2012年10月28日 日曜礼拝説教
「方向転換の機会を逃すな-ユダを惜しんだイエス」 マルコによる福音書14章1、2,10、11,17~21節(新約聖書口語訳75p)
はじめに
二十一世紀を迎える直前の西暦二千年に、「話を聞かない男、地図が読めない女」というタイトルの、男女の脳の違いを説いた本がベストセラーになりました。著者はアラン・ピーズとバーバラ・ピーズという夫婦でした。
この本では、男というものは女から問題が持ち出されると、解決策を提示しなければならないと思うあまりに、女の話を最後まで聞かない、また女は空間把握能力が弱いため、方角を知るための地図を読むことができず、縦列駐車も苦手だ、というような男女の脳の特性分析が、実例と共に興味深く展開されていました。
読んだ時には妙に納得をしたものですが、しかし、では自分のように「話しを聞かない男」で、おまけに「地図が読めない」となると一体どうなるのかと、思ったことを覚えております。
その少し前、一念発起して自動車免許を取って(初めからオートマにしておけばよいのにミッションのコースを選んだこともあってとにかく苦労しました)運転を始めていたのですが、思い返すと運転時間の総合計の三分の一くらいは、目的地とは逆の方向に走ってしまい、貴重なガソリンと時間とを随分無駄にしたものでした。
進んでいる方向が間違っていることに気づいたらどうするか。後悔しながらそれでも間違った道を「ここまで来たのだ、今さら後戻りはできない」と言って進む人はおそらくはいないでしょう。大概の場合、間違いに気付いた時点で方向転換をすることになります。
ところが人生という道においては、判断や選択を誤ったために間違った道を進んでいるということに気付いているにも関わらず、それでも間違った道を進んでしまうという人が意外に多いのです。そのような場合、しなければならないことは何かと言いますと、もちろん、方向転換です。
長い人生、迷い戸惑うことも多くあり、いつの間にか本来の道とは違った道を進んでいるという場合もあります。そんな時、私たちの話しをよく聞いてくれるお方である救い主、そして人生の地図を正確に読んで、正しい道へと道案内をしてくれる救い主を知る者は幸いです。
今週はマルコによる福音書から、「方向転換の機会を逃すな」という、イエスの真心からの叫びをそれぞれの心に聞きたいと思います。
1.常に点検すべきこと、それは行為の背後に潜む目的と動機
エルサレムに入城したあとのイエスとユダヤ当局との間はまさに一触即発の状態となっていました。でも当局(サンヒドリン)は自制をしていたようです。
それはもしも過越の祭の最中にイエス謀殺を図ったならば、イエスをメシヤと信じる外地からの巡礼たちが、エルサレムにおいて騒乱を起こす危険性がある、そうなるとローマの官憲と軍隊が介入してきて、エルサレムに政治的混乱が起こり、その結果、ユダヤ当局がローマから責任を追求される事態になる、ということを案じたからでした。
そこで当局は正月の十四日から二十一日までの除酵祭の一週間は、その企みの実行を控えるつもりでおりました。
「さて、過ぎ越しと除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。彼らは、『祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起こすかも知れない』と言っていた」(マルコによる福音書14章1、2節 新約聖書口語訳75p)。
「祭司長たちと律法学者たち」(1節)とは、大議会サンヒドリンを指す用法です。ところが思わぬところからイエス抹殺の機会が彼らに舞い込んで来ました。何とイエスの弟子のひとりが、イエス逮捕の手引をすると申し出てきたのです。そこでサンヒドリンは予定を変更して過越の祭の期間中にも、イエスの逮捕、殺害計画を実行することにしたのでした。
「ときに、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを祭司長たちに引きわたそうとして、彼らの所へ行った。彼らはこれを聞いて喜び、金を与えることを約束した。そこでユダは、どうかしてイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた」(14章10、11節)。
ユダがなぜイエスを売ろうとしたのか、というわけについては古来、諸説が入り乱れてきました。一般的理由としては祭司長たちが「金を与えることを約束した」(11節)とあることから、金に目が眩んだからとされています。しかし、数カ月の給料分程度の金で師を売るなどの行動に出ることは考えられませんので、他の理由が推測されました。
見方としては、ユダは、ダビデ王国再建のための軍事的、政治的メシヤとして期待したイエスが一向に革命的行動に出ないので、イエスの弟子であることに幻滅したのだ、あるいは、一向に決起しないイエスをサンヒドリンによる捕縛、拘束という切羽詰まった危機的状況に追い込むことによって、イエスが神の力を発揮して一気に神の国を地上に樹立する方向に持って行こうとしたのでは、という穿った見方をする者もいます。
あるいは田舎のガリラヤ出身の弟子たちの中で唯一、ユダヤ出身のインテリであるにも関わらず、ペテロやヨハネのようなイエスの側近になることができないというユダの競争心の歪みが原因ではないかと推測する者もあります。
太宰治による「駈け込み訴え」は、イエスへの嫉妬心、対抗心、敵意、愛情などの愛憎取り混ぜたユダの感情がイエスを売ったという解釈で仕上げられていますが、それは作者がユダに自分をダブらせたからであって、小説家の想像以外の何物でもありません。
