2013年1月27日 日曜礼拝説教
「神の選びは変わらず-『そしてペテロに』」
マルコによる福音書16章1~8節(新約聖書口語訳81p)
はじめに
日曜礼拝において一昨年の二〇一一年一月九日から始めた「マルコによる福音書」の連続講解説教は、丸二年経った先週の一月二十日に、「空(から)の墓が語る大いなる真実」の説教で完結する予定でした。
しかし、完結篇の説教準備の段階で、この場面は二回に分けて語らねばならないという思いが募り、その結果、先週はイエスの復活という事柄に焦点を絞って説教をし、次の週、つまり本日の説教では弟子たちにスポットライトを当てて完結とすることと致しました。
そこで今週はイエスの弟子を女性の弟子たちと男性の弟子たちに分けて、神の選びの不思議について教えられたいと思います。
いつもはこの「はじめに」の部分で饒舌になってしまうのですが、今週はすぐに本論に入りたいと思います。
1.神に選ばれたのは、弱いようでいて実は強い者たちであった
シェークスピアの戯曲「ハムレット」の中でハムレットが言った、「弱きものよ、汝(なんじ)の名は女なり」という台詞が有名です。
戯曲の第一幕第二場におけるこの有名な台詞は、父の死後、すぐに叔父と再婚してしまった母親をハムレットが蔑み詰(なじ)る独白にあることから、「弱きものよ」よりも「脆きものよ」と訳す方が相応しいという見方もあるようですが、どちらにしても一般的に女性は弱いもの、脆いもの、気持ちが移ろい易いものであって、それゆえに信頼しにくいものと見られてきました。
イエス時代のユダヤでも、他国や他宗教に比べれば女性の地位や立場は保護されもし尊重されもしてはいましたが、それでも女性は弱いものであり、劣ったものであるという理解が優勢でした。そのため、律法学者、巡回教師が女性の弟子を持つということは稀有なことでした。しかし、その稀有なことがイエスの集団にはあったのです。
イエスの弟子たちには女性が加わっておりました。そして、刑場におけるイエスの十字架の有様、その埋葬の様子、そして復活の場面を生き証人として最初に証言したのは、使徒と呼ばれた男性の正規の弟子たちではなく、控えともいうべきこれら女性の弟子たちであったのです。
まず、男たちはイエスの十字架の現場であるゴルゴダの丘には誰ひとりいませんでした。なぜならば、イエス逮捕のおり、男の弟子たちはイエスを見捨てて逃げ去ってしまっていたからでした。
「人々はイエスに手をかけてつかまえた。…弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去った」(マルコによる福音書14章46、50節 新約聖書口語訳77p)。)
イエスの処刑が行われたゴルゴダの現場にいたのは女性の弟子たちだけでした。
「また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた」(15章40、41節)。
彼女たちが「遠くの方から見てい」(40節)たのは、恐怖からではありません。刑場がローマの兵士たちによって厳重に警備されていたために、近づくことができなかったからでした。
また、アリマタヤのヨセフによる埋葬に立ち会ったのも女性たちであり、安息日の明けた日曜日の早朝、イエスの遺体に香油を塗るべく、夜が明けるのを待ちかねて墓に急いだのも女性の弟子たちでした。
「マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスが納められた場所を見とどけた。さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った」(15章47節、16章1、2節)。
さらにまた、恐る恐る入った墓の中で神の使いと見られる「真っ白な長い衣を着た若者」(5節)から、イエスがよみがえったということをその耳で聞いたのも女性たちであったのです。
「すると若者は言った、『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえってここにはおられない。ごらんなさい。ここがお納めした場所である』」(16章6節)。
女性の弟子たちはガリラヤ時代からイエスに仕えてきた人たちであって、恐らくはイエスの活動を経済的に支えてきた富裕な人々であっただろうと言われています。そして彼女たちこそ、イエスの言葉を最も正しく、そして忠実に受け止め、実行してきた人々でした。
イエスが常々弟子たちに強調したことの一つは、人に「仕える」ということの重要性についてでした。
またまたマルコの十章を引用します。これで四週間連続となりますが。
「しかし、あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、すべての人の僕(しもべ)とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(10章43~45節)。
この女性の弟子たちについて、特にその「仕える」ということの特質については、「希望の神学」で有名な神学者ユルゲン・モルトマンの夫人のエリーザベト・モルトマン=ヴェンデルがその著書の中で指摘しています。
この「仕える」ということ、まことのイエスのまねびは、ほかの福音書においても婦人たちについて繰りかえし語られている。ペテロのしゅうとめは仕え、マルタは仕え、ガリラヤの婦人グループは仕える。
