ID : Pass :  | register
メインメニュー
最新のメッセージ
わたしたちの教会は…

聖書信仰に立つ正統的
キリスト教会です

寝屋川福音キリスト教会
(ファミリーチャーチねや川)
日本アッセンブリーズ
・オブ・ゴッド教団
関西教区
http://ag-kansai.com/

for スマートフォン
アクセスカウンタ
今日 : 2929
昨日 : 2222
総計 : 5927259272592725927259272
     
  
投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-12-22 16:32:08 (1165 ヒット)
2013年礼拝説教

13年12月22日 クリスマスファミリー礼拝説教 

大いなる喜びは、心低き者たちへ 希望の物語 その4 羊飼いたちの場合『いざ行きてベツレヘムに至らん』ー羊飼いたちの応答」

ルカによる福音書1章25〜45節(新約聖書口語訳83p)

  
はじめに
 
 二十一世紀、世界のとりわけアジアの厄災となっているものがお隣の大国でしょう。
 
半島の方も相も変わらず執拗に告げ口外交に勤しんでいますが、これはまあ、騒音おばさんみたいなもので、そのうち誰も相手にしなくなるだろうと、識者は言います。
 
問題は大国の方です。その、人を人と思わぬ傲岸不遜ぶりが、領海を接する、どちらかと言うと小国のアジア諸国に恐怖と警戒心を呼び起こしております。
 
しかし、この大国も内部は崩壊一歩手前で、広がる大気汚染のため、室内にいても毎年百万人が死亡していると、同国の呼吸器皮膚科の専門家がフォーラムで発表したとのことです。
 
 また、その大国から我が国に留学し、その後帰化した石 平(せき へい)という大学教授でもある評論家が先週、新聞のオピニオンコーナーにおいて、「微博」という彼の国のミニブログから、「『微』に見る絶望と希望」という題で、この国が「今、世紀末的な絶望と未来へのかすかな希望が混在している激動の変革期にある」という分析をしておりました。
 
 たとえば、この国で「大型プロジェクト・国土開発・対外貿易・証券・金融という5つの利権の大きい分野で、主要ポストの9割以上は政府高官の子弟たちが握っている。(この国は)権力世襲社会となっており、人民は単なる傍観者と奴隷である」
 
また、この国の「富の95%は全人口のわずか5%を占める人々の手にある。しかしこの5%の人々はすでに海外へ移民しているか、あるいは移民しようとしている。これから10年後、この国に何が残されているだろうか」
 
 さらには、「地球上にこのような国がある。80%の河川が枯渇し、3分の2の草原は砂漠と化している。668の城市はゴミによって包囲され、4億人の都市部住民は汚染された空気を吸う。2000万人の女性は売春に励み、刑事事件は年間400万件も発生する。1000万人の公務員・幹部のほとんどが汚職している。このような素晴らしい国は一体どこか。当ててみよう」
 
 コーナーの筆者は言います、これら書き手たちがあげた一連の数字が正確であるかどうかが問題なのではなく、この国の多くの人が自分たちの国の現状をこのように認識していることが問題なのだ、と。
 
この大国は経済の発展に伴い、いつの間にか自尊心を極度に肥大化させて傲岸不遜な国となり「世紀末的な絶望」状態に陥りつつあるのですが、ミニブログに寄せられたこれらのいと小さき者の声に為政者が謙って耳を傾ければ、そこに「未来へのかすかな希望」を見ることができることと思われます。
なぜならば、個人の浄化と民族の救済という大いなる喜びは、心低き者たちへと告知されるからです。
 
 本日のクリスマスファミリー礼拝では、「希望の物語その4」として、ベツレヘム郊外で羊の群れの番をしていた羊飼いたちに伝えられた救世主誕生の知らせを通して、「大いなる喜びは、心低き者たちへ」もたらされることを確かめたいと思います。
 
 
1.大いなる喜びの告知は、心低き者たちに先ずもたらされる
 
神が人にもたらす喜びのメッセージを「福音」と申します。これは「ふくおん」ではなく「ふくいん」と読むのですが、神からの「福音」は大きな喜びとして心低き人々にもたらされます。
そしてその心の低い者たちの代表例がベツレヘム郊外で羊を飼う羊飼いたちでした。
 
「さて、この地方で羊飼いたちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた」(ルカによる福音書2章8節 新約聖書口語訳85p)。
 
 「この地方」(8節)とはマリヤがイエスを出産したベツレヘムの郊外のことです。
 
「ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子(ういご)を産み、布にくるんで、飼い葉おけの中に寝かせた」(2章7節前半)
 
 「ベツレヘム」はヘブライ語で「パンの家」という意味だそうで、エルサレムの南七キロメートルほどにある町で、マリヤの夫ヨセフの先祖のダビデの出身地でした(サムエル記上16章4節)。
 
羊飼いたちはここでエルサレム神殿において供え物とするための特別な羊を飼育していたようでした。
 
実は、羊飼いたちはその仕事の性質上、十戒の安息日規定を遵守することができず、そのため、行政と司法の土台である律法の規定によって、ユダヤ共同体においてはのけ者、仲間外れとされた存在であったのでした。
 
待降節の四週目、そしてクリスマス礼拝の「希望の物語」の四回目の本日の説教は、自分自身が生きている社会では、どちらかというと周辺にいるという実感を持つ人々が主人公です。
 
 彼ら羊飼いにも喜怒哀楽はありました。子羊が生まれそして育っていく姿を仲間同士で助け合いながら見守ることは喜ばしくもまた楽しみなことであった筈です。
 
しかし、その羊が神殿参拝者に法外な値段で売られ、それによってユダヤ社会の特権階級の、一部の宗教指導者が利権を独占して莫大な利益をあげているという宗教的堕落、社会的不正義には憤りを覚える反面、それに対して何も出来ない自分たちに無力感を覚えていたかも知れません。
 
 けれども、羊飼いたちの哀しみは何と言っても自分たちがユダヤ社会の中心からずれた者たち、仲間外れであるという現実にあったと思われます。
 
しかもそれに加えて彼らを支配する哀しみは、自分たちが聖書の戒律を守らない民ということで、天地の造り主であり、彼らの先祖を奴隷の地から導き出してくれた神からも見放されているという意識によって倍加されました。
 
つまり彼ら羊飼いたちは難しい表現を使えば、社会からも神からも疎外され、仲間外れにされているように感じ、その結果、自分自身にも諦めを覚えながら日々を送るという自己疎外の人々であったのでした。
 
 ところが自らを落ちこぼれと認めている彼らに、大いなる喜びの告知が、具体的には救世主・メシヤの誕生の告知がもたらされたのでした。
 
「すると主の御使(みつか)いが現われ、主の栄光が彼らをめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは言った、『恐れる。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主なるキリストである』」(2章9〜11節)。
 
 この、人からも神からも疎外されていると思い込んでいた羊飼いたちに何と、神の御使いが現われ、救い主の誕生を知らせてくれたのです。それは彼らの哀しみを消し、大きな「恐れ」(9節)を除き、大いなる喜びをもたらす知らせでした。
 
なぜこのような驚くべき知らせが真っ先に、イスラエル共同体から疎外されている人々にもたらされたのでしょうか。なぜこの知らせが宗教家や聖書学者、支配者階級の人々にではなく、野にいる羊飼いたちに与えられたのでしょうか。
 
それは彼ら羊飼いたちが、自分たちは神に相手にされない者だとは思っていても、それでも心を低くして神を恐れ、神の恵みに感謝しながら日々、自らの務めを果たしつつ、一所懸命に生きている人々であったからです。
 
 全能の神は心低き者の友です。それはガブリエルから救い主の受胎を告知されたマリヤが歌った通りです。
 
「そのあわれみは、代々(よよ)限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力のある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ…なさいます」(1章51〜53節前半)。
 
 神がベツレヘムの郊外で野宿しながら働く羊飼いたちに真っ先に大いなる喜びの福音を伝えさせたのは、彼らが心低き者たちであったからでした。
 
 
2.大いなる喜びのしるしは、心低き者たちだけが見い出す
 
では心が低い、高いはどこでどうやって見分けることができるのでしょうか。それは知らせを聴いた人がその知らせをどのように聞くか、そして知らせを聴いてどのように行動するかでわかるのです。
 
神の使いの知らせは、驕り高ぶる者には到底受け入れ難いような内容でした。それは神の救い主が王の姿ではなく、無力な幼子として、しかもそのキリストは王宮にではなく、宿屋、一説によれば家畜と同居の部屋で、だからこそ、飼い葉おけの中に寝かされているというものだったからでした。
 
「あなたがたは、幼子が布にくるまって飼い葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」(2章12節)。
 
 けれども、「救い主」(11節)出現の「しるし」(12節)とは「飼い葉おけの中に寝かしてある」(12節)「幼な子」(同)であるという御使いの知らせを羊飼いたちは素直に受け入れ、そしてその幼な子を拝むため、ベツレヘムへと急行したのでした。
 
「御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは『さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせくださったその出来事を見てこようではないか』と互いに語り合った。そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼い葉おけに寝かしてある幼な子を探しあてた」(2章15、16節)。
 
 心が驕り高ぶっているか低いかは、情報の扱い方で見分けることができます。驕り高ぶっている者は自分の考えに自信を持っていますから、人の話しに耳を傾けることをいたしません。その結果、「それはそのうちに」と言って折角の福音を店ざらしにしてしまいます。
 
