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 3・11東日本巨大地震について

 — この文章は東日本巨大地震発生の二週間後に書いたものです。 —


はじめに

2011(平成23)年3月11日の金曜日、岩手県、宮城県沖を震源域とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生し、地震と、地震に伴う巨大津波により、東北地方の太平洋岸を中心に、多くの尊い人命が失われ、壊滅的な被害をもたらしました。被害は警察庁によりますと3月24日午後11時現在、死者9811人、行方不明者1万7541人、負傷者2779人、避難者24万5394人とのことです。残念なことですが、この数字は自治体が確認しているだけであって、今後、増加する見通しもあるとのことです。

我が国はこの大地震直後から国を挙げ、国民をあげて救援、支援に取り組んでいますが、キリスト教界の一部に、この大地震に関する根拠のない見方をする者がいるようです。そこで私たちは、この大地震はある人たちが考えるような天罰などでは決してないこと、またこれは世の終わりの前兆などではないということを、聖書の適正な解釈を通して確認すると共に、大きな被害をもたらしたこの大災害を、キリストを信じる者としてどのように受け止めるべきかということを、イエス・キリストの言葉から教えられたいと思います。

1. 大地震は天罰などではありません

規模の大きさといい、被害の深さと広がりといい、この大地震は未曽有の、想定外のという言葉でしか表現できない惨禍をもたらしました。しかしその惨禍の大きさから、これを神による刑罰、あるいは神からの警告とする発言がキリスト教界にあるようですが、とんでもないことです。この大地震は天罰などではなく、ましてやキリストの神が下した刑罰などでは決してありません。

地震はあくまでも自然現象

 第一に、地震は大小の違いはあれ、すべて自然現象であって、神が起こしたものではありません。地球の表面は十数枚の、厚さにして100キロメートルほどのプレート(岩盤)で覆われており、今回の大地震も東日本が載っている北米プレートの東側下に、より重い太平洋プレートが沈み込み、一緒に引き込まれた北米プレートが限界に達して跳ね上がった結果、起きたものだとのことです。

特に今回の地震は、三陸沖南部海溝寄り、宮城県沖、福島県沖、茨城県沖の四つの震源域が連動して起こったと言われています。

また、津波は震源域の上の海水が、跳ね上がったプレートに持ち上げられて生じるのです。

地震は神からの警告、天罰という発言は間違い

「天罰」発言は東京都の知事が口走り、その後、謝罪して取り消しましたが、韓国でその名を知らぬ者がない著名な牧師が、「今回の地震は、(日本が)神様に立ち返る(ための)警告かも知れない」「多くの人がこの機会に主に立ち返ることを願う」と、インターネット新聞におけるインタビューで発言したようですが、これが事実であるならば、被災者をはじめとする日本人全体の気持ちを逆なでするものだと思われます。今回の地震に神は関与をしておりません。

なお、この発言に関しては韓国内でも慎むべき言葉として、たとえば3月15日付の朝鮮日報社説「言葉一つにも日本国民を気遣う配慮を」には、「社会のリーダー層は、さらに発言に慎重になる必要がある。12日には、名前を言えば誰でも分かるような権威ある牧師が、キリスト教関連のインターネット新聞のインタビューに対し『日本国民が神を遠ざけ、偶像礼拝に向かったため、神が(地震で)警告したようだ』と語った。常に他人の痛みと苦難を慰めながら生きてきた牧会者の言葉とは、とても信じられない」と書きつつ、それでも「事実ではないことを願っている」と記しています。

この発言の前半部分は、インタビューした当該のインターネット新聞が後に編集のミスとして謝罪し、削除したとも伝えられていますが、「警告云々」の発言は確かにしたようです。

今回の大地震に、神は関与してはおりません。関与していませんから、「警告」もあり得ません。繰り返しますが、地震とは地球という自然界において、自然自体がバランスを維持するために起きる自然現象なのです。

やはりもうひとり、韓国でも著名な牧師が、自身が牧会する教会の3月13日の礼拝や、地震の当日の3月11日の集会で、「日本には災難が多いが、その理由は罪のためで、罪が多い理由は天皇のため」であり、「それで神様が『これを見ろ!』という気持ちで日本を打って揺さぶったということだ」と発言し、そしてこの地震が「日本が普通の国と違い世界で一番傲慢で、偶像と鬼神が多い国で、(今回の地震を通じて)日本が体質改善する国になるだろう」と言い、傲慢な理由が「偶像の数が八百万を越え、一億を越える国民すべてが各種の偶像にお辞儀するからだ」と説明し、また日本の天皇については「地震も防げず、津波も防げないのだから国王というべきで、神様の前で天皇という呼称が謙虚でない」と言ったというのです。

