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2012年12月16日待降節第三主日礼拝説教「十字架の道行きにおける『無知』と『無私』と『無理』」マルコによる福音書15章16~22節

2012年12月16日 待降節第三主日礼拝説教

「十字架の道行きにおける『無知』と『無私』と『無理』

マルコによる福音書15章16~22節(新約聖書口語訳79p)

 
はじめに
 
 ネックレスのデザインで最もポピュラーなものが十字架だそうです。縦棒と横棒を組み合わせただけのシンプルなフォルムが、かえって人の気持ちを惹きつけるのでしょうか。しかし、そのかたちの原型は死刑執行のための道具でした。
 
 特に古代ローマ帝国が処刑の手段として採用していた十字架刑は、ローマ政府の転覆や、ローマ国家への反逆を企む政治犯に対して行なわれた処刑方法であって、それは単に死刑囚を死刑にすることだけを目的としたものではなく、見せしめのための拷問という要素を伴ったものでした。
 
 通常、受刑者は自分が架けられることになる十字架を担いで市中を引き回され、それから刑場で磔(はりつけ)にされました。
 
 イエスの場合、早朝、ユダヤ行政長官ピラトによってローマ法に基づく死刑の宣告が下されたあと、その場で鞭打たれ、その後ローマの兵士に引き渡されました。
 
 この鞭打ちで使われた鞭は、棒の先端に結び付けられた数本の革紐に金属の輪が嵌められたもので、これで打たれると皮膚ばかりか肉も裂けるという残忍極まりないもので、時には打たれていた囚人が鞭打ちの途中で死んでしまう、ということもあったくらいの恐ろしいものでした。
 
「それで、ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバをゆるしてやり、イエスをムチ打ったのち、十字架につけるために引きわたした」(マルコによる福音書15章15節 新約聖書口語訳79p)。
 
 きょう、二〇一二年十二月十六日は日本国の命運と日本国民の将来が決まると言っても過言ではない総選挙の投票日ですが、人類の命運と将来が決まった日、それが西暦三十年四月七日の金曜日でした。
 
この日、イエスはユダヤの法廷とローマの法廷における違法な裁判の結果、有罪とされて、ローマ法により、十字架刑を執行されることとなったのでした。
 
ローマ・カトリック教会にはピラトの法廷から復活までを十五の場面に分けて「十字架の道行き」として、キリストの苦難を想い、場面、場面で瞑想をするという信仰があります。
 
 神学校の二年目の夏休み、熊本の教会に派遣された際に、派遣先の教会の牧師の好意によって、孔版印刷、つまりガリ版を習う機会が与えられました。その教室に一人の若いシスターが来ていて、その縁でこのシスターが所属している修道院と、修道院が経営をしている児童養護施設を案内してもらうことができたのですが、そのシスターの名前が確か、「ヴェロニカ」でした。
 
 「ヴェロニカ」は「十字架の道行き」の六番目の場面に登場するエルサレム在住の女性ということです。彼女は十字架を背負ってよろめき歩くイエスの汗を拭くため、身につけていたヴェールを差し出し、イエスが滴り落ちる汗を拭いて布を彼女に返したとき、そのヴェールにはイエスの顔が浮かび上がっていた、という伝説の主人公の名前が「ヴェロニカ」なのです。
 
今日の聖書箇所を読みながら、神学生であった昔、熊本で出会った柔和で気品のある、いかにもシスターらしい、シスター・ヴェロニカのことを思い出しました。私より少しだけ年上のようでしたが、いま、どこでどうしているのでしょうか。
 
 さて閑話休題、今週は刑場への道行きに表れた三つの「無」について思いを巡らしたいと思います。そこで説教題は「十字架の道行きにおける『無知』と『無私』と『無理』」です。
                            
 
1.「無知」が生みだす無情な悲劇―ローマ兵たち
 
 知識がない、という「無知」は本人が意識をしなくても、あるいは意識していないからこそ無情ともいえる結果を生み、気がついたときには取り返しのつかない悲劇を招くということがあります。
 
 ローマの行政長官ピラトからイエスの引き渡しを受けたローマの兵士たちは、エルサレムに駐屯している全部隊を召集して、イエスの死刑を執行することになりました。
 
「兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の内に連れて行き、全部隊を呼び集めた」(15章16節)。
 
 ローマ軍は百人の兵士からなる「ケントウリア(百人隊)」が基本ですので、招集された「全部隊」(16節)は、おそらくはこの「百人隊」を意味すると思われます。
 
なお、「百人隊」を束ねるのが「ケントウリオ(百卒長あるいは百人隊長)」で、ローマ史家の塩野七生によりますと、これには特に勇猛果敢で人望のある人物が選ばれていたようです。
 