ただ、「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。」で始まるこの作品は、内容はともかくとして、テンポ、リズムなど文章としては秀でたものであることは確かです。
一九七〇年代に、一六〇〇年もの間、エジプトの砂漠で眠っていたパピルス文書が発見されました。それが二〇〇一年になって入手、苦労の末に解読、翻訳されて二〇〇六年に我が国でも出版された「原典 ユダの福音書」(日経ナショナル ジオグラフィック社発行)でしたが、正典の四福音書とは視点をまったく異にしていて、イエス自身がユダに自分への裏切りを命じており、ユダこそ、イエスを理解した使徒であるという、正統教会からは異端の教えとして退けられた解釈によって書かれたものでした。
「ユダの福音書」の理解は論外としても、諸説入り乱れる解釈のどれが的を射たものであるかは別として、ユダの裏切りの原因は、ユダがイエスの弟子となった動機、目的にあると考えることができるでしょう。
それは他の弟子たちも同様なのですが、ユダの場合は特に、イエスの弟子になることによって自らの野心を実現できると考えた、つまりユダはイエスを愛して弟子となったのではなく、イエスについて行けば必ず栄達といううまい汁を吸うことができるという計算で弟子になった、だからその目算が外れた時、彼にとってイエスは無用の存在となったとするのが、ユダがイエスを裏切った理由であると思われます。
もちろん、最初は何らかの目的、特に悩みの解決などのいわゆるご利益を求めて神を求めるということはあります。そしてイエスは寛容にも、ご利益を求めてご自分のもとに来る者を拒むことをせず、大らかに彼らを迎え入れてくださいました。
しかし、最初の動機、目的が個人的利益の追求であったとしても、イエスを知る内にイエスとの関係がご利益授受の関係から人格的信頼の関係へと変化していくのが弟子なのです。つまり、群衆から弟子への変化です。
ところがこの変化がないまま、ご利益関係での関係が続く場合、順境の時が過ぎて逆風が吹くと、神を捨て、信仰を捨てるということになります。そして個人的利益を主な目的として信仰を持っている人の特徴は、人との関係においても個人的利益を優先させがちです。ですから、人間関係において自己中心的である人の場合は、神との関係においてもユダのように躓く危険性が出ています。
国際社会における国家と国家の場合はそれでもよいのです。国益を追求する公的立場にありながら、利害が衝突する相手国の側に立って自国の方針や政策を非難するような大使などは、厭な言葉ですが差し詰め「売国奴」と呼ばれるに値する輩(やから)と言えます。
しかし個人の場合、神との関係、人間関係において得か損かで考える癖のある人はいつしか周囲からは信用をされなくなります。
人生において最も重要なポイントは、行為の背後にある目的、動機が利害得失計算ではなく、純粋であるかどうかです。最後の審判における神の判断基準も動機、目的の評価に置かれます。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(コリント人への第二の手紙5章10節 282p)。
もちろん、動機が良ければ結果は問われないというわけではありませんが、しかし神との関係、人との関係においては純粋な動機、目的を保持するという、より高きを目指して行動したいと思います。
2.真に仰ぐべきもの、それは弱さを持つ者を惜しまれる救い主
イエスはユダが自分を裏切るということを知らなかったのでしょうか。いいえ、イエスはユダの心の動き、策謀を見抜いていたと思われます。イエスは単純な思考の持ち主が多い弟子たちの中で、この異質と思われるユダを他の弟子同様、愛しておりました。ですから過越の食事の際に、イエスを裏切るという恐ろしい罪を犯すことがないようにと、ユダにだけわかるように警告を発したのでした。
「夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。そして、一同が席について食事をしているとき言われた、『特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている』。」(14章17、18節)。
上智大学の渡部昇一名誉教授が月刊誌「歴史通11月号」で、「韓国の英雄はテロリストばかり」というタイトルで、中国ハルビン駅で伊藤博文を暗殺したとされる安重根をはじめとして、韓国で英雄とされる者は暗殺者、テロリストばかりであるという事実を指摘しています(なお、最近の調査では伊藤に当たった弾丸は安重根のものではなく、ロシアの騎兵銃、つまりカービン銃であったそうですが。安重根の使った銃は拳銃で、伊藤の体にあった弾痕は拳銃のものではなかったとのことです)。
テロリスト以外、英雄と称えられるような人が皆無であるという事実は、プライドの高い隣国の悲劇といえます。
安重根は獄中で、伊藤博文を暗殺しようとした理由を十五ほど挙げていますが、ほとんどが事実誤認に基づくものか、彼の思い込みによるものであって、第一、伊藤は日本の韓国併合政策には否定的立場の人だったと言われています。そして伊藤の死の八カ月後の一九一〇年、韓国併合が実現してしまいます。
この夏、現職の大統領が日本の天皇に土下座による謝罪を要求したという、死んだ独立運動家の多くも、実は内部闘争によって死んだようです。事実、独立運動によって日本に処刑されたという運動家はひとりもいないということです。