それが、ギリシャ・アテネの知的エリートたちでした。彼らは、使徒パウロが伝えた福音を「またの機会に」と言って軽視してしまったのでした。
 
「死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、『このことについては、いずれまた聞くことにする』と言った」(使徒行伝17章32節 212p)。
 
 しかし、羊飼いたちはアテネ市民とは違い、御使いのお告げを確かめるべく、取るもの取り敢えずベツレヘムへと急行します。それは彼らが心低き者たちであったからでした。大いなる喜びの「しるし」は、心低き者たちだけが見い出すことができるのです。
 
 
3.大いなる喜びの感激は、心低き者のうちにのみ湧き上がる
 
 息せき切って駆け付けたベツレヘムの宿屋で羊飼いたちが見たのは、御使いが告げた通り、飼い葉おけに寝かされている生まれたばかりの幼な子でした。彼らは自分たちが経験した御使いの顕現という出来ごとと、その御使いが彼らに語ったメッセージを幼な子の両親はもとより、その場にいた人々に語り伝えます。
 
「彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた」(2章17節)。
 
 飼い葉おけの中に寝かされている幼な子を見て、羊飼いたちが何を得たのかと言いますと、それは満足と喜びでした。彼らは内側に湧き上がる感激を噛みしめ、神を讃美しながら帰途についたのでした。
 
「羊飼いたちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰っていった」(2章20節)。
 
 羊飼いたちはまた彼らの職場へと帰って行きます、来た道を辿りながら。
 
飼い葉おけの中の幼な子を見たからといって彼らの社会的状況が変わるわけでもありません。収入が増えるわけでもなく、仕事が楽になったわけでもありません。ユダヤ社会のエリート階級からは相変わらず見下げられたままです。
 
しかし、確かに変わったものがありました。それは何かといえば、彼らの神との関係です。安息日を遵守するという律法を守ることができない、会堂における集まりに出席したくても出席することができない、自分たちはアブラハムの子孫でありながら宗教的には落ちこぼれであって、神からも相手にしてもらえない者たちだ、そういう考えが生みだしてきた失望感は、この夜を境に彼らの中から雲散霧消してしまったのでした。
 
なぜか。それはこの夜の、つまりクリスマスの夜の一連の出来ごとのゆえでした。
 
御使いの知らせの通り、「飼い葉おけに寝かしてある幼な子」(16節)こそ、羊飼いを含めて「すべての民に与えられる大きな喜び」(10節)の元でした。
このとき、彼らが、心の低い「あなたがたのために」(11節)「救い主」(同)として「お生まれになった」(同)神の御子誕生の教理的意味、神学的理解をどこまでしていたかは分かりません。
 
ただ、ベツレヘムから自分たちの居場所に戻りながら彼らの心中にふつふつと沸き上がってくる感激は、自分たちが神から見捨てられてはいないのだ、先祖の神は今も私たち羊飼いの神なのだ、という強い確信に基づくものだったのでしょう。
 
事実、この幼な子イエスは長ずるに及んで、ガリラヤ、ユダヤ各地を巡回しながら、神からも人からも自分自身からも疎外されていると思い込んでいる人々の仲間になってくださり、おのれを信じる者を友とさえ呼び、しかも神の家族の一員としてくださったのでした。
 
クリスマスの出来ごとは、神が私たちに向かい、「お前はわたしの仲間だ」「わたしの家族だ」と、天の高みからでなく、すぐ傍で、隣りで呼びかけてくれていることを証しする出来ごとなのです。それは今も、です。
 
天来の大いなる喜びはとりわけ、この地上の心低き者たちにもたらされることを覚えたいと思います。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-12-15 16:46:12 (980 ヒット)
2013年礼拝説教

13年12月8日 待降節第二主日礼拝説教

「希望の物語 その3 ナザレのおとめマリヤの場合『お言葉通りこの身に成りますように』ーマリヤの  
 応答」
  
ルカによる福音書1章25〜45節(新約聖書口語訳83p)
 
 
はじめに
 
適菜 収(てきな おさむ)という少壮の哲学者の発言が最近、注目を集めています。
 
この人はニーチェの研究者として有名なのだそうですが、結構、毒舌の人のようで、最近では週刊誌の「今週のバカ」という連載コラムで、お隣りの国の大統領を「隣近所の悪口を言いふらす『おばさん外交』をしている」と書いてそのお隣りから反論が出たりするなど、物議を醸す言論活動を行っているようです。
 
この哲学者が昨日の朝刊に寄稿したコラムの趣旨に、その通りと肯かされました。彼は「本はたくさん読むな」という新渡戸稲造の言葉をあげて、多読の弊害を説き、その新渡戸が「古典を一つだけ熟読することを薦めている」としています。
 
古典と言えば聖書こそ、古典の中の古典です。特にルカによる福音書の生誕物語は、これまでにも何度も繰り返し読んできましたが、この待降節ではこの生誕の物語をとりわけ「希望の物語」として改めて受け止めることにより、物語自身が語りかける真理をしっかりと読み解いて、それぞれの信仰の糧、人生の羅針盤としたいと願っております。
 
先週と先々週、二週間かけて祭司ザカリヤとその妻のエリサベツの物語を読んできましたが、今週はいよいよ使徒信条に、「主はおとめマリヤより生まれ」とある、マリヤについての物語です。
きょう、私たちはこのマリヤの物語を希望の物語として聞き、二千年の時を超えて、ご一緒に紀元前六年のガリラヤはナザレの、おとめマリヤを訪ねたいと思います。
 
 
1.幸いなのは神の御言葉を聞いて、自らを恵まれた者として受け止める者
 
若者だけでなく、年配者までも使う言葉が「メッチャ」です。これは例えば「メッチャうまい」などのように、うまさの度合いを示す副詞として使うようですが、もともとは「滅茶苦茶」から来ているようです。
 
「無茶苦茶」とも言いますが、「滅茶苦茶」とは筋道が通らないことや、度が過ぎるような場合に使います。これを気取って言えば理不尽ということになるでしょうか。
ところで短期的に見ますと、神様が人間になさることが「メッチャ」おかしく見える場合があります。
そしてその「被害者」ともいえるひとりがナザレのマリヤでした。マリヤが受けた扱いは現代ならば人権侵害で訴えることができるようなことでした。
それは、ある日突然、神の御使いを自称する者がマリヤに現われて、「マリヤよ、おめでとう」と言ったという出来事から始まりました。
 
「六か月目に、御使いガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤと言った。御使いがマリヤのところにきて言った、『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます』」(ルカによる福音書1章26〜28節 新約聖書口語訳83p)
 
 因みに「六か月目に」(26節)とあるのは祭司ザカリヤの妻エリサベツが受胎して「六か月目」ということです(24節)。
 
マリヤは戸惑います。当然のことです。
 
「この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつは何の事であろうかと、思いめぐらしていた」(1章29節)。
 
「おめでとう」(28節)と言われても何が何やらわからないマリヤに向かい、御使いガブリエルは続いて、あなたは妊娠して男の子を産むが、その子は神が送った救い主メシヤである、というメッセージを語ります。
 
否も応もありません。マリヤの都合を聞く訳でもなく、承認を得ようとするわけでもありません。しかもマリヤにはすでにヨセフという法的な夫がいたのでした。
 
「すると御使いが言った、『恐れるな、マリヤよ。あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう』」(1章30節)。
 
 皆さまがもしもマリヤであったならば、どのような反応をするでしょうか。困惑、驚愕、茫然自失、冷笑、憤怒などなど。しかしマリヤは戸惑いつつも御使いに対し、素朴ともいえる基本的な質問をいたします。
 
「そこでマリヤは御使いに言った、『どうして、そんなことが有り得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに』」(1章34節)。
 
 マリヤの問いは祭司のザカリヤが発した疑問、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)と似ているようですが、実は違ったものなのでした。
 
ザカリヤの質問の根底には、「そんな事」(18節)は極めて困難なことではないかという、言うなれば不信ともいうべき思いが表れていましたが、マリヤの問いは、同居の夫のいない状態で、どうして子供が生まれるのだろうかという、筋道についての素朴な疑問であったと思われます。
 
この時のマリヤは何歳であったのかと言うことは興味のあることですが、ルカはその記録を残しておりません。しかし、当時のユダヤ社会では、一般的には男性は二十歳前後、女性は十六歳前後で結婚していたそうですから、この時のマリヤは恐らくは十六歳ということになるかと思います。
 
実はマリヤにはこの時、法的な夫はおりました。しかし、ユダヤの習慣では夫婦が同居するのは法的に夫婦になってから一年後のことです。ですから著者のルカはマリヤを「ヨセフという人のいいなづけ」(27節)と説明し、マリヤも「わたしにはまだ(同居の)夫がありませんのに」(34節)と、疑問の理由を述べたのでした。
 
この出来事を通して私たちが驚くのは、御使いの告知に対し、マリヤが抗議をするわけでもなく、拒否するわけでもなく、神の選びを神の恵みとして受け入れたことでした。
 
考えて見れば、人はみなそれぞれ異なった人生を歩み、あるいは自由を満喫しているようにも見えますが、自分で選択をし、決定ができることは限られているといえます。
たとえば、人は両親を選ぶことができません。ということは、自らの人種、民族、そして出生地を選ぶことができないことを意味します。
先月の三日、皇居で文化勲章の親授式が行われました。式の後、受章者の一人、俳優の高倉健が、「日本人に生まれて本当に良かったと、今日思いました」としみじみと語っておりましたが、それは日本人の多くの実感であると思います。
 
