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2012年8月26日日曜礼拝「手で造られた神殿から、人手によらない神殿へ」マルコによる福音書13章1、2節

 2012年8月26日  日曜礼拝説教

「手で造られた神殿から、人手によらない神殿へ」                                                                   マルコによる福音書13章1、2節(新約聖書口語訳74p)  

はじめに
 
 真実の反対は嘘、偽り、そして本物の反対は偽造、偽物です。島根県隠岐郡五箇村を住所とする日本国の領土、竹島をめぐっては韓国が、また同じく日本領土である沖縄県石垣市字登野城の魚釣島(うおつりしま)をめぐっては中国が、それぞれ大騒ぎをしています。
 
 韓国が竹島を自国の領土とする根拠としてあげているのが十五世紀末に李朝皇帝の命で作成された朝鮮全図の「八道総図(はちどうそうず)」です。
 
韓国はこの古地図に基づいて鬱陵島(うつりょうとう 韓国名はウルルンド)の西にある于山島(うざんとう)が竹島であるとしたのですが、実際の竹島は鬱陵島の東にあります。それでは都合が悪い、と言うので、鬱陵島に建てられた「独島博物館」では屋外の石碑には古地図をそのまま彫る一方、この古地図をもとにした館内の立体地図では、于山島を鬱陵島の西側から東側に、エイヤッとばかりに移動させてしまったのです。
ひょっこりひょうたん島ならいざ知らず、島は普通、移動しないものです。
 
数年前にこの捏造の事実を指摘されたため、博物館側は館内の「偽造」立体地図を「近いうちに撤去する」と言いました。しかしこの八月の段階でもまだそのまま、展示されているとのことです。
 
中国は中国で何の根拠も示さぬまま、強いて言えば、明の時代、清の時代に中国のものであったものは今でも中国のものであり、当時、琉球は中国の領土であったのだから、琉球に属する尖閣諸島も中国のものだという国際的にはまったく通用しない理屈で、魚釣島の領有権を主張しているのですが、しかし、琉球が中国領になったことは歴史上、一度もありませんし、沖縄の施政権は一九七二年五月一五日に、アメリカ合衆国から日本国に返還されて、沖縄県は正式に日本に復帰しました。
ここにも中国政府による歴史の「偽造」があります。
 
なお一昨日の二十四日、中国広東省の民間企業の女性幹部がツイッターで、「一九四九年から七十一年まで中国政府は釣魚島(中国による呼称)を日本領土として認めていた」と発言し、その発言の根拠として中国共産党機関紙の人民日報の記事や、複数の公式地図を挙げていることが報道されました。
 
この女性幹部が示した資料によれば、人民日報は一九五三年一月八日付けの記事で「琉球群島(沖縄)は台湾の東北に点在し、尖閣諸島や先島諸島、沖縄諸島など七組の島嶼(とうしょ)からなる」としており、中国当局が監修した一九五十三年、五十八年、六十年、六十七年発行の公式地図にも「尖閣諸島」「魚釣島」は日中境界線の日本側に入っている、ということです。
この事実から、「中国政府はこれでも釣魚島はわれわらの領土だといえるのか」と、この幹部は疑問を投げかけているのです。
 
事実に基づく発言とはいえ、言論の自由が抑圧されている彼の国でのこのような発言は、政府の方針に反する言論活動としてこれまでの例から、発言者が当局から睨まれるのは必定であり、この発言がインターネットから削除されるのは時間の問題と思われますが、私たちはこの勇気ある女性幹部に対して敬意を表したいと思います。
 
 
一方、本物ではないけれど、ちょうど影のように本物を指し示すものがあります。それを模型と申します。模型は原型に沿って本物そっくりに形作られたものですので、模型を見ればある程度、その原型である本物の方の姿や機能を想像することが可能となるのです。
 
そこで神殿です。神殿とは神と出会う場所を意味するのですが、エルサレム神殿は実は模型のようなものであって、本物の神殿を指し示す役割を担って建てられたものだったのです。
 
今週の日曜礼拝ではエルサレム神殿という模型と、その神殿模型が指し示す本物の神殿について教えられたいと思います。
 
 
1.        キリストこそ、神との出会いを実現した本物の神殿
 
エルサレム神殿の婦人の庭で、貧しい婦人が精一杯の捧げものをするのを見て、その志と姿勢とを称賛されたイエスが、神殿の門から外へ出て行こうとした時、弟子のひとりが神殿建物の壮麗さに感嘆し、何と立派な建物でしょうかとイエスに同意を求めました。
 
「イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、『先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう』」(マルコによる福音書13章1節 新約聖書口語訳74p)。
 
