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投稿者 : famillia 投稿日時: 2016-01-03 16:10:14 (607 ヒット)
2016年礼拝説教

16年1月3日 二〇一六年新年礼拝・第一回日曜礼拝説教

信仰が無くては、神に喜ばれることは出来ない
 
ヘブル人への手紙11章6節(新約聖書口語訳354p)
 
 
はじめに
 
明けましておめでとうございます。新しい年を迎えました。今年もよろしくお願い致します。
 
今日は一月三日、本年最初の日曜日です。私どもの教会では毎年、一月一日に新年礼拝を行っておりますが、三が日に日曜日が入る年は、その日曜日の礼拝で新年礼拝を兼ねることにしております。そういうわけで本年は一月三日の今日、新年礼拝と第一回日曜礼拝を兼ねた礼拝を捧げる次第です。
 
さて、「BELIEVE(ビリーブ)」という歌があります。「たとえば君が傷ついて、挫けそうになった時は、必ず僕が側にいて、支えてあげるよ、その肩を」という歌詞で始まる歌です。お聞きになったことがあるかと思いますし、小学校や中学校で歌ったことがあるという方もおられることでしょう。
これは、NHKの「生きもの地球紀行」という番組のエンディングテーマ曲だそうで、若い人や子供たちには馴染みの曲のようです。
 
この曲の「僕」がどこの誰なのかはわかりませんが、「傷ついて、挫けそうになった時は、必ず」「側にいて、支えてあげる」と言ってくれる、そんなアンパンマンのような「僕」が存在していたら、どんなに心強いことでしょうか。問題はそんな「僕」がいるかどうか、また、仮にいるとしてもどうやって見つけることができるか、です。
 
この楽曲が杉本竜一という人によって作られたのが今から二十年前の一九九六年だそうですが、その丁度十年後の二〇〇六年に、絢香(あやか)という才能豊かなシンガーソングライターが「I believe」という作品でデヴューし、「この胸の中に隠れてる不安の渦、目の前にある自分の進むべき道はどれか、人に流された日々、そんな自分に『さよなら』」 I believ myself 信じることで全てが始まる気がするの」と歌いました。大変、心を打つ歌ではあります。
 
ただ、この人の歌い方が私には少々、くどいように感じます。個人的にはもう少し淡々と歌ってもらえないものかと思ったりもしますが、まあ、それはそれとして、この歌の中で彼女が何を、あるいは誰を信じるかと言いますと、「myself」つまり自分自身なのです。
自分自身を「信じることで全てが始まる気がする」のだそうです。
 
確かに自分を信頼できないという事態は、「胸の中」に「不安の渦」が「隠れてる」状態であり、だからこそ「人に流されてた日々」という日常であったのかも知れません。
 
でも「そんな自分に『さよなら』」と言って訣別することと、「そんな自分」を「信じること」との間にはギャップがあり過ぎるように思えます。
どうやって「I believe myself」という境地に、急に飛躍することができるのでしょうか。
 
ところで、「信じる」という行為を突き詰めれば、「信仰」に至ります。問題は信じるに値いするような信仰が存在するのか、存在するとするならば、それはどのような信仰で、どこで見出すことができるのか、という点です。
 
そこで新年年頭の礼拝では信じるということ、信仰という事がらについて、ご一緒に考えたいと思います。
 
 
1.神の喜びそれは、人が真の神への信仰を生きること
 
感情を表現する言葉に「喜怒哀楽」というものがあります。「怒」と「哀」の感情がとりわけ激しいお隣りさんがいたりしますと、何かにつけて言いがかりをつけられたりするものですから、隣人としてはどうにもこうにも苦労というものが絶えませんが、それが納得のできる感情の表現であるならば、自らの生き方を糺すきっかけにもなりますので、有り難い存在ともなります。
 
神さまにも色々ありまして、古代のギリシャ人は、神さまという存在から、感情という要素を抜き取ってしまいました。
しかし、キリストの神さまは情感豊かなお方であって、とりわけ、喜びの感情というものを豊かに持った神さまです。
 
そのキリストの神がお喜びになることそれが、人が信仰に恵まれていること、そして真の神への健やかな信仰を持ってこの世を生きることなのです。
ヘブル人への手紙の一節をお読みします。
 
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(ヘブル人への手紙11章6節前半 新約聖書口語訳354p)。
 
 世の中には宗教や神信心、信仰というものを頭から否定する人がいます。そういう生き方をする人を「無神論者」と言います。
 
 無神論者にも二種類のタイプがあるそうです。一つは単純な無神論者で、「井の中の蛙(かわず)、大海(たいかい)を知らず」と言いますように、世間知らずの無知からこれといった正しい根拠も無く一方的に、神の存在を否定している人たちです。
 
 もう一つはちょっと厄介な、あるいは少々質の悪い無神論者であって、自身でも承知しているのですが、自分自身が最高の存在でありたいために、人間を超越した神がこの世に確かに存在していることを、敢えて否定し無視をするという人々です。いわゆる積極的無神論者です。 こういう人にはかつては熱心な一神教の信者であった人が多いそうです。
 
 ついでに言いますと、「不可知論者」という人もいます。神がいるのかいないのかは断定できない、つまり「不可知(知ることが出来ない)」だというわけです。
 でも、神をとことん探求した末に不可知論者になった良心的な人はごく僅かで、多くの場合は、神の存在に関して結論を出す作業は面倒くさいし、出さないでおく方が楽だからというので不可知論者を自称しますので、大きく分ければこの手のタイプは積極的無神論者の枠に入れても差し支えないでしょう。
 
 では、何であっても拝んでいればよいのか、お参りしていればよいのか、と言いますと、そうではありません。
 もちろん、信仰を否定して驕り高ぶる人生を生きるよりも、何らかの信仰を持って、謙って生きることの方が遥かに上等ですが、ヘブルへの手紙が、「信仰がなくては」(6節)という時の「信仰」は、真の神を信じる「信仰」つまり、真正の「信仰」を意味します。例えば自然崇拝です。
 
 太陽の恵みに感謝することは人として大切なことです。しかし、太陽自体を拝むのではなく、太陽を創造してくれた創造者なる神を拝むことこそ、正しい礼拝、真正な信仰なのです。
 
 今年も元日の夜明け、日本の各地で多くの純朴な日本人が、東の方角から昇る太陽に向かって祈りと礼拝(らいはい)を捧げたことと思いますが、太陽ではなく、生ける者を慈しんで恵みの太陽を備えてくれた、キリストの父なる神を創造主として仰ぐ日本人が起こされるようにと、今年も心から祈りたいと思います。
 神の喜びは、神を知らなかった人が真の神を知って真の信仰を生きることにあるからです。
 