先週、テレビが南米のアルゼンチン北部の町でスーパーが略奪に遭っている光景を映し出しておりました。成人の男たちだけでなく、女性や子供も一斉に店から商品を抱えて走り去っていきます。どうも警察官が賃上げを要求してストライキを打ったため、治安悪化を招いたということのようでしたが…。
 
人はまた、性を選ぶことができません。勿論、例外的に性同一性障害という障害を持って生まれて来る人もおります。しかし通常、人は男性または女性として生まれてくるのですが、それを我が身に対する神の選びとして受け入れるかどうかを決めることは、人にはできます。そして私たちはあまり意識をしないまま、自らの現状を天来の定めとして受容しているのです。
 
しかしマリヤの場合、その選びは極めて特殊なものでした。けれどもマリヤは、救い主、メシヤの母に選ばれたことを神の恵みとして受け入れたのでした。
 
マリヤが御使いガブリエルから「恵まれた女よ」(28節)と呼ばれ、「おめでとう(同)」と祝福されたのは、彼女が救い主メシヤ・キリストの母という立場に召されたからだけでなく、彼女が神の選びというものを意志的、主体的に受け入れることができる人であったからだったのでしょう。
 
マリヤは御使いから「おめでとう」(28節)と言われていますが、日本語訳で「おめでとう」訳された言葉はギリシャ語で「カイレ」と言います。この言葉はゴルゴタの刑場においてローマの兵士がイエスに対して侮蔑の意味で使った言葉であって、口語訳 では「ばんざい」と訳されていました(マルコによる福音書15章18節)。
「カイレ」を祝福の意味で使うか皮肉や侮蔑の意味で使うかは、使う者それぞれにかかっていますし、聞く者にかかっているとも言えます。
 
マリヤの場合、素直な気持ちでこれを「おめでとう」(28節)という祝いの言葉として受け止め、これを神の恵みの選びとして捉え、そして自らを「恵まれた女」(同)として受け入れたのでした。
 
このギリシャ語「カレイ」すなわち「おめでとう」をラテン語訳は「アヴェ」と訳しました。ですから「おめでとう、マリヤよ」すなわち「アヴェ・マリヤ」なのです。これを文語訳は「めでたし」と訳しました。
 
私共もまた、神の言葉、そして自らの境遇や情況の中に神の選びを見出し、これを恵みとして受け入れるならば、現代社会において、そして家や教会において「アヴェ・○○」と呼ばれるでしょう。
神は今日もマリヤの姿勢を受け継ぐ者を探しておられ、見出すや「おめでとう、神に選ばれた者よ」と御使いを通して語りかけてくださるのです。
 
 
2.幸いなのは神の御言葉を受けて、神の御旨、我が身に成れかしと祈れる者
 
マリヤの「そんな事が」(34節)という素朴ともいえる問いに対し、ガブリエルは丁寧に答えます。それは神の霊である聖霊のお働きによるのである、と。
 
「御使いが答えて言った、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう』」(1章35節)。
 
 これは救世主の誕生が通常のかたち、すなわち男女の結合によらない、神の特別な働きによる超自然的な受胎として起こされたのだという意味です。それが「聖霊があなたに臨み」(35節)という説明です。
 
 尤も以前、著名なカリスマ伝道者が書いた著書の中に、「ということは、イエスの父は聖霊であるということになる」と書かれていた箇所を読んで、びっくり仰天した記憶があります。
 この本は米国では出版されなくなりましたが、日本では今でも販売されているようです。この本の記述には首をひねるような個所が他にもあり、神学的素養がないと、とんでもないことになるという例証かも知れません。
 
生命を男女の結びつきによって生み出すというかたちに定めたのは創造者なる神です。その神が救い主の誕生にあたって、人間の原罪の影響から免れたこどもを生み出すために、例外的にとられた方法がおとめマリヤによる受胎だったのです。
ですからガブリエルは、不妊で高齢という、祭司ザカリヤの妻のエリサベツの奇跡的な妊娠の例をあげてマリヤの理解を助けようとします。
 
「あなたの親族エリサベツも老年ながら、子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています」(1章36節)。
 
 それだけではありません。ガブリエルは神の全能性という属性にマリヤの思いを向けさせることによって彼女に答えます。
 
「神には、なんでもできないことはありません」(1章37節)。
 
 日本が誇るスーパーコンピュータ「京(けい)」が、世界中のスーパーコンピュータが性能を競い合う米国の国際会議で、総合的な性能を評価する「HPCチャレンジ賞クラス1」の四部門のうち、三部門で一位に選ばれたという報道が先月、ありました(スポーツ報知 11月22日)。
 
このスパコン「京」が目指しているものはコンピュータ内に人体を丸ごと再現することによって、病気の進行を予測し、医療支援を行うことなのだそうです。
スパコンは人間の頭脳から生み出されましたが、そのような頭脳を持つ人間を創造したのが創造主なる神です。
 
その創造主であり、全能である神によってあなたは救い主の母になるのだという丁寧な説明を受けたとき、ナザレの少女マリヤはただただ、「神の御旨がこの身に成りますように」とだけ答えたのでした。
 
「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように』」(1章38節前半)。
 
 神の選びを恵みとして受け入れることができる者が、神の持つ全能という属性への知識が与えられれば、あとは身を委ねて、この取るに足りない我が身にあなたの御旨が成りますようにとの応答へと導かれます。
 
 「はしため」(38節)とは奴隷、しもべという意味です。基本的人権という点からは、人は自由な存在です。しかしその自由という権利を神のために、また人類の福祉、幸せのために捧げる人は幸いです。
 
これを十六世紀のドイツの宗教改革者ルターはその著書の中で、キリストに属する者には自由人という立場としもべという二重の立場があることを強調しました。
 
キリスト者は、あらゆるものの、最も自由な主であって、何ものにも隷属していない。
キリスト者は、あらゆるものの、最も義務を負うている者であって、すべてのものに隷属している。
これらの記述は互いに矛盾しているように思われるけれども、それが一致して見いだされる場合には、すぐれて私の目的にかなうものである。これら両命題とも、第一コリント九章[十九節]に、「わたしは、自由であるが、自ら進んですべての人の奴隷になった」と言い、ローマ十三章[八節]で、「互いに愛し合うことの外は、何びとにも借りがあってはならない」と語っているパウロ自身のものである(マルティン・ルター著 山内 宣訳「キリスト者の自由(ラテン語版)」352p ルター著作集第一集 聖文社)。
 
 この著作は一五二〇年に「善きわざについて」「キリスト教界の改善に関してドイツのキリスト者貴族に与える書」と共に宗教改革三大文書として知られていますが、自由であるが、自ら進んでしもべとなったキリスト者の生きたモデルの一人、それがナザレの少女マリヤだったのです。
 
 マリヤはこの時、自分が失うことになるかも知れない大事なものを瞬時に思い浮かべたことでしょう。それはヨセフと共に築く家庭に代表される平穏な日々という幸せであったことでしょう。
マリヤはまた、自分が受けるであろう苦痛や恥辱も想像したに違いありません。それは世間からの心ない蔭口や指弾によってもたらされる苦悩でした。
 
しかしそれらの一切合財を神に委ねてこの十代の少女マリヤは応答したのでした。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(38節)。
 
 このマリヤの決断がなければ人類はどうなったことか。神による人類救済のプロジェクトは頓挫し、あるいは困難を極めたかも知れません。私たちは自らの救いがマリヤに負うているものであることを強く認識しなければならないと思います。
 
勿論、マリヤは礼拝の対象でもなければ祈りの相手でもありません。マリヤを拝むべきではありません。しかし、マリヤを信仰の模範として尊び、満腔の感謝を表わすことは大切なことであると思います。
私たちはマリヤのように、神の御旨が「この身に成りますように」と祈って立ち上がった信仰の勇者たちの存在と働きから実に多くの恵みを受けているのです。
 
 主イエスは弟子たちに対し、「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20章35節)と言われ、また「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」(マタイによる福音書10章18節)と勧めました。マリヤに倣い、マリヤの後をマリヤのように歩む者は幸いです。
 
 
3.幸いなのは、自らに語られた神の言葉は必ず実現すると信じ切れる者
 
 ナザレの一少女マリヤが誰よりも幸いであったのは、彼女が第一に「自らを恵まれた者として受けとめることができたから」であり、第二に「神の御旨が我が身になるようにと応答することができたから」ですが、もう一つは、彼女が誰よりも幸いであったのは、「神が語られたお言葉は必ず実現すると信じ切れたから」でもありました。
 
 御使いからの受胎告知のあと、マリヤはユダの山里に住むザカリヤとエリサベツの家に向かいます。エリサベツはマリヤの「親族」(36節)であったようです。ということは、マリヤはレビ族の出なのかも知れません。
 
マリヤを迎えたエリサベツの歓喜に満ちた言葉を読みましょう。
 
「エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内で躍った。エリサベツは聖霊に満たされ、声高く叫んで言った、『…主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう』」(1章41、44、45節)。
 
