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2012年12月9日待降節第二主日礼拝「救世主は自ら進んで有罪となった(下)―ピラトの法廷で」マルコによる福音書15章1~15節

2012年12月9日 待降節第二主日礼拝説教

「救世主は自ら進んで有罪となった(下)ピラトの法廷で

マルコによる福音書15章1~15節(新約聖書口語訳79p)

はじめに
 
 十二月四日の火曜日、ついに衆院選の火ぶたが切って落とされました。政党乱立の乱戦模様のように見えますが、結局のところ、重病の母親の主治医の選択をめぐる争いと言えます。
 
三年前の夏、衰弱しつつある母親のため、「自分に任せて欲しい」と言って手をあげた若い未経験の医者に、「今の主治医は頼りにならない、一度、任せてみようか」とその治療を任せたところ、期待に反して母親の病状はますます重くなって、ついに瀕死の状態という結果を招いた、それがこの三年あまりの私のたちの母なる祖国の現状です。
 
それでももう一回、この若い医者を叱咤激励して重篤状態の母親を任せてみようというのか、それとも、反省を積み重ねて再起を誓うベテランにすべてを託すべきかと思案しているところに、医者志望の、しかし医学部に入学して間もないような少年が、「治療はボクに任せてくれ」と自信満々に言ってきたので、そんなに言うなら失望を承知で任せてみようかという、三者択一の状況でしょう。
 
ところで私たちの母なる祖国が当面しており、また克服すべき課題は三つあります。「安心」と「安全」、そして「安定」です。
 
まず、国民の生活、暮らしにおける「安心」です。そのためにはデフレからの脱却、景気の回復、経済の成長による雇用の促進等の具体策の立案、実行が求められています。
 
今回の総選挙ではエネルギーの問題、具体的には原子力発電が争点の一つとなっているようですが、原発を失くす方向に行くならば、電気料金の値上げは避けられません。
 
太陽光などの再生エネルギーが国のエネルギーの主力になるには相当の年月が必要となりますし、その間は液化天然ガスなどの化石燃料に依存せざるを得ませんが、そうなると料金の値上げによる家計の圧迫、零細、中小企業の倒産、大手企業の製造工場の外国移転、そしてそれに伴う雇用の減少は必然です。これをどのように食い止めるかという対策が必要となります。
 
実際、原発を主電源とするフランスの一般家庭の一カ月の電気料金は四千円代ですが、これに対して原発ゼロを目指すドイツの場合は既にフランスの四倍の料金が課金されているとのことです。
また、それに加えて温暖化の原因とされる化石燃料は地球環境に大きな影響を及ぼしますが、反原発を唱えるグループから、温暖化論議がいつの間にかすっかり消えてえてしまっていることも不思議です。
 
「安全」の面では外国からの侵略や不当な攻撃に対する固有の領土、領海の防衛のための堅固な対策があるかどうかも、憲法論議も含めてしっかりと検証しなければなりません。論議されている在日外国人への選挙権付与などの問題も、安全保障の観点から考えることが必要でしょう。
 
医療、年金、福祉等の将来的な「安定」のための確実な施策と、財源とされる消費税との絡みも問われることとなります。
教育問題もまた、国の「安定」のために不可欠な要素です。国が安定するかどうかは、教育力にかかっているといっても過言ではありません。黒船のペリーが日本占領を諦めたわけは、日本人の識字率の高さにあったと言われています。
さらに、捏造された被害なるものによって毀損されつつある国と国民の国際社会における名誉の回復もまた、国の安定のためには不可欠な事柄です。
 
そして、それらに加えて、掲げた政策を実現する能力があるかどうかを見抜かなければなりません。前回の総選挙では、薔薇色の幻想に惑わされた国民が、見識も能力もない素人集団に国の命運を賭けるという冒険に出て、結果として後悔の臍(ほぞ)を噛むことになってしまいました。
統計によりますと、詐欺に引っ掛かる人は何度も引っ掛かるそうで、そのため裏の業界では被害者の名簿が高価で売られているとのことです。
 
ですから、何を主張しているか、だけでなく、誰が言っているかという、信頼性の確認も必要となります。人を疑うということは悲しいことですが、騙されないためには本当かどうかを見抜く眼力が必要です。その眼力を養うために必要なのが教養であって、その教養を育むのが読書です。
 