 
2.神が喜ぶ信仰それは、神の存在を身近に感じること
 
では、神が喜ぶ信仰の中身とは何かと言いますと、力と憐れみに満ちた真の神が存在するということと、その神は神を崇める者を見捨てることなく、常に顧みてくれているという認識を持つことであると、ヘブル書の著者は言います。
 
「なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」(11章6節後半)。
 
 まず、「神に来る者は、神のいますこと…を信じるはず」(6節)という記述についてです。
 この「神のいますこと」(同)とは、神の存在、神の実在という宗教的、神学的、哲学的概念を超えて、自らにとり、自らが信じ仰ぐ神をこの世において個人的に持っている、という意味です。
 
 「神のいますこと」を個人的に信じていれば、事あるごとに神に呼ばわり、神の助けを仰ぐということが日常の習慣となるからです。
 たとえば、「そう言えば家(うち)には、同居している親がいたんだったなあ、そうだ、そうだ、思い出したよ」などと思う息子や娘がいたらおかしいように、恩義のある神が常に自分の身近にいてくれている、という認識と感覚を持っていることが、「神のいますこと…を信じる」(同)人生の基本、根本です。
 
 
3.神が喜ぶ信仰それは、神の良き性格を体験すること
 
 そしてそのような正しい神認識、神信仰があれば、次には日常の生活を送る中で、神が「ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じる」(6節)ことになるのです。 
 
 ところで、「ヘブル人への手紙」はどのような人に宛てて書かれたのかと言いますと、書名にありますように「ヘブル人」に書かれたものでした。
 この場合の「ヘブル人」とは民族的な意味でのアブラハムの子孫であるイスラエル民族を指し、宗教的に言えばかつてユダヤ教徒であった者たちを意味します。
 
 つまり、ヘブル書は十字架にかけられたイエスこそが聖書に約束されたメシヤ・キリストであるという信仰のもとに、ユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人を対象にして書かれた文書なのです。
 
 福音宣教の結果、また地道な聖書の解き明しを聞いた結果、地中海世界では多くのユダヤ教徒が背教者と罵られながら、キリストの教会へと加わってきました。
 
 しかし、一世紀の末になって、彼らに動揺が広がりました。一向にキリストは再臨しない、と。そこで彼らの信仰を鼓舞するために書かれたのがヘブル人への手紙でした。
 
「また、約束して下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行に励むように互いに努め、ある人たちがしているように、集会をやめることをしないで互いに励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」(10章23〜25節)。
 
 「集会をやめることをしないで互いに励まし」(25節)とは、集会欠席への戒めではなく、「集会」すなわち、イエスをキリストと告白するキリスト教会からの脱退を意味します。
 つまりキリストの「集会をやめる」ということは、出て来たユダヤ教会への復帰を意味したものでした。
 
 だから著者は言うのです、「わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け」(23節)よう、なぜならば、「約束して下さったのは忠実なかた」(23節)なのだから、と。
 
 ここに出て来る「忠実」と訳された原語は「真実」とも訳せる言葉で、「信仰」とも関連します。神は、あるいはキリストは「真実」そのものの性格の持ち主であって、約束を必ず履行されるお方である、という意味です。
 
 つまり、神が喜ぶ信仰とは、真実な「神がいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じる」(6節)ことなのだと言い切ることによって、著者は動揺する信者さんたちを励ましたのでした。   
 
 
 
 
 つらい試練が続く時、確かに信仰が動揺することもあります。祈れなくなることもあります。当然です。昔の人たちもそうでした。
 だからこそ、ユダヤ教出身のユダヤ人信者に宛ててこの手紙が書かれたのでした。
 
 私たちもまた、二〇一六年、平成二十八年の年頭にあたり、改めて「神に喜ばれる」「信仰」(6節)を持たせて下さいと、切に祈って一年の歩みを始めたいと思います。
 では、皆さまの上に、神の祝福が豊かにありますよう、主イエスの御名によってお祈り致します。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-12-27 16:11:33 (584 ヒット)
2015年礼拝説教

15年12月27日 二〇一五年最終日曜礼拝説教

主は今に至るまで、我らを助けられた ― 日ごと夜ごとに「助けの石」を据える幸いを
 
サムエル記上7章5〜13節(旧約聖書口語訳391p)

 

はじめに
 
年末を迎えますと日本漢字能力検定協会が発表し、清水寺の貫主(かんす)が揮毫することで知られているのが「今年の漢字」ですが、今年二〇一五年の漢字は「安」だそうです。
 
国論を二分した(?)安全保障法制の「安」とか、偽装建築や食品の「安」全への疑問、テロや異常気象に対する不「安」などから「安」という字の応募が多かったのかも知れませんが、安全、安心、安定を求めつつも、今とこれからに対する不安の気持ちと戦ってきた一年であった人も少なくなかったことと思います。
実際、「一難去ってまた一難」はまだ有り難い方で、一難が居座っている間に次の一難がやってくる、という経験をした方もおられることでしょう。 
 
そんな二〇一五年、平成二十七年も最終の日曜礼拝を捧げる日を無事に迎えることができました。
主なる神がみなさまの一年間のご労苦を労い、人知れぬ傷みに対しては天からの癒しを、心を込めた働きに対しては豊かな報いを備えて下さいますように。
 
今年の最終礼拝では、「主は今に至るまで、我らを助けられた」というタイトルで、助け主なる神を崇めたいと思います。 
 
1.主なる神はご自分に拠り縋る者を、今もなお、お助け下さる
 
不安と言えば、カナン(パレスチナ)に入植して二百数十年後の、紀元前十一世紀後半のイスラエル民族は、近代文明と先進軍備によって強力武装した海洋民族ペリシテ人に悩まされ、戦々恐々の日々を送っておりました。
 
戦いは連敗に次ぐ連敗で、ついには契約の箱までも奪われてしまうという有様でした。尤もペリシテ人が戦利品として奪った契約の箱が、ペリシテ人への禍の種となったため、恐怖にかられたペリシテ人は、契約の箱の返還を申し出、こうして箱はイスラエルに返されることになるのですが。
 
そして、ここで立ち上がったのが預言者サムエルでした。意気阻喪しているイスラエルの民に向かってサムエルが要求したことは、衷心からの悔い改めと真実の礼拝の回復でした。 
 
「その時サムエルがイスラエルの全家に告げていった、「もし、あなたがたが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなたがたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されるであろう」(サムエル記上7章3節 旧約聖書口語訳390p)。
 