以上のうち、二人目の牧師の発言の情報源である「ニュースNジョイ」は、北朝鮮系の極左組織に属しているとも言われているそうですので、その信憑性が問われるかも知れませんが、その後、この報道についての発言者からの異議や反論は、ネットで見る限り見当たりませんので、翻訳という点を差し引いても、このような発言を公の場でしたことは事実と考えてもよいかと思われます。

地震は神からの警告でも天罰でもない

地震が神からの「警告である」という解釈も問題ですが、特に問題なのは、地震と津波という「災難」が「罪のため」つまり、罪に対する神からの刑罰、審きであるとする解釈です。

実は上記の二人の牧師さんはいずれも韓国のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に所属している高名な人たちです。ということは、このような解釈は韓国の教会だけでなくアッセンブリーなど、聖書をそのまま神の言葉とする教会にも見られるかも知れない見方と考えてもよいのではないかと思われますが、果たしてこのような見方は聖書的なのかどうかを、キリストの御言葉から検証したいと思います。

自分は義人であると自任している人々がキリストの許に来て、ユダヤ総督ピラトがガリラヤ住民を処刑したことを告げた際に、その言い方があたかも、彼らが殺されたのは彼らが罪深かったからだと言っているように思えたので、キリストは「そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」(ルカによる福音書13章3節)と、殺された者たちが特に罪が深かったわけでない、あなたがたもまた人間として、神の前には人としての罪があるのだと、この出来事を伝えにきた者たちの、自分たちを特別視する傲慢を戒めています。

キリストは次節以降でも、塔が倒れて下敷きになって死んだ人たちの例を挙げて、災害や不慮の事故で死んだ者たちよりも、あなたがたの罪が軽いというわけではない、と説いておられます(13章4、5節)。

災害が罪の結果であり、神の刑罰であるという思想はユダヤ教の思想であって、キリストの考えではありません。ですから、今回の大地震、そして津波による惨禍を神の刑罰とし、被災者や被災国民に対して悔い改めを促すような考えは、キリスト教を名乗りながら、その実態はイエス時代のユダヤ教そのものであると言っても過言ではないのです。

違う文化、宗教の否定こそ傲慢

また、上記の発言の中の「各種の偶像にお辞儀するからだ」「罪が多いのは天皇のため」という発言には、自らと違う他宗教を否定し、他国の文化を侮蔑するという、それこそキリストの姿勢とは真反対の「傲慢」な姿勢が表れていると見ることもできます。

 確かに日本人の多くが崇敬している神は神々であって、唯一神ではありません。しかし、キリスト教人口が全人口の四分の一と言われる韓国の犯罪率、中でも韓国の性犯罪率の高さが人口比率でいうと米国と並ぶほどのものであって、それは日本の四倍、五倍にも及ぶという統計事実は、しかも世間体を気にするがため被害を受けても表沙汰にすることのない社会的風潮を勘案すると、同国の場合、実際の数字は表に出てくる被害の何倍にも達すると考えられます。

この事実は、相対的に見れば、韓国の牧師が偶像崇拝の国と言って軽侮する日本人の、道徳性の高さを証しするものということになるのではないでしょうか。確かに日本における「キリスト教教理」の浸透は僅かなものです。しかし、この犯罪率の比較を例に挙げても、「キリスト教倫理」とも見紛うばかりの高い倫理性が、日本人の基本的倫理観となっているのです。

 このたびの大地震のニュースが世界に広まると同時に、世界を驚嘆させたものが、家族を失い、家を失くし、目に見えるものすべてを失いながら、社会的秩序を保ち、忍耐心と冷静さ、他者への思いやりの心と礼節を失わない日本人の精神性の高さ、倫理観の高さであることを、欧米だけでなく、中国、韓国などの外信が驚きをもって伝えています。

ノアの洪水と同一視することは神への冒涜

 もうひとつ、今回の地震をノアの洪水と一緒にしてはなりません。ノアの洪水の場合は、「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである」(創世記6章11、12節)とありますように、「暴虐が地に満ち」、このまま放置すれば堕落の果てに人類の生存が不可能という事態に至ることを神が憂えて、断腸の思いで行ったことであり、しかも神は洪水の後、今後「わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。地のある限り」(同8章21、22節)と、二度と人類を滅ぼすことはしないと自らに誓われたと記されています。

