2012年8月19日 日曜礼拝説教
「神の評価は隠れたる善行に向けられる」
マルコによる福音書12章41~44節(新約聖書 口語訳73p)
はじめに
評価をする者は三つあります。一つは自分自身が自分を評価する自己評価、そして二つ目は自分を他者が評価する客観的評価です。
その道の専門家によりますと多くの場合、自己評価の方が他者による評価よりも二割ほど高いのだそうです。これを自惚れというのですが、この結果、自分は正しく評価されていないといって憤慨する、という人も出てくることになるわけです。しかし、他人の目は結構、実態や実像を正しく捉えていると見てよいようです。
もちろん、人の評価が常に正しいとは限りません。人が下す評価には間違いもあり、見当違いの場合もあり得ます。しかし、決して間違いのない、的確な評価を下すお方がいます。それが人の内面をも見通す神であって、神の下す評価は常に正確です。三つ目の評価、それは神の評価です。
今週は有名な、「レプタ二枚」をささげたやもめの献金の話を通して、人が下す評価とはまったく違った角度から人の行いを評価するイエスの教えを聞きたいと思います。
1. 純粋な動機で行われる善行を、神は高く評価する
イエス時代のエルサレム神殿は、中心の聖所を囲んで祭司だけが入ることのできる祭司の庭があり、その外側に成人男子の庭があって、その男子の庭の外側に婦人の庭があり、そして婦人の庭の外側に異邦人の庭がありました。この異邦人の庭は東側と南側に壮麗な回廊(ソロモンの廊と祭司の廊)があったそうです。
婦人の庭には壁の前に十三の賽銭箱が置かれていたそうです。私たちにとっては馴染みのある日本の神社の賽銭箱はどれも横長の立方体ですが、エルサレム神殿の婦人の庭に置かれていた賽銭箱は学者によりますと、ラッパのかたちをしていたのだそうです。
逮捕されるおそらく二日前のこと、イエスは異邦人の庭から婦人の庭に入るための門である「美(うつく)しの門」(それは東側にありました)のあたりから、婦人の庭で参詣人たちが賽銭箱に献金をしている様子を眺めていたと思われます。そこに貧しいみなりをした、一目で寡婦と見える婦人がやってきて、賽銭箱にレプタ二枚を捧げる様子がイエスの目にとまったのでした。
「イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちは、たくさんの金を投げ入れていた。ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二枚を入れた。それは一コドラントに当たる
(マルコによる福音書12章41、42節 新約聖書口語訳73p)。
イエスは献金をしている「貧しいやもめ」(42節)の姿に感動し、弟子たちを呼び寄せて、あの婦人はだれよりも多く献金をささげたのだと評価をしたのでした。
「そこでイエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、『よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ』(12章43節)。
弟子たちは最初、イエスが何を言っているのか理解できなかったと思われます。そこには着飾った金持ちたちも大勢いて、実際に傍(はた)から見てもわかるような多額の貨幣を賽銭箱に投げ入れていたからでした。そこで、まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている弟子たちに向かってイエスは、「貧しいやもめ」が献金を賽銭箱に「だれよりもたくさん入れた」(43節)と言った意味を説明します。それは他の者たちがゆとりのある財布の中から捧げたのに対し、やもめはギリギリの暮らしの中から大事な「生活費」を、それも「全部を」捧げたからである、と。
「みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」(12章44節)。
「レプタ」(42節)という通貨はユダヤで通用していた最少額のギリシャ貨幣で、薄いものという意味であったと言われています。
「レプタ」は二枚でローマの最小青銅貨幣の「一コドラント」(同)に当たりました。当時の労働者の一日の平均賃金の一デナリは六十四コドラントですから、やもめが献金した二レプタは一日の労賃の六十四分の一という、まさに少額です。