 預言者のこの勧告を聞いたイスラエルの民らは、悔い改めてカナンの神々への礼拝を放棄し、イスラエルの神への礼拝を回復します。 
 
「そこでイスラエルの人々はバアルとアシタロテを捨て去り、ただ主にのみ仕えた』」(7章4節)。
 
 民らの態度を見たサムエルが、神に犠牲を捧げてイスラエルのために執り成しの祈りをしている丁度そこに、ペリシテの軍勢が押し寄せてきました。
 
「サムエルが燔祭(はんさい)をささげていた時、ペリシテびとはイスラエルと戦おうとして近づいてきた」(7章10節前半)。
 
 絶体絶命のピンチです。しかし、そこに主なる神が介入してくれたのです。空に雷鳴が響きわたり、これにペリシテが誇る軍馬や戦車隊の馬が反応して大混乱となり、弱小のイスラエル軍の前に敗走するという事態となったのでした。
 
「しかし主はその日、大いなる雷をペリシテびとの上にとどかせて、彼らを乱されたので、彼らはイスラエルびとの前に敗れて逃げた。イスラエルの人々はミヅパを出てペリシテびとを追い、これを撃って、ペテカルの下まで行った」(7章10節後半、11節)。
 
 劇的な勝利でした。サムエルは神によるこの奇跡的な助けを記念して一つの石を据え、それを「エベネゼル」と名づけました。
 
「その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた」(7章12節)。
 
 「エベネゼル」は「エベン・エゼル」で、「エベン」は石、「エゼル」は助けを意味しますので、「助けの石」となります。
 
 教会の初期のこと、ある青年が結婚式を挙げましたが、挙式後の日曜礼拝で挨拶に立った時の言葉が印象的でした。
 彼は言いました、「私は今まで何でも自分の力でやってきたつもりでいました。大学進学も就職も人の世話にならず、自分で決めてきました。結婚相手も自分で選んだつもりでした。でも今回結婚式を挙げて、まわりの人たちから実に多くの協力と助けを受けているということが、ほんとうに良くわかりました」と。
 
 これは彼がまさに大人の世界へと踏み出したことを物語る言葉であったと思ったものでした。「助けられた、助けられていたのだ」という事実を認識もし実感をすることが、実は人が大人となった徴です。 
 
 神の助けはイスラエルの民のように、神からの直接的な助けとして経験する場合もあれば、人を通して間接的に受ける場合もあります。目に見える人の助けの背後に、見えない神の御手があったことを思って、人と神に感謝をする感性を持つ者は幸いです。

 

2.主なる神はご自分に拠り縋る者を今に至るまで、助けて下さっている
 
「エベネゼル」建立の際の預言者サムエルの告白をよく読んでみますと、それがこの時のペリシテへの勝利だけでなく、それまでの歴史においても主が助けて下さっていた、という認識があることがわかります。もう一度、読んでみましょう。
 
「その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた」(7章12節)。
 
 神の助けは今だけではなく、これまでのイスラエルの歩みにも数多くあったということを、サムエルはそこで改めて思い起こしたのです。それが「今に至るまで」(12節)という告白となったのだと思われます。
 
 映画「カサブランカ」の中でハンフリー・ボガードが、「夕べはどこにいたの?」という質問に対して、「そんな昔のことは覚えていない」と答える有名なシーンがありますが、神から受けた助けは、たとい「昔のこと」であったとしても、しっかりと覚えている者は幸いです。
 なぜならば、神は人が捧げたかつての忠誠を忘れてはいないからです。
 
「神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない」(ヘブル人への手紙6章10節 新約348p)。
 
 よくよく考えてみれば、「もうダメだ、ダメかも知れない」と望みを失いかけた時、そこに不思議な助けがあって、危機を潜り抜けることができたという体験は、誰もが持っていることと思います。
 その助けはあるいは人からのものであったかも知れません。しかし、その人の助けの背後に神がいて、その神がその時々にご自分の使者として、人を助け手として遣わしてくれたのかも知れないからです。 
 
 主なる神はご自分に拠り縋る者をお見捨てになることはありません。「主は今に至るまで…助けられた」(12節)と告白して、人生の岐路に、目に見えない「助けの石」を立てて来た者は幸いです。
 
 
3.主なる神はご自分に拠り縋る者をこれまで同様、今から後も助け給うに違いない
 
 今の今、神の助けを経験し、過ぎし日に受けた助けを思い起こす時、そこに生まれるものは、「今に至るまでわれわれを助けられた」(12節)主なる神は、今から後も助け給うに違いない、という確信です。 
 
 実はサムエル記上のこのあとの記述(7章13、14節)は、歴史的事実に関しては必ずしも正確ではありません。尤も、読み方によっては信仰的先取りといえるかもしれない記述ですが、歴史的にはこの後もペリシテによるイスラエルへの軍事的脅威は去らず、あたかも現今のアジアにおける共産中国や、中東における「IS(イスラム国)」のように、厳然として存在し続けました。
 
 イスラエルの最初の王サウルの生涯もペリシテとの戦闘に明け暮れましたし、それは統一イスラエルの最初の王となったダビデの時代まで継続しました。
 しかし、神が苦難の中でも彼ら神の民を見放すことはありませんでした。真心を込めて神を呼び求めれば、神は答えて下さるのだという経験は、その後のサムエルの預言者としての歩みと活動とを支え、同時に神の民の信仰を支えるものとなったことは確かでした。
 
 人生の路を往く時、進むに進めず、退くに退けず、まさに途方に暮れて行き詰まった時などには、過ぎ去った日々に神の助けを記念して建てた「エベネゼル(助けの石)」が多ければ多い程、それが信仰を鼓舞し、祈りへと向かわせてくれる助けとなります。
 
 神への感謝の石、証しの石である「エベン」を日々の歩みの中に建てながら、新しい年へと入って行きたいと思います。
 私どもの教会にとりましてもそう遠くない時期に、バス通りの拡張計画に伴なう教会堂の移転事業という難題に取り組まなければなりませんが、「主は今に至るまで、われわれを助けられた」(12節)、「だから、これからも」という信仰を持って、一丸となって取り組んでまいりたいと思います。
 
 もう一度、サムエルの告白を読んで信仰の祈りを捧げます。
 
「主は今に至るまでわれわれを助けられた」(7章12節)。
 
 確かに主なる神は危機の中にあっても、今に至るまで私たちを助けて下さっていたのでした。その神はこれからも、神の民である「われわれを助け」(12節)てくださるに違いありません。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-12-24 22:50:39 (735 ヒット)
2015年礼拝説教

2015年12月24日(木)    クリスマスイブ礼拝説教

ひとりの嬰児(みどりご)が我々のために生まれた
 
イザヤ書9章6節(旧約聖書口語訳954p)
 

はじめに

クリスマスを「Xmas」と表記したりしたものを見かけますが、何で「X(エックス)マス」なのでしょうか。
「mas(マス)」は「ミサ」を英語にしたもので、礼拝とか祭りとかを意味しますが、でも「Xマス」「Xのお祭り」とは何なんでしょうか。
 
クリスマスがキリストの降誕を祝うキリスト教の行事であるということは、流石に今では誰でも知ってはいます。でも、それが何を意味するのかといいますと、それ以上はよくわからない、まあ、いいじゃないか、ということになるわけです。
 
