2012年1月8日 日曜礼拝説教
「イエスこそ聖書と歴史、そして我が人生の中心」
マルコによる福音書9章2~13節(新約聖書 口語訳65p)
はじめに
物事がうまく行かなかったり、予想外の出来事に直面すると、人はついつい虚無的になったり、悲観的な気分に陥ってしまうのですが、悲観主義の背後にあるものは、世の中に起こるすべての出来事は偶然の結果であるという無神論的な虚無思想です。
わたしもかつては、世の中の動きも自らの存在もすべて、偶然の産物にしか過ぎず、だからそこには意味というものはないと思い込んでいたものでした。でも聖書は言います、歴史は偶然の積み重ねではなく、歴史の下には見えない神の手があるのだと。
今週からまたマルコによる福音書の連続講解説教に戻りますが、本日は、イエスこそが聖書と歴史の中心であり、だからこそ、イエスは私たち一人一人の人生とも深く関わっておられるのだということを確認したいと思います。
1.イエスこそ、旧新約聖書の中心である
イエスが弟子教育のために、ガリラヤを離れてヨルダン川の源流地域であるピリピ・カイザリヤに出かけたその六日後のことでした。イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて「高い山」に登られました。
「六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(マルコによる福音書9章2節前半 新約聖書口語訳65p)。
この「高い山」がどこの山なのかは福音書のどこにも書かれていませんが、一般的にはヘルモン山であろうと言われています。ヘルモン山はガリラヤ湖からは北に約六〇キロメートル、ピリポ・カイザリヤからは二十五キロ程に位置する標高二八〇〇メートルの高山でした。
この「高い山」(2節)で極めて重要なことが起こったのでした。それはその山でイエスが栄光の姿に変って、モーセとエリヤと語り合ったというのです。
「ところが彼らの目の前でイエスの姿が変り、その衣は真っ白く輝き、どんな布さらしでも、それほど白くすることができないくらいになった。すると、エリヤがモーセと共に彼らに現われてイエスと語り合っていた」(9章2節後半~4節)。
「モーセ」(4節)はユダヤ教の伝統的理解によれば律法の書すなわち、旧約聖書の「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の五書をまとめた人であって、そのためこれらの五つの書物は「モーセ五書」あるいはそれを略してただ「モーセ」とも呼称されました。
またモーセ五書に続くヨシュア記からの大小の預言書は「預言者」とも呼ばれていました。そのためユダヤ人は通常聖書を「律法と預言者」「モーセと預言者」というように呼びました。
ですから「高い山」に現われたモーセは「律法」を代表し、預言者たちの中でも最大の預言者とされた「エリヤ」(同)は「預言者」を代表していると言えます。つまりモーセとエリヤは聖書を代表して「イエスと語り合っていた」(同)、ということになるのです。
では何を「語り合っていた」のかと言いますと、マルコは触れていませんが、ルカによる福音書の並行記事を見ると、そこには「イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて」であるという補足説明があります。
「すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現われて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである」(ルカによる福音書9章30、31節 102p)。
モーセとエリヤとイエスが語り合っていたことは聖書の預言の実現についてであって、それが、イエスがエルサレムで遂げる「最後のこと」(31節)だったのです。
聖書は昔から救世主キリストの出現を予告し、キリストが人類のために行う事業を預言しておりました。それは人類を罪と、罪の結果受けるべき罰の両方から脱出させる事業にほかなりませんでした。
つまり後にイエスがエルサレムで受けた仕打ちこそが、「最後のこと」すなわち、人類一人一人に代って十字架にかけられることによって罪を帳消しにするために遂げられた「最後のこと」だったのでした。
「最後のこと」と訳された原語は「エクソドス」ですが、モーセ五書の二番目の文書「出エジプト記」のギリシャ語訳の書名も「エクソドス」であって、この文書にはイスラエルの民がエジプトにおける奴隷の状態から、神が立てた解放者モーセによって約束の地へと脱出したという歴史的出来事が記録されています。
つまり、モーセはイスラエル民族を「出エジプト」させた解放者でしたが、イエスにおける「最後のこと」とは、イエス自身の十字架の死によって全人類を罪の奴隷状態から自由へと脱出させる「エクソドス」を意味したのでした。
十数年前、聖地旅行で空路ローマからエジプトのカイロに入る前、ギリシャのアテネ空港の待合室で、トランジットで時間をつぶしていた時、何気なく見た待合室の非常口の表示が、何とギリシャ語で「ΕΞΟΔΟΣ(エクソドス)」と表示されていたのにはびっくりしたものでした。
モーセとエリヤとイエスが語り合っていた「最後のこと」とは出口のない人類のためにイエスが自らを犠牲にして「エクソドス」という脱出口をつくるということだったのです。
モーセもエリヤも偉大な人物です。しかし、彼らはキリストではありませんでした。でも彼らがイエスと語り合っていたということは、イエスが律法と預言者、つまり聖書の預言が指し示す目標であるということ、すなわちイエスこそが聖書の中心であることを示すものだったのでした。