これを今日の貨幣価値に換算したとしますと、大阪の平均時給は七八六円ですから八時間労働で一日の賃金は六二八八円、東京の時給は八三七円ですから日当は六六九六円ということになります。ですから単純計算では「二レプタ」は約百円ということになるのですが、物価などを勘案しますと二百円くらいだったかも知れません。聖書大辞典によりますと、一コドラントはローマの銭湯の一回の入浴料だったそうです。因みに、パレスチナの労働者の労働時間は現代のような八時間ではなく、夜明けから日没までの約十二時間労働でした。休日は土曜日だけの週休一日です。
「二レプタ」という貨幣価値がどうであれ、「二レプタ」はこのやもめにとっては「あらゆる持ち物」(44節)であり、「その生活費全部」(同)つまりその日の夕食代、時間帯によっては昼食代も含まれたものであったのかも知れない貴重な貨幣だったのです。
彼女はなぜそんな大事なものを捧げてしまったのでしょうか。金銭感覚に欠落があった女性だったのでしょうか。経済観念が乏しかったのでしょうか。いえ、もしもそうであるならば、彼女には社会生活を営む上での何らかの保護と指導が与えられたでしょう。彼女が自分の考えと意志で献金をしていることは、その様子や振る舞いからイエスにもわかった筈です。
ところでこの婦人の庭に設けられていた賽銭箱は、神殿の供え物や各種の費用を賄うためのものでしたが、同時にそれは生活困窮者を助けるための福祉にも使用されていたのだそうです。このやもめ自身、その手当てを受ける対象のような身であったかも知れません。
にも関わらず、その貴重なお金を捧げたのはなぜかと言いますと、自分が持っているものを、より乏しい者と共に分かち合いたいと思ったからではないかと思えるのです。
ユダヤでは「施し」は祈りや断食と並んで三大善行の一つでした。しかし、問題はその動機にありました。イエスは山上の説教の中で、施しなどの善行をする際の注意として、人からの称賛を得ようとしての行動を戒めています。
「だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな」(マタイによる福音書6章2節 7p)。
「自分の前でラッパを吹きなら」(2節)しながら善行をする人は流石にいないでしょうから、この言葉はラッパ型の賽銭箱の前で「施し」のため、これ見よがしに大金を投げ入れる金持ちの行為を婉曲に皮肉ったものなのかも知れません。
しかし、やもめの意識の中には人からの評価もなければ神からの評価もなく、ただただ乏しい者と乏しさを分かち合いたいという動機、すなわち愛と憐れみの思いでしたのだということを、イエスは見抜いて感動されたのだと思われます。
福音書を通して見るイエスは、「感動しい」とか「感激屋さん」という表現がぴったりの感情豊かなお方です。もちろん、感情豊かと言いましても、激情にかられて他国の国旗を食いちぎったり、火を付けたり、総理大臣の写真を燃やしたりするという行為、あるいは日本車をひっくり返したり、日本料理店を攻撃したりする人々を感情豊かとは言いません。それは精神のバランスの異常から行われる行為であって、治療の対象です。
イエスの特徴はその細やかさにあります。目の付けどころが普通の人とは違うのです。イエスがやもめの行為に感動したのは、彼女が単に「生活費全部を」(44節)捧げたからではありません。もしもそうであるならばイエスはカルト宗教の教祖と変わらなくなります。イエスは私たちが自分たちの収入の範囲で、食べるものをしっかりと食べ、必要なものを購入し、それなりに豊かな家計を営むことを願っておられます。
イエスが感動したのは彼女の動機でした。イエスの細心にして鋭敏な神経と豊かな想像力は、このやもめの献金の動機を見抜いたのです。それはイエス独特の感性によったのかも知れません。それは弟子たちにはわかりませんでした。
わからなかったので、福音書記者はイエスの言葉をそのまま記録したのでしょう。やもめは自分の心情をだれにも語りません。しかし、その動機を理解した人が「美しの門」の傍らで彼女の心情を汲み取ってくれていたのです。
問われるものが動機です。そして神は善行の背後の動機を見て、それが純粋な動機であった場合、動機を含めた善行を評価するのです。
2.人の隠れた善行を、神は高く評価する
神は人の隠れた内なる動機をご覧になると共に、隠れた善行を高く評価します。でもやもめは大勢の人が群れをなす賽銭箱に献金をしていたではないか、それは門の傍らにいたイエスからも目撃されていたではないか、隠れてしていないのでは、という疑問を持つ人もいるかも知れません。しかしこのやもめの善行は隠れた善行であったのです。