 しかし、この時、ローマの兵士たちはイエスに対して侮辱の限りを尽くしたのでした。
 
イエスは、支配者であるローマに対して反逆を企んだ「ユダヤの王」ということで死刑を宣告されたため、「兵士たち」は王様の服を意味する紫の衣をイエスに着せ、王様は王冠をかぶっているというので、鋭い棘のある茨で編んだ冠をかぶらせ、「王様、万歳」と言って敬礼のまねごとをし始め、さらには頭を小突きまわし、唾を吐きかけ、揚げ句には跪いて拝んだりしさえして、イエスを嘲弄しまくったのでした。
 
「そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、『ユダヤ人の王、ばんざい』と言って敬礼をはじめた。また葦の棒でその頭をたたき、つばきをかけ、ひざまずいて拝んだりした。こうして、イエスを嘲弄したあげく、紫の衣をはぎとり、元の上着を着せた」(15章17~20節前半)。
 
 塩野七生によりますと、市民権を持つローマの市民には兵役の義務があったそうですから、この「兵士たち」(16節)はみな、市民としての義務を果たすために誇りをもって軍人となったローマの中流の市民であって、それなりの教育も受け、また教養も知識も有る人々であったと考えられます。もっとも、ローマもこの時代(一世紀)になりますと、少々「兵士たち」の質の低下が目立ってきていたようですが。
 
 しかし何と言っても彼ら「兵士たち」には決定的な知識が不足していました。それは、彼らが刑場に連行しようとしていた囚人が罪人どころか、実はこの天地万物を創造された神の独り子なるお方であって、彼ら兵士たちの罪と罰のためにも自ら身代わりとなって死のうとされている救世主であり、世の終わりに開廷される最後の審判においては、彼ら兵士たちが揺らぐことのない恭順の意を示していて、しかも主、キュリオスと崇めるローマ皇帝も含めて、人類すべてをその地上の行為、生き方に応じて正しく審判する王の王、主の主であるという知識でした。
 
 自分が生きている狭い世界以外のことへの無関心と、真理を求めようとしない無知は、自分だけでなく、周囲を巻き込む悲劇を生み出します。 
 
終わりの時に、神に対して取り返しのつかないことをした、と嘆くことがないように、無知のままでいてはならないということを、この「兵士たち」(16節)に関する記事は私たちに教えます。
 
今必要なもの、それは鞭を打たれ、茨の冠をかぶせられて、十字架の道行きに臨もうとしているイエスが誰なのかということを、力を尽くして知ろうと努める姿勢です。 
 
 
2.「無私」が見せた究極の模範―救世主イエス
 
 全能の神の息子という身分であるにも関わらず、侮辱する兵士たちに対して、イエスは抗議もせず、抵抗する素振りも見せず、ただされるが儘になっていました。
 
 中国に「韓信の股くぐり」という逸話があります。韓信は紀元前三世紀後半に活躍した実在の人物ですが、彼が若いころ、町の破落戸(ごろつき)に絡まれた際、「自分は大望を懐く身である、ここでつまらない諍いに巻き込まれて将来を棒にふってはならない」と考えて、言われるままに股をくぐるという屈辱をあえて受けたという話です。
 
 しかし、韓信の場合、天下に名を立てるという野望があったからこその我慢であって、動機においても目的においても、イエスの対応とは似て非なるものなのです。
 
 いみじくもこの時のイエスの態度と胸中を忖度(そんたく)したのが、ペテロが書いたとされるペテロの第一の手紙における、イエスに関する記述です。
 
 イエスがローマ兵士たちからの侮辱を甘んじて受けたのはなぜか、韓信の場合はおのれの名を天下に残すという大望実現のためでしたが、イエスの場合、それは私たちの罪を清算し、新しく神との交わりに入っていけるための条件整備をするという大望を懐いていたことにありました。
 
「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたはいやされたのである」(ペテロの第一の手紙2章24節 368p)。
 
 「わたしたちが罪に死に、義に生きる」(24節)とは、罪と縁を切り、神によって正しい者と認められた将来を生きる、という意味です。
 これこそが、イエスが大事にしていた大望でした。
 
 そしてもう一つ、イエスが無抵抗を貫くことができたのは、イエスが自らを「正しいさばきをするかた」(23節)、すなわち、何もかもご存知である全知の神、そしてできないことはないという全能の神に「いっさいをゆだねておられた」(同)からでした。
 