 エリサベツの言葉のように、幸いなのは主なる神が語った言葉は必ず実現すると信じた人です。ヨハネをみごもっていたエリサベツもまた、その幸いな人のひとりでした。
マリヤが幸いな人と呼ばれるのは、彼女が救い主の生母となったからだけではありません。マリヤが幸いな人と呼ばれるのは、彼女が神の言葉を聞いてそれを何よりも重要なもの、掛け替えのないもの、そして「主がお語りになったことが必ず成就すると信じた女」(45節)であったからでした。
 
だからこそ、イエスに向かって群衆の中から放たれた、「あなたのような人を生み育てた母親は何て幸せな人であることか」という羨望の声に対してその考えを訂正すると共に、幸いなのは血縁という繋がりではなく、信仰によって神と繋がっている者たちであると、イエスは教えたのでした。
 
「しかしイエスは言われた、『いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言葉を聞いてそれを守る人たちである』」(11章27節。
 
 次週二十二日のクリスマス礼拝、そして二十四日のイブ礼拝を前にして、この説教を聞き、あるいは読む方々の上に、神の祝福が豊かにとどまりますように。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-12-08 16:33:37 (901 ヒット)
2013年礼拝説教

13年12月8日 待降節第二主日礼拝説教

「希望の物語その2  ザカリヤとエリサベツの場合
(後)『その名はヨハネ』ーザカリヤの応答」
 
ルカによる福音書1章18〜23 57〜80節(新約聖書口語訳82p)
 
 
はじめに
 
 一昨日の夜、論議を呼んでいた特定秘密保護法案が国会で可決され、成立しました。細かい部分では問題があるとしても、アメリカ、イギリス、フランスなどの主要国の中で日本にだけ無かった法律ですから、理念そのものに反対するのは、一部のそれこそ「特定」の人々のようです。
 
乱暴な言い方をすれば、「特定」アジアの三国が反対する法案、そしてこの三国の出先機関のようなマスコミが批判する法案は大概、日本国にとっても日本人にとってもプラスになるものだという見方をすることもできるようです。
 
 興味深かったのはテレビにもよく出てくる女性精神科医さんが法案成立の前日にツイッタでつぶやいた嘆きでした。
 
彼女は、
秘密保護法に反対している人がみなキライだからきっと良い法律なんだろ、という意見をネットでよく見る。反対を語れば語るほど逆効果になるくらい嫌われているちゅうことを私を含めたリベラル派は考えてみなくちゃ。これじゃ反対会見を開いてかえって法案成立に貢献しただけ、てことになる
とツイートしたのですが、珍しく状況を正しく理解している「つぶやき」ではなかったかと思いました。
 
  この法律は我が国の安全保障に関する特定秘密の漏洩、それも公務員による漏洩を防止するために設けられるものなのですが、声高に反対している人たちのどれくらいが条文をキチンと読んで批判しているのか、はなはだ疑問です。もしもしっかりと条文を読んだ上で反対をしているのであれば、それはそれで信念に基づいての反対なのですから、法案の可決後も息長く反対を叫び続けていってほしいものです。
 
法案が採決された日、都内で学生の緊急集会が開催されたそうですが、その集会の中である学生が、「(特定秘密保護法という)法律ができればそれが集団的自衛権の行使につながり、(日本が)戦争ができる国になってしまう。兵隊として(戦争に)真っ先に連れていかれるのは私たち若者だ」と危機感あふれるスピーチしたというのですが、「戦争ができる国に」なることが、何が問題なのでしょうか。
 
「戦争ができる国」つまり、国と国民を他国の侵略から守るための「戦争ができる国」と、「戦争をする国」つまり他国を侵略する「戦争をする国」とを混同して、徒に危機感を感じているようですが、それは「父親が出刃包丁を買ってきたが、お隣りの人を刺すために買ってきたのに違いない」と決めつけて悩むようなものです。妄想もいいところです。
 
また、この法案が成立すると何で「それが集団的自衛権の行使につなが」って、「私たち若者」が「兵隊として真っ先に(戦争に)連れていかれる」ことになるのかもさっぱり分かりません。集団的自衛権は国連でも認められている、独立した国家に固有の自衛権であって、それが何で「戦争ができる国になってしまう」と脅えるのかもわかりません。
 
第一、お隣りの国には徴兵制が布かれていますが、日本に徴兵制度はありません。仮に戦争が勃発した場合、戦場に赴く者は自衛官であって一般国民である「わたしたち若者」が「兵隊として真っ先に(戦争に)連れていかれる」ことはありません。
その上、もしも自衛官が戦場に行きたくないのであれば、その時点で自衛隊を辞めればよいだけです。日本には職業選択の自由が保障されているのですから。
 
理論を身につけなければならない学生さんなのに、論理の飛躍がありすぎる上に、何よりも気になったのは、その専らの関心事が国家、国民の安全を守ることではなくて、ただただ自分一個の生命、安全を守ることしかない、という本音がその発言に見えることでした。むしろ、そこにこそ、危機感を持ってしまいます。
 
人が夢と希望を持ち、青雲の志を抱いて精進することは大切なことです。しかし、時にはより大きい、いわゆる大義のために自分の志を横に置き、あるいは自らの希望を断念するという事態に出会うことも、人の長い人生の中にはあるのです。
そして、まさに大義のために自らの希望を神に捧げたのが祭司ザカリヤであったのでした。
 
私たちはこの待降の時期、キリスト生誕の物語の中に、多くの人の幸いのために、自らの思いを神に捧げるという尊い決断をした人がいたことを忘れてはならないと思うのです。
 
 
1.祭司ザカリヤは、時が来れば成就する神の言葉を受け入れることが出来なかった
 
神殿で祭司の務めを果たしているザカリヤに神の使いが現われて、「あなたの祈りが神に聞き入れられた、あなたの妻は男の子を生む」というお告げをした時(ルカによる福音書1章13節)、ザカリヤが素直に喜んだかといいますと、そうではなく、「私ども夫婦は年老いています」と言って、そのお告げに対し、懐疑的な態度を取ったようでした。
 
「するとザカリヤは御使(みつか)いに言った、『どうしてそんなことがわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています』」(ルカによる福音書1章18節 新約聖書口語訳82p)。
 
 年を取る、ということは蓄積された経験による知恵を身につけることができるという利点と共に、その経験則が未経験な分野への懐疑をもたらすという場合があります。祭司ザカリヤの場合、自分たちが子供を生むには年を取り過ぎている、という現実が、神のお告げを信じることを妨げたのでしょうか。
 
ザカリヤの反応に対し、神の使いはザカリヤが神からの「喜ばしい知らせ」を信じなかったために、神の言葉が実現する日まで、口がきけなくなる、と宣告をします。
 
「御使いが答えて言った、『わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに伝えるために、つかわされたものである。時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がきけなくなり、この事の起こる日まで、ものが言えなくなる」(1章19、20節)。
 
 このやり取りを見る限り、ザカリヤが御使いの言葉を信じなかったのは老齢であることを障碍と感じていたから、というように見えます。
しかし、ことはそう単純なものではないように思えます。ユダヤ人であるザカリヤにとっては、彼らの先祖であるアブラハムとサラのように、老齢になって子が与えられたという例もあったからです(創世記21章)。
 
むしろ、ザカリヤの懐疑的な反応の背後には、生まれる子供が特別の使命のために生まれるのであって、ザカリヤの後継ぎとして与えられるわけではない、というわだかまりがあったのではないかと思われます(1章15〜17節)。
 
ザカリヤには御使いの言葉を直ちに「喜ばしい知らせ」(19節)として受け止めることができないという思いがあり、それが懐疑的ともいえる反応になったのかも知れません。しかし、信じられないことは信じられない、と言う方が誠実です。避けなければならないのは信じてもいないのに信じた振りをすることだからです。
 
 神は人の弱さをご存知です。神は人が、神の贈り物が最善最高のものであることを理解することができるようにと、信じるために必要な時間や機会を備えてくださるのです。
ですから、信じられない、ということによって自分を不信仰だと責める必要はありません。時が来れば聖書の言葉が自らにとって「喜ばしい知らせ」(19節)であることが腑に落ちる、そして感謝に溢れる、という経験に導かれるのです。
 
 
2.祭司ザカリヤは、「その名はヨハネ」と告白することによって大義に生きる決意を表明した
 
御使いガブリエルの告知から月日が流れ、「主はわたしを心にかけてくださって人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」(25節)という喜びに満ちた感謝の礼拝を経て、不妊とされたエリサベツは男児を産みます。
 
「さて、エリサベツは月が満ちて、男の子を産んだ」(1章57節)。
 
 ユダヤでは男の子が誕生した場合、その八日目に割礼を施します。そしてその祝いに集まった親族は当然のように幼子の名を父に因んで「ザカリヤ」としようとします。ところがエリサベツは「ヨハネ」を強く主張したのでした。
 
「八日目になったので、幼な子に割礼をするために人々がきて、父のなにちなんでザカリヤという名にしようとした。ところが、母親は、『いいえ、ヨハネという名にしなければなりません』と言った」(1章59、60節)。
 
ザカリヤの家系に「ヨハネ」という名の人はいなかったようです。エリサベツの言葉を訝しく思った人々は、そこで、口の聞けない状態が続いているザカリヤに聞きます、あなたはどうなのか、と。
 
