2012年3月11日 日曜礼拝説教
「永遠の生命に至るためのもう一つの道」
マルコによる福音書10章17~22節(新約聖書口語訳6p)
はじめに
明石家さんまというお笑いタレントがおります。この人は性格が楽観主義なのでしょうか、「さんまの名言集」なるものがあって、その筆頭に挙げられている言葉が「生きてるだけで丸儲け」なのだそうですが、これがまた実に含蓄に富んだ言葉であって、聖書が示す人間の立場を言い得て妙であると思います。
さんま氏の長女の名前は「いまる」さんというそうですが、それは「いきてるだけで」の「い」と、「まるもうけ」の「まる」から取ったという説があるそうです。信憑性ははっきりしませんが。
ところでわたしたちは、ついつい感謝することよりも文句を言ったり、不満を感じたりしながら暮らしがちです。しかし、少し見方をずらして自分を見たら、親や家族、先生や先輩、知人や友人などの他者や、自分を超えた大いなるものによって生かされて今の自分がある、ということに気づかされます。
つまり、生きていること自体が実は丸儲けであり大儲けなのだということに気づくのです。
しかも人はこの世において生かされているだけでなく、何とも有り難いことにあの世においても命を受けて、幸いな日々を永遠に続けることがゆるされています。まさに「生きていることが丸儲け」なのです。
そこで今週はイエスの御言葉から、「生きてるだけで丸儲け」の究極である、「永遠の生命」を受ける方法を教えられたいと思います。
1.永遠の生命とは、この世と来世において、命の神と共に安らいで暮らことである
幼な子に手を按(お)いて祝福を祈られたイエスのところに、ひとりの人が走り寄って来て、「永遠の生命」を受けるためには何をしたらよいのかという質問を致しました。
「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた。『よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか』」(マルコによる福音書10章17節 新約聖書口語訳68p)。
ユダヤ人にとって「永遠の生命」(17節)の獲得は最優先されるべき大きなテーマでした。彼らは「永遠の生命」を受けることを人生の最大の目標、信仰生活の究極の目的としており、そのために努力もし、生活のすべてを賭けていたのでした。そしてイエスのもとに跪いたこの「ひとりの人」(17節)も同様でした。
この人についての共観福音書の並行記事のうち、年代については、マタイは「青年」とし、社会的立場については、ルカは「役人」としております。
「この青年はイエスに言った、…」(マタイによる福音書19章20節)。
「また、ある役人がイエスに尋ねた、…」(ルカによる福音書18章18節)。
「役人」は役員と訳すべき言葉であって、役員は現代の日本で言えば立法府である国会と、司法の最高機関である最高裁判所を兼ねたような役所であったサンヒドリン(大議会)の議員を指しておりました。つまり彼は大議会(最高法院)の議員だったのです。しかも彼は「青年」つまり、三十歳を超えてそんなに経っていない年齢であるにも関わらずこの地位にあったのです。
ということはどういうことかと言いますと、ユダヤにおいて彼は、社会的にも宗教的にもエリート中のエリートであることを意味していたのでした。
「永遠の生命」(17節)と体のよみがえりとは、ユダヤ人にとってはコインの裏表のように切り離せないものでした。ユダヤ人が渇望してやまない「永遠の生命」とは、復活した肉体をもったままで、神と共に永遠を生きることだったからです。
「永遠の生命」といいますと、不死という要素が思い浮かびますが、不死という量的、時間的なものは「永遠の生命」の結果であって、むしろ中身こそが重要です。
高齢の夫婦にとって、五十年間がんばって金婚式を迎えたという時間的な「長さ」よりも、深い信頼によって結ばれた一瞬一瞬の日常生活の方がより重要であるように、「永遠の生命」は、人が日々に神の顔を仰いで感謝しつつ暮らすという、質の面こそが重要なのです。
そしてイエスこそ、この質と量という両面を併せ持った「永遠の生命」を人に与えるために、この世に来られた救い主であったのでした。そういう意味では、この青年役員がイエスの許に来たと言うのは決して的外れなことではありませんでした。
2.永遠の生命に入る条件とは、善行を積むことよりも、神に無条件で降伏することである
しかしこの後、青年役人は失望しながらイエスの許(もと)を去っていきます。それはイエスの言葉の本当の意味を悟ることができなかったからでした。
ところで、この青年役人の「永遠の生命を受けるために、何をしたらよいのでしょうか」(17節)という質問を一読した限りにおいては、彼が「永遠の生命」の獲得の仕方、方法というものをイエスに教えてもらおうとしているようには見えるのですが、実はそうではありません。
彼は「永遠の生命」の獲得の仕方は知っているのです。それはユダヤ人にとっては自明のことでした。ですからイエスは答えます。それは神の「いましめ」を守ることであり、そしてその「いましめ」をあなたは知っているのだから、それを守ればいいではないか、と応えます。
「いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」(10章19節)。
これに対して青年議員は言います、それら「(永遠の生命を得るための)いましめ」(19節)は、わたしは幼い時から全部守っております、と。
「すると彼は言った、『先生、それらの事はみな、小さい時から守っております』」(10章20節)。