隠れた善行とは何か、隠れた善行とは、それが表に表われたとしても、称賛や報酬を本人自身が意識しないで行う善行のことです。
でも、人の目から隠された行為、人の評価を意識しないとしても、自分自身が自分の善行を意識していて、自分はなんて善意の人間なのだろう、気前のよい人なのだろうと、自分自身を評価しているならば、それは神の前に隠れた善行とはいえなくなるのです。それが、右の手のしていることを、左の手に知らせるな、というイエスの戒めです。
「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それはあなたのする施しが隠れているためである」(マタイによる福音書6章3、4節前半)。
この箇所は一般的には、善行を人に宣伝するな、という戒めとして理解されているのですが、それだけではありません。善行をしている自分を意識するな、という教訓でもあるのです。「右の手」も「左の手」も自分の手だからです。
つまり、自分は何ていい人なのだろうと、自分自身に酔いながら行う善行もその価値を減じることになるというわけです。なぜならば、自分が意識した段階で、もはやそれは隠れた善行ではなくなるからなのです。しかし、自分が意識をしていなければ人が注目をした行為であっても隠れた善行となるのです。
紀元三十年代の古代教会には経済的に困窮している人が多くいました。その対策として、比較的富裕な信徒たちは自己が所有する土地や家屋を自発的に売却し、その売却益を教会に持ってきたようです。そしてその中に「バルナバ」がいました。
「クプロ生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(「慰めの子」との意)」と呼ばれていたヨセフは、自分の所有する畑を売り、その代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた」(使徒行伝4章36、37節)。
バルナバの行為はいわゆる匿名の行為ではありませんでした。しかし、それは隠れた善行だったのです。なぜかと言いますと、彼自身が施しという善行をしているという意識がなかったからでした。
もちろん、人を意識し、人からの称賛を得るという動機で行う行為も神の評価の対象外とされます。
同じ山上の説教の最後の方に、不思議な教えがイエスの口から語られました。それはこの地上において、人々の耳目を驚かせるようなカリスマ的な働きをしたからといって、天の御国に入れるとは限らない、という教えでした。
「わたしにむかって『主よ、主よ』という者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが入るのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らに、はっきりこう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(7章31~33節)。
これは、イエスの名によって語った「預言」(22節)、イエスの名によって行った「悪霊」(同)の追放、イエスの名によって現された病気の治療を含む「力あるわざ」(同)は、天の御国に入るチケットとはならないという意味です。
要はそれらの行動や働きの原動力となった動機が如何なるものであったかということなのです。それらの行為が純粋に神の栄光を表すことを主としたものか、そこには自分の栄光、さらには他者からの称賛を期待するものがあったかどうか、ただただ苦しんでいる者を一刻も早く救ってあげたいという純粋な気持ちが結集したものかどうかが問われのだとイエスは言うのです。
その点でやもめは、人はもとより自らをも意識することなく、更に神の評価や報いすら意識することなく、より乏しい者への思いだけで気が付いたら「その乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れた」(44節)のです。そういう意味でもやもめの行為は、神が高く評価する隠れた善行であったのです。
3.隠れた善行を生み出す純粋な動機は、神への感謝の心から