ところでアニメにはよく「ミスターX」と呼ばれる人物が出てきます。「タイガーマスク」「ルパン三世」そして「プロゴルファー猿」などですが、彼らはすべて、悪役として登場します。
正体不明、謎の人物ですので「ミスターX」なのです。
 
実はクリスマスが「Xマス」と表記されるのは、キリストを表すギリシャ語が「ΧΡΙΣΤΟΣ(クリストス)」で、その最初が「Χ(キーあるいはカイと発音します)」で始まるからです。
つまり謎のミスターXの「X」ではなく、「クリストス(キリスト)」として神から遣わされた救世主の御降誕をお祝いもし感謝もする、キリスト教のイベントを意味するもの、それが「Xマス」なのです。
 
そこで二〇一五年のクリスマスイブ礼拝では、クリスマスに誕生したひとりの嬰児(みどりご)は、二十一世紀の今、日本という国に生きる私たち日本人とどのような関わりがあるのか、ということにつきまして、聖書からご紹介したいと思います。
 
 
1.   私たちあてどなく彷徨う人類のために、ひとりの嬰児がユダヤの地に生まれていた
 
聖書は実は六十六巻もありまして、キリストの誕生以前に編纂された文献が、後にキリスト教会によって旧約聖書と呼ばれ、そしてキリストが処刑された後に書かれた文書群が、新約聖書と呼ばれるようになりました。
 
中でも旧約聖書のイザヤ書という預言書は、紀元前八世紀から六世紀にかけて活動した、数人の預言者のことばを記録した文書なのですが、その最初の頃つまり、紀元前八世紀前半に、選民イスラエルに対して与えられたものが、神の民の救世主となるために、一人の嬰児が誕生するという預言だったのでした。
その誕生は未来に起こることなのですが、完了形が使用されていますので、「生まれた」「与えられた」と訳されます。
 
「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた」(イザヤ書9章6節前半 旧約聖書口語訳954p)。
 
 「みどりご」(6節)といいますのはこれに「嬰児」という漢字を当てますが、乳児のことです。この預言から七百数十年後、ユダヤのベツレヘムで、「ひとりのみどりごが」誕生したのでした。
 
「ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子(ういご)を産み、布にくるんで、飼い葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである」(ルカによる福音書2章7節 新約聖書口語訳85p)。
 
 この「飼い葉おけ」(7節)をベビーベッドとして寝かされた「初子」(同)こそ、後の救世主イエス・キリストでした。
 この「嬰児(みどりご)」はイザヤの預言によれば「われわれのために生まれた」(イザヤ9:6)のでした。
 
 「われわれ」とは選民イスラエルだけでなく、生きとし生ける者すべてを意味します。つまり、キリストは全人類「のため」に生まれたのでした。そしてそこにはキリスト教とは縁遠いと思われている私たち日本人も含まれます。 
 
  
 
 そういう意味から言えば、クリスマスは意味の不明な「Xmas(エックスマス)」ではなく、また単なる白人のお祭りなどでもなく、日本人である「わたしたちのため」のものでもあるわけです。
 なぜならば「ひとりのみどりご」は日本人である「われわれのために生まれた」のであり、「ひとりの男の子」は神が、日本に住んでいる「われわれに与え」てくれた救い主であったからです。
 
 二十一世紀、薔薇色の未来が期待され、展望されて始まった世紀ですが、過去と同様、人類は依然として当てどなく彷徨っているといえます。その当てどなく彷徨う私たちに与えられたしるしが、嬰児の誕生でした。
 
よくよく考えて見れば私たちの中には、自分は何のために生まれ、どこに向かって生きているのかという、人生の意味と目的も不明なままに日を送っている者、あてどなくどことなく彷徨っている者も多くいるのではないかと思います。
 クリスマスはそんな人も含めた日本人を対象とした、天の神によるイベントでもあるのです。

 

2.私たちのために生まれた嬰児は、私たちを導く完璧な助言者、私たちが崇める力ある神
 
 では、「わたしたちのために生まれた」という「嬰児」は如何なる存在なのでしょうか。
 続きを読んでみたいのですが、口語訳は少々分かり辛いので、新共同訳でお読みしたいと思います。
 
「権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」(新共同訳 9章5節後半、口語訳 6節後半)。
 
「わたしたちのために生まれた」(6節)イエス・キリストは第一に、「驚くべき指導者…と唱えられる」(同)救世主でした。
この場合の「指導者」とは、知恵をもって助言したり忠告をしたりする人のことであって、英語の聖書では「カウンセラー」と訳されています。
 
世間には五〜六十分、黙って話を聞くだけでで高い料金を取るカウンセラーもいますし、クライアントを食い物にするような弁護士がいるかも知れませんが、キリストは「驚くべき」カウンセラー、つまり他に比べようのない「非凡な」相談相手、完璧な助言者、弁護者なのです。
 
しかも単なる助言者ではありません。何とこの「みどりご」(同)は人間を超えた「力ある神」(同)でもあったのです。
イエス・キリストはマリヤという女性から、正真正銘の人の子として生まれました。しかし、イエス・キリストは普通の人間ではありませんでした。
 
キリストはもともと神の子として存在していたものが、人間となって誕生したお方です。これを専門用語で言いますと、「キリスト両性論」と申します。
つまり、キリストは神の子という「神性」と人の子という「人性」の両方を持った稀有な存在であるということです。
 
数々の厳しい修行を積んで神に昇格した、というのではありません。初めっから神なのです。
人であると同時に神の子でもあるという不思議な存在、それがイエス・キリストです。
「神がいるなら神を見せろ」などという人がいますが、それではお見せ致しましょう。神はキリストの人格と行動においてご自分を啓示されました。
ですから、歴史に現われたイエス・キリストを見た者は、神を見たともいえるのです。
 
「イエスは彼に言われた、ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネによる福音書14章19節前半)。
 
 私たちがキリストを礼拝し、キリストに向かって祈るのは、キリストが礼拝と讃美、そして祈りの対象の神だからです。飼い葉桶に寝かされていた嬰児こそ、私たちが崇めるべき「力ある神」(同)なのです。

 

3.私たちのために生まれた嬰児は、私たちが頼る永遠の父、私たちを安らがせる平和の君 
 
また、「わたしたちのために」(6節)人の姿をまとってこの世に「生まれた」(同)「みどりご」(同)は、私たち人類がそして日本人の誰もが信じて頼るべき「永遠の父」(同)でもあります。
 
「父」といいましても、父なる神のことではありません。キリスト教神学において異端として排除された教説に、「様態的三位一体論」というものがありました。今でも神学よりも体験を重視するペンテコステ教会の一部に根強く残っている異端説がこの説です。
 
