2013年2月17日日曜礼拝「信仰の高嶺を目指して―切り出された岩、掘り出された穴を想い見よ」イザや書51章1、2節

投稿日時 2013-02-17 16:20:37 | カテゴリ: 2013年礼拝説教

20132月17日 日曜拝説教

「信仰の高嶺を目指して−切り出された岩、掘り出された穴を想い見よ
 
イザヤ書51章1、2節 旧約聖書口語訳1018p
 
 
はじめに
 
 最近の円安、株高によって日本の家電メーカーがひと息ついているようですが、凋落しつつある日本の家電メーカーの再建を描いたNHKのドラマが話題になりました。タイトルは「メイドインジャパン」です。
 
 録画しておいた最終回だけをあとで見ましたが、日本企業が生き残るため、中国企業に提携を懇願するという結末に、要するに中国と仲良くしろという、親中のNHKのメッセージかと勘繰ったりもしましたが、エンディングで主人公が語る独白には考えさせられました。
主人公は言います、 
 
かつて世界を席巻したメイドインジャパンの製品が今、苦しい戦いを続けている。だが、怯(ひる)むことなく進もう。
私たち日本人こそがメイドインジャパンなのだから
 
 「私たち日本人こそがメイドインジャパン」という台詞は泣かせますが、しかし、日本で生まれ、日本語を話し、日本国籍を持っているから、それでメイドインジャパンの日本人なのではありません。
 
 台湾出身の評論家、黄.文雄(こう.ぶんゆう)はその著書「世界で絶賛される日本人」(徳間書店)において、三重苦という苦難を克服したヘレン・ケラーが人生の目標としたのは、七歳で視力を失いながら刻苦勉励して、国文学・国史を主とした六百六十六冊にもなる叢書(そうしょ)「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」を編纂したことで知られる盲目の学者、塙保己一(はなわ ほきいち)であると、一九三七年に来日した際の講演において語っていると書いています(11p)。
 
私が幼い時のことですが、母は私に『塙保己一先生はあなたの人生の目標になる方ですよ』とよく話してくれたものです。日本には幼くして目がまったく見えなくなってしまったのに、努力して立派な学者になった塙先生という方がいたと教えられました。それを聞いて、私は励まされて、一生懸命勉強しました(堺正一著「塙保己一とともに」はる書房刊)。
 
 そして、同年、塙 保己一が生まれた埼玉県を訪れた際には、塙 保己一は人生の目標であったとさえ語ったということです(12p)。
 
  私は特別な思いを抱いて、この会場に参りました。いつか日本に行ってみたい。日本に行ったら必ず埼玉県を訪問したいと長い間思っていました。その夢が、今日かないました。それは、私が人生の目標とし、苦しく、辛く、挫けそうになった時に心の支えとした人が、この埼玉ゆかりの人物であったからです。その人の名は「塙保己一」といいます(同書)。
 
 少年少女を対象とした世界の偉人伝中、最も愛読されているのがヘレン・ケラーであるとされているその人が、自分より百三十四年前、西洋から見れば最果てともいえる極東の島国に生まれた「塙保己一」のことを、「私が人生の目標とし、苦しく、辛く、挫けそうになった時に心の支えとした人」であったと告白しているのですが、この塙保己一こそ、世界に誇るメイドインジャパンの日本人の一人でした。
 
彼は確かに抜群の記憶力に恵まれていたとはいえ、見えないという致命的なハンディを、努力に次ぐ努力で克服して、後代に貴重な資料を残すという偉業を成し遂げたのでした。
塙保己一には多くのエピソードが残されていますが、物や金銭や物に関してはまったく無欲の人でありながら、知識の獲得に関しては貪欲であったということです。ヘレン・ケラーの母親も彼のエピソードを聞いていて、娘に塙保己一を目標にするように、と勧めたのかも知れません。
 