これに対し、ザカリヤは書板、今で言えば黒板かホワイトボードにあたるものを持ってこさせて「その名はヨハネ」とヘブライ語で書いたのです。
ちなみに、最近の研究によりますと、イエス時代のユダヤ人は従来言われていたようなアラム語ではなく、普通にヘブライ語を使っていたようです。
 
「そして父親に、どんな名にしたいのですかと、合図で尋ねた。ザカリヤは書板(かきいた)を持ってこさせて、それに『その名はヨハネ』と書いたので、みんなの者は不思議に思った」(1章62、63節)。
 
 その時です。神殿における「まぼろし」(23節)の体験後、物が言えなくなっていたザカリヤが、口を開いて神を讃美し始めたのでした。
 
「すると、立ちどころにザカリヤの口が開けて舌がゆるみ、語り出して神をほめたたえた」(1章64節)。
 
ザカリヤが書板に「その名はヨハネ」(63節)と書いたのは、ザカリヤが長い煩悶の末に、神の告知を信じ受け入れたからでした。それはザカリヤが個人としての希望を放擲、というよりも神に委ねたしるしであると共に、彼が神の示す大義に対して忠誠を誓ったしるしでもありました。
 
ザカリヤ個人としての希望の放棄、それはヨハネが神の特別な使命を果たすために選ばれた器であること、それはとりもなおさず、彼の祭司の家系は彼の代で絶えることを意味するのですが、この時のザカリヤが書いた「その名はヨハネ」は、痛みを伴う現実を彼が大義のために敢然として受け入れたことを証しすることでもあったのです。
 
ザカリヤはヨハネが成人して自分の跡を継いで祭司となることを諦めた、いえ、その思いを神に委ねたのでした。「その名はヨハネ」(63節)はザカリヤの熟慮の末の神に対する応答、煩悶の末の信仰的応答だったのでした。
 
個人の生活、私生活は重要です。私どもの教会も昔は日曜日には様々の集会があり、月に一回開催する日曜学校教師会などは、夜にずれ込むことなどもしばしばでした。しかし、私生活は大切です。特に日曜日の礼拝のあとの午後などは、それぞれの私生活の充実に充ててもらいたいという思いから、午後の集会や行事を予定しないようにしました。それは私生活の充実こそ、そして月曜日からの勤めのために十分な休養をとることこそ、神の御心であるからです。
 
しかし、人は、時には神のみわざ、神の栄光という大義のために、「私」の部分を神に捧げることを選択せざるを得ないというケースもあるのです。そしてザカリヤとエリサベツの夫婦がその人たちでした。
 
では、彼らは不幸であったかと言いますと、そうではありません。御使いガブリエルの「彼はあなたに喜びと楽しみとをもたら」(14節)すという託宣にある通り、幼な子の存在は彼ら両親には「喜びと楽しみ」となったのでした。
 
ザカリヤがどのような思いをもって「その名はヨハネ」(63節)と書板に書いたのか、その思いを彼の身になって正しく深く忖度することができるのは神のみでしょうが、しかし、私たちはザカリヤの苦悩の決断によって、大いなる恵みを受けることになるのでした。
 
そういう観点から見ますと、例えばやなせたかしさんの弟さんの人間魚雷の特攻による犠牲が、それが戦争の行く末を左右するものではなかったとしても、そしてそれがあたかも犬死であるかのように批判する者があったとしても、国を思い、同胞を思っての動機から生じた犠牲であることを思う時、それはまことに尊い決断で有り行動であったと、頭を垂れるのみなのですが、翻って、先の特定秘密保護法反対の学生さんがあげた反対理由などは、まことに矮小きわまるものであって、こういう人は有事の際には女性や高齢者を置き去りにして真っ先に逃げ出すことでしょう。
 
 祭司ザカリヤは我が子の名を神が定めたように、「その名はヨハネ」と告白することにより、神の大義に生きることを表明したのでした。
 
 
3.祭司ザカリヤは、授けられた我が子を来るべきメシヤ到来のための道備えとして捧げた
 
ところで「ヨハネ」はヘブライ語ヨハナンのギリシャ語形で、「ヤハウェは恵み深い」という意味だそうです(新聖書大辞典 キリスト新聞社)。
 
ザカリヤとエリサベツが待望の男児にザカリヤではなく「ヨハネ」と命名した時、彼らは彼らに授けられた幼な子が、来るべきメシヤの到来に先だってその道備えをする預言者として立つことを明確に理解していたものと思われます。それはその直後に父ザカリヤが聖霊に満たされて語った預言にある通りです。
 
「父ザカリヤは聖霊に満たされ、預言して言った、『主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。神はその民を顧みてこれをあがない、わたしたちのために救いの角を僕ダビデの家にお立てになった」(1章67〜69節)。
 
 「救いの角」(69節)とは来るべきメシヤ、キリストのことです。そして幼な子ヨハネはそのメシヤの先触れ、先駆けとして人々の心に、そしてユダヤ社会に信仰の道を備える働きをするのだ、と続けます。
 
「幼な子よ、あなたはいと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみまえに先だって行き、その道を備え、罪のゆるしによる救いをその民に知らせるのであるから」(1章76、77節)。
 
 こうしてヨハネは父と母の深い理解と篤い献身によって、預言者としての使命を果たすべく、その準備に勤しむこととなります。
両親はヨハネに向かい、その神からの使命について説明すると共に、息子を祭司職の後継ぎのためにではなく、神が彼に与えた使命を果たすために必要な信仰教育を施した筈です。
そして別れの時がきて、ヨハネは荒野での修業へと進んでいったのでした。
 
「幼な子は成長し、その霊も強くなり、そしてイスラエルに現われる日まで、荒野にいた」(1章80節)。
 
 この一節の中にザカリヤの覚悟の貫きを見る者は幸いです。ザカリヤには心の揺らぎがなかったのでしょうか。
神殿内での「まぼろし」(23節)はザカリヤのみが視たものでした。御使いガブリエルの告知はザカリヤだけが聞きました。ですから、「まぼろし」の体験をおのれの内に秘めて、素知らぬ顔をしたままヨハネを祭司の後継ぎとして養育することも可能であった筈でした。
 
 しかし、ザカリヤはそのような誘惑を乗り越えて、将来の働きのために必要な信仰的訓練をヨハネに授けると共に、御使いガブリエルから聞いたヨハネの特別な使命について繰り返し彼に語り、そうすることによって我が子を来るべきメシヤ・キリストの道を整える働き人として捧げ切ったのでした。
 
 このヨハネは、ガリラヤの領主のヘロデの行いを糾弾して投獄され、後に宴会の余興で斬首されるという非業の最期を遂げることとなります。なお、この出来ごとについてはオスカー・ワイルドの戯曲をドイツの作曲家、リヒャルト・シュトラウスがオペラにした「サロメ」が有名ですが、まだ存命中であったヨハネについてのイエスの称賛の言葉をルカは記録しています。
 
「あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない」(7章28節前半)。
 
ユダヤ人が敬愛してやまないアブラハムもモーセもそしてダビデも「女の産んだ者」です。その中で「ヨハネよりも大きい人物はいない」ということは、ヨハネが信仰の偉人達を超える存在である、という意味になります。
 
ヨハネの最期は人間的には確かに無惨なものでした。しかし、彼はメシヤ・キリストの先駆けとしての使命を全うしてその短い人生を駆け抜けたのでした。
そして人間的栄光とは無縁のヨハネの無私の信仰姿勢は、間違いなく父ザカリヤと母エリサベツから受け継いだ信仰的遺産そのものであったと思われます。
 
ザカリヤとエリサベツはヨハネを通して神への信仰、そして献身を貫いたのでした。そこに言葉に表わせない彼らの幸せがありました。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-12-01 16:50:15 (998 ヒット)
2013年礼拝説教

13年12月1日 待降節第一主日礼拝説教

「希望の物語その1 ザカリヤとエリサベツの場合 
(前)『あなたの祈りは聞き入れられた』ー神の応  
 答」
 
ルカによる福音書1章5〜17節(新約聖書口語訳82p)
 
 
はじめに
 
日本には正直であることが美徳とされる伝統があります。しかし、「正直者が馬鹿を見る」という諺がありますように、不正直で悪賢い者がずる賢く立ち回って利益を得るのに対し、正直であるがゆえに不利益を被っている正直者がいるのも事実です。
 
しかし反面、「正直の頭(こうべ)に神宿る」ともいいます。これは、正直な者には神様のお恵みやご加護がある、ということを教えるものです。
 
大事なことは、正直であるということを、それが利益となるか不利益となるかという損得勘定の問題としてではなく、たとい損をすることがあったとしても正直に生きよう、という生き方を貫くことであって、そういう人が社会の大多数を構成する世の中こそ、健全な社会であるといえます
 
ところで教会暦では今週から「アドベント、待降節」に入ります。「アドベント」とは「来臨」を意味するラテン語から来たもので、イエス・キリストの生誕日であるクリスマスを迎える心備えをすると共に、再びの来臨、つまりキリストの再臨を待望する期間、それが待降節なのです。
 
そこで今週から四週間、日曜日ごとに、ルカによる福音書の序章の記述から、キリストの生誕にまつわる出来事が織り成す、希望の物語を読み解いてまいりたいと思います。
 
今週と来週は祭司階級の末端に位置する祭司ザカリヤとその妻エリサベツの物語から、「正直者の頭(こうべ)に神宿る」という事実を通して、敬虔に生きる者の祈りを聞き入れられる神に、思いを向けることにいたしましょう。
 