 エルサレム神殿は二度建てられました。一度目は紀元前九五〇年頃に建立されたソロモンの神殿です。これは紀元前五八七年に、バビロニア帝国に攻撃されて焼失してしまいました。
 そして二度目の神殿はゼルバベルの神殿で、バビロニア捕囚から帰ってきた人々により、紀元前五一五年に再建されましたが、ソロモンの神殿に較べると、何ともみすぼらしいものだったようです。
 
イエス時代の神殿はゼルバベルの神殿の大幅な増改築というかたちで、ヘロデ大王により紀元前二〇年に着工し、本殿の方は十年足らずで完工しましたが、その他の工事はイエスの時代まで続いており、その豪華さは人々の驚嘆の的となっていたと伝えられています。
 
神殿とは何かと問われれば、神殿とは罪深い人が、聖なる神と出会うことを可能にする場所であるということができます。
そのため神殿とは第一に、人が罪のための生け贄(にえ)を捧げることによって罪のゆるしを受けるところでした。そして第二に神殿とは、そこに聖なる神がお住まいになられて、訪れる人の礼拝を受けいれ、祈りを聞いてくださるところだったのです。
しかし、イエスは弟子に向かって神殿の崩壊を預言されました。
 
「イエスは言われた、『あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう』」(13章2節)。
 
第二神殿(実質、ヘロデの神殿)はイエスの言葉の三十六年後の紀元六十六年に完成を見るのですが、時を同じくしてユダヤ人によるローマへの抵抗運動が激化します。そしてその四年後の紀元七十年夏、エルサレムはローマ軍によって攻撃され、神殿にこもって抵抗するユダヤ人もろとも神殿は破壊、炎上してしまい、エルサレム市街も焼失して、ヨセフスによりますと百十万人の住民が死亡し、九万七千人が捕虜、奴隷となったとのことです。以後今日まで神殿は再建されていません。
 
 では神との出会いの場である神殿を失った者たちは、いったいどこでどのようにして神と出会うのでしょうか。結論から言いますと、人は目に見える神殿、建物としての神殿をもはや必要とはしなくなったのです。なぜならば復活のキリストが見えない神殿となっているからです。
 
 それはその週の木曜日(ユダヤ暦では金曜日)の夜半、ユダヤの法廷でイエスの有罪を立証するためになされた証人の証言がヒントです。
 
「ついにある人々が立ちあがり、イエスに対して偽証を立てて言った」(14章57節)。
 
 証人が何を言ったかと言いますと、イエスはエルサレム神殿を打ち壊し、別の神殿を三日の後に建てると言ったというものでした。
 
「わたしたちはこの人が『わたしは手で造ったこの神殿を打ちこわし、三日の後に手で造られない別の神殿を建てるのだ』と言うのを聞きました」(13章58節)。
 
 ユダヤの法律では証言は微細な点まで一致していないと証拠に採用されないため、この証言は「偽証」(57節)とされたのですが、前半はともかく、後半の言葉についてはイエスの口から語られた可能性が大です。
 
 実際、イエスは死んで三日目に墓からよみがえりました。つまりイエスこそ、人が神と出会うことを可能とする神殿となったのです。イエスは自らの体を罪のための生け贄として捧げて、人類の身代わりとなって死んでくださいました。そして罪を悔いてイエスを救い主として信じ受けいれる者を神との和解へと導いてくださったのです。
 
 イエスが本物の神殿となってくれたので、模型しての神殿、建物である神殿は不必要となりました。その事実を解き明かしているのがヘブル人への手紙です。リビングバイブルにさらに注釈をつけて読んでみましょう。
 
「このように、(神様に人の)罪が永久に赦され、また忘れ去られてしまうなら、罪を取り除くためのいけにえを(神殿という建物において)、これ以上ささげる必要はありません。ですから愛する皆さん。今や私たちは、(人類の身代わりとして)血を流されたイエス様のおかげで、神さまのおられる(天の)至聖所(しせいじょ)に、堂々と入っていけるのです。この(神との和解という)新しいいのちに至る道は、キリスト様が、ご自分の体という(聖所と至聖所を隔てている)幕を(十字架で)引き裂くことによって、切り開いてくださいました。私たちは(イエス・キリストという)この道を通って、きよい神様の前に進み出ることができるのです」(ヘブル人への手紙10章18~20節)。
 
 キリストこそ、生ける神との出会いを実現する目には見えない、しかし今も生きている神殿なのです。このキリストによって日々に神との出会いを体験してまいりたいと思います。 
 
 
2.キリストの集会は、神との交わりを楽しむ聖なる神殿
 
 イエス・キリストこそ、建物という神殿に代る永遠の神殿ですが、キリストの集会もまた、キリストという神殿を基盤とした一種の神殿でもあるのです。
 神殿とは聖なる神が住まうところです。そういう意味では、キリストを信じる者たちの共同体としての地域集会もまた、神の住まいです。
 
「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」(コリント人への第一の手紙3章16、17節 259p)。
 
