2013年1月13日日曜礼拝「旗幟(きし)を鮮明にするということ―アリマタヤのヨセフに倣(なら)う」マルコによる福音書15章42〜47節

投稿日時 2013-01-12 16:48:54 | カテゴリ: 2013年礼拝説教

13年1月13日 日曜礼拝説教

「旗幟(きし)を鮮明にするということアリマタヤのヨセフに倣(なら)う

マルコによる福音書15章42〜47節(新約聖書口語訳80p)

 
はじめに
 
 二〇〇一年九月十一日、米国の中枢を狙った同時多発テロがニューヨークとワシントンで発生しましたが、此の事件のあと、当時、親日家として知られていたリチャード・アーミテージ国務副長官が、柳井俊二駐米大使(当時)に対して「Show the FLAG(ショー・ザ・フラッグ)と言ったという話しが伝わりました。「ショー・ザ・フラッグ」とは、直訳すれば旗を見せろ、ということになりますが、それはテロに見舞われた米国に対し、同盟国として協力するかどうか、態度を明確にしてくれ、という日本国への協力要請であったわけです。
 
 この「ショー・ザ・フラッグ」という英語を日本語にしたものが「旗幟鮮明(きしせんめい)」という言葉です。「旗幟」の「旗」は文字通りの旗(はた)で、「幟」は幟(のぼり)です。
 
 特に戦国時代、武将たちは自らの旗印を立てることによって敵、味方の別をしたものでした。
この旗印にはそれぞれの家の紋、つまり家紋を使ってデザインしたものが多かったそうで、代表的なものが川家康の旗印の、葵の紋を縦に三つ並べたものです。旗印には他に、伊達政宗の旗は白地に日ノ丸、織田信長は永楽通寶の図柄を三つ縦に並べたもの、という具合でした。
 
 葵の紋でもよく知られることになった家紋とは最初、武家の間で広まり、元禄時代に商家に広まったそうです。
我が家は代々、江戸で木材問屋を営んでおりましたが、横浜の兄によりますと、我が家の家紋は「抱き茗荷(みょうが)」であったとか。
茗荷は語呂合わせで神仏からの御利益を意味する「冥加(みょうが)」に通じるということで、一般に好まれた家紋だったそうですが、特に戦国時代、武将たちが家紋を旗印にしたということは、「我が家と我は主に仕えん」という、自らの態度を鮮明にする意思表示行為でもありました。
 
 今から二千年前、負け戦になるかも知れない、しかし、今こそ、自らの旗幟(きし)を鮮明にすべき時、として、公然と「イエスは主なり」との信念に基づいて行動したユダヤ人がおりました。
わたしたちはその人物に倣う者でありたいと思うのですが、その人の名は「アリマタヤのヨセフ」、ユダヤ最高法院サンヒドリンの議員の一人でした。
 
 
1.旗幟(きし)を鮮明にする決断の時期(とき)
 
 ユダヤ社会では、一日は夕方の日没から始まります。正確な時間は夏や冬など、季節によって多少の違いはありますが、平均すれば一日は午後の六時に始まって、翌日の午後六時までということになります。
 
 イエスは午前「九時ごろ」(マルコによる福音書15章25節)に十字架に架けられて、午後の三時過ぎに息を引き取りました(15章34、37節)。
 
ユダヤの律法では安息日の労働は禁じられており、当然、葬儀や埋葬もできません。ところがイエスが亡くなった日は安息日である土曜日の前日の金曜日でしたから、日が変わる日没までには三時間足らずしかありません。
 
「さて、すでに夕方であったが、その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので」(マルコによる福音書15章42節 新約聖書口語訳81p)。
 
 安息日が終わるのは土曜日の日没です。しかし、悪霊が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する時間帯と考えられていた夜間に、ユダヤ人は葬儀など致しませんから、埋葬は早くても翌々日の明け方になってしまいます。
 
一方、もしも遺体を刑場に二晩も放置したままであれば、遺体は鳥に啄ばまれ、野犬などに食い荒らされる恐れがあり、しかし、男の弟子たちはユダヤ当局を恐れて姿を晦(くら)ましておりますし、女性の弟子たちにはイエスを葬りたいという気持ちはあっても、その準備も力もありません。
 