貧しいにも拘わらず、自分が持っているものを神に捧げることによって、より乏しい者の役に立ちたいという願い、そしてその動機はどこから生まれるのでしょうか。それは、持っているものの多少や質に関係なく、自分が今現在持っているものは神から与えられたものであり、過去、現在にわたって自分自身、神の大いなる恵みによって支えられてきたものであるという感謝の心、そしてこれからの未来もまた、神の恵みによって支えられる筈だという信仰、さらにはそこから湧いてくる喜びによって生まれてくるのです。
当時のユダヤ人は通常、朝の九時、正午、午後三時に祈りと礼拝をしていたそうです。このやもめがこのうちのいずれの時間に神殿に詣でたのかは定かではありませんが、婦人の庭で神を礼拝している時に、自分の日々が神の恵みによって守られているという確信と喜びが衝き上げてきて、その感動もまた、献金の動機となったのかも知れません。
そこには強制もなければ見栄もない、打算もなければ欲得もない、ただ自分で決めて、自分で実行しただけであって、まさか、イエスが自分の行為に感動しているなどということは、想像することもなかったのです。
彼女はクリスチャンではありませんでした。当時はまだイエスとの出会いを経験していない一人のユダヤ教徒でした。そしてイエス時代のユダヤ教にも、彼女のように純粋な信仰の持ち主は少なくはなかったのです。
初期ユダヤ教研究の第一人者である土岐健治一橋大学大学院教授はその著書「初期ユダヤ教の実像」(新教出版社)において、「初期ユダヤ教は『律法主義・行為義認主義』『自己義認』の宗教ではなかったという認識が、広く受けいれられてきています」とし、ユダヤ人歴史家ヨセフスの書いた「ユダヤ古代誌」から、「ユダヤ人によって一日に二度献げられる祈りは、神に対する感謝の祈りであ」ったという言葉を紹介しています。
この指摘はとても重要です。つまり、人間というものはそんなに捨てたものではないのです。もちろん、この日本においてクリスチャンたちが現す善意は感動的です。テレビによく出演している新聞記者出身のコメンテータ―が数ヶ月前、「東北の被災地ではキリスト教関係のボランティアを比較的多く見かける」と発言していました。
これは日本のキリスト教会にとっては証しとなる評価です。
しかし、被災地におけるボランティアの圧倒的多数はノンクリスチャンであり、山本七平のいう「日本教徒」たちです。多額の義援金もこの「日本教徒」たちによる寄付金でした。
実は、外国の宣教師たちが批判する「日本教」の信者たちには、ヨセフスのいうユダヤ人、つまりユダヤ教徒の祈りと共通するものがあったのです。
山本一力という作家がおります。この人の小説の舞台の多くが深川冬木町であることからいくつかの作品を読みましたが、ある作品の中で、深川の住民が信心する「富岡八幡宮」への参詣人の様子が書かれており、そこには、参詣人の毎日の参詣は何かの願いごとをするためのものではなく、日々の暮らしの無事のお礼をしに参拝するのだとありました。つまりお礼参りです。
江戸時代の日本人の参拝の第一の目的がお礼参りだったという記述は、今日の「商売繁盛」「無病息災」「家内安全」という自己の幸を祈願するために行く正月の初詣
と比較すると、少々、寂しい気持ちになりますが、少なくとも昔の日本人の信仰はご利益信仰ではなく、大いなるものへのお礼参りだったのです。
「やもめ」の姿に感動したイエスが「弟子たちを呼び寄せて」「よく聞きなさい」と言われたのは、この「やもめ」に学べという意味であったと思われます。そしてそれは私たち現代を生きるクリスチャンに向かっても、ユダヤ教徒であったこの無名の「やもめ」に学べと言われているのかも知れません。
それは同時に、この「やもめ」の心と姿に共通する、敬虔で善意の日本人からも学ぶようにという意味かも知れません。確かに多くの日本人は唯一の神を知らず、救い主のキリストを知りません。しかし、大いなる存在への畏敬の思い、その大いなる存在によって生かされているという感謝の気持ち、乏しさを共に分かち合おうとする慈善の心など、古来、日本人が伝えてきた伝統的美徳に学ぶことを、主は望んでいるのかも知れません。
語る者が先ず学ぼうという姿勢を持ってこそ、語られる福音が、そしてキリストの姿が伝わるのではないでしょうか。
そこでもう一度、イエスの言葉を噛みしめて祈りたいと思います。
「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ」(43節)。
了
次週8月26日の日曜礼拝は以下の通りです。
説教題「目に見える神殿から、見えない神殿へ」
聖 書 マルコによる福音書13章1、2節