2012年4月29日 日曜礼拝説教
「卑しい上昇志向ではなく 聖なる向上心によって」
マルコによる福音書10章35~45節(新約聖書口語訳69p)
はじめに
「~もどき」と言います。「もどき」は「擬(もど)く」から来た言葉で、見た目はよく似ているけれど、本質は全く違うもの、つまり「似て非なるもの」を表します。食べ物のガンモドキなどは味がガン、つまり鳥の雁(かり)に似ていることからつけられたものだそうです。
この世の中には「擬き」が氾濫していますので、わたしたちはそれが本物なのか、それとも擬きなのかを自分自身で見極めていかなければなりません。そしてその中でもしっかりと見極めていかなければならないものの一つが、「卑しい上昇志向」と「聖なる向上心」です。この二つはどちらも上を目指すという点では共通していますが、その本質は天と地ほどに違います。
今週は弟子たちに対するイエスの教えから、卑しい上昇志向を排して、聖なる向上心を持って生きることの大切さについて教えられたいと思います。
1.生まれながらの人が持つ野心―その根は卑しい上昇志向
十字架の死に向かって決意も新たにエルサレムを目指すイエスのもとに、ヤコブとヨハネの兄弟がやってきて、これから願うわたしたちの願い事はなんでも叶えてください、という願い出を致しました。
「さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、『先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします』」(マルコによる福音書10章35節 新約聖書口語訳69p)。
何とも厚かましく図々しい物言いです。しかも願いの内容を聞けば、その図々しさにますます呆れ果ててしまいます。
「イエスは彼らに『何をしてほしいと、願うのか』と言われた。すると彼らは言った、『栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください』」(10章36、37節)。
この時点では、弟子たちはほかのユダヤ人と同じように、神が遣わす救い主であるメシヤ・キリストは政治的、軍事的な王さまであって、その強大な力をもって世界帝国のローマを駆逐し、エルサレムを首都として全世界を支配する、ユダヤ人による強大な神聖国家を建てるのだと思い込んでおり、そして自分たちの先生こそ、そのメシヤであって、その先生が王様になったなら自分も大臣になれると期待をし、その欲望は更に膨らんで大臣になるのであれば普通の大臣ではなく、大臣の中でも一番偉い大臣になりたいという野心を燃やすようになっていたのがヤコブとヨハネの兄弟で、今の内にイエスから口約束だけでも、つまり「内定」を貰っておこうとして、そこでイエスのもとに願い出た、というわけです。
彼らは強烈な願いを持っておりました。でもその願いはこの世で偉くなりたいという間違った上昇志向に基づくものであったのでした。
実はこのような願望は二人だけのものではなく、他の弟子たちに共通した野心であったようです。
それは長期の旅行を終えてカペナウムに帰ってきた弟子たちの話題に示されていました。人は関心を持っていることを話題にするものです。彼らの話題は弟子たちの中で誰が一番偉いか、つまり誰がトップに選抜されるのだろうかというものでした。
「彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一番偉いかと、互いに論じ合っていたからである」(9章34節)。
この時もイエスは弟子たちにその志向の愚かさ、卑しさを説かれるのですが、それは彼らの心根には届いていなかったようなのです。それが、二人の抜け駆けの行動を知った他の弟子たちの反応に表われています。彼らは二人に憤りました。
「十人の者はこれを聞いてヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した」(10章41節)。
他の弟子たちが二人に憤ったのは二人の行動の動機について憂えたからではなく、二人が隠れてイエスと秘密交渉をしようとしたからでした。そういう意味では他の十人も似たようなものであったのです。
アダムを先祖とする、生まれながらの人は、その願いの動機が神の気持ちの実現にあるというよりも、また他者の幸せにあるというよりも、自分の欲望の実現を第一に目指すというところにあります。
弟子たちのこのような願い、間違った志を見抜いたイエスはこのあと、ヤコブとヨハネだけでなく弟子たち全員を御許に呼び寄せ、彼らが一様に持っている上昇志向を、世俗的な卑しいものとして否定されます。
「そこでイエスは彼らを呼び寄せて言われた、『あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない』」(10章42、43節前半)。
どんなに熱心であったとしても、その動機が卑しい場合、たといいっときは野心を実現させることができたとしても、そこには神の祝福はないのです。
2.生まれ変わった人が持つビジョン―その根は聖なる向上心
イエスは続けてイエスの弟子のあるべき姿、人というものの進むべき道について、諄々と説かれます。それは人の上に立ちたいと願う上昇志向とは正反対の、人に仕える僕(しもべ)として生きよ、というものでした。
「かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕(しもべ)とならねばならない』」(10章43節後半、44節)。