今回の一万人近い死者、そして無数の行方不明者の大半は津波によるものとされています。確かに不条理です。受け入れがたい現実です。思わず、どうして、と言いたくなります。

しかし津波もまた自然現象ですから、神は関与をしていないのです。もしそれでも地震を、そして津波を神の行為とするならば、それこそ慈愛深い神に対する冒涜であり、神がしてもいないことをしたと言い張ることによって、神の名誉を汚すことにさえなりかねません。

私たちは地震を神に帰するような発言をし、あるいはそのような考えに共鳴している一部の人たちを神がお怒りにならぬように、また彼らが自らの無知を悔いるものとなるよう祈りたいと思います。

2.大地震は世の終わりの前兆などではありません

 このたびの大地震に関して、特に保守的聖書観に立つ人たちの中に、この大地震が世の終わりの前兆または予兆であるとする者がいるようです。

上記の隣国の教職者の発言とされる中にも、看過することのできない発言がありました。情報源が情報源であり、また訳が自動翻訳であることから、断定をすることができませんが、報道によりますと彼は、「日本の地震は末世の最後の兆しだ。(聖書に)最後に地震がおきて、火山が爆発し、津波が起きるとある」と述べたとのことです。

マタイによる福音書24章の預言はエルサレム崩壊を指したもの

 聖書のどの個所に、火山の爆発と津波の発生とが言及されているのかはわかりませんが、地震についての言及の根拠として考えられるものは、マタイによる福音書二十四章やルカによる福音書二十一章における、エルサレム神殿でのイエスの言葉を指していると考えられます。

マタイによる福音書の方を見ますと、弟子たちの質問に答えて、イエスが地震について言及しておられます。

 「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちにききんが起こり、また地震があるであろう」(マタイによる福音書24章7節)。

(「地震」はルカによる福音書21章7節では「大地震」となっていますが)地震を世の終わりの前兆とする者は、この個所を根拠にしているようです。

しかしこの個所におけるイエスの預言は、西暦七十年のエルサレムの陥落を指しているとするのが聖書解釈の定説です。

イエスの預言は、エルサレム神殿の壮麗さと堅固さに目を奪われている弟子たちに向かって、イエスが「その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」(2節)と言われたことが発端で、その後、イエスの言葉が気になった弟子たちがオリブ山において、「いつ、そんなことが」(3節)つまり、いつ神殿の崩壊が「起こるのでしょうか」(同)と聞いた質問にイエスが答えられたものでした。

 エルサレム神殿の炎上、崩壊を含めたエルサレムの陥落は、このイエスの言葉の40年後の西暦七十年、第一次ユダヤ戦争の際に、ローマの軍隊によって実現することとなりました。ユダヤ人歴史家ヨセフスの「ユダヤ戦記」によれば、この時、110万人のユダヤ人が死に、捕虜となった9万7千人は奴隷として売られたとあります(第五巻)。

 マタイによる福音書の二十四章は、一節から二十二節までは神殿を含めたエルサレム陥落に関する言及です。ですから、「ききん」も「地震」も、迫害によって信徒が受ける「苦しみ」も「にせ預言者」の出現などの言及も、神殿の崩壊、エルサレムの陥落の前兆を指します。

「世の終わりには、どんな前兆がありますか」(3節)という、世の終わりにあらわれる前兆を聞いた弟子たちへの答えなのです。そしてこのイエスの預言は歴史的には西暦七十年に実現しました。

「終末預言」を現代にのみ当てはめるのはナンセンス

 ある人たちは、オリブ山におけるイエスの説教を、エルサレム陥落の西暦七十年を超えた未来における、世の終わりの預言であるとします。

しかし、たといそうであるとしても、さまざまの出来ごとの事象をあげて、だから世の終わりが近いとするのは、実はキリスト教もどきのカルト宗教である「エホバの証人(ものみの塔)」が使ってきた常套手段なのです。彼らはこの百年、世界的な戦争や疫病、地震や洪水などの大規模な自然災害などが起こるたびに、マタイによる福音書二十四章等の記事にそれらの出来事を関連付け、そしてそれらを世の終わりの前兆、キリスト再臨が迫っているしるしとして喧伝し、教勢の拡張に利用してきました。

 しかし「エホバの証人」がマタイによる福音書二十四章前半のキリストの言葉をもって世の終わりの前兆あるいはしるしとするそれらの出来事などは、一世紀末以来二十一世紀の今日まで、歴史上、数限りなく起きているのです。