そしてその時、途方に暮れている女弟子たちの前に現われたのが、アリマタヤ出身のサンヒドリン議会議員、ヨセフだったのです。それは日が変わる午後の六時が刻一刻と近づいてきたときでした。何とヨセフはローマ総督ピラトのもとに赴いて、イエスの体の引き取り方を願い出たのでした。
 
「アリマタヤのヨセフは大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引き取りかたを願った」(15章43節前半)。
 
 「アリマタヤ」とはパレスチナの中西部の町で、預言者サムエルの出身地の「ラマタイム・ゾピム」のことです(サムエル記上1章1節 旧約聖書口語訳382p)。
 
 マルコがヨセフのことをなぜ「大胆にもピラトの所へ行き」(43節前半)と書いたかと言いますと、ヨセフは最高法院サンヒドリンの議員で、しかも有力者とされる議員であったからでした。
 
「彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった」(15章43節後半)。
 
 イエスは何者であったかのと言いますと、ユダヤの法廷では神を冒したという神罪(とくしんざい)で有罪判決を受け、ローマの法廷では皇帝に反逆した国家反逆罪の罪で死刑に処されたばかりの罪人でした。
 
 一方、サンヒドリンはイエスを国家反逆罪の廉で総督ピラトに訴え出たユダヤの最高議決機関でした。その構成員でしかも有力者である議員が、ローマによって罪人として処刑された者の遺体の引き取り方を願い出たということは、自らが罪人イエスの仲間、少なくとも理解者、シンパであることを公に表明したも同然の行為ということになるわけです。
 
そしてヨセフはピラトから引き渡されたイエスの遺体を丁重に包んで、刑場近くの墓に埋葬しました。
 
「ピラトは、イエスがもはや死んでしまったのかと不審に思い、百卒長を呼んで、もう死んだのかと尋ねた。そして、百卒長から確かめた上、死体をヨセフに渡した。そこでヨセフは亜麻布を買い求め、イエスをとりおろして、その亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入口に石を転がしておいた」(15章44〜46節)。
 
 言うなればヨセフの行為は彼が旗幟(きし)を鮮明にしたことを意味します。
それまでのヨセフは、心中においてはイエスの教えに共鳴もし、心を揺さぶられていたかも知れません。
しかし、それは彼の内心の出来事であって、外に向かって自らの理解や信仰を表明することはありませんでした。ですから、ヨセフのこれらの行為には誰もが驚いたことと思います。
ヨセフは時期(とき)が来たと思ったのでしょう。彼は躊躇することなく、恰も以前からイエスがキリストであったと考えていたかのように、そしてイエスの弟子であったかのごとく行動したのでした。
 
それは彼にとってくぐり抜けるには「狭き門」であったかも知れません。しかし、ヨセフはサンヒドリンを恐れず、またローマの権力に怯えることもなく、ただ神のみを恐れて、自らの信ずるところを泰然自若として表明し、告白をしたのでした。
 
私たちもまた、ヨセフのように旗幟を鮮明にする時期(とき)が来たと感じたならば、ヨセフに倣い、「イエスは主なり」と告白をして、十字架を担う者でありたいと思います。
 
 
2.旗幟(きし)を鮮明にする決断の契機(きっかけ)
 
 アリマタヤのヨセフの転機はいつだったのでしょうか、また何が彼をしてこのような大胆な信仰の表明に至らせたのでしょうか。
 
考えられるのはやはり、二つの法廷におけるイエスの態度、振る舞いであり、とりわけ十字架上のイエスの言葉にあったと思われます。
 
 サンヒドリンの議員として、しかも長老の議員として、ヨセフはイエスを審(さば)く立場にありました。また、ピラトの法廷のやり取りの一部始終も叮嚀に聞いていた筈です。
 
しかし何よりも午後三時にイエスが大声で叫んだ「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ(わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給いし)」(34節)、そして息を引き取る間際に「声高く」(37節)「すべてが終わった」(ヨハネによる福音書19章30節)と叫んだ叫びを聞いて、イエスがメシヤ・キリストであることを確信したのだと思います。
 
ヨセフが行動を起こす前に、イエスの姿に感銘を受けた者がおりました。死刑執行の責任者である百卒長です。百人のローマ兵士を束ねる百卒長は歴戦の兵(つわもの)で知識も教養もあり、しかも武勇の誉れ高いローマ市民の中から選ばれたエリートでした。その彼がイエスの臨終の姿に、「この人は神の子であった」と慨嘆したのでした。
 
「イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、『まことにこの人は神の子であった』」(15章39節)。
 