だが男の弟子たちについては、このまねびが語られていることはいちどもない。つまりすべての福音書において、婦人たちこそ本来の信従者であり、勝者であり、イエスの生への参与者であるという昔の経験のなごりがまだ保存されているのである。
「仕える」ということは、マルコにおいてはけっして自らの品位を卑しめる行為ではなく、相互に取りかつ与えること、献身しかつ相互に受け容れること、愛とやさしさと助力と慰藉(いしゃ)を交換し合うことである。
つまりイエスに、弟子としての婦人たちがいただけではない。彼女たちは初代教会の人びとにとっても、本来の弟子たちだったのである(「イエスをめぐる女性たち 女性が自分自身になるために」178p 大島かおり訳 新教出版社)。
イエスの弟子として神に選ばれたのは、弱いようでいて実は強い者たちであったのです。本来は弱いがゆえに虚勢を張る必要もなく、あるがままの自らを捧げてただイエスを愛し、ただ神に仕えたがゆえに、イエスの真の証人になった、それが女性の弟子たちでした。
男の弟子たちは逃げ去り、彼を「否認」した。忠実でありつづけたのは女の弟子たちだけだった。弱き女が男よりも強い。岩たるペテロの信仰は砂のように崩れ去るが、マリアの信仰はまことに岩である。
男の愛は無力であることを立証するが、女の愛は強い。男の愛の太陽は死んで沈む。女の愛の太陽が復活において昇ってくる(前掲書173p)。
明治四十四年に発刊された文芸誌「青鞜(せいたふ せいとう)」創刊号の冒頭において平塚らいてうは、
元始、女性は実に太陽であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である
と書きましたが、その千九百年前、イエスが選んだ女性の弟子たちは、「月」ではなく、まさに「太陽であった」のでした。
そして二十一世紀の女性の弟子たちもまた、昇る太陽のように、周囲を照らし、暖める存在として、そしてイエスの証人として招かれているのです。
2.神に選ばれたのは、強いようでいて実は弱い者たちであった
では、男の弟子たちは不必要な存在なのか、と言いますと、決してそうではありません。困難な中、初期の宣教を担ったのは彼らでした。
確かに打算抜きでイエスに従ってきた女性の弟子たちに比べると、男の弟子たちには打算があり、権力を獲得し、仕えることよりも仕えられる立場に立つことを希求するという弱点があり、しかも「命を賭けて従います」と言ったその舌の根も乾かないうちにおのれの命惜しさにイエスひとりを見捨てて逃げ去るというような、無様な姿を露呈したりもしました。
気分が滅入ったり落ち込んだりするのは、何といっても取り返しのつかないような失敗をしてしまった時です。そんな時は誰に言われなくても自分が自分に対して“失格者”という烙印を押してしまうものです。
この時は「十二弟子」がそうでした。彼らはイエスの弟子でありながら、一番肝心な時に師のイエスを見捨てて逃げた、怯懦(きょうだ)を画に描いたような者たちでした。どの面下げてイエスの弟子を名乗れるか、という状態です。
中でも「岩」を意味するペテロをニックネームにされたシモンの落ち込みようは想像しても想像するにあまりあるものと言えるでしょう。
彼は最後の晩餐の直後、イエスの一番弟子としての誇りをもって、「他の弟子たちはいざ知らず、私に限ってはあなたを知らないなどとは口が裂けても申しません、あなたと共に死なねばならない状況に陥った時には、わたしは決然として死ぬ覚悟です」と宣言をしたのでした。
「するとペテロはイエスに言った、『たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません』。…ペテロは力をこめて言った、『たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません』」(14章29、31節)。
その、イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちへのイエスからのメッセージが、空(から)の墓の中で、「真白な長い衣を着た若者」(5節)から、女性の弟子たちに言付けられたのです。
それは、「よみがえったイエスは先にガリラヤに行っている、それは以前、弟子たちに言っていた通りである、そこでイエスはあなた方と会う」という内容のメッセージでした。
「『今から弟子たちとペテロの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたよりも先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と』」(16章7節)。
「かねて言われたとおり」とは、ペテロが「大言壮語」する直前の言葉でした(14章28節)。
女性の弟子たちへのこの伝言は、弟子たちがイエスを見捨てて逃げ去った、いうなれば背信の輩(やから)であるにも関わらず、イエスは弟子たちを信任しているのだということを示す言葉でした。
しかも誰に対する伝言かといいますと、「若者」(6節)は「今から弟子たちとペテロの所に行って、こう伝えなさい」(7節)と、わざわざ「弟子たちとペテロ」と、ペテロの名を挙げているのです。