 パウロはギリシャのコリント集会に送った手紙の中で、「あなたがた」(16節)キリストを信じる者の集会こそ、神との交わりを楽しみ、信徒の交わりを築く聖なる神殿なのだと断言したのでした。
 
 神はどこにおられるのか。神は贅を尽くした豪華なカテドラル、大伽藍の中にではなく、二人、三人がキリストの名によって集まるところに来てくださり、その集いと交わりそのものをご自分の住まいとしてくださるのです。
 キリストの集会が神の住まう神殿だからこそ、たとい小さな集会であっても軽んじることなく、大切に守ることが求められています。
 
 なお、教会堂が教会なのではありません。教会堂はキリストの集会の入れ物でしかありません。また教会堂そのものは神殿ではありません。ですからキリスト教式文において、ソロモンによる神殿完工時の祈りが教会堂の献堂式の折などに引用されるのですが、キリスト教の教会堂とエルサレム神殿とは性質、目的が全く違ったものですので、これはナンセンスです。キリスト教の教会堂は神殿ではなく、ユダヤ会堂(シナゴグ)を模したものだからです。
パウロによれば教会堂ではなく、信徒の集いである集会そのものが、神の住まわれる神殿、「神の御霊が」「うちに宿っている」「神の宮」(16節)なのです。
 
 
3.キリスト信徒の体は、神が内に住まう地上の神殿
 
 もう一つ、キリストの集会と共に、神の宮、神殿になぞらえられているものがあります。それはキリスト信徒の人生であり、具体的には生活の基盤である「からだ」、肉体が、神は住まう地上の神殿であるとパウロは言います。
 
あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分のうちに宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは代価を払って買い取られた」(コリント人への第一の手紙6章19、20節前半)。
 
 この箇所は三章十六節、十七節と言い回しや用語が似ていることから混同され易いのですが、両者はまったく別のことを言っています。
 
三章の「神の御霊」が「宿っている」「神の宮」(16節)はキリスト共同体としての集会を指すのに対し、六章の「聖霊の宮」(19節)はキリストの血という「代価を払って買いとられた」(20節)個人個人の「自分のからだ」(19、20節)を指しています。
 キリストを信じる者の肉体を含めての全存在は、その心、その魂もろともキリストの犠牲という尊い代価によって、神のものへと買い取られているのです。
 
 非行に走る、あるいは走りがちな青少年は言います、自分の人生、自分の体だ、何をしようと勝手じゃないか、人に指図される謂われはないと。これに対して大人は説得力のある有効な回答をすることができません。
しかし、体は確かに自分の体ではあるけれど、決して自分だけのものではありません。神が御子の血という代償を払って買い取られた以上、その所有権は神にこそあるのです。
 
でも自分はキリスト信者ではないから、それは通用しないという反論が返ってくるかも知れません。しかし、六章の論理はノンクリスチャンにも等しく通用します。なぜならばキリストは信者のためだけではなく、すべての人のために犠牲となってくれたからなのです。それによってすべての人は、基本的には神の物なのです。すなわち、キリスト信者はもとより、すべての人は自分自身のからだをもって、神の栄光をあらわす義務があるのです。
 
「あなたがたは代価を払って買いとられたのだ。だから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(6章20節)。
 
 それは義務であるだけでなく、権利であり、特権でもあります。若いころ、私は聖書の中のある箇所を読み飛ばしなら読んだものでした。それは「これをせよ、あれをしてはならない」という、いわゆる命令形で書かれた箇所でした。ところがある先輩教職から、聖書の命令法は恵みの約束として読むのだ、と教えられました。あれをせよ、これをするなという命令形の背後には、神の「私がそのようにしてあげよう」という恵み深い約束があるのだ、と。
 
これは私にとってはまさに福音そのものとなりました。聖書の命令形、命令法は恐怖の対象ではなく、たとい今はできなかったとしても、神の恵み、聖霊の働きによっていつの日にか可能となるという希望の対象となったからです。
この命令形の読み方を教えてくれたのは、阪神チャペルセンターの牧師、廣瀬利男先生でした。
 
 ですから命令形を恐れる必要はありません。「自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(20節)という命令、勧告に対し、プレッシャーを感じる必要はないのです。「神であるこの私が、あなたがその『自分のからだ』(20節)を通して、神の栄光を現すことができるようにしてあげる、いや、必ずそうしてあげるのだ」という、有り難い約束として読めば良いのです。
 
 キリストという本物の神殿を通して神と和解をし、神の子供とされたばかりか、キリストの集会という神の住まいを通して生ける神との交わりを楽しむ者とされたこと、また、自分の体を住まいとしてくださっている神の栄光を現す者とされたという恵みを感謝しながら、日々を喜ばしく暮らす者でありたいと思います。
 
                                了
 
次週の日曜礼拝は九月の特別礼拝です。
説教題は「人は神により、男あるいは女として創造された」です。