 映画「偉大な生涯の物語」でこの百卒長を演じていたのは、西部劇俳優として知られていたジョン・ウエインでした。ジョン・ウエインは熱心なクリスチャンとして夙(つと)に有名な俳優で、役柄にぴったりの演技をしています。
 
ただし、百卒長の言葉「まことに、この人は神の子であった」を使徒信条における「全能の父なる神…の独り子」という意味での神の子と考えてはなりません。これは偉大な人であった、まるで神の子のようだ、という異教徒としての賛嘆の言葉であって、信仰の表明ではありません。
 
 アリマタヤのヨセフの場合は違います。彼は聖書の教えに精通したユダヤ教徒でした。その彼が、十字架で死んだイエスこそ、聖書が告げてきたメシヤ・キリストであるという確信を持ったのです。
 
 それから二十数年後、嘗ては教会の迫害者、そして回心してキリスト教の弁証者となったパウロはギリシャ・コリントの信者たちに対し、十字架につけられたキリストこそ、人を罪から救う「神の力」の現われであり、人を闇から光へと導きだす「神の知恵」なのだと宣言します。
 
「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである」(コリント人への第一の手紙1章22〜24節 257p)。
 
 生前のイエスが語った教えは大事です。イエスの配慮に富んだ行為もまた、重要です。しかし、イエスの十字架における死の事実こそ、ユダヤ教とキリスト教とを分けることなのです。なぜかと言いますと、イエスの死が「あがない」であったからです。
 
「人の子がきたのも、…多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(10章45節後半)。
 
 「あがない」には通常、「贖」を当てます。しかし、この漢字は専門用語すぎて日本人にはピンと来ないのです。でも幸いなことに購入や購買の「購」を使って「あがない」と読むこともできます。
「購」はまさに代金、代価を払って目的のものを購入することです。
 イエスは十字架で、ご自分の命という代価を払って、わたしたちの命を滅びから買い戻してくださったのです。
 
 「すべてが終わった」と叫んで息を引き取ったイエスを見て、ローマ人の百卒長は、何と偉大な人物か、と感動しました。
しかしヨセフの場合はそこに人の購(あがな)いとなった救世主を見たのだと思われます。アリマタヤのヨセフが旗幟を鮮明にしたきっかけは、イエスの十字架の最期の姿だったのです。
 
 
3.旗幟(きし)鮮明の決断に伴う不利益と利益
 
 ヨセフがその行動を通して、イエスこそキリストという見解を公に表明したことが、ヨセフにとってどれほどのメリットになるかと言いますと、メリットどころかデメリットしかありません。それはヨセフにとっては何の益もないばかりか、失うものの方がやたらに多いだけの行動でありました。
 
 第一に、彼は「異端者」として処罰されたイエスをメシヤ・キリストとするとしたことは、彼がサンヒドリンというユダヤ最高議会の議員という地位を、しかも有力議員であるという特権的立場を放擲する覚悟を決めての行動であったということになります。
 
彼がこれによって高い地位や立場、培ってきた名声や信用、大祭司や同僚などとの交友関係などの、宝とも言うべき数々の財産を失ったであろうことは想像に難くありません。
 
事実、熱心な律法学者、パリサイ人、そして少壮のサンヒドリン議員としてキリスト教会の迫害に奔走していたサウロが、一転してキリスト教の弁証者になった時、彼はユダヤ教側から暗殺の対象とされさえします(使徒行伝9章23〜25節)。
 
 第二に、ヨセフは支配国のローマによって「国家反逆罪」の廉で処刑された者への信仰告白によって、ローマとの関係を断たれる危険性もありました。
他の並行記事にはヨセフは「金持ち」であったとされていることから(マタイによる福音書27章57節)、もしもローマとの商取引によって財をなしたとするならば、それまでの取引は停止されるのみか、危険人物として公安当局のマークの対象になりかねませんでした。
 
 こう考えてみますと、イエスをメシヤ・キリストとして告白したヨセフが払う犠牲、代償はあまりにも大きいように見えます。
 
 しかしヨセフはこのような「大胆」(43節)ともいえる態度表明を誰からも勧められず、また誰からも強いられるわけでもなく、ただただ自らの判断だけで決断をし、表明をしたのでした。
 
 ヨセフをその行動に駆り立てた動機はただ一つであったと思われます。それは正しいことを正しいこととして守る、という一念でした。
十