「偉くなりたい」「かしらになりたい」という上昇志向は、生まれながらの人間が持つ欲望ですが、イエスに出会ってほんとうに生まれ変わると、その人は社会的地位の上昇や肩書の有無ではなく、この身が神と人の役に立つ者でありたいという願いを持って生きることを望むようになる、そしてその究極の姿が人に「仕える」「僕」のかたちであると、イエスは説かれたのでした。
ただし、「偉くなりたいと思う者は」や「かしらになりたいと思う者は」というイエスの言葉を表面的に捉えて、上に昇るためには取りあえず、「仕える人」「僕」の位置に甘んじよう、そうすればいつの日にかトップに立つ機会が来るのだ、と言うように理解してはなりません。イエスの言葉をそのように誤解して読む人が多いのですが、イエスが言いたかったことは、「偉くなりたい」「かしらになりたい」という野心そのものがイエスの弟子には相応しくないという意味なのです。
そしてこの時点ではただ、ユダヤ教的なメシヤ観、現世利益的な価値観の中にどっぷりと浸かっていた弟子たちでしたが、その後、聖霊の取り扱いを受けて変わっていくこととなります。
今日、説教後に歌う聖歌五二十一番の「キリストには替えられません」は、七十年以上にわたって多くのキリスト者に愛唱されてきた聖歌です。残念なことに作詞者のレア・ミラーという女性についてはほとんどわかっていませんが、この聖歌を作曲したジョージ・ビヴァリー・シェーは、ビリー・グラハムの伝道に帯同して、世界各地でその働きに協力した福音歌手として有名で、いつでしたか、日本に来た時には既に高齢でしたが、その美しいバリトンの声を直接に聞いて、感動をした記憶があります。
ビヴァリー・シェーは牧師の子としてカナダに生まれ、二十歳の学生であったある日曜日、たまたま母親がどこからか筆写してきた「キリストには替えられません」という詩に感動してこれに曲を付け、その歌詞を実践する音楽伝道者になる決心をし、その日曜日の朝、父親が牧会していた教会の礼拝で独唱をしたそうです。
大学卒業後、その声と歌唱力を買われて米国四大放送網の一つであるCBS放送の合唱団の一員への招きを受けた時には、高い名声と高額の報酬が期待できる世俗の音楽活動に入るか、それとも教会の音楽活動にとどまるかを迷った末に、以前自身が作曲した「キリストには替えられません」の歌詞の通りの道を進む決意をし、以後、百三歳になった今日に至るまで、現役のゴスペル・シンガーとして神と教会に仕えています。
ビヴァリー・シェーの歌声はyou tubeで、George Beverly Sheaで検索すれば今でも聞くことができます。
世俗的な功名心、上昇志向も確かに人を積極的で活動的な人生へと向かわせます。しかし、主イエスが私たちに期待する人生は、聖なる向上心を人生の根に持つことなのです。
3.神を愛する人が持つ究極の目標―その実はキリストのかたち
上昇志向という間違った根っこからは、いっときは目に見えるかたちでの繁栄を手に入れることは出来るかも知れませんが、神の祝福を生み出すことはできません。
しかし、生まれ変わって神を愛するものとされた人の中に生み出された正しい向上心という根っこからは、いつの日にか、豊かな実が熟(な)るのです。
その実とはキリストのかたち、すなわち、キリストの御姿(みすがた)に似たものとなるというものです。それこそが神を愛する人が持つ究極の目標です。
「わたしたちはみな、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(コリント人への第二の手紙3章18節 281p)。
キリストのかたち、キリストの御姿とはどんなものかと言いますと、それが「仕える」姿でした。
「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(10章45節)。
神の独り子でもあるイエスこそ、天上天下のあらゆるものに先だって「仕えられる」べきお方でした。しかしイエスは「仕えられるためではなく」人々に「仕えるため」にこの世に生まれ、しかも神に逆らっている「多くの人のあがないとして」その尊い「自分のいのちを与え」てくださったのでした。
歴史上、この世界で最も低いところ、それは十字架の上でした。最も高いところで崇められるべきお方が、低い所に降りてきて人のかたちをとり、罪人となり、囚人となって、その尊い命を投げ出して下さったのでした。
「国民の生活が第一」と言いながら政治資金規正法に抵触した疑いで訴追された政治家に、裁判所が無罪の判決を下しましたが、識者の中には、判決の内容は有罪そのものであり、ただ、「疑わしきは罰せず」という法理論によって無罪とされただけであって、無実ではないという声もあります。
しかしイエスは弱い立場の秘書を犠牲にして罰を免れようとする政治家などとは違って、自身は一点の曇りもない人生を生きつつ、赤の他人である「多くの人のあがないとして」つまり身代わりとなって、刑死して下さったのでした。
ビヴァリー・シェーは世俗の栄光を背にして「僕」の道を選びましたが、昨年、グラミー賞を主宰するザ・レコーディング・アカデミーはグラミー賞の一環として一〇二歳になったビヴァリー・シェーに対し、「生涯功績賞」という賞を授けました。
それは生涯をキリストの僕として生きたビヴァリー・シェーへの父なる神と御子なるキリストからのささやかな褒賞であったのかも知れません。
私たちもまた、間違った上昇志向を排して、聖なる向上心を動機とする僕としての日々を、御言葉に立ち、聖霊に導かれて歩む者でありたいと心から思うのです。