 
1.神は敬虔に生きる者を、常に覚えておられる
 
ルカによる福音書の冒頭に登場する人物がザカリヤとその妻エリサベツです。ザカリヤは先祖代々祭司の職にあり、妻エリサベツも祭司階級の出身者でした。
 
「ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツと言った」(ルカによる福音書1章5節 新約聖書口語訳82p)。
 
ザカリヤは祭司の職責を忠実にそして瑕疵なく長年にわたって果たし、
妻エリサベツもまた、祭司の妻として夫の職務遂行を側面からサポートし、神の前をまじめに敬虔に生きてきていました。
 
「ふたりとも神のみ前に正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく行っていた」(1章6節)。
 
 彼らは「神のみ前に正しい人」(6節)つまり正直者であって、「主の戒めと定め」(同)すなわち、十戒とモーセの律法のみならず、成文律法と同等の重みを持つ口伝律法としての伝承や細則を「みな落ち度なく行っていた」(同)熱心な信仰者だったのです。
 
 でも、彼らには一つの屈託がありました。二人は跡継ぎに恵まれていなかったのでした。
 
「ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに老いていた」(1章7節)。
 
 著者のルカは「エリサベツは不妊の女であった」(7節)と決めつけていますが、それは無理もありません。
不妊の原因が男性にもあるということが、それも男女半々であるという医学的事実が解明されてきたのはごく最近のことです。
ですから今から二千年も前の古代では、不妊の原因は女性にのみあると見做されて、泣く泣く婚家を去らなければならないという女性も大勢いたようです。
 
しかし幸いなことにこの二人についてはそういうトラブルもなく平穏な日々を過ごすことができたのですが、子が出来ぬまま、二人は「年老いて」(7節)きたのでした。
 
彼らが切に願ってきたのは、跡継ぎとなる男児の誕生でした。なぜならば、もしも跡継ぎが出来なければ祭司の家系はザカリヤの代で断絶をしてしまうことになるからです。
 
祈っても、祈っても一向に祈りの答えも兆候もないまま、歳月は無情に過ぎていくように、二人には思えたかも知れません。
しかし、神は敬虔に生きる者を常に覚えていて、天からその目を地上に注ぎ、また切なる呻きには常に耳を傾けていてくださるお方なのです。
 
紀元前六世紀のバビロン捕囚から故国に帰還したユダヤ人が作ったとされる詩篇が一〇二篇です。詩人は歌います。
 
「主はその聖所、高い天から見渡し、大空から地上に目を注ぎ、捕らわれ人の呻きに耳を傾け、死に定められていた人々を解き放ってくださいました」(詩編102編20、21節 新共同訳)。
 
 詩篇の多くは神殿で朗唱されました。当然、ザカリヤもエリサベツもこの詩篇を知っている筈です。
それは彼らの力となり慰めとなったことと思います。敬虔に生きている者には、神が天から目を注いでくださっている、それは彼らの実感であった筈でした。
 
 
2.神は敬虔な者の祈りを、時が満ちた時に聞き入れられる
 
ユダヤではモーセの兄で大祭司であったアロンの息子たちの子孫が祭司職を受け継ぐことになっておりました。しかし、ナダブとアビウは父アロンに先だって死に、しかも彼らには子がなかったため、エレアザルとイタマルの子孫が代々、祭司の務めを果たすことになりました。そして、祭司たちは二十四の組に分けられました。
 
「エレアザルの子孫のうちにはイタマルの子孫のうちよりも長たる人々が多かった。それでエレアザルの子孫で氏族の長である十六人と、イタマルの子孫で氏族の長である者八人にこれを分けた」(歴代志上24章4節 旧約聖書口語訳595p)。
 
 ザカリヤは「アビヤの組の祭司」(5節)でした。「アビヤ」は二十四組のうちの八番目の組です
 
「第八(のくじ)はアビヤに…当たった」(歴代志上24章10、18節)。
 
祭司はこの二十四組が半月に一回の割合で、エルサレム神殿において、祭儀に関する務めを行います。
そしてザカリヤが所属する「アビヤの組」(5節)の当番の際、ザカリヤはくじ引きで香を焚くという栄誉ある務めを担うことになります。
 
イエスの時代、祭司の数は多く、バークレーによりますと、当時祭司の総数は二万人を超えていたそうで、そうなりますと一組あたり、八百人です。そのために人によっては一生の間に一回もくじにあたることのないまま、務めを終えるという人も多くいたことになります。そういう意味ではザカリヤはまことに幸運であったといえます。
 
「さてザカリヤは、その組が当番になり神の御前に祭司の務めをしていたとき、祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことになった」(1章8、9節)。
 
そのザカリヤが自らに訪れた幸運を噛みしめながら香を焚いていたその時、突如、神の使いが現われてザカリヤに語りかけます。
 
その御使いが何と言ったかと申しますと、それは、「ザカリヤよ、あなたの長年の祈りはついに神によって聞きいれられたぞ」という、涙がこぼれるような有り難い宣告だったのです。
 
「香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。すると主の使いが現われて、香壇の右に立った。ザカリヤはこれを見て、恐怖の念に襲われた。そこで御使いが彼に言った、『恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈りは聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を生むであろう』」(1章10〜13節前半)。
 
 それはザカリヤとエリサベツの長年にわたる切なる「祈り」(13節)が神についに「聞きいれられた」(同)というものでした。
 
人の祈りと神の応答の間には時間的なズレがあるように思える場合があります。「祈りを聞き入れてくださるのなら、もっと早く答えてくださればよいのに」と人は思います。
しかし、時を決めるのは主権者である神です。神が最も良い時と考えたその時がベストの時なのです。
 
 神は敬虔に生きている者の捧げる祈りや願いに対し、時にかなった応答をしてくださるお方です。大事なことは祈り続け、願い続けることです。
 
 神学校の通信科で学んでいる学生さんのブログをネットで読みました。
 
スクーリングの授業「牧会学」の時間、講師は牧会経験豊かな牧師さんで、「先生がゼロから教会開拓をして今に至るまでの豊富な経験談を交えた授業は臨場感にあふれ、それが授業であることを忘れてしまうほどでした」というその授業において、講師が語った言葉でこの学生さんは「感極まって」「またもや授業中に落涙」するほどであったそうです。
 
 この年配の学生さんの心を揺さぶった講師の言葉とは何かと言いますと、
クリスチャンホームの子供はどんなに教会から離れたとしても、祈られているし、神の憐れみによって必ず呼び戻されます」という、講師の長い牧会経験から生まれた言葉だったそうです。
 
クリスチャンホームの子供は…祈られている」、だから「必ず(神の許に)呼び戻され」る。
親が祈り、牧師が祈り、教会の仲間が祈ってきた、その祈りは時にかなって神に聞き入れられるのだ、それは親にとっては大いなる慰めであり、励ましです。
 
 人は人でしばしば、種々の事柄を勘案した末に、自分なりに時を定め、そして「神様、この祈りをいついつまでに叶えてください」と祈る傾向があります。
 
しかし、未来を知る全知の神は、最善の時を定めていて、その時が来た時に全能の力を表わすのです。
ザカリヤの悲願ともいうべき祈り、男児誕生は、神が定めた時に実現することとなったのです。
 
 
3.神は敬虔な者が持つ、敬虔なる願いを実現してくださる
 
 でも、敬虔な者の祈りと雖も、願いは人の願い通りに叶うとは限りません。それは神の御心に適い、また神の御計画の実現のために叶えられるという原則があるからです。
 
ザカリヤの願いは、一部は実現し、そして一部は願い通りにはなりませんでした。
ザカリヤの願いは跡継ぎの男児が生まれることによる祭司の家系の存続にありました。そういう意味では男児誕生の告知は朗報でした。
 
しかし、あなたの妻「エリサベツは男の子を生む」(13節)という告知に続いて語られた御使いの言葉は、その男児が、ザカリヤが期待する祭司の職の後継者ではなく、預言者的働きのために生まれることを明言します。
 
「その子をヨハネと名づけなさい。…彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒と強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、そして、イスラエルの子らを、主なる神に立ち帰らせるであろう。彼はエリヤの霊と力をもって、みまえに先だって行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」(1章13節後半、15〜17節)。
 
 この告知は第一に、生まれる子供が来(きた)るべきメシヤ・キリストの先駆けとして活動する「エリヤ」を彷彿とさせるような預言者となることを意味しました。それはそれで名誉ある知らせです。
 
しかし、そのためには「ナジル人」という特別な働きのために聖別されていること、つまり、独身のままで神の働きを担うことを意味します。ということは、祭司にならないだけでなく、家系そのものも断絶することを意味します。それはザカリヤにとっては受け入れ難い告知でした。
 
 我が子が「ナジル人」として、神の役に立つ者となる、それは名誉なことである、しかし、折角与えられる子供は跡継ぎになるわけではない、
それは果たして「祈りが聞きいれられた」(13節)ことになるのか、それがザカリヤの新しい苦悩となった筈でした。
 