神がご存知である、だから「私」が出なくてもよい、「私」のことはすべてお任せしますという、信仰と信頼から生まれた「無私」が無抵抗の理由でした。
 
「悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストもあなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず。苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」(2章20~23節)。
 
こうしてイエスは十字架を背負わされて、「十字架の道行き」へと追い立てられていったのでした。
 
「それから、彼らはイエスを十字架につけるために引き出した」(15章20節後半)。
 
 「十字架」(20節)はギリシャ語で「スタウロス」と言いますが、これは「立たせる」という言葉から生まれたもので、縦棒と横棒を組み合わせたものの縦棒を刑場に「立たせる」ことによって刑を執行したからでした。 
 
なお、この十字架の縦棒の方は初めから刑場に用意されていて、死刑囚が刑場まで担がされたのは横棒だけであったようです。イエスはその横棒を肩に担いで刑場へと向かうこととなります。
 
 イエスの「無私」があったからこそ、人は救われるのです。ほんとうに有り難いことです。
そして救いを受けた者の目標は「無私」の生き方の追求です。そしてその過程にある者たちの模範が人類を愛し、そしてこの私を愛して「無私」を貫いたイエスの姿なのです。
 
 
3.「無理」から生まれた恩寵の選び―クレネ人シモン
 
 死刑囚は刑場まで、自分が架けられることになる十字架の横棒を担いで行かなければなりませんでした。しかし、徹夜で裁判を受け、残虐な鞭打ちで傷め付けられたイエスの体には、横棒でさえも担ぐ体力というものは残っていなかったのでした。
 
そこでローマの兵士は沿道の群衆の中からシモンという名の、体力がありそうな一人の男を選び出し、イエスに代わって十字架を担がせたのでした。
 
「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた」(15章21節)。
 
 「シモン」は過越の祭に出席するため、エジプトの西の方、現在のリビアの東にあるクレネからエルサレムに来たユダヤ人でした。毎日、朝から晩まで働いてお金を貯めて、ついに念願が叶って、家族、親族一同、一生に一度の大旅行を決行したとも考えられます。彼は感激しつつエルサレム神殿に詣でて過ぎ越しの祭に参加し、心を喜びに打ち震わせながら、この場を通りかかったのかも知れません。
 
それが何と、こともあろうに神を冒したという罪で有罪とされ、ローマに抵抗して死刑を言い渡されたテロリストが架かる十字架を無理やりに担がされる羽目になってしまったのです。彼は自らの不運を嘆きながら刑場に向かったことと思います。
 
 しかし彼は後に、イエスに代わって十字架を「無理に負わ」(21節)されたことを神の大いなる恵みとして受け止めたに違いありません。
 記者のマルコはシモンを「アレキサンデルとルポスとの父」(21節)と説明しておりますが、イエスの処刑から二十数年後、使徒のパウロがギリシャのコリントから帝国の首都ローマにある集会に宛てて送った手紙の中に、「ルポス」という名前があるのです。
 
「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とによろしく。彼の母は、わたしの母でもある」(ローマ人への手紙16章13節 254p)。
 
 もちろん、この「ルポス」が「シモン」の息子であったと断言することはできません。しかし、そうでないとも言い切れません。マルコがわざわざ「シモン」という名をあげ、しかも「アレキサンデルとルポスの父」と説明をしているということは、このあと「シモン」が信者となって教会の仲間になった、しかも良く知られた存在になったからと考える方が自然です。
 
 シモンにとっては自分の思いに反して「無理に負わ」された十字架は、当初は我が身の不運を嘆くものでしかありませんでしたが、後に、主の十字架を救い主に代わって担いだ者として自らの幸運を喜ぶ者、仲間からは羨望の眼差しで見られる者となったのでした。
 
 私たちの人生においては、自分では決して選ばないであろう立場、道があり、しかし、好むと好まざるとに関わらず、その道を進まざるを得ない、他に選択肢がない、という場面に立つ場合があります。
 
 しかし、その出来れば避けたい筈の「無理」(21節)が、無理難題が実は神の大いなる恩寵の契機になるという場合もあるのです。
 
本人から見れば、当座は「無理」やりという、まさに理不尽にしか思えないな選びが恩寵への招きであり、神による恩寵体験への契機ともなるということを、この、クレネ出身のユダヤ人、シモンにまつわるエピソードは教えてくれています。
 
今週はローマの兵士たちの「無知」、イエスの「無私」、そしてシモンの「無理」に思いを向けながら主の生誕の日を迎えたいと思います。