「自分がキリストだと」(5節)と主張するにせキリストなどは、は古代から現代にいたるまで無数に出現しています。

「戦争と戦争のうわさ」(6節)どころか、世界規模の大戦は一九一四年、そして一九三九年に勃発しましたが、第一次大戦では2600万人が、第二次大戦では5300万人が犠牲となりました。第二次大戦後も朝鮮戦争では300万人、ベトナム戦争でも230万人を超える人が亡くなりました。

歴史を遡れば十七世紀前半、西ヨーロッパを舞台にして30年も続いた三十年戦争では400万人が犠牲となり、特にドイツ地域の人口は半減したとされています。

その後、フランス革命、ナポレオン戦争では500万人近い人が死亡しています。これらがキリスト再臨の前兆でないのはどのような理由からでしょうか。また前兆であるならば、なぜ再臨はその時に起こらなかったのでしょうか。

また十四世紀にヨーロッパに蔓延したペストによる死亡者は2500万人に上り、それは当時のヨーロッパ全人口の四分の一にあたるとのことです。

「ききん」(7節)による餓死者は古今東西を通じてまさに無数です。人類の歴史は飢饉との戦いで、飢餓の原因である飢饉は昔から人類の常態と言えます。

「地震」(同)と地震の結果である巨大津波の被害について言えば、地球の構造から、プレートとプレートとの境目にある国や地域は、地震の被害を避けることはできませんし、とりわけ今回の大地震のような海溝型の地震は大津波を伴うことが常である以上、その被害は甚大となります。

大規模な自然災害によって疲弊して地球上から姿を消した民族や文化は多くありますが、日本はその都度、不死鳥のように立ち上がりました。

わが国では1923年(大正12年)9月に起こった関東大震災は東京市街地をほぼ壊滅させ、14万人を超える死者を出しました。

今回の地震と似ているとされる869年(貞観11年)の貞観(じょうがん)地震では津波によって1000人が溺死したとされていますが、今日の人口比に換算すると数万人になるかも知れません。

また明治29年(1896年)の明治三陸沖地震では2万2000人が、昭和8年(1923年)の昭和三陸沖地震では3000人が亡くなったと言われ、平成7年(1995年)の兵庫南部大地震では初動の遅れもあって6334人が犠牲となりました。

私たちの記憶に新しい災害である2004年のインドネシア・スマトラ沖地震は、地震と大津波によって22万人を超える犠牲者が出たと言われています。

また昨年(2010年)1月のハイチ地震では32万6千人が亡くなったとされています。しかしこれらの災厄においても、再臨はありませんでした。

大規模な自然災害が起こるたびに世の終わりは近いと説くことは、それが素朴な信仰からであるにしても、ナンセンスと言うだけでなく、狼少年の汚名を着せられても言い訳はできず、一般社会に対し、却ってキリスト教、あるいは聖書への信頼を損なわせることにもなりかねません。

「世の終わり」はキリストの出現から始まった

 そもそも「世の終わり」とは何かということですが、聖書は、「世の終わり」はイエス・キリストの最初の出現によって既に起こっていると主張します。

ペンテコステの日における聖霊の降臨は、ペテロによればヨエル書の預言の成就であって、それこそ「神がこう仰せになる。終わりの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう」(使徒行伝2章17節)とありますように、紀元30年における聖霊の傾注という事象自体、世の終わりが既に来ていることを証しする出来ごとであったのです。

ヘブル書の記者もまた、「この終わりの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである」(ヘブル人への手紙1章2節)と、御子の出現によって世の終わりが来ていることを主張します。

 もしも仮にマタイによる福音書二十四章前半のキリストのお言葉が終末預言であり、地震などの出来事が世の終わりの到来を示すしるしであるとしても、それらの出来事はエルサレム陥落以来今日まで、実に1940年もの間、世の終わりを示すしるしとして起こっているということになります。ですからこのたびの大地震、大津波をもって、これが世の終わりのしるしであるとすること自体、論理の破綻を示す「しるし」と言えます。

キリストの再臨はしるしも予告もなしにある

 ところで終末論に関していえば、世の終わりには始まりと終わりがあり、世の終わりの終わりがキリストの再臨によって実現すると聖書は言います。

そしてキリストはご自身の再臨に関して、マタイによる福音書において、「これらの事を見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。これらの事が、ことごとく起こるまでは、この時代は滅びることがない」(24章23、24節)と言われましたが、「これらの事」とは何かと言いますと、四節から二十二節で預言されたエルサレム陥落のことを指すのです。ですから、世の終わりの終わり、すなわちキリストの再臨は西暦七十年以降、いつでもあり得るのです。