これは「若者」つまり神の御使いの機転というよりもイエス自身の指示であると考えるべきでしょう。それはとりわけダメージの大きいペテロへの特別な配慮を意味すると考えられるのです。
以前彼らは神の心に適った者としてイエスの弟子に登用されました。
「さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。そこで十二人をお立てになった」(3章13、14節)。
彼らは多くの弟子候補の中から直弟子へと選抜されたのでした。しかし、失敗によりイエスの選びは変わったに違いないと、彼らは思った筈です。しかし、ひとたび、彼らを弟子として選んだイエスの選びはそう簡単には変わらなかったのでした。
「弟子たちとペテロの所に行って、…伝えなさい」(7節)は、原文を直訳すると「行って伝えよ、彼(イエス)の弟子たちと、そして(同じく弟子である)ペテロに」です。
「そしてペテロに」。その言葉は人の事情や状況が変わろうとも、神の選びは変わることがないというイエスの意志の宣言なのです。ひとたび、私たちを弟子として選んだ神の選びもまた、変わることがないのです。それはペテロの場合も例外ではありませんでした。
ここで「若者」つまり神の使いがペテロの本名のシモンではなく、ペテロというあだ名を用いています。これは、露呈された弱さ、頼りなさにも関わらず、イエスが彼を依然としてペテロすなわち岩として見ている証左であると考えるのは、深読みかもしれませんがこれくらいの深読みは許されるかも知れません。
使徒パウロは五十年代の半ば、ローマの集会に送った書簡において、神の選びが不変であることを強調します。
「神の賜物と召しとは、変えられることがない」(ローマ人への手紙11章29節 248p)。
これは神の「召し」、すなわち神の選びという「賜物」は、取り消されることがないという、神の不変の意志を示す言葉です。
自らの弱さ、自らの不甲斐なさのゆえに気持ちが落ち込むことがあるならば、そのとき、「そしてペテロに」のところに我が名を当て嵌めて読んでみましょう。神の選びは不変なのです。
3.神に選ばれた者は、信じ難いことであっても信じる人々であった
実はマルコによる福音書の十六章の最後の部分、九節から二〇節の亀甲かっこ(亀の子かっことも言う)〔 〕の部分は、信頼のおける古代写本であるヴァチカン写本にもシナイ写本にもないことから、後代になって付加された追加文であるとされているものです。
それは、マルコによる福音書の終わりが尻切れトンボのように見えるところから、二世紀以降になって、ルカ文書(福音書、使徒行伝)やヨハネ文書を参考にして書かれたものと推測されています。
献身的な女性の弟子たちでしたが、墓が空(から)であったことに加えて、「若者」の顕現とその言葉とが、彼女たちの想像を超える事柄であったことなどから、さしもの彼女たちも気が動顚してその場を逃げ去ります。
「女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16章8節)。
研究者によれば、このあとの文章は何らかの理由で失われてしまったのだろうとされています。そのため、後代の人々、恐らくは写本の製作に当たる書記、写字生が気を利かせて追加文を書き加えたのでしょう。
確かに八節で終わってしまっていたら、何とも落ち着きません。書き加えたくなる気持ちも分かります。しかし、それは余計なことです。なければないで、それでよいのです。
彼女たちはいっとき、事態を受け入れることが出来ずにその場から逃げ去った、しかし、落ち着いてから、伝言を弟子たちとペテロに、確かに伝えた筈です。それは彼女たちが理性では信じ難いことではあっても、深く考えた末に「若者」をイエスの使いとして信じ、そして「若者」の言葉をイエスからの御言葉として信じたからでした。
私たちは九節から二〇節まではマルコによって書かれたものではなく、古代のある時代にはこのような内容が伝承としてあったというように理解しておけばよいのであって、この箇所から信条や教理を形成することは慎まなければなりません。
またこの部分は正典とは言えない、ということから、これを個人的にイエスの言葉や命令、約束として受け取る必要もありません。
ですから、九節以降からの段落を説教するということも不要です。
実は素朴ではあったけれど神学的に無知であった時代には、「毒を飲んでも、決して害を受けない」(18節)などの言葉を、神からの言葉、イエスの約束として鵜呑みにし、その結果、あたら尊い命を失ってしまった、という人が数多くいたとのことです。まことに嘆かわしいことでした。
八節に示された女性の弟子たちの姿は、神に選ばれた者たちが持つ弱さを示すものです。彼女たちがその場で見たこと、聞いたことは、彼女たちの信仰の容量を超えたものでした。しかし、同時に、彼女たちは、たとい信じ難いことであったとしても、思索、瞑想、祈り、探究の末についには信じ難い神の言葉を信じた人々でもありました。
なぜならば、彼女たちの証言がなければ男の弟子たちは復活のイエスと出会う機会を持つことはできなかったからです。
つまり、古代教会の宣教の働きのはじめには、最初に信じ難いことを信じた女性の弟子たちの信仰があったのです。
選ばれた者たちは、信じ難いことを信じた人々であったのでした。