昭和四十年代末に世間を震撼させた連合赤軍による群馬県山中における「総括」と称する大量リンチ殺人も、裏切り者とされた仲間への陰惨な処刑でした。国の内外を問わず共産主義運動や過激派の運動には裏切り者へのリンチが常に付きまといました。
事件の主犯とされた森恒夫は拘置所で自死しますが、葬儀が石原嘉宣牧師(中央聖書教会主管 日本アッセンブリー教団総務局長)の司式によって行われたこともあって、とりわけ印象深い事件ではありましました。
しかしイエスはご自分を売ろうとしていたユダを「総括」も処分もしません。イエスがなぜユダを処分、糾弾しようとしなかったのか、それはユダの自由意志を尊重したからであり、何よりも弱さを抱えたユダを深い憐れみを持って惜しまれたからでした。
そのイエスの血を吐くような胸中を吐露した言葉が、最後の晩餐の席における「その人は生まれざりし方よかりしものを」(文語訳)という有名な一言でした。
「たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去っていく。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」(14章21節)。
文語訳で「然(さ)れど人の子を賣(う)る者は禍災(わざわい)なるかな、その人は生まれざりし方(かた)よかりしものを」と訳されたイエスの言葉には、ユダを惜しむイエスの心情が溢れています。
そしてユダを、ユダの人生を惜しまれたイエスは、現代に生まれた私たちひとりひとりをも惜しんでくださっておられます。
かつて十字架の言葉に感激して「イエスは主なり」と告白し、神から遠い者のために心を注いで熱い執り成しの祈りを捧げた、けれども今は信仰も薄らぎ、神の言葉を聞くこともないままにその日を暮らす人を、イエスは惜しんでおられます。
「生まれざりし方よかりしものを」とは、折角生まれたのだから、いい人生を生きて欲しい、折角信仰を持ったのだから、その信仰を持続して欲しいというイエスの切なる願いが込められた言葉なのです。
ユダを惜しまれたイエスは、神から離れがちな者、神に従い得ないと嘆く者、自分の弱さに人知れず泣く者を、今も深い憐れみをもって惜しまれるのです。
3.逃してはならないもの、それは人生を決める方向転換の機会
食事の席でイエスはなぜユダの名を公表しなかったのでしょうか。それはユダが思い返してイエスを裏切るという行為をやめて、神に背を向けて進む滅びの道から立ち返ることを期待したからにほかなりません。だからこそ、それをユダが悟るようにと、「わたしと一緒に同じ鉢にパンを浸している者が、それである」と言ったのでした。
「弟子たちは心配して、ひとりびとり『まさか、わたしではないでしょう』と言いだした。イエスは言われた、『十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである』」(14章19、20節)。
邦語訳のほとんどで「裏切る」(18節、21節)と訳されている言葉の原語は「引き渡す」という意味を持つ言葉であって、単に裏切るというような単純な行為を指すものではありません。
それは文語の訳のように「人の子を売る」という卑劣な背信行為を意味したのでした。そういう点では命惜しさに思わずイエスのことは知らないと言ってしまったシモン・ペテロ、あるいは恐怖のあまりにイエスを見捨てて逃げ去った他の弟子たちの行為に較べると、それは意志的であって、悪質さは極めて顕著です。
そしてそのような大罪を犯す寸前のユダを心から惜しんで、今からでも遅くない、その決心を捨てて方向転換をするようにと願ったイエスの思いが、「わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者」(20節)という、ユダ個人への指摘となったのでした。
後年、ペテロがユダヤ人に対して悔い改めを迫ったことが使徒行伝に記録されています。
「するとペテロが答えた、『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい』」(使徒行伝2章38節 183p)。
「悔い改め」ることと「悔いる」こととは似ているようでいてその実、まったく違ったものなのです。ユダはイエスを売ったことを悔いはしましたが、悔い改めることはしなかったようなのです。
「悔い改め」の原語は方向転換を意味します。自動車の運転で言えば、間違った道を進んでいることがわかったら、ユーターンをするかして、正しい方向を目指します。それが悔い改めるということなのです。
残念なことは、イエスがユダに与えた方向転換の最後の機会を、ユダが逃してしまったことでした。
方向転換はいつしたらよいのでしょうか。方向転換は気がついた時にすぐにすべきです。神学生であった頃、北海道で聞いた、大衆伝道者の本田弘慈先生の説教での話しを思い出します。
二人の不良少年がつるんで悪さをしていた、彼らはたまたま教会の前を通りかかった、ひとりが言った、「おれは教会に行ってみる」、もう一人はそれを鼻先で笑った、月日が経ってアメリカ合衆国に新しい大統領が誕生した、そのニュースを一人の死刑囚が監獄の中で聞いて涙を流した、大統領になったのはかつて教会に入っていった少年で、死刑囚はその少年を鼻で笑った方であった、一人は方向転換をして刻苦勉励をし、ついに大統領に選ばれるまでになり、ひとりは方向転換の機会を逃し続けて、悪の道を走っていき、ついに死刑の執行を待つ身となった、これは実話である、という話しでした。
決して逃してはならないもの、それは人生における方向転換の機会です。