 そしてその再臨の時期に関しては「だれも知らない。天の御使いたちも、人の子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(36節)ことであって、何の予告も兆しもなく、突如、です。まさに「人の子の現われるのも、(ノアの洪水の時の)そのようであろう」(39節)、「だから、あなたがたも用意していなさい、思いがけない時に人の子がくるからである」(44節)というのが、キリストご自身のおことばでした。

再臨は百年後かも知れませんし、千年後かも知れません。あるいは明日、あるかも知れないのです。

 繰り返します。この地球上においては、天変地異はもとより、マタイによる福音書二十四章で語られたような異常な出来事は2000年前から今日に至るまで常に発生し続けているのです。ですから今回の出来事、すなわち東日本巨大地震をもって特別な出来事、とりわけ世の終わりの兆しなどと考えるべきではないのです。

3.大震災が不可抗的な場合、性急に意味を求めないことです

 大地震が天罰でもなければ、世の終わりのしるしでもないとすると、ではこの大地震の意味するところは何なのかいうことになるのですが、結論から申し上げますと、それは不明である、としか言えません。そして性急に意味を求めることも、意味づけをすることも避けなければなりません。

地震と震災、天災と人災

ところで、地震と震災の区別ですが、地震は震災の原因であり、震災は地震の結果がもたらす災禍をいいます。また震災にもどうにもならない不可抗的な天災と、対応によってはどうにかなったであろう人災とがあります。大津波による被害はまさにどうしようもない天災であったと考えられます。

もちろん、結果論的に言えば対策が不十分であった、打つ手はあったという見方もあるでしょうが、岩手県、宮城県、福島県の太平洋岸の町々は、古くは三陸沖地震、最近では51年前のチリ津波の教訓から、町をあげて地震対策、津波対策に取り組んできていました。

特に岩手県宮古市の田老(たろう)地区などは高さ10メートルの防潮堤を2列に築いて、これは「田老万里の長城」と言われていたとのことです。しかし、今回の津波は町が誇る防潮堤を難なく越えて町を襲い、多くの尊い命を奪いました。まさに今回の大地震と、地震に起因する大津波は想像や想定、過去の教訓を遥かに越えた超巨大なものだったのです。

 一方、東京電力の福島第一原子力発電所の損傷が天災なのか、それとも人災なのかという判断は、検証が進めば明らかになりますが、最大の人災は、国家的危難に遭遇しながら対策が後手後手にまわって、危機管理というものがまったくできない政権がこの日本を統治していることであるという見方もあります。

そうであるならば、ばら色のマニフェストに幻惑されて政権交代を選んだ国民にも多少の責任はあるかも知れません。そして人災の場合は原因究明と対策とが必要です。

天災には理由づけを性急にしないように

 しかし、人の知恵や能力、経験ではどうしようもない天災の場合、それがいかに理不尽なものであり不条理なものであっても、性急に意味づけ、理由づけをしないで、当面は問題そのものの解決に取り組む必要があります。それを示唆するキリストのお言葉がヨハネによる福音書に記載されています。

キリストはその一行と共に通行中、生まれつきの盲人をご覧なりました。弟子たちが質問をいたしました。「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか。それともその両親ですか」(ヨハネによる福音書9章2節)。

 イエスの時代のユダヤ教では、病気は悪霊が原因であり、災害や障害は罪の結果であると考えていたようです。

弟子たちの「本人(のせい)ですか」という問いの背後には、人はこの世に生まれる前、魂において先在しているという当時のユダヤ教の教理があり、それゆえ、障害を持って生まれたのは、生まれる前に本人がその魂において罪を犯したからなのでしょうか、という意味での質問となったのです。

また「それとも両親ですか」という問いの背後には、親の因果が子に報いるという伝統的考えがあったからです。

 しかしイエスは「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない」(3節前半)と、これを明確に否定され、続けて「ただ神のみわざが、彼の上に現われるためである」(同後半)と答えられました。

 障害の原因に関してイエスは、弟子たちによる二つの可能性を否定するのみで原因に触れることはせず、ただ障害という現実が生み出す結果についてだけ、答えられたのでした。

障害が生み出す結果とは、彼を通して「神のみわざが現われる」ということです。天災について天罰説や、世の終わりの前兆説などの的外れの原因を説く者には、このキリストのお言葉をかみしめてもらいたいと思います。