 このことは、人の祈りへの神の応答が、却って人を困惑させることになることもある、という一つの事例です。
しかし、想定外の出来ごとによって神ならぬ人間が困惑することもご承知の神は、同時に人が気持ちや思いを整理し、ついにはより高い次元での決断に行くことができるよう、必要な時と環境を用意してくれる神でもあるのです。
 
ザカリヤはこのあと、長い煩悶の時を過ごし、そして信仰的決断を表明することとなります。そのことに関しましては、次週、ご一緒に教えられたいと思います。
 
一方、女性である妻エリサベツの場合は、夫とは違った反応を示しました。御使いの告知の後、エリサベツは自らの身に起こった変化を知り、受胎を確認した五カ月後、神を崇め讃美をします。
 
「そののち、妻エリサベツはみごもり、五か月のあいだ引きこもっていたが、『主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました』と言った」(1章24,25節)。
 
 エリサベツの讃美と感謝の理由は神が不妊の「わたしを心にかけてくださって」(24節)子供を授けてくださったことなのですが、それだけではありません。彼女は、神は「人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださ」(25節)った、と言っているのです。
 
 エリサベツのいう「わたしの恥」(同)とはどういうことかを知るためには、ユダヤ社会における宗教的通念を理解しておく必要があります。
 
 古代ユダヤにおいては、多産は神の祝福の現われであり、反対に不妊は神の祝福から除外されているということ、極端な場合には何らかの不始末によって神の呪いを受けているからだという理解が一般的でした。
 
 その通念をエリサベツに当て嵌めますと、当然、エリサベツの社会的評価は下がります。エリサベツは単に不妊であるということによって、しかも現代で言えばその半分の原因は夫にも有るにも関わらず、一方的な見方、謂れなき偏見によって苦しんできたのでした。
 
とりわけ、「神のみまえに正し」(6節)く生き、「主の戒めと定めとを、みな落ち度なく行って」(同)きたという自覚を持つ身にとって、世間からの無言のプレッシャーは彼女には堪えたのではないかと思います。
 
 勿論、祭司の妻であり祭司の娘でもあるエリサベツにとっては、後継者問題が重要であるという認識は十分にありました。しかし、それはそれとして、彼女自身が抱えてきた苦悩、それは男性であるザカリヤには理解できない苦しみであった筈です。
 
 しかし、女性を創造された神は女性のことをよくわかっているのです。
女性を機械に例えて、辞職に追い込まれた大臣がいましたが、機械が精密であればあるほど、手入れも必要です。そして機械のことを最も良く知っているのは設計者であり製作者です。
 そのように、女性を造った神は、女性のことが誰よりも良く分かっているのです。神はエリサベツの苦悩をよくご存知であって、エリサベツの呻きを祈りとして聞き入れてくださっていたのでした。
 
エリサベツの場合、その苦悩からの解放の実感が、「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」(25節)という歓喜の讃美となったのでした。
 
 神は神を仰いで敬虔に生きる者が持つ、敬虔なる願いに応答してくださる神、願いを実現してくださる全能の神です。しかしその奇跡のみわざの背後には、敬虔な人が敬虔であるがゆえに持つ、人知れぬ苦しみ、悲しみ、そして流す涙をご存知である神の、豊かな感性があるのです。
エリサベツの告白は、神の細やかな感性への讃美、感謝の表れでした。
 
いま、どうにもならない現実に翻弄されているように思われる方も、祈りと願いを神に申し上げることをやめたりしないで、あきらめることなく、祈り続けてください。
神は今も、神に向かって切に祈る者を「心にかけてくださって」(25節)いるのです。
 

 


 


投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-11-24 16:49:33 (1270 ヒット)
2013年礼拝説教

2013年11月24日 日曜礼拝説教

「ルカによる福音書の譬え話 家出した兄弟たちの譬え 後篇―兄息子もまた、父の心も愛も悟らぬ家出息子であった」
 
ルカによる福音書15章25〜32節(新約聖書口語訳116p)
 
 
はじめに
 
この三週間ほど、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで」一日を始めています。NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」の後番組として十月から始まったのが「ごちそうさん」です。
 
東京篇はまあまあ面白かったのですが、幼いころから食べるということに異常な執念を燃やす洋食屋の娘のヒロインのめ以子が、嫁ぎ先の大阪の旧家で小姑から陰湿なイジメを受けることになる大阪篇では、とにかくヒロインのめ以子が受けるイジメが尋常でなく、しかもその底意地の悪い意地悪をこれでもかこれでもかと続ける小姑役を演じている女優の顔が、演技を通り越して役柄ピッタリの冷血顔で、よくぞまあ、これほど役とピッタリのタイプの女優を見つけたものだと感心してしまいます。
 
物語が進むにつれて、明るいヒロインのがんばりにさしもの意地悪小姑も改心し、ついにはヒロインの軍門に降る、という展開になっていくものと思われますが、そのパターンは日本人にはなじみのあるものです。
 
まだテレビが家々に普及する前の昭和三十年前後の街頭テレビの時代、大柄なシャープ兄弟の悪辣な反則に相棒の木村政彦が生贄となり(実は木村政彦は「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と謳われた程の柔道の強豪であって、あくまでもショーであるプロレスの試合の話し合いの中で、やられる役を担当したようなのですが)、それまで彼らの乱暴狼藉に耐えに耐えてきた力道山が、ついに伝家の宝刀、空手チョップをふるって悪役のアメリカ人レスラーを蹴散らすという場面が来ると、テレビの前の黒山の群衆は熱狂して拍手喝采をしたものでした。 
 
ですから、街頭テレビならぬ地デジテレビの前の視聴者が溜飲を下げる場面は明日からのお楽しみということになると思います。もっとも和枝という名の小姑の陰険な意地悪に辟易して、一度、ドラマから離れた男性視聴者の多くはもうこの番組に戻ってくることはないような気がしますが。
ともかく、もしも物語が予想通りに展開すれば、朝の苦痛ともサヨナラです。
 
それはさておき、この小姑に良く似ているのがイエスの譬え話に出てくる放蕩息子の兄息子です。
今週はその兄息子の話を通して、弟息子だけでなく、兄息子にも注がれた父の驚くべき恵みと愛とに、イエス・キリストの姿を見たいと思います。
 
 
1.兄息子は父の弟への扱いにより、自己愛と被害者意識の塊であったことを露呈した
 
ユダヤ人が愛する旧約文書の一つである箴言には、兄弟というものは悩みの時のためにこそ、この世に生み出されたのだとあります
 
「友はいずれの時にも愛する、兄弟は悩みの時のために生まれる」(箴言17章17節 旧約聖書口語訳901p)。
 
 そうであるならば、畑仕事から帰ってきて、僕のひとりから、家出して消息不明となっていた実の弟が何年ぶりかで帰郷したと聞き、また喜んだ父親が祝宴を開いていると知った兄は、さぞや喜んで一目散に家に駆け込んだことだろうと誰もが思うのですが、豈はからんや、僕の話を聞いた兄は怒り狂い、また不愉快極まりないという雰囲気で、家に入るのを拒否します。
 
「ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえたので、ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事(なにごと)なのか』と尋ねた。僕は答えて言った、僕は答えた、『あなたの御兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。兄はおこって家にはいろうとしなかったので」(ルカによる福音書15章25〜28節前半 新約聖書口語訳116p)。
 
 兄息子が時間になっても帰宅しない、なぜなのかというと、それは怒っているからだと聞いた父親が外に出てきて兄息子をなだめます。
すると兄息子は堰を切ったように、父親に対してうらみつらみを捲し立て始めます。
 
「兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたのいいつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹もくださったことはありません』」(15章29節)。
 
 「父よ、あなたは因業(いんごう)で吝嗇(けち)の塊のような親父であって、それでもそういうひどい父親に自分は黙々と服従してきた、それなのに…」と、いうわけです。
 
彼はこの言葉と態度によって、自分自身が自己愛の塊であって、しかも心は被害者意識で針鼠のようになっているということを露呈してしまいます。
 
ここに原罪の見本が提示されているといってもいいかも知れません。原罪(罪の根)とは、これまでにも説明してきましたように、その本質は自己神化、つまり自分を神とするところにあります。
そしてその属性とでもいうべき原罪の側面が自己愛なのです。
 
人格に障碍を持つことを人格障害と言います。そしてその一つに自己愛性人格障害というものがあるのですが、この人格障害の特徴は、自分が百パーセント被害者で、相手が百パーセント加害者であると考えるところにあるそうです。
 
ひたすらに自らの義を主張し、その正しさを語って父を一方的に責める兄息子には、自己愛性人格障害者が持つ特有の傾向が見えているといえます。
 
自己愛、それは原罪が持つ属性の一つの現われであって、自己愛が生み出すものが被害者意識なのです。兄息子は弟への父の取り扱いにキレて、その結果、自らが自己愛の塊であり、被害者意識の奴隷であることをそこで証明してしまったのでした。
 
悲しいことなのですが、このタイプの人は悔い改めたり回心したりするということは困難です。なぜならば、罪の意識がないからです。罪の意識がないものですから、悔い改めようとも思わないのです。
 
その典型的な例が、十字架上で口をきわめてイエスを罵り続けた犯罪人でした。
 
「十字架にかけられた犯罪人のひとりが、あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言い続けた(23章39節)。
 