この説によりますと、「父なる神がイエス・キリストとしてこの世に生まれ、死んで復活し、昇天をしてからは、今度は御霊として地上に降臨したのだ」というのです。
一人の神が様態(モード)、つまり姿やかたち、服装を変えて現われた、というわけです。つまり一人三役、三変化です。
 
しかし、「永遠の父」(同)という表現の「父」は優しさと強さを併せ持つ父性を象徴するもので、「永遠の」という形容動詞は変わらない性質を表します。
 
「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」(ヘブル人への手紙13章8節)。
 
 変わらないから信頼でき、信用して裏切られることがないのです。
 
この「みどりご」は「平和の君…と唱えられる」(6節)お方でした。
今年は戦後七十年という節目の年でした。戦後七十年、確かに日本は大規模な戦争には巻き込まれませんでしたが、果たして平和であったのでしょうか。
 
平和憲法があったから平和が守られた、とする主張がありますが、数十名、数百名にものぼるとされる、北朝鮮による不法な拉致という事実を無視して、平和が保たれたといえるのでしょうか。
拉致というのは誘拐という犯罪なのです。
 
我が国固有の領土である竹島が韓国によって不当に奪われたのは、「平和憲法」なるものが施行された五年後のことでした。
その「平和憲法」によって武力の保持を放棄していた我が国は、領土が奪われても、そして日本の漁船が次々と拿捕され、日本人漁民が殺されても抑留されても、それをただただ指を咥えて見ているだけだったのです。
 
勿論、争いは極力避けねばなりません。平和の反対は争いということですが、争いの原因は大部分が敵意です。
我が国は歪んだ歴史認識を持った三つの国から常に攻撃されているのですが、だからといって、敵意には敵意で対抗、となったら相手方の思う壺です。
 
実は人あるいは国家に対する敵意という感情や意志の背後には、神への敵意があるのです。
恵みに溢れる神に対して敵意を持つなどということは、理に合わないことです。
しかし、世の中には加害者が被害者に対して敵意を持つ、ということがあります。
 
今から十五年程前、ハワイのオアフ島沖で、愛媛県立宇和島水産高校の練習船「えひめ丸」が、浮上してきた米海軍の原子力潜水艦に衝突されて九名が死亡するという何とも痛ましい海難事故がありました。
 
この事故では米国側が非を認めずようとせず、艦長もなかなか謝罪しようとしなかったことから、なぜ米国人は謝らないのか、という文化比較が話題になったのですが、その折、テレビ番組に出演していた在米経験の長い日本人女性の経験談に興味を惹かれました。
 
彼女が言うには、「米国人は自分が悪いと分かっていても謝らない、それは謝ると、自分が不利になるからだ。自分がある時、小学校の参観日に幼い子供を連れて参加したところ、近くにいたひとりの子供が投げたおもちゃが自分の幼い子供の額に当たって血が流れた。ところがその子供の母親は謝ろうとはしないし、投げた子供も謝らなかった、それどころか、その子供が言うには、『僕が投げたところにいた君が悪い』と言った」というのです。
聞いていて仰天しました。
 
自分はそんなに悪くもないのに、自分の方から謝ってしまうのは日本人くらいなものです。
世界は敵意で満ちています。その敵意の始まりは、罪を犯したアダムとエバからでした。つまり、「神が善悪を知る木などを植えたから自分たちは実を食べる破目になってしまったのだ、悪いのは手が届くような所に木を植えた神だ」というわけです。
 
見事な論理のすり替え、責任の転嫁です。「平和」というのは、この的外れの敵意の始末からしか始まりません。
そしてキリストが「『平和の君』と唱えられる」(6節)救世主であるのは、自らが十字架に架かることによって、人間が神と人に対して持っている的外れな敵意というものを処分してくれたからでした。
 
「実にキリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、…十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エペソ人への手紙2章14〜16節 新共同訳)。
 
 このクリスマスの日、「『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」(6節)救世主が、「わたしたちのために生まれ」(同)てくれたのでした。
 
 捧げるべきは感謝の言葉、神への讃歌です。そこで今晩は神への感謝を込めてご一緒に、国分友里恵作詞、岩本正樹作曲による「イエス・キリスト 大いなる愛」を歌いたいと思います。
 
     イエス・キリスト 大いなる愛
 
  あなたはこの日 降りてこられた
  天の栄光をすべて捨てて 私たちのために 
  星降る夜に 布でくるまれ 小屋の片隅で眠っていた
  天使たちが知らせたように すべての人に今日送られた
  私たちの救い主 イエス・キリスト 大いなる愛
  思いを尽くして 感謝捧げよう 
  神の恵み 神の恵み イェス・キリスト
 
  我が神イェス 我が友イェス
  羊飼いの見た祝福 この日この世に 生まれ落ちた光
  聖なる夜に この地の上に
  救いと命のために イエス・キリスト 大いなる愛        
  ベツレヘムに この日生まれた
  神の恵み 神の恵み イェス・キリスト
 


投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-12-20 16:05:33 (605 ヒット)
2015年礼拝説教

15年12月20日(日) クリスマスファミリー礼拝説教

 
キリストとの運命的な出会い
 
長患いの男はベテスダの池の辺(ほとり)で、確かな希望に向かって立ち上がったー不確かな希望を後にして
 
ヨハネによる福音書5章1〜9節前半(新約口語訳142p)
 
 
はじめに
 
紛争や貧困が原因ということで、中東やアフリカなどからの難民が欧州に押し寄せていますが、その難民に紛れこんで来たイスラム過激派がパリで同時多発テロを起こすなど、世界的規模での民族紛争、宗教戦争の兆しが現われ始めています。
 
これらの現象を受けて、未来に対する悲観的観測が目立ち始めました。確かに国と国、民族と民族、そして宗教や文化、イデオロギーの相克が原因ともいえる紛争が、この世界に絶えないのは事実です。
 
混乱は欧州だけに起きているのではありません。尖閣への野心、南シナ海の人工島建設、大気汚染拡大等、大陸から始まる災厄は日本、東南アジアへと及んできている昨今です。
 
おまけに、このたびの産経新聞元ソウル支局長の裁判の例のように、民主主義国家、法治国家とは名ばかりの半島の日本への理不尽極まる攻撃もまた、煩わしい限りではあります。
 
しかし、長期的に見れば、世界は確実に良くなっているといえます。それはあの二度の世界大戦を経た二十世紀と比べれば一目瞭然です。
日本に限っていっても、暮らしも含めて政治、経済、社会の状態は確実に良くなってきております。自国を悲観的、批判的に論ずる論調は後を絶ちませんが、もはや、三年以前の日本に戻りたいとは誰も思いません。それが現政権の支持率に現われていると言えます。
 