人が避けることが困難という点では、障害と自然災害とはよく似ております。今の場合、弟子たちのように、なぜかという原因分析に、しかも的外れの原因分析に捉われるのではなく、このたびの地震がもたらした大災害の中に、神のみわざの現われを見ることができるという方向に思いを向けていくことが肝要です。

神のみわざはすでに現われている

 突然起こった大地震と突如襲来した大津波がもたらした惨禍は、私たちにとって、とりわけ被災者たちにとっては受け入れ難いものがありますが、神のみわざも現われました。神のみわざは最初、痛みの中にある被災者の姿、行動に現われました。世界は大地震、大津波直後の被災者をはじめとする日本人の行動と態度に神のみわざの現われを見たのでした。

 3月13日の朝日新聞は北京からの報道として「『日本人には道徳の血』、中国紙、市民の冷静さを称賛」という題を掲げて、北京から中国の反応を伝えています。それによりますと、「環球時報は『日本人の冷静さが世界に感慨を与えている。(東京では)数百人が広場に避難したが、男性は女性を助け、ゴミ一つ落ちていなかった』と紹介した」と伝えています。

またテレビでも「中国中央テレビは被災地に中国語の案内があることを指摘。アナウンサーは『外国人にも配慮をする日本に、とても感動した』と語った。報道を見た北京の女性(57)は、『すごい。日本人の中には道徳という血が流れているのだと思う』と朝日新聞に語った」と伝えました。

韓国の新聞、東亜日報は3月15日の「日本の危機対処に学び、静かに支援しよう」という社説の中で、「犠牲者が数万人に達する地震や津波の大災害の中でも、日本人は落ち着いて秩序ある対応ぶりを見せ、世界を驚かせている。避難所やショッピングセンター、ガソリンスタンド、地下鉄の駅で日本人は愚痴をこぼさず数時間並ぶ。避難所では食べ物を他の人に譲る人情と思いやりが溢れる」「最悪の災難を前にして忍耐心と冷静さを失わない日本人の姿は我々を驚嘆させる。英国のフィナンシャル・タイムズは、『日本の市民意識は人類の精神が進化するという事実を見せてくれた』と賛辞を送った」と記していました。

また3月15日の朝鮮日報は「萬物相」というコラムにおいて、論説委員が日本での滞在経験を通して、「日本人の市民意識」を称えています。

「韓国語も満足にできない私の娘が日本で暮らし、3歳のときに最初に習った言葉は『順番』だった。この言葉を教えてくれたのは保育士ではなく、同じ年頃の子どもたちだった」

「日本の母親たちは『他人に迷惑をかけてはいけない』という言葉で家庭教育を始める」

「(日本の文化は)他人に配慮し、自分は節制する『修身文化』だ」

「11日の大地震では日本人が示した配慮と市民意識に、世界が感嘆している。外信各社は日本人の忍耐と秩序を『人類精神の進化』と称賛した。足を痛めた人は、救助隊が到着すると、申し訳なさそうに『私よりもっと大変な人がいるんじゃないか』と尋ねた」

日本人は今、こみ上げる血の涙をこらえ、驚くべき精神で試練に耐えている」と。

 同じ韓国の中央日報は3月14日の社説「大災難より強い日本人」で、

「わたしたちは大規模な自然災害が過ぎた後に発生する数多くの無秩序と混乱を目撃してきた。(だから)こうした記憶のため、日本人の冷静さがよりいっそう引き立って見えるのかも知れない。惨状を前にして泣き叫ぶ日本人はほとんど見られない」

一つの国の真面目(しんめんぼく)は大事件を迎えてこそ表れる。それがまさに国民性だ。全身が凍りつくような恐怖の前で、日本人は落ち着いた国民性を遺憾なく発揮している」と評しました。

また中央日報は3月16日のコラムで「日本はある」と題し、「巨大な災難を吸収、克服する日本の文化は特別だ。危機への対処は沈着だ。列に並び、順番をきちんと守る。…個人の利己的突出もなく、周囲のことを考える。生死の争いの前でこうした集団的な秩序意識は驚異的だ」と記しています。

もちろん、例外はあって、被災地における火事場泥棒的な窃盗行為や、店の商品が売り切れるという事例はあるようですが、外国では必ずと言っていいほど起こる暴動や集団的略奪などがないということが、特に欧米の記者たちには驚きであるようです。

 同じ中央日報は3月17日、ソウル大学で倫理教育を講じる一教授の、町の人口の半分近くが今なお行方不明という宮城県南三陸町の、遠藤未希という女性職員について、秀麗な文章によるレポートを載せています。