今年も旧新約聖書を通して、この私のために罪からの解放者となってくださった生けるイエスに出会いたいと思います。
2.イエスこそ、人類歴史の中心である
イエスは聖書の中心であるだけでなく、人類の歴史の中心でもあります。
ユダヤ教の教えや考えが染み込んでいる弟子たちにはこの時、見ること、聞くことのすべてがわからないことだらけでした。そしてイエスはそういう弟子たちに対して噛んで含めるように、優しく、そして忍耐深く神の真理を解き明してくださったのでした。
私たち日本人が教会に来て、キリスト教の話を聞いてもチンプンカンプン、聖書を読んでもわからないことだらけなのは当然なのです。
弟子たちはわからないことはイエスに質問しました。それが、メシヤが来る前にエリヤが先に来るはずだと律法学者が言っているのはなぜなのか、という問いでした。
「そしてイエスに尋ねた、なぜ、律法学者たちは、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」(9章11節)。
これは旧約聖書の最後に位置しているマラキ書の記述を指しています。マラキは紀元前四百五十年ごろの預言者ですが、マラキ書の最後には、メシヤの到来に先立ってエリヤが遣わされるという預言があります。
「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」(マラキ書4章5節 旧約口語訳1326p)。
このマラキ書の記事によれば、もしもイエスがメシヤであるならば、八百年前、生きたまま天に挙げられた預言者エリヤが、既にこの地上に来ていなければならないことになるのですが、エリヤはまだ来ていませんよね、という疑問でした。
この疑問に対してイエスは答えます。エリヤは既に来たのだ、と。そしてヘロデによって非業の最期を遂げたあのバプテスマのヨハネこそ、実は末の時代に遣わされたエリヤであった、彼は民衆に悔い改めを説くことによって、エリヤのようにメシヤの活動のための道備えをしたのだと説明されたのでした。
「しかしあなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」(9章13節)。
歴史と言いますと、単なる時間の経過や流れを意味するように思う人もいるかも知れません。しかし歴史はそれだけではないのです。時間の経過という偶然の積み重ねのように見える「一般歴史(これをドイツ語ではプロファーンゲシヒテと言います)」を舞台にしてもう一つの神による「救済の歴史(これはハイルスゲシヒテです)」が展開されているのです。
そのしるしが「エリヤ(バプテスマのヨハネ)」の出現であり、イエスというメシヤの到来だったのです。
事実、世界の歴史は「キリスト以前(BC Before Christ)」と「キリスト以後(AD Anno Domini 主の年)」に分けられました。
人が認めようが認めまいが、イエスこそが人類歴史の中心なのです。時間がただ無意味に流れているように思えるかも知れません。しかし、歴史を支配しているのは国際連合でもなければ超大国の米国でもなく、主イエス・キリストであるということを再認識するとき、私たちは虚脱感や無力感から解放されるのです。
3.イエスこそが、我が人生の中心である
歴史と言うと大げさに聞こえますし、個人の暮らしとは関係ないように思えなくもありません。
しかし、歴史を支配したもう主イエスを私たちが主として心と人生にお迎えするとき、救い主のイエスが心の中に王座を占めてくださり、人生を導いてくださいます。ですから、人は心の中に迎え入れるだけではなく、心に主の声を聞き続けることが大事です。
山で変貌したイエスを見た時、ペテロは取り乱してわけのわからぬことを口走っておりました。
「ペテロはイエスにむかって言った、『先生、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために』。そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである」(9章5、6節)。
そして興奮状態に陥っていた弟子たちに天から一つの声がありました。それは「イエスこそが神の愛する御子である、彼に聞き従え」という声でした。
「すると、雲がわき起こって彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、『これはわたしの愛する子である。これに聞け』」(9章7節)。
モーセは偉大な律法授与者でした。エリヤは数多いる預言者の中では最大の預言者でした。しかし、私たち弟子たちが真に聞くべき声はイエスの声です。イエスの声は今日、日々の個人的な聖書拝読の中で聞くことができるだけでなく、主の日の日曜日ごとにキリストの体なる教会において、説教として聴くことができます。
でもどんなに努力しても日曜礼拝に参加できないという場合は、教会で週報と共に配付されているこの説教要旨を通して、イエスの声を毎週聞いていただきたいと思います。
イエスは、一度は刑死しましたが死の世界から復活をして、信じる者の傍らを歩んでいてくださいます。ですからどんな時でも、常に共にいてくださる主イエスを仰ぎ見続けることが大切です。
「彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた」(9章8節)。
どんなに時代が変ろうと、イエスから片時も目を逸らしてはなりません。