ただ、そういう漸進的進展の陰で、「自分はとり残されている」という思いを持つ者も決して少なくはないようです。
政治にはそういう所に佇む人に、光を当ててもらいたいと切に思うのですが、主の降誕日十二月二十五日を前にした待降節第四主日でもある本日のクリスマス礼拝では、長患いの中で不確かな希望にしがみ続けてきた男が、イエス・キリストによって確かな希望に向かって立ち上がることのできたことを取り上げたいと思います。
 
 
1.長患いの男は池の辺(ほとり)で、不確かな希望にしがみ付いていた
 
ヨハネの福音書の四章では、南部のユダヤを後にしたイエスの一行は、サマリヤを経て北部のガリラヤに向かっておりました。
 
「(イエスとイエスの一行は)ユダヤを去って、またガリラヤに行かれた」ヨハネによる福音書5章1節 新約聖書口語訳140p)。
 
事実、六章はガリラヤでの出来ごとの記録です。
 
「そののち、イエスはガリラヤの海すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた」(6章1節)。
 
ところが五章の舞台はユダヤのエルサレムです。
 
「こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた」(5章1節)。
 
 恐らくは五章の出来事は、ガリラヤ巡回の後の記録だと思われますが、ヨハネがこの記録をここに持って来たわけは不明です。
 しかし、このエルサレムにおいてイエスは、不確かな希望にしがみ付きながら日を送っていた一人の長患いの男に、その目を留められたのでした。
 
 
 場所はエルサレムの出入り口のそばにある「ベテスダの池」の回廊でした。
 口語訳での「ベテスダ」は、どうやら「ベスザタ」が正しいようです。そこでこの箇所は新共同訳でお読みすることにしたいと思います。
 
「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」(5章4節 新共同訳)。
 
 この池、「ベテスダの池」は長さが約百メートル、横幅がその半分くらいで、四辺と真中の仕切りに回廊が設けられていて(五つの回廊)、そこには当時の医学や医療ではどうにもならないような病者や障害者が横たわっていたようなのです。
 
何でそこなのかと言いますと、一つの俗信、迷信が最後の希望として信じられていたからでした。
実はこの池は間歇泉で、時々底からボコボコと水が湧く現象が起こる、そしてそれは、神の使いが天から降りてきて沐浴しているからであって、その瞬間に入水した者は神の力を受けて、どんな病気も癒されるという俗信が信じられていたからでした。
そしてその回廊に、ひとりの長患いの男が体を横たえておりました。
 
「さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった」(5章5節)。
 
  「三十八年の間、病気に悩んでい」(5節)たということは、彼が池の恩恵に与かって来なかったことを示します。つまり、彼は長い間、この池の周りか池にかかる回廊に横たわりながら、真っ先に池に入れば癒されるという、不確かな希望にしがみついて日を送っていたことになります。
 
 見方を変えればこれほど残酷な望みもありません。水が動いた時に真っ先に飛び込んだ病者が元気になったり、あるいは「これで元気になる」と思い込んで、家族と共に帰宅する姿を横目で見ながら、次こそは、と思いつつ、どうせ次も無いだろうと諦めて日を送っていたことになるからです。
 
 デンマークの思想家のキエルケゴールは、絶望というものを「死に至る病」としましたが、この病人は生きているというのは名ばかりで、実は死につつあるという状態を生きていたのだと思われます。
 しかしそういう彼に、あのイエスが目を留めてくださったのでした。

 

2.長患いの男に池の辺(ほとり)で、神の御子のイエスから声を掛けられた
 
この男に目を留めたイエスは、次に声をかけられます、「治りたいのか」と。
 
「イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に『治りたいのか』と言われた」(5章6節)。
 
 考えて見れば奇妙ともいえる質問です。長患いで苦しんできたのだから、だからこそこの回廊に身を横たえているのだから、治りたいに決まっているじゃないか、と読者は思います。
 しかし、彼の答えは「はい、私は治りたい」ではなく、その口から零れ出たものは支援の無さに対する不満でした。
 
「この病人はイエスに答えた、『主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りていくのです』」(5章6、7節)。
 
 なぜ、イエスは敢えて「治りたいのか」と聞いたのでしょうか。推測ですが、彼がこの池の回廊にいるうちに、元気になって人生を再出発する、という最初の目的を忘れて、水が動いた時、とにかく真っ先に水に入ろうという一点に、関心が集中していたのではないか、と思われます。
 
 この男にとって水に入るということは、治るための手段の筈でした。しかしいつしか手段が目的に変わってしまい、治りたいという当初の目的がどこかに行ってしまったのでしょう。
 その結果、自らの不運を嘆く思い、手を貸してくれない周囲への怒り、治って回廊を後にする者への羨望など、それまでに澱のように溜まっていた思いが一気に溢れ出たのかも知れません。
 
 イエスの「治りたいのか」という問いは、実は彼を原点に戻すための問いであったのではないでしょうか。
 例えば、家族を幸せにしようと働くうちに、働くことが目的となってしまい、いつしか家族の気持ちを考えなくなってしまったとするならば、それは本末転倒ということになります。
 
 手段はあくまでも手段であって、手段は目的を達成するためのものです。だからこそあえて彼に向って「治りたいのか」と問われたのではないかと思います。

 

3.長患いの男はイエスにより、池の辺(ほとり)で確かな希望に向かって立ち上がった
 
 興味深いのは、うじうじと不満を口にする男の言葉には委細かまわず、イエスが彼に命じた言葉でした。イエスは言いました、「そこから起き上がって、藁布団を畳んで、自分の足で歩き出しなさい」と。
 
「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』」(5章8節)。
 
 イエスから見たこの男は、言うなれば病気であるという現状に慣れ親しんでしまっていて、治って元気になり、具体的には自分の足で立つ、というイメージをとうの昔に失っていたのでしょう。
 
 ですからイエスは言ったのです。「私があなたを自分の足で立ち上がって歩けるようにしてあげる、だからその藁布団から抜け出して起き上がりなさい、長年親しんできたその藁布団を処分しなさい、そして足を挙げて歩き始めなさい」と。
 
 このイエスの言葉が彼の心に届いた時、彼の中に変化が起こります。「起き上がりたい、この藁布団から抜け出したい、自分の足で力強く歩きたい」と。
 
 治りたい、良くなりたいと自身が思わない限り、願わない限り、人は自分の足で立つことはできません。
 そしてこの三十八年もの長い間、病気に悩んでいた男は、イエスの言葉を信じて起き上がろうとします。
 そして変化が起きました、彼は起き上がり、彼の過去と惨めな人生を象徴する藁布団を担いで、家族がいる懐かしい我が家へと歩き出したのでした。
 
「すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った」(5章9節前半)」。
 
 二千年前、この世界に来られた主イエスは、この後、十字架で刑死しました。しかし、神はイエスを死の世界からよみがえらせました。
 イエスは今も見えない姿で私たちに語りかけてくださいます、「私は知っている、あなたは治りたいのだろう?元気になりたいのだろう?ならば諦めないで、『起きて、床を取りあげ、そして(自分の足で)歩きなさい』」と。
 
 クリスマスはこのイエスの現臨を私たちが経験する機会です。そうぞ、心に主イエスの言葉をお聞きください。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-12-13 16:41:14 (620 ヒット)
2015年礼拝説教

15年12月13日 待降節第三主日礼拝説教

キリストとの運命的な出会い

女は井戸の側で思いもかけず、待ち望んで止まなかった救世主に出会った(後)ーこの救世主により、神礼拝への確かな道が開かれた
 
ヨハネによる福音書4章15〜26節(新約口語訳149p)
 
はじめに
 
立場上、よく電報を打ちます。御祝い電報やお悔やみ電報などですが、最後の差出人の名前の確認の際の電報受付担当者の決まり文句が、「寛容、寛大の一文字」、です。
 
私の場合、「名は体を表す」か否かの議論は扨措くとして、宗教に対する日本人の感覚が寛容であるとされるのに対し、一神教のキリスト教は非寛容であるとする通説があります。
確かに西洋史とりわけ、欧米のキリスト教歴史を概観する限りにおいてはそう言えなくもありませんが、実は非寛容で排他的なのはキリスト教の特性というよりも、歴史的、地理的に偶々、キリスト教を信奉した西洋人の民族性から来ているのではないか、という見方もできます。
 
私自身の場合を例に取れば、日本の伝統宗教に対し、またその祖師たちに対しては、高い尊敬の気持ちを持っております。
 
キリスト教の教義を一面から見れば、排他的と見えなくもありません。神は唯一ですし、救世主も一人であり、救済の道も一つ、と主張するからです。
 
ユダヤ当局に対するペテロのこの人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4章12節)という弁明にもそれが現われています。
 
 しかしだからと言って、他宗教を頭から蔑視したり、否定したりするのはイエス・キリストの教えではありません。
 ただ、欧米人やアラブ人などの「あれかこれか」に対し、私たち日本人が持つ宗教観は、「あれもこれも」と寛容、寛大です。
 それを端的に表すものが、一休禅師が歌ったとされる「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月をこそ見る(月を見るかな)」という歌でしょう。
 
 問題は、月を見ること、すなわち永遠の生命を掴むことのできる高嶺に分け登る道は、果たしていくつもあるのか、ということです。
 実はキリスト教は、種々の他宗教との論争以前に、母体でもあるユダヤ教との間で熾烈な神学論争を経て、発展してきましたが、その最初の営みは苦悶する無名の人との対話から始まったのでした。
 
 
 
 今週は、サマリヤの女とイエスの対話の続きです。

 

1.女が井戸の側で出会ったのは、神が歴史の中に遣わした救世主キリストであった
 
サマリヤ人とは決して交際をしない筈のユダヤ人が、自分の方からサマリヤ人に声をかけて、しかも水を飲ませて欲しいと頼んだということは、当時の慣習では考えられないことでした。
そのために頼まれたサマリヤ人女性の方が訝(いぶか)ります。
 
その訝る女性に向かってイエスは、二つの知識について語り出されます。
 一つは、これからイエスが与えようとする神の賜物、渇くことのない「生ける水」、すなわち、人に本当の満足をもたらす永遠の命という神からの賜物のことでした。
 
 
 
 これにつきましては先週の説教で触れましたが、もう一つが、彼女の眼の前にいて、「水を飲ませて下さい」と頼んでいる人物についての知識でした。
 
「イエスは答えて言われた、『もしあなたが神の賜物のことを知り、また、水を飲ませてくれと言った者が、だれであるかを知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう』」(ヨハネによる福音書4章10節)。
 
 この後、会話は進んで行き、話しがサマリヤ女性の個人生活に及びます。ところで個人情報は、大切にされなければなりません。
 
 教会という親しげな場所であったとしても、お互いの個人的生活にずかずかと踏む込むような質問はすべきではありませんし、仮に個人的情報を聞かされたとしても、それは信頼関係の上でなされたことですから、自分自身の内に秘めておくべきであって、聞いたことを妄りに人に話したりしてはなりません。
 
 イエスは個人というものを誰よりも尊重されるお方でした。でもイエスはこの時の会話の中で、サマリヤ人女性の個人生活に関わるような領域に踏み込みます。
 それは好奇心などという低俗な興味からのものではなく、彼女の救いと悟りのためにはどうしても必要なことであったからでした。
 
 イエスは彼女に対して唐突に、「あなたの夫をここに連れて来るように」と言います。
 
「イエスは女に言われた、『あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい』」(4章16節)。
 
これに対して女性は、「自分には夫はいない」と答えるのですが、そこでイエスは言います、「それは答えとしては正確である。あなたには嘗て、五人の夫があったが、いま、あなたが交際している男性は法的な意味での夫ではない。あなたは偽りを言ってはいない」と。
 
「女は答えて言った、『わたしには夫はありません』。イエスは女に言われた、『夫がないと言ったのは、もっともだ。あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである』」(4章17〜18節)。
 
 このやりとりから説教などでよく聞くのは、「この女性がふしだらな女性で、乱れた生活をしている」という解釈です。
 でもそうとは言い切れないと思います。イエスの「五人の夫があった」(18節)という指摘は、彼女が正規の手続きを踏んで結婚をしてきたという事実を意味する言い方です。
 
 
 
 つまり、この女性は極めて生真面目な人であって、結婚というものを真剣に考え、期待もして結婚生活に入った。しかし、その結婚生活は期待に反して失望するものであった、そこで、まあ、結婚というものはこんなもんだろうと妥協していればそのまま、結婚生活を続けていたかも知れない、しかし、真面目な性格のゆえ、自分の気持ちを誤魔化して妥協したまま、現状での生活を続けることができない、そこで離婚をし、期待を持って次の結婚生活に入るがそれもまた違う、これを何度か繰り返しているうちに、生真面目であるがゆえに結婚という制度に失望して、夫婦という形式をとらない関係を選んだ、今でいう事実婚ということでしょうか。しかし、世間はそういう彼女の生き方を認めず、白い目で見る、そこで止むなく、女性たちが集まる夕暮れ時を避けて昼日中に水を汲む日々となった、という事情なのかも知れないのです。
 
 なお、イエスがどのようにして彼女の過去と現在の個人情報を入手したのかは不明ですが、イエスの指摘に対し、女はイエスを律法の教師以上と考えて、「あなたは預言者です」と言い出します。
 
「女はイエスに言った、『主よ、わたしはあなたを預言者とみます』」(4章19節)。
 
 サマリヤ人の宗教には二つの特徴がありました。
 一つは聖書に関するもので、ユダヤ人がモーセ五書、預言者(預言書)、諸書の三つからなる二十二巻のヘブライ語原典を聖書とするのに対し、サマリヤ人はモーセ五書だけを聖書としていました。
 