「逆境は感動を生むという。いま多くの感動ストーリーが出てきているが、最近メディアに報道されたある公職者の死は特に心を引きつける。宮城県南三陸町の町役場危機管理課職員、遠藤未希さんだ。遠藤さんは津波が押し寄せてくる時、『早く逃げてください。6メートルの波がきます』と最後まで放送を続け、結局、津波にのまれた。25歳の最も美しい年齢で、住民を救おうとマイクを離さず最期を遂げたという遠藤さんの哀切な話は、一つの静かな感動だ」

「日本が地震による大災難を乗り越えて立ち上がるのは時間の問題だ。円高が維持されているからでもなく、日本政府が莫大な資金を供給しているからでもない。混沌の中でも落ち着きと節制を失わない市民の精神が生きていて、住民のためにマイクを最後まで放さない公人精神が残っているということ、これ以上の災難克服意志を示す証拠はない

遠藤さんの場合、町役場の末端職員などという考えはなく、住民の安全の責任を負った最高の公職者のように行動した。彼女の行為を見ると、果たして公職者とはどういう存在かと考えさせられる。国は違うとしても、自分の共同体のために最善を尽くさなければならないという義務感においては何も変わらないからだ」

 遠藤未希という女性職員のことは地震の二日後の3月13日の毎日新聞でも「『早く逃げて』命かけた防災無線」として報道されていましたが、とりわけ彼女についての中央日報の記事は読むたびに心を打ちます。

遠藤さんはすでに入籍していて、9月にも挙式をする予定であったとのことです。彼女のことは3月23日の朝と午後のテレビでも取りあげられ、彼女の放送のおかげで助かった何百何千という人の中の一人が、「『逃げてください、逃げてください、10メートルの津波がきます、高い所に逃げてください、津波がそこまできました』という放送が、いきなりブツッと切れてしまった」と、目を赤くしながら語っていました。

 中国の日刊紙の新京報には、宮城県女川(おながわ)町において、日本人たちのおかげで100人近くの中国人研修生が難を逃れることができたという記事が載っています。

記事を要約しますと、地震が起こったときに、水産加工会社、佐藤水産株式会社の中国人研修生20人は宿舎近くへと避難したが、すぐに専務の佐藤充さんが走ってきて、「津波が来た」と知らせてくれて、彼女たちをより安全な高台にある神社に避難させた、そして同専務は研修生たちの安全を確認すると、残っている者がいないかを確かめるため、また妻子を探すために宿舎に戻ったところを、研修生の目前で津波に呑みこまれ、姿を消した。中国人研修生は、佐藤専務に助けられなければ、私たちは皆、津波の犠牲になっていた、と涙を流した、という記事です。

その後、佐藤専務の妻子の無事は確認されましたが、佐藤専務本人の安否は不明とのことです。

日本人の振る舞いは打算のない振る舞い

日本への称賛は日本人が古来、普通の出来事、普通の振る舞いとして行ってきた営み、とりわけ、打算を無視した、無私の行動様式に向けられています。

上記にあげた隣国の教職者の一人は、報道によりますと集会の中で「日本を国家的次元で支援すべきだと思う。日本を助けてよい関係を結んでおけば、日本は独島(註 竹島のこと)を自分の領土といわないだろう」と言ったというのですが、支援と言うものは取引ではありませんから見返りなどを期待せずに、ただ相手が困っているだろうから、手を差し伸べるというものなのです。見返りを求めるような不純な動機による支援は、折角の支援の価値を減じると共に、支援者の品位を落とすことにもなりかねません。

この発言報道が間違いであることを望みつつ、改めて、人を助けながら自らは津波に呑まれていった名もなき東北の、若い女性公務員や町工場の専務さん、さらには住民を助けるために殉職した多くの警察官や消防団員の姿に、私たちは神のみわざの現れを見るのです。

今も東北では放射線による健康被害、生命の危険という恐怖と戦いながら、福島の原子炉で、命じられるまま、ただ使命感に立って忠実に職務を遂行している自衛隊員、レスキュー隊員、電力会社の社員、関連会社の社員、下請け会社の社員など勇敢な人々が、国民をそして世界を放射能被害から守るべく、称賛や見返りを度外視して、命を懸けて奮闘してくれています。

原発に関し、3月18日の朝日新聞は「『英雄フクシマ50』欧米メディア、原発の作業員ら称賛」と題して、米ABCテレビが「『福島の英雄50人―自発的に多大な危険を冒して残った原発作業員』と報道」したことを伝えました。実際には今も数百人が交代で危険な修理、保守等の作業に取り組んでいます。

