晩餐の意味をわきまえないで、ということであって、この場合、「主のからだ(が身代わりの犠牲として捧げられたこと)を「わきまえない」で(自分の食事を勝手に先に食べるなどの)飲み食いをする」(29節)ことを意味しました。
 
すなわち、それは教会の中の弱い者への差別意識や知識に乏しい者への侮蔑の気持ちを持ったままで主の晩餐に参加することであって、それが「主のからだと血とを犯す」(27節)こと、つまり主のわざを台無しにすること、キリストの十字架の折角の犠牲の死を冒することであり、そのことが結果として「自分にさばきを招く」(29節)ことになる、という、高慢なコリント信徒特有の態度に対するパウロの勧告だったのです。
 
このような高慢な態度に対し、主のからだをわきまえて飲み食いする者、つまり主の犠牲は我がためであったということを理解し、そして自らの弱さをよく知っている者は、「自分を吟味し」(28節)ている者であり、「自分をよくわきまえて」(31節)いる者でもあるわけですから、「さばかれることはない」(同)のです。
 
「しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう」(11章31節)。
 
 聖餐式は、高慢な強者のためのものではなく、自らの弱さ、信仰の弱さを自覚する者に対して、キリストによって備えられた恵みの手段です。どうぞ感謝しへりくだって、しかし恐れることなく聖餐に与ってください。
 
 それぞれが持っている宗教の枠を乗り越えて、人は誰もみな、完全なあがないを必要としており、とりわけ偶像礼拝、そして偶像礼拝的礼拝という罪からのあがないを必要としております。
そして、そのあがないのために、「きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血」(19節)が流されたのでした。
 
傲慢な意味ではなく、また排他的、独善的な思いからではなく、なぜキリスト教でなければならないかという理由がここにあるのです。
 
 
次週三月三十一日の復活祭礼拝では、「あがない」の集大成としてのキリストの復活を喜ばしく祝いたいと思います。