「国家の品格」で有名な数学者の藤原正彦お茶の水女子大学名誉教授の口癖が、「一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数」だそうですが、この人が作家の曽野綾子との対談で「私に言わせれば、朝起きてから眠るまで、一ページも本を読まないという人は、もう人間ではない。ケダモノである。人間とケダモノの違いは、本を読むか読まないかなんです」と言っています(「日本人の矜持-九人との対話」新潮文庫)。
「ケダモノ」は流石に言い過ぎだとは思いますが、読書は大切です。
 
ところで聖書の一章はちょうど一ページです。人間であり続けるためにも、そして物事の真贋を見抜く眼力を養うためにも、一日一章、聖書通読に挑戦してみてはどうでしょうか。
誰もがその重要性を認識していながら、ついつい忙しさにかまけて疎かにしがちなことが聖書通読です。でも三日坊主でもよいのです。三日坊主を繰り返していれば、いつしか通読しないと気持ちが落ち着かなくなってきます。そうなればしめたものです。
 
本日は待降節の第二主日ですが、マルコによる福音書の説教を続けます。今週はユダヤの法廷を経て、ローマの行政長官ピラトの法廷に立つ主イエスの姿に注目をしたいと思います。
 
 
1.十字架で死ぬために、救世主は沈黙を貫き通した 
 
真夜中に行われた違法な裁判によって、イエスはサンヒドリンから死刑の宣告を受けました。
 
「すると、彼らは皆、イエスを死に当たるものと断定した」(マルコによる福音書14章64節後半 新約聖書口語訳78p)。
 
 しかし、イエスはユダヤ律法に基づく死刑である石打ちの刑を執行されませんでした。それは当時、北のガリラヤではヘロデ大王の息子のヘロデ・アンティパスが領主に任じられていたのに対し、南のユダヤは帝政ローマの属州となっていて、そのためサンヒドリンは死刑執行の権限を行使できない状況にあったためでした。
 
 そこで議会はイエスを合法的に抹殺すべく、ローマ皇帝からユダヤに派遣されていたピラトの法廷にイエスを訴え出たのでした。
 
「夜が明けるとすぐ、祭司長たちは長老、律法学者たち、および全議会と協議をこらした末、イエスを縛って引き出し、ピラトに渡した」(15章1節)。
 
マルコによる福音書では「ピラト」には肩書きがついていませんが、マルコを下敷きにして書かれたマタイによる福音書の方には「総督ピラト」として出てきます(27章2節)。
 
イエスの時代、ローマ帝国は主に三つに区分されていました。ローマ「本国」と「同盟国」、そしてローマに降伏、占領された「属州」でした。その「属州」も、統治がし易い地域は「元老院属州」、そして不穏でややこしい地域は「皇帝属州」として皇帝から派遣された総督が軍隊を伴って駐留しておりました。
 
パレスチナはシリヤ属州として皇帝によって任命された総督が統治しており(ルカによる福音書2章2節参照)、南のサマリヤとユダヤはシリヤ総督の管轄下にあるユダヤ属州という扱いとなっていたようです。
そういうわけで、「総督ピラト」(マタイによる福音書27章2節)の「総督」は、正確には総督というよりも、長官あるいは代官の訳語が適切かと思われます。
 
当時のローマの版図は広大であって、その統治は皇帝の下、イタリアはもとより、現在のイベリヤ半島、フランス全土、ライン川から南のドイツ、ベルギー、オランダ南部、ルクセンブルグ、スイス南部、バルカン半島諸国、ギリシャ、トルコ、アルメニア、シリヤ、レバノン、イスラエル、そしてエジプト北部、アフリカ北部にまで及んでいたのでした。
 
その皇帝から、火薬庫のようなユダヤ地域の長官、代官として送り込まれたのがポンテオ・ピラトでした。紀元二十六年のことです。
 
訴えを受けて、その日の早朝、ピラトによる法廷が開廷され、そこでピラトはイエスに対し、「サンヒドリンはあなたをローマに逆らってユダヤの王を名乗る、国家反逆者として訴え出ているが、そうなのか」と最初の尋問をしました。
 
「ピラトはイエスに尋ねた、『あなたはユダヤ人の王であるか』」(15章
2節前半)。
 
 これに対し、イエスは口語訳では「そうだ」と肯定しているように見えます。
 
「イエスは、『そのとおりである』とお答えになった(15章2節後半)。
 
 これは、直訳すれば新共同訳のように「そう言っているのはあなただ」、あるいは「あなたはそう言っている」ということなのですが、文脈からは口語訳や新改訳のように、「その通りだ」と肯定している言葉でしょう。
イエスはユダヤの王のみならず、ローマの王でもあり、世界の王でもあったのです。
 