 
 ということは、このサマリヤ女性が「わたしはあなたを預言者とみます」(19節)と言ったということは、それがエリヤやエリシャあるいはイザヤやエレミヤなどの預言書におけるポピュラーな預言者などではなく、そのものズバリ、モーセのような預言者を意味したということになるのです。
 モーセへの神の語りかけです。
 
「わたしは彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起こして、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることをことごとく彼らに告げるであろう」(申命記18章18節 旧約聖書273p)。
 
 そしてこの場合の女が言う「預言者」(19節)はほぼ、彼女が信じ、その到来を待ち望んでいた救世主、ヘブライ語ではメシヤ、ギリシャ語ではキリストと同義だったのです。
 そこで女はイエスに言いました。
 
「女はイエスに言った、『わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせてくださるでしょう』」(4章25節)。
 
 そのように言う女に向かってイエスは宣言します。「あなたの目の前にいるこの私が、そのメシヤ・キリストです」と。
 
「イエスは女に言われた、『あなたと話しているこのわたしが、それである』」(4章26節)。
 
 疲れ果てた身を井戸の傍らで休ませつつ、一杯の水を所望したユダヤ人の巡回教師こそが、彼女が待望して止まなかったメシヤ・キリストであったのです。
 彼女の驚きはいかばかりであったことでしょうか。イエスこそ、天地の神が人類の歴史の中に遣わした救世主でした。
 それはまた、心ひそかに神の救いを待望して止まない無名の一個人の現状を変革するお方でもあったのです。
 
 
2.女が井戸の側で出会ったのは、人に真の神を正しく教える救世主キリストであった
 
サマリヤ人の宗教のもう一つの特徴は、神をどこで礼拝するかという、礼拝の場所にありました。正規の礼拝場所としてエルサレムを主張するユダヤ人に対抗して、サマリヤ人はゲリジム山に神殿を建設し、そこで選民イスラエルをエジプトから救出したモーセの神を礼拝していました。
 
でもこの結果、どこで、あるいはどの神殿で捧げる礼拝が正統的な礼拝であるのかという問題が起こりました。
 
この、どこで礼拝を捧げるべきかという問いについてもイエスは、明快に二つのことを答えています。
その一つは、神とは如何なるお方であるか、ということでした。
 
どこで礼拝を捧げるべきかという問いは、神とは如何なる存在であるかという問いとも関係します。
そこでイエスは言いました、「問題はゲリジム山とかエルサレムとかいう場所の問題ではない。なぜならば、神は霊的な存在であられる、だから、神を礼拝するに際しては、特定の場所を限定すべきではないのだ」と。
 
「イエスは女に言われた、『女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る』」(4章21節)。
 
 それは神が目に見えるかたちで存在しているのでもなく、空間にも縛られない霊的な存在であるからだ、とイエスは教えます。
 
「神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまことをもって礼拝すべきである」(4章24節)。
 
 イエスは神の本質について、「神は霊である」(24節)と説明しております。
 神が「霊である」ということは第一に、神が実在する神であることを示したものです。今の時代、目には見えなくても実在するものはいくらでもあることは常識です。
 神は不可視ですが実在するのです。見えないから神はいない、などと主張したら笑われます。
 霊である神は、霊的に存在されるお方なのです。
 
 第二に、神が「霊」であるということは、能力的には限界がないという、全能性を意味します。また物質的存在とは異なっていて、不滅、不朽の存在であるということを意味します。
 
 更にまた、神が霊であるということは偏在でもあるという意味です。偏在ですから神は空間に縛られるということはありません。
 つまり、ここにいて、あそこにはいない、ということもないのです。
 神は霊ですから、教会の交わりの中におられますし、それぞれの家庭、職場、学校、時には病院などにもいてくれるということになります。 
 神が霊であるからこそ、場所の制限や空間の制約を受けることなく、常に共にいてくれるのです。
 
 また、わたしたちが神を呼び求めた時、目にそ見ることはできませんが、神を信じ愛する者には、夜となく昼となく、常に側にいて、救い主についての知識を与え、行くべき道を示し、神の大いなる愛を感じさせてくださるのです。
 
 
3.女が井戸の側で出会ったのは、真の神礼拝を可能としてくれた救世主キリストであった
 
 イエスがサマリヤの女に語られたもう一つの真理それは、神に近づく方法、神を正しく礼拝するための道についてでした。
 具体的には、正しい仲介者による仲介を通しての礼拝のみが、神に受け入れられる有効な礼拝であるということでした。
 それが「霊とまこと」による礼拝ということです。
 
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまことをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父はこのような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(4章23、24節)。
 
 このイエスの言葉は一般的には、礼拝の心構えや姿勢を正しく整えるという意味で理解されています。
 しかしある時、そういう意味で語られたのではない、という見解に接して、将に「目から鱗」状態になったものでした。
 これは礼拝者の姿勢についての教えなどではなく、礼拝を可能にする資格についての教えなのだ、ということでした。
 
 例えば、新幹線を利用しようとした場合、チケットが必要となります。チケットが無ければ、どんなに礼儀正しい態度を取ったとしても、改札に入ることはできませんし、のぞみであろうとこだまであろうと、とにかく新幹線自体に乗車することも出来ません。
 
 神礼拝も一緒です。真の神を礼拝し、神と交わるためには、正規のルートで入手するチケットが不可欠です。
 そしてこの高価なチケットを自らを犠牲にして入手し、信じる者に無償で提供してくれたのがイエスという名の救世主、キリストだったのです。
 
 また、「霊とまこと」(24節)の「霊」とは、神の御霊のことであって、御霊とは神の御子でもあるイエス・キリストの本質でもあります。
 つまり復活後の御子は父と同様、霊的な存在であることを意味します。
 
 また、「まこと」(同)は真理のことですが、イエスこそ「道であり、真理であり、命」そのものでした。
 
「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』」(14章6節)。
 
つまり、「霊とまこととをもって」(同)捧げる礼拝とは、礼拝姿勢のことではなく、キリストであるイエスを通して、という意味なのです。
イエスという名のキリストを仲介者として、そしてイエスを主と信じる信仰に対して与えられる神礼拝のチケットによって、今や正規のルートを通じての神礼拝が可能となっているのです。
 
サマリヤの女が思いがけず井戸の側で出会ったお方は、真の礼拝を可能とするためにこの世に来られた救世主キリストだったのです。
 
そしてイエスは今日もまた、心の渇きを覚える者に向かい、私を通して「まことの礼拝を」(23節)しなさい、と呼びかけておられるます。
この呼びかけに対し、心を低くして応じる者は幸いです。


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