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2012年6月3日 日曜特別礼拝(第一回)「天地を創造したという神は実在するのか」創世記1章1節

 2012年6月3日  日曜特別礼拝(第一回)

「天地を創造したという神は実在するのか」     

      創世記1章1節(旧約聖書口語訳1p) 
 
はじめに
 
  日本の諺には「困った時の神頼み」とか、「触らぬ神に祟りなし」など、神がいる、あるいはいるかも知れないという思いを前提としたものが多くあります。
 
これだけ科学が発達し、知識が広がっても、人は依然として人間を超えた存在に対して畏敬の念を持ち、期待もし、時には我と我が身の責任を棚にあげておいて、「神も仏もあるものか」と我が身の不幸を超越的な存在に転嫁しようとしたりもしますが、神は果たして存在するのでしょうか。
もしも神が存在をしていないとするならば、神と言う概念はどこから生まれてきたのでしょうか。また、神が存在するとするならば、その神はどのような神なのでしょうか。
 
 今月から十一月まで、毎月、第一日曜日の礼拝においては、人間の根源的な問題でもある「神と人間、その関係と正しい在り方」について考えることにより、一度しかない人生をよりよい人生にしたいと願っております。
 
 そこで第一回目の本日は「天地を創造したという神は果たして実在するのか」という題で、神の存在についてご一緒に考えていきたいと思います。 

 聖書は神の存在を肯定します。

旧約聖書は文学類型では古典の範疇に入るものであり、文献という点では古代ヘブル民族及びその子孫であるユダヤ民族が生み出した宗教文献です。
そしてその宗教文献でもある旧約聖書のトップに位置している文書が創世記であって、その創世記の冒頭には、「神というものは存在をしていなければならない」ということ、その「神は万物の創造者でなければならない」こと、更にその「神は第一原因でなければならない」ということが書かれているのです。
 
1.神というものは存在をしていなければならない

 実は人間が置かれている現実は、論理的にも実際的にも、神というものが存在しているということを前提として成り立っています。つまり、神というものは存在をしていなければならない、存在していなければ説明がつかない、それが人種や民族を超えた私たち人類の現実なのです。

  第一に、人間という生き物にはあまねく、宗教心というものが備わっております。この宗教心は文明と隔絶したようないわゆる未開の地に住んでいるどんな部族にもあることがわかっていますし、一方、自然科学の先端を行く研究者ほど、偉大な存在への畏敬の思いを持っていると言われます。

宗教心が宗教というものを生み出したのではなく、神が存在するからこそ、人間の中に神を崇める宗教心が存在するのです。

 もちろん、神と言っても千差万別、種々雑多ですが、神を大雑把に仕分けすると、神の存在を肯定する「有神論」と、神の存在を否定する「無神論」に分けられます。

また「有神論」にもユダヤ教、キリスト教、イスラム教のような「一神教」と、インドなどに見られる、神を複数とする「多神教」があります。
 
日本古来の宗教は、大きく分類すれば多神教ですが、厳密には「汎神論(はんしんろん)」と言いまして、世の中のあらゆるものに神の霊あるいは神性が宿っているという考えも基づく宗教です。
この汎神論が自然への畏敬という日本文化を生み出すと同時に、生けるものはすべて死んだあとにまたこの世の何かに生まれてくるという「輪廻転生(りんねてんしょう)」と結びついて、死者への畏敬、他者や生き物への慈しみという態度や考えを醸成してきました。
 
宗教学者によれば、「かみ」は太陽を意味する「?(かがや)く日」が「かび」となり、それが「かみ」となった、また死んで「現世(うつしよ)」から「幽世(かくりよ)」に移った死者を指す「隠(かく)れ身」が縮まって「かみ」となったと言います。
日本宗教の特徴である自然崇拝、特に太陽崇拝、そして死者崇拝、先祖崇拝はこれによって説明がつくかも知れません。
 
これに対して「一神教」は、神の独自性、超越性を強調すると共に、神と自然とを峻別します。
神についての聖書の言及を見てみましょう。
 
「はじめに神は天と地とを創造された」(旧約聖書口語訳創世記1章1節 1p)。

 この部分はヘブル語原典では、「はじめに」「造られた」「神は」「天と」「地を」の順で書かれていますが、問題は「神」です。

通常、神を表すヘブル語は「エル」なのですが、ここでは複数形の「エローヒム」が使われています。ということはついつい「神々」と訳してしまいそうですが、聖書は、神は唯一の存在であるとします。
 
「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である」(申命記6章4節 254p)。

 ここで複数形が使われていることについて、昔は、そこに三位一体の主張が隠れている証拠だとする説もありましたが、それは読み込みすぎで、今は「畏敬複数」と言いまして、偉大な存在への尊崇念を示すための古代における修辞学的表現であることがわかってきています。

 昔の私は、神はいると思えばいるし、いないと思う者にはいない、神はいて欲しいと願う者が考え出した想像の産物に過ぎないと思い込んでいましたが、長く生きれば生きる程、神は実際的にも、論理的も実在しており、実在していなければならないと思うようになっています。つまり、神が実在していないとこの世の中、辻褄が合わないのです。