 問題はそのあとです。イエスは「そうだ」と答えたあとは、サンヒドリン側が根も葉もないことを口々に訴えても弁明することはせず、ピラトが聞いても無言を押し通すのでした。
 
「そこで祭司長たちは、イエスのことをいろいろと訴えた。ピラトはもう一度イエスに尋ねた、『何も答えないのか。見よ、あなたに対してあんなにまで次々と訴えているではないか』。しかし、イエスはピラトが不思議に思うほどに、もう何もお答えにならなかった」(15章3~5節)。
 
 「自己愛性人格障害」という障害があります。このケースの人には、幼児のような自己中心性という性向から、そのため、たとえばトラブルが起きた場合、自分の方には非は一切なく、相手が百パーセント悪いと決めつけてしまう傾向があるとのことです。わたしたちの国のすぐ近くにもそのようなパーソナリティの国があり、何かと言うと「謝罪せよ、賠償せよ」と要求してくるのにはまことに困りますが。
 
イエスがこの手のタイプの人であったならば、口角泡を飛ばして自らには何の非もないこと、そして自分を讒訴したサンヒドリンを非難したと思いますが、イエスは
ローマの属州に属する民に与えられていた当然の権利としての抗弁権を放棄して、ただただ沈黙を貫き通します。
 
ローマの官僚機構の中で、権謀術数を弄して生き抜いてユダヤの行政長官という地位に昇り詰めたピラトにとって、自分を有利にするための権利を行使しようとしないこのような人物と、過去に出会ったことはありませんでした。それが「イエスはピラトが不思議に思うほどに」(5節)という記述に表れています。
 
 ユダヤの法廷では被告を有罪に持ち込むためには複数の証人が立てられていること、しかもその証言が細部にわたって一致していることが必須条件でした。ですから被告は黙秘の権利を行使して、証言の破れを待つことができました。
 
 しかし、ローマ法はそれとは反対で、被告は積極的に発言することによって、自らの無罪性を立証するというルールが基本でした。
 そこで不思議なのがイエスです。沈黙を貫けば無罪になった筈のユダヤ法廷では、口を開いてメシヤ宣言をし、無罪を主張すれば釈放される可能性の高かったピラトの法廷では最後まで沈黙を守り続けたのがイエスだったのでした。
 
 つまり、イエスは助かろうとはしていなかったのだということです。それは私たちの身代わりになる覚悟を決めていたからでした。
 八木重吉という中学校の教員がいました。昭和二年、二十九歳で妻と娘二人を残して早世してしまいましたが、キリストを信じる者として単純素朴な詩を多く残しています。
そしてとりわけ心をうつ詩が、「神の道」という詩です。
 
 自分が この着物さえ脱いで 乞食のようになって
 神の道にしたがわなくてもよいのか
  かんがえの末は必ずここへくる
 
 イエスの愛と犠牲を知れば知るほど、このままでいいのかと、いたたまれなくなるような気持ちになるという思いが伝わってくる、そんな珠玉のような詩です。それは赤の他人を救済するために沈黙を貫いたイエスを想う者の共通の思いでもあります。
 
八木重吉の詩は、あの口で文を書き、絵も描く星野富弘さんにも多大の影響を与えたとのことです。「詩が書けない時は、あなたの詩集を読みます。すると不思議と言葉が生まれてきます。最初のページをめくっただけで、詩ができたことがあります」(「八木重吉への手紙 あなたの素朴な心の詩に支えられて」いのちのことば社発行「八木重吉の詩と信仰 わがよろこびの頌歌は消えず」より)。
 
改めて、あえて沈黙を押し通したイエスを心から誉め称えたいと思います。
 
 
2.自らを救おうとした結果、ピラトはかえって人生を失った
 
 イエスと対照的であったのが「ピラト」でした。イエスはかつて、「自分を救おうと思う者はそれを失う」と言いました。
 
「自分の命を救おうと思う者はそれを失う、わたしのため、また福音のために 自分の命を失う者はそれを救う」(8章15節)。
 
 ピラトすなわちポンティウス・ピラトゥスは、ローマ皇帝ティベリウスの任命により、紀元二十六年から十年間、属州ユダヤの行政長官を務めたエリート官僚でした。
 このピラトはイエスに罪がないばかりか、訴えているユダヤ人たちの訴えの動機がイエスに対する妬みであることも分かっていました。
 