 見かねたもう一人の犯罪人が「たしなめ」(40節)ますが、彼は聞く耳を持たず、イエスに罵声を浴びせかけ続けたようでした。
 
この手の人は自分の罪がわかりません。罪の意識がありませんから、キリスト教という宗教を信奉する「キリスト教徒」にはなれたとしても、イエス・キリストを罪からの救い主とする「キリスト信徒」にはなりにくのです。
罪の自覚がありませんから、キリストがあなたの身代わりに死んでくれたのだと言われてもピンと来ないのです。
 自己愛と自己愛が生み出す被害者意識という感情は、原罪という罪の根っこの具体的な現われです。
 
お隣の国の大統領が米国やヨーロッパにおいて外交交渉そっちのけで日本を非難する「告げ口外交」を展開し、そのため世界から呆れられているのですが、ご本人は真剣です。何しろ自分たちは百パーセント罪のない被害者で、日本は百パーセント罪深い加害者であると信じ込んでいるのですから。
 
それはこのお方の大統領就任直後に行われた「三・一独立運動」なるものを記念する式典の中での、「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、千年の歴史が流れても変わることがない」という演説でも明らかです。
 
それでいて、ベトナム戦争に参戦した多数の韓国軍兵士らが、数十万とも言われるベトナム人女性や老人、子供たちに行った残虐行為に関しては、まるで無かったかのように彼の国のメディアが口を噤んでいるのは、まさに自己愛性人格障害の典型的例証かも知れません。
 
この韓国軍兵士による非道な行為については、ネットによって「ライダイハン」で検索すると無数にヒットします。
「ライダイハン」の「ライ」はベトナム語で動物を含む混血雑種を意味する蔑称で、そして「タイハン」は『大韓』のベトナム語読み」(ウィキペディア)だそうですから、韓国軍兵士によるレイプ等によって生まれて現地に置き去りにされた子供たちのことなのです。
 
一度、現地を取材した左翼系の新聞社がこの事実を報道したところ、怒り狂った退役軍人たちがこの新聞社を襲って、破壊行為に及んだこともあってか、この問題を報道するメディアは出てきていないことが問題なのですが。
 
 さて兄息子です。彼は父に向かって「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたにそむいたことはなかった」(29節前半)と、自分の生き方を正しいものとして肯定し、にも関わらずその労苦と犠牲に対してあなたは報酬として「友だちと楽しむために子やぎ一匹」(同後半)もくれようとしなかった、あなたはケチだ、因業だ」と父を責めましたが、父はこれを聞き、また兄息子の本性を知って、深く心を痛めたことと思います。
 
 
2.兄息子の親孝行は、世間の評判を気にしてのものであったことが弟の帰還で明らかとなった
 
 
イエスの譬えでは、兄息子の父へのうらみつらみの言葉はまだ続きます。
それは、「こんなに朝から晩まで働きづめに働いて親孝行をしている自分を冷遇しているにも関わらず、譲渡された莫大な財産を放蕩の揚げ句に使い果たした上、恥ずかしげもなく帰宅した親不幸の弟を厚遇して、何と最重要の賓客にのみ出すような料理をさえ振る舞っている、こんなバカなことがあるでしょうか」と、一気呵成に述べています。
 
「それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました」(15章30節)。
 
これらの言葉は彼の意識下に溜まりに溜まっていた憤懣が、弟の帰還とその弟に対する父の取り扱いによって表面化し、それに火がついて爆発をしたものだと思われます。そこで思い出すのが半島特有の精神疾患とされる「火病」です。
 
兄息子の言い分は、極めて歪んでいて一方的ですが、事実関係だけを取り上げればその通りであると言えないこともありません。しかし、兄息子の感情に任せた本音とも言うべきその非難によって、彼自身が隠してきた致命的な問題点が白日の下に晒されることとなったのでした。
 
それは何かと言いますと、彼の親孝行な青年、模範的な孝行息子というイメージが、実は世間体という世間の評判を気にしてのものであって、父への敬意や愛情によるものではなかったという実態が、でした。
 
 「遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子」(30節)という言い方には、自らの欲望のままに動いた行動的な弟への嫉妬の感情、自分だって本当はそうしたかったのだという羨望の気持ちが隠されていると見ることもできます。
 
では彼はなぜ、弟のようにしなかったのか、彼を家にとどめたものは何かと言いますと、「家を出ていった次男に比べ、長男は何と親孝行なのだろう」と言った世間の孝行息子という評判、そして近隣の人々への良好なイメージを保とうとしたからに他なりません。
 
彼は弟と同様、父を鬱陶しく思い、家にいることが不自由であると感じていた、できるならば弟のように家を出て自由を満喫したかった、しかし、そうなれば、長年かかって築いてきた孝行息子というイメージが台無しになる、だから内なる感情や欲望を押し殺し、家にとどまって「何か年も」(29節)父親に「仕えて」(同)、「一度」(同)もその「言いつけにそむ」(同)くことのない模範青年を演じて来たのだということを、当の父親に向かって告白をしてしまったのでした。
 
言うなれば、弟息子は実際に家出を決行し、兄息子の場合は、体は家にあっても心と気持ちでは家出をしていたと言えるのでした。この譬え話を「家出をした兄弟たちの譬え」とした理由はここにあります。
 
 
3.兄息子はそれにも関わらず、自らが弟同様、父の愛の対象であることを知るべきであった
 
 
兄息子の隠された本音を聞いた父親はどのように反応をしたのでしょうか。
 
聖書を身近なものとして読む場合の秘訣は、二つあります。一つは自分自身が登場人物の立場になって、その気持ちを想像することです。 
つまり、この時、父親は兄息子の告白をどのような気持ちで聞いたのだろうか、と考えてみることで、もう一つは、もしも自分自身であったならばどう思っただろうか、ということを想像してみることです。
 
前者は自分自身が、時代という制約を飛び越えて聖書の世界に入って行くことであり、後者は聖書の世界の出来事を、やはり時代の限界を破って現在の自分に適用するということで、そういう意味においてきわめて有効な読み方です。
 
この方法はたとい聖書の原語を読むことができなくても、あるいは専門的知識の持ち合わせがなくても可能であって、健全な常識感覚と少しの想像力さえあれば、誰にでもそしてすぐにでも可能です。ぜひ、験してみてください。
 
兄息子が秘密に保護してきた特定ともいうべき本音を聞いた父親はどのように反応したでしょうか。腹を立て、「お前は勘当だ」と言って兄息子を家から追い出したでしょうか。
 
そうではありませんでした。父親は穏やかに兄息子が密かに抱いてきた誤解を解き始めます。
 
弟をえこ贔屓していて、兄の自分に対しては不平等な取り扱いをしているという彼の思い込みに対しては、「お前は家族としていつも私一緒に暮らしていたし、第一、この家も財産も、既にお前の名義になっているだろう、『友だちと楽し』(29節)みたいと思ったならば、自分の裁量で自由にしたらよかったのに」というものでした。
 
「すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ』」(15章31節)。
 
 そして父は言葉を重ねて、「死んでしまった者が生き返ったならば喜び祝うであろう、行方不明になっていた者が発見されたならば、手を取り合って喜ぶであろう、死んだと思っていたあなたの弟、何年も行方知れずになっていた私の息子が生きて帰ってきたのだ、喜び祝うのは当然のではないか」と、兄息子を諄々と諭したのでした。
 
「しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」(15章32節)。
 
 ここまで来ますと、イエスの譬えの真意が理解できます。この「兄息子」は誰のことかといいますと、「イエスの話を聞こうとして」(1節)「近寄ってきた」(同)「取税人や罪人たち」(同)をイエスが「迎えて一緒に食事」(2節)するのを非難した正統的ユダヤ教徒の「パリサイ人や律法学者たち」(2節)のことです。
 
 弟息子にも等しい「取税人や罪人たち」(1節)を蔑みつつ、彼らと食事を共にしたイエスを非難するのは、弟息子の帰郷を喜んで祝宴を催す父親を難詰している兄息子そのものであることを自ら、証明したことになる、というわけです。
 
 では、イエスはそのような自らの義を誇る「パリサイ人や律法学者たち」(2節)を非難しようとしているのかと言いますと、決してそうではないのです。
 
 イエスにとっては、罪を悔いてみ許に来る「罪人たち」(2節)同様、「パリサイ人や律法学者たち」(同)もまた、救済と愛の対象でした。
 
 
 彼らは自分たちこそが忠実なる神の民であるとの自負を持っておりました。それはまさに満々たる自信となって彼らを支えておりました。
 しかし、「親の心、子知らず」で、肝腎の神の御心を察する想像力と聖書に関する知識が彼らには欠けておりました。そしてその結果が、イエスという救い主を十字架に架けるという神に背く暴挙となったのでした。
 
兄息子は父の深い思い、大いなる愛を悟って、父が弟のために催した喜びの祝宴に同席し、そして弟の帰宅を喜ぶべきでした。
 
後年、パリサイ人であり、律法学者でもあったひとりのユダヤ人が回心をして、イエスの心を語り伝える人となりました。
ヘブル名をサウロ、ローマ名をパウロといったこの人は、現在のトルコ中部にあったガラテヤの教会に、キリストを信じる者は違いを乗り越えて一つなのだ、と宣言しました。この言葉を噛みしめて、キリストの譬え話の完了としたいと思います。
 
「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたはキリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ人への手紙3章27、28節 新共同訳)。


(1) 2 3 4 ... 11 »
 
     
pagetop