しかし、日本で生まれたから、メイドインジャパンなのではありません。他国の領土を虎視眈々と狙って隙あらば我が物にしようとする国に出かけて行って、「尖閣は係争地」などと、国益を損なうような発言をして、温厚な防衛大臣までが「一瞬、国賊という言葉が頭をよぎった」とさえ言わせる元総理大臣などは到底「メイドインジャパン」の日本人とは言えませんし、「尖閣は両国で共同開発を」などと言う工作員まがいの前大使などは、きっと「メイドインチャイナ」なのでしょう。
 
日本の良き伝統、とりわけ日本の精神性を受け継いだ者こそがメイドインジャパンの日本人と言えます。
 
 そのような意味から、それを信仰の面でいえば、ユダヤ人がアブラハムの子孫なのではなく、アブラハムの信仰に倣(なら)う者こそがアブラハムの子孫なのだということができるでしょう。
そこで私たちの教会では今週から、信仰の祖アブラハムの生涯を追うことによって、信仰の高き嶺へと登っていきたいと思います。
 
 
1.傾聴すべきは、義なる神からの語りかけ
 
 より高い次元に上るために必要なことは、聴くということです。さらに言えば、真に傾聴すべきものを見極めて、耳を傾けるということです。
 
紀元前七世紀のはじめ、東方の大国バビロンによる南ユダ王国への侵攻が始まり、ユダはバビロンに帰順しますが、その後、叛旗を翻したため、エルサレムはネブカデネザル王に率いられたバビロニアの軍隊に包囲されて降伏せざるを得なくなり、その結果、五九七年には王をはじめとして数千もの有力市民がバビロンに連行されてしまいました。第一次バビロン捕囚です。
その後、ユダはエジプトと通じて反乱を起こしますが、五八七年にはまたまた来襲したバビロニア軍により、エルサレムは陥落し、壮麗を極めたソロモンの神殿は破壊され、王と共に残っていた主要な民も強制的にバビロに連行されていき、こうしてユダヤ人の国は地上から姿を消してしまいました。
 
イタリアの作曲家ヴェルディが作曲した歌劇「ナブッコ」は、このバビロンのネブカデネザル王によるエルサレムの攻撃、民の捕囚という歴史を背景にしたもので、「ナブッコ」とはナブコドノゾール、つまりバビロンのネブカデネザル王のことです。
この歌劇で有名なのが第三幕第二場のユーフラテス河畔において捕囚の民が祖国を想って歌う合唱曲「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」です。
 
その、捕囚の地バビロンにおいて捕囚の境遇を嘆く民に対して、神は預言者イザヤを通して、「わたしに聞け」と呼び掛けた、それがイザヤ書の五十一章だったのです。
 
「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け」(イザヤ書51章1節前半 旧約聖書1018p)。
 
 囚われの身になってはじめて心を入れ替え、「義を追い求め」る者、つまり「主を尋ね求める者」が捕囚の民の中に起こされてきたようでした。そして、この場合の「義」とは、「救い」を意味します。「義を追い求め」るとは、救済を求めているという意味です。そして主こそ、義なるお方、すなわち救いをもたらすお方なのです。
 
神の民が第一になすべきこと、それは「義」なる神、すなわち救済者である神からの言葉に耳を傾けることでした。それが「わたしに聞け」という呼びかけでした。そしてそれはいつの時代であっても、そしていかなる状況下にあっても、神の民たる者が第一になすべきことです。
 
ことし、私たちはこれまでと同様、あるいはこれまで以上に神からの語りかけを聴くということに、エネルギーを費やしたいと思います。
とりわけ、毎週の日曜礼拝において、義なる神、すなわち救い主の語りかけに耳を傾けたいと思います。この世には多くの音が流れており、また多くの声が響いています。しかし、心の耳を研ぎ澄ませて、神の細き声をこそ、第一に聴くように努めたいと思います。
 
昨年開設された教会のホームページには、毎週の礼拝説教の全文が、週の初めには掲載されます。ホームページからも神の言葉を心の耳で聴く人が起こされますよう祈ってください。昔も今も、傾聴すべきは神からの言葉であり、そして神は、神の言葉を聴こうと努める者を愛し給うのです。
 