3月17日の日経ビジネスには高濱 賛という在米ジャーナリストが、3月14日のワシントン・ポストに掲載された、「日本人が安全な原子炉を造れないのなら、いったい誰が造れるのか」という見出しで書かれた記事を紹介して、「日本への信頼感が表明されている」とレポートしています。「日本の原発は、細心の注意と精度で造られている。さらに、世界で唯一の被爆国である日本は、能力においても、法制度においても、規制においても、他のどの国をも上回る完璧さを持っている。もし優れた能力と技術力を持つ日本人が、完璧なほどに安全な原子炉を造れないとしたら、いったい誰が造れるだろうか」 

さらに「記者は、こう付け加えて、筆を置いている」と伝えています。「今回の事故が大事に至らないことを祈るのみだ。ここ数日、自らへの危険も顧みず、核関連施設で大災害を防ごうと働いている技術者の方たちに敬意と尊敬の念を表したい。もしこの危機を回避することができる者がいるとすれば、それは日本人しかいない」

 ただし、このような日本の技術力への称賛の一方で、事故後の政府と役所、東京電力上層部の対応のまずさに、海外の評価は下がり続けているのは残念なことです。

昨年(2010年)、国会の予算委員会において政権の中枢に位置する官房長官から、「暴力装置でもある自衛隊」と貶められた自衛隊の陸海空合わせて10万人が東北に集結し、陸において、そして海と空から、困難の極みの中で被災者の捜索、救助、救援活動に黙々と従事している事実にも(ただし、海外のメディアに比べて、なぜか日本のテレビは自衛隊の活動をあまり報道していませんが)、人間の精神の進化という神のみわざを見る思いがします。

それはまた、全国から災害地に派遣されて、亡くなった方々の検視にあたる多数の警察官の、そして今も海の中で遺体の捜索にあたる海上保安庁職員の献身的な姿に、さらには自らもまた被災者でありながら被災した住民に尽くす地方自治体の職員の働きにも、神のみわざを見るのです。

上記の隣国の教職者は日本の天皇を、「地震も防げず津波も防げない」無力な「天皇」と、見当違いの批判をしたと伝えられていますが、その天皇は3月16日、被災者と日本国民に向かい、「天皇陛下のおことば」をビデオにより5分56秒にわたって、淡々と、しかし真心をこめて語りかけました。多くの日本人は天皇に対して地震や津波を防ぐことは期待していません。しかしこの

国難の中で、多くの日本人にとって、とりわけ高齢の被災者にとって心の支えとなっているのは現職の総理大臣ではなく、依然として天皇のようです。

さらなる「神のわざ」の現われを望む

日本は確かに宗教的には多くの神々が混在する多神教的な国かも知れません。しかし、日本の、特に被災地である東北の人々が見せている姿は、世界の、とりわけ東アジアの隣人には鮮烈な印象を与えています。

そして、その行動、振る舞いの背景にある倫理性は、新約聖書にあるキリスト教倫理と見紛(みまご)うばかりの高い倫理性です。

異教社会と言われる日本になぜキリスト教倫理と見紛うばかりの倫理性が根付いているのかの文化社会学的分析は措くとして、一つ言えることは、創造時、神によって造られた被造物である人間のみに与えられた「神のかたち」(創世記1章7節)を色濃く残した姿が、そこに残存しているということなのかも知れません。

そして私たちは考え、期待するのです、それは、「日本人の中には『道徳』という血が流れているのだと思う」と北京の婦人が語ったという「道徳の血」を、文化、倫理として先祖から受け継いできた日本人、まさに「キリスト教倫理」と見紛うばかりの高い倫理観の下で淡々と生きてきた日本人であるならば、「キリスト教教理」を受け入れる素地もまた豊かに持っている筈であり、だからこそ外部からの脅迫や警告などによらず、ただ聞く機会をさえ十分に備えられるならば、静かな対話の中で、また自己省察において聖霊の助けにより、ついには「天地の造り主である全能の神」を、そして「その独り子」を「我らの主イエス・キリスト」とする「キリスト教教理」を受け入れる日が来ることも決して遠くはない、ということを。

そして、それこそがキリストの言われた「現われる」べき「神のみわざ」の最終章ではないかと思うのです。

巨大地震、大津波、そして原発事故から二週間後、多くの被災者の方々、とりわけ大切なものを失った方々に思いを馳せつつ。

2011(平成23)年3月25日(金)午前11時30分 

  久保田 寛