「それは、祭司長たちがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにわかっていたからである」(15章10節)。
 
 ですから最初のうちは何とかしてイエスを釈放しようと、訴える側と交渉するのですが、結局、現在の地位を守るため、自分の赴任先の指導者たちとの軋轢を避ける道を選び、正義を曲げて、罪のないイエスに対し十字架処刑という判決を下すこととなります。
 
「ピラトは言った、『あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか』。すると、彼らは一そう激しく叫んで、『十字架につけよ』と言った。それで、ピラトは群衆を満足させようと思って、…イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした」(15章14、15節)。
 
 自分にとって大事であるとするものを守ろうとして、かえってそれを失ってしまったという典型がピラトでした。
 ピラトはその後、皇帝の側近として権勢を振っていたセヤーヌスという後ろ盾を失って、六年後の紀元三十六年、カリグラ皇帝によって解任されたということです。
 そればかりではありません、父なる神、子なる主イエス・キリストそして聖霊なる神への信仰告白である使徒信条において、「(主は)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け…」と名指しされる結果となってしまいました。
 
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言いますが、得ようとすればかえってそれを失い、捨てることによって得る、というこのどんでん返しの真実を知っている者は幸いです。
 
 
3.救世主の身代わりのお陰で、バラバはやり直す機会を得た
 
 自分のやったことの報いとして、当然死刑となるところを、幸運にもそれをイエスのお陰で免れた人がいました。それがバラバでした。
 バラバは反ローマ運動の過激な指導者として抵抗運動を組織し、暴動を起こしてローマの役人や兵士を殺害し、その結果、死刑を宣告されて収監されていた囚人であったようです。
 
 当時、祭の時には囚人を恩赦で釈放する習慣がありました。イエスを釈放したいと考えていたピラトは、イエスを釈放することを群衆に提案しましたが、サンヒドリンに扇動された一部の群衆は、凶悪犯罪者のバラバをゆるしてイエスを十字架に架けるよう要求したのです。
 
「さて、祭のたびごとに、ピラトは人々が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやることにしていた。ここに暴動を起こし、人殺しをしてつながれていた暴徒の中に、バラバという者がいた。…ピラトは彼らにむかって、『お前たちはユダヤ人の王をゆるしてもらいたいのか』と言った。…しかし祭司長たちは、バラバの方をゆるしてもらうように、群衆を扇動した。…それで、ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした」(15章6、7、9、11、15節)。
 
 こうして十字架に架けられて当然の犯罪人バラバは、イエスに代わって自由の身となり、大手を振って人生を生き直すことができるようになったのです。十字架で終わった筈の人生をやり直す機会を与えられたバラバがその後、どのような人生を歩んだのかは知る術(すべ)はありません。
 
しかし、イエスがもしも沈黙せずに無罪を主張したならば、自分が赦される確率はほとんど無かった状況であったことを思う時、バラバはその後の人生をイエス抜きで考えることは出来なかった筈でした。
この死刑囚バラバに自分自身を重ね合わせてみることのできる人は幸いです。なぜならばその人は、これからの人生を神からの贈り物として、感謝の心、報恩の思いをもって生きる筈だからです。
 
神の御子の生誕を感謝する日が近づいてきました。ところでクリスマスの挨拶は「メリークリスマス」ですが、欧米では十二月二十五日のクリスマス当日だけでなく、もっと前からこの挨拶をするのが普通です。
年が明けてもいないのに「明けましておめでとう」と挨拶をしたら、それこそ「おめでたい奴」と言われてしまいかねませんが、クリスマスの前からなぜクリスマスの挨拶をするのかと言いますと、「メリークリスマス」は「I  WISH  YOU  A MERRY  CHRISTMAS(あなたにクリスマスの祝福がありますように)」という英語の挨拶の前半部分が端折られた省略形だからなのです。
 
そう言う意味で、ユダヤの法廷で、そしてピラトの法廷で自ら進んで有罪をなってくれたイエスのお陰で人生をやり直すことが出来た者にとり、神の御子が人となって生まれたクリスマスの恵みは、クリスマス当日だけでなく一年を通じて強く噛みしめるべき祝福なのです。
 
そこで今日もご一緒に言いましょう、「メリークリスマス!」と。