 
2.凝視すべきは、自らが拠って立つ原点
 
 捕囚の民に向かって神は語ります。それは自らが拠って立つところの原点を凝視(ぎょうし)せよ、という語りかけでした。
 
「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思い見よ。あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラとを思いみよ」(51章1節後半、2節前半)。
 
 「切りだされた岩」(1節)「掘り出された穴」(同)とは、自分のルーツ、出自のこと、言うなれば自らが拠(よ)って立つ原点です。
 
ユダヤ人は徒(いたずら)に自分たちが選びの民であることを誇り、それでいながら彼らを召してくれた神を粗略にして偶像礼拝に走り、その結果、罰を受けて捕囚の憂き目を見たのでした。
その彼らに向かって神は、「あなたがたの切り出された岩」であり、「掘り出された穴」である「あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラとを思いみよ」(2節)と語りかけます。
 
「思いみよ」と訳された言葉は見つめる、凝視するという意味の言葉です。そして捕囚の民が凝視すべきもの、それは単に血族としての先祖アブラハムではなく、信仰の先祖としてのアブラハムでした。
 
アブラハムの子孫だから自動的にアブラハムの子孫なのではありません。バプテスマのヨハネは、自らがアブラハムの血統であることを誇るユダヤの有力階級に向かって、アブラハムと血の繋がりがあることを誇るな、神はその気になればそこいらに転がっている石ころからでもアブラハムの子孫を生み出すことができるのだ、と警告しています。
 
「だから、悔い改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなど、心の中で思っても見るな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのだ」(マタイによる福音書3章8、9節 3p)。
 
アブラハムの血統を受け継ぐ者がアブラハムの子孫なのではありません。そうではなく、アブラハムのような信仰を持つ者こそが、アブラハムの子孫なのです。
 
「このように、アブラハムは『神を信じた。それによって、彼は義と認められた』のである。だから信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである」(ガラテヤ人への手紙3章6、7節 新約聖書口語訳295p)。
 
 アブラハムの「子」と訳された言葉は、「子孫」と訳す方が分かり易いかと思います。アブラハムの信仰を受け継ぐ者は、人種、民族、国籍に関係なく、信仰の祖であるアブラハムに繋がる信仰の子孫なのです。私たち日本人はアブラハムとの間に血縁関係は存在しないかも知れません。しかし、信仰によってアブラハムの子、アブラハムの子孫なのです。
 
そういう意味において、日本に生まれたから日本人なのではないということです。日本語をしゃべるから、日本国籍を持っているから日本人なのでもありません。そうではなく、日本の精神の伝統を受け継ぐ者が、真のメイドインジャパンなのです。
冒頭でも触れたNHKのドラマの主人公は「私たち日本人こそが、メイドインジャパンなのだから」と言いましたが、正確に言えば、日本の精神的伝統を継ぐ日本人こそがメイドインジャパンなのだと言えるのです。
日本の精神的伝統とは何か、数学者の藤原正彦はその著書「祖国とは国語」の中で言い切ります。
 
「祖国とは国語である。ユダヤ民族は二千年以上も流浪しながら、ヘブライ語を失わなかったから、二十世紀になって再び建国することができた。…祖国とは国語であるのは、国語の中に祖国を祖国たらしめる文化、伝統、情緒などの大部分が包含されているからである。血でも国土でもないとしたら、これ以外に祖国の最終アイデンティティとなるものがない」(新潮文庫 29〜30p)。
                     
先週、ヤンキースのイチローが日本経済新聞社のインタビューに答えている記事を読みました。
 
「世界に出て再認識したこと、その一つが日本語を大切にすることだ」「米国に行ってから、日本語の深さや美しさを自分なりに感じるようになり、日本語をきれいに話したいと思い始めた」
 
 「祖国とは国語」という藤原正彦の持論は、その論文「国語教育絶対論」が文芸春秋二〇〇三年三月号に掲載されたその十年後、米国で活躍する「メイドインジャパン」の日本人、鈴木一朗が実感したことでもあったのです。
 