2.その神は万物の創造者でなければならない

 では、実在している神は、どのような神でなければならないかと言いますと、その神は万物を無から創造した神でなければなりません。

「つくる」と言いましても、既にあるものを加工することと、無から何かを造り出すこととは全く違った事柄です。
英語では前者には「メイク」を、後者には「クリエイト」という用語を当てます。
時々、クリエイターという肩書で呼ばれる人がいますが、確かにその作品が独創的ではあったとしても既にあるものを加工していということでは、「クリエイト」とは言えません。

 真のクリエイター、つまり、無い所から有るものを生じさせたものこそ、神なのです。

「はじめに神は、天と地とを創造された」(創世記1章1節)。
 
 ここで使用されている「創造した」という動詞の「バーラー」こそ、真の意味での無からの創造を指す「クリエイト」です。

 では神は何を創造したかと言いますと、「天と地」です。つまり、現代の知識で言えば、「天」とは太陽系を含めた広大な宇宙であり、「地」とはまさに人間をはじめとする生物が住んでいるこの地球を指します。

 天文学者は宇宙の誕生は百三十七億年前であるとし、太陽系の誕生は四十六億年前であるとします。

太陽系について高校で習う地学では、「四十六億年前にガスと塵が集まった分子の雲が重力で収縮し、その雲が回転による遠心力で平たい円盤状になり、その中心に原始の太陽が生まれた。やがて太陽のまわりの雲は、その中の塵の層からいくつもの小さな惑星となり、そしてこれらの惑星が衝突と合体をくり返しながら原始の惑星となって、さらにこれらの原始の惑星が巨大な衝突を経て現在の水星や金星、地球、火星、木星、土星などの惑星になっていった」と説明します。
 

 地球はそのような惑星の中の一つですが、なぜ地球だけが大気や水などの、生き物が住むに相応しい環境を整えた惑星となったのでしょうか。神を認めない者はそれを偶然の結果だと言いますが、もう一つ、はじめに偉大な構想力を有する設計者がいて、その設計者が宇宙の仕組みを発案し、材料を揃えて施工をし、その結果、現在の太陽系が生まれ、地球という稀有の惑星が生じたとする考えることも可能です。

 宇宙の仕組みが分かって来るに従い、先入観を捨てて全体をそして細部を見れば、思慮深く計画的に天と地とを創造した神がいるということの方が、勝手に出来たと考えるよりもはるかに自然であり、かつ合理的であることがわかってきます。

そして神がいるのであるならば、その神は万物を創造した神でなければならないことになるのです。
 
3.その神は、絶対的第一原因でなければならない 
 
 そしてもう一つ、実在するという神はどのような神でなければならないのかと言いますと、神は「絶対的第一原因」でなければなりません。 つまり言葉を替えると、神は万象の第一原因でなければならない、ということです。
この世の事象にはすべて原因があって、その原因をどこまでも遡っていくと、ついにはこれ以上遡ることができないという根本原因に行き着くのですが、その根本原因こそが第一原因であり、第一原因こそが神なのです。
言葉を替えれば、はじめのはじめということです。そして聖書の神は目に見えるもの、見えないものの第一原因です。
もう一度、創世記を読みましょう。神はあらゆる事象に先だって「はじめに」動いたのです。

「はじめに神は、天と地とを創造された」(創世記1章1節)。

 
この第一原因という概念を追求、解明したのがギリシャのアリストテレスという哲学者でした。
ギリシャは今でこそ、EUのお荷物になっていますが、先祖には聡明な人が沢山排出されていました。
ただあまりにも聡明であったため、神についての証明作業で古代のギリシャは、とんでもないところに行ってしまったのでした
 
 ギリシャ人は考えました。神は第一原因でなければならない、と。そこまでは古代ヘブル人と一緒です。しかし、頭のよかったギリシャ人は考えました、
「第一原因は他を動かすことはあったとしても、自らは不動であって、他の何物からも動かされない、たとえ、自分が創造したものが苦悩の淵に沈んだとしても心を動かされることはない、もしも同情して心を動かしたとするならば、他からの影響を受けたことになり、それでは第一原因とはいえなくなる」と。
そこでギリシャ人は神の本性から情緒や感性を取ってしまったのです。
 
この結果、ギリシャの神は万物を創造したあと、万物に関わることをやめて世界の動きからリタイアした神とされました。ですからギリシャの神は人が祈っても聞きませんし、叫んでも耳を傾けようとはしません。自分が造った被造物に対して一切の関心を持たない、というのがギリシャの神のイメージです。
 
 しかし、聖書の神は万物の創造者であるだけでなく、万物の根源であり、第一の原因です。
聖書の神がギリシャの神さまと全く違うのは、聖書の神さまの方は心、感情というものを持っていることです。聖書の神は感情が豊かで、自分が創造した万物に今も非常な関心を持っている神なのです。
そして神は語りかけます。苦悩の時にははばかることなく、いつでも、どこからでも神なる私を呼べ。そうすれば私はあなたに向かって助けの手を伸べる、と。

「悩みの日に我を呼べ、われを呼べ、われ、汝(なんじ)を助けん、しかして汝、われを崇むべし」(詩篇50篇15節 文語訳)。