青年議員が知りたかったのは、「いましめ」を守ることによって「永遠の生命」を獲得することができる、という先祖からの教えが正しいとするならば、自分は「いましめ」を守って生きてきたのだから、「永遠の生命」を受けることが出来る筈、ということになる、しかし、自分にはその確信がない、どうしたら確信を得ることができるのでしょうか、ということだったのです。
しかし、イエスは彼に向かって、あなたは「いましめ」を守っていると言ったが、ほんとうに「いましめ」を守っていると言えるだろうか、「いましめ」の真髄は神を愛することであり、神を愛するということは神が愛してやまないあなたの同胞、とりわけ貧しい人をあなたが愛することである。もしもあなたが「いましめ」を守っているというのであれば、その証拠として、あなたの財産を売り払ってそれを飢えで苦しむ貧民に施すこともできる筈である、と言われたのでした。
「イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、『あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人に施しなさい』」(10章21節前半)。
「永遠の生命」を獲得するために「いましめ」を守るという方法は、原理的には聖書に適った有効な方法でした。そして古今東西を通じて、神の「いましめ」を完全に守り切って「永遠の生命」を得る資格を取られたのは孔子でもなく、釈迦でもなく、また日蓮でもなければ親鸞でもなく、イエスただ一人だけであったのです。
そのイエスこそ、「いましめ」を守る力がない、だから「永遠の生命」を受ける資格もないという人類のために、唯一の有資格者として永遠の生命を得るもう一つの道を開いたお方だったのです。
イエスは誰もが守れない「いましめ」をすべて守り切った唯一の人でした。そして誰でも、罪のない自身の身を人類の身代わりとして十字架にかけて死に、その死からよみがえって下さった唯一のお方であるイエスに対して無条件降伏をし、このイエスを個人的に救い主として信じ受け入れるだけで、永遠の生命を得ることができるという道をイエスは開いてくださったのです。
「自分は『いましめ』を表面的には守っているかも知れません。でもその真髄を守ることの出来ない罪深い人間です」と認めてイエスに無条件降伏をするというもう一つの道があることを、イエスはこの青年議員に教えようとされたのでした。
3.永遠の生命に入ると、善行は手段でなく結果として、義務ではなく喜びとして行えるようになる
では善行は不必要なのでしょうか。善行を積むことが「永遠の生命」を受ける条件
でないのであれば、善行なんて関係ない、ということになるのかと言いますと、決し
てそうではありません。
西暦一五一七年にドイツで始まったマルティン・ルターによるプロテスタント宗教
改革に対してローマ教皇側は悪意から、ルターは善行を軽視していると非難しました。そこでこれを受けてルターは「善きわざについて」という論文を書いて、ローマ教皇側の非難を一蹴しました。
この文書「善きわざについて」は西暦一五二〇年に書かれたルターによる「宗教改革三大文書」の一つです。
ルターはこの論文の中で、「あらゆる尊い善きわざの中で第一の最高のわざは、キリストを信じる信仰である」(「ルター著作集」福山四郎訳)と、キリストへの個人的信仰を強調した上で、次にモーセの十戒を取り上げ、十戒を守ることの意義について丁寧に解説をしております。
善行は「永遠の生命」に入るための手段ではなく、恵みにより無条件で「永遠の生
命」に入れてもらった者の人生に、神との交わりという「永遠の生命」が生み出す結
果として現われるのです。
つまり善行はしなければならない義務ではなく、したくてたまらなくなる喜びとなって現われるということをルターは言いたかったのでした。
善行は赦されがたい罪や失敗を無条件で赦してくださった神に対しては、感謝に溢れての信仰告白、礼拝、讃美、祈り、奉仕、捧げもののかたちをとり、人に対しては神と人から自分に与えられたものを分かち合うという、親切な行為、思いやり、優しい言葉、ゆるし、執り成しの祈りとなって実を結びます。
しかし青年議員は「永遠の生命」と自らの資産とを秤(はかり)にかけて、顔を曇らせながらイエスの許を去っていきました。
「すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの の資産を持っていたからである」(10章22節)。
イエスはこの青年議員に彼の財産を売り払うことを求めたのでありませんでした。またわたしたちに対して、すべての財産を捧げるようにと要求しているのでもありません。イエスが伝えたかったことは「いましめ」を守るという方法で「永遠の生命」を得る道を行くのであれば、それを徹底するしかない、ということだったのです。
イエスが今日、ご自身を信じる者に求めているのは、各自の身の丈に合った献身です。
「イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた」(21節)とありますように、イエスはこの真面目な青年議員に好感を持ったようでした。しかし、「永遠の生命」を得るためには、真面目な生き方だけでは足りなかったのです。必要なものはイエスが開いた道、神への無条件降伏の道を行くことだったのです。
ただ、この青年役員の場合、その真面目さにイエスが本当に伝えたかった正しい信仰理解が加わって、いつの日か、彼がイエスの弟子となったのでは、と想像することは決して的外れなことではないと思います。なぜならばイエスは真面目な人には特に目をかけるお方だからです。
真面目すぎる、固すぎると言われている人は、持って生まれた自分の性格を、神と親からの贈り物として、ぜひ大事にしてください
その性格は神からの贈り物としての「永遠の生命」を受けた後の人生において実を結び、花を咲かせる筈だからです。