 イチローはインタビューの中で、日本の技術を高く評価すると共に、その海外流出にも心配をしています。
 
「(自分は)野球以外でも、経済や日本企業の動向などにも高い関心を持っている」
「日本の製品は安心感が抜群。外国メーカーの技術も、実は日本人が開発していることが多いのでは、と想像している。技術が外に出て行く状況をつくってしまった国や企業に対して、それはいかがなものか、とは思う。いま、安倍(晋三首相)さんのこと、めちゃくちゃ応援しているんですよ。頑張ってほしいです」
 
 イチローは長い間、米国で暮らし、米国で戦っています。日本にはいません。しかし、海外にいるからこそ、見えているのかも知れません。私たちは海外で戦っている「メイドインジャパン」の日本人のために祈りの手を挙げたいと思います。
日本はこの三年三カ月、まるで戦後の七年間の占領時代のようにボロボロに壊れかけました。幸いにも第二の占領は三年と少しで終わりましたが、これからの日本に期待することは何か、それは本当の意味での「メイドインジャパン」である日本人の育成であると思います。
 
 そしてクリスチャンといいますと、無国籍のような印象を持つ人がいるようですが、決してそうではありません。日本人クリスチャンよ、あなたがたは日本の良き伝統を受け継ぎながら、信仰の祖であるアブラハムを「思いみ」る者、アブラハムを信仰の祖として凝視するメイドインジャパンの日本人クリスチャンであれ、と神は言われているのではないでしょうか。
 凝視すべきは、自らの拠って立つ原点です。
 
 
3.信ずべきは、神による祝福の約束
 
 では、その「思いみ」(2節)るべきアブラハムとはいかなる人物であるのかと言いますと、彼は確かに勇者ではありましたが、人の弱さを併せ持つ存在でもありました。けれども、そのアブラハムは神の約束を単純に信じ、そして信じ抜いたという一点で、称賛されるべき人でありました。
 
 紀元前六世紀、神は異国の地において、ユフラテの河畔でひたすらに「義を追い求め、主を尋ね求める」(1節)捕囚の民に向かい、イザヤを通して続けて言います。私がアブラハムを召したのは、彼が「ひとりであったとき」であった、と。
 
「わたしは彼をただひとりであったときに召し、彼を祝福して、その子孫を増し加えた」(51章2節後半)。
 
 この「ただひとりであったときに召し」とは孤立無援の時に、という意味ではありません。アブラハムが神に「召」(2節)された時、彼には妻もいましたし、族長としては大勢の従者も従えていました。
では「ただひとりであったとき」とはどのような意味かと言いますと、それは子供がいない、跡継ぎがいないという状態であった時に、つまり将来が見えていない、先の望みがないという時に、という意味なのです。
事実、神に召されたとき、アブラハムは既に高齢でした。
 
「アブラムはハランを出たとき七十五歳であった」(創世記12章4節後半 13p)。
 
 七十五歳は日本で言えば後期高齢者です。医療も特例措置によらずに、窓口負担を一割負担のままで医療を受けることができる年齢です。そして妻のサラも六十五歳、今で言えば前期高齢者です。
 
その二人の間には跡継ぎになるような子供がいませんでした。そしてこれから先、跡継ぎが生まれる可能性はないと思われていました。それは年齢だけではありませんでした。妻のサラが不妊症だったからです。
 
「サライは不妊の女で、子どもがいなかった」(創世記11章30節 新改訳)。
 
「ただひとりであったときに」(2節)とはそう言う意味なのです。
にも拘わらず、アブラハムは神による約束の言葉、あなたを「祝福」(2節)する、祝福の基とするという言葉を単純に信じて召しに応じたのでした。だからこそ、アブラハムは信仰の祖なのです。信ずべきは何か、信ずべきは神の約束、祝福の約束です。
 
 私たちはこの年、ひとりひとりがそれぞれの生活の場において祝福の基となるべく、そして神の恵みの媒介者とされるべく、傾聴すべきは神の言葉、凝視すべきは信仰の原点、信ずべきは神の約束、これを心に刻みながら信仰の高嶺を目指して、共に力を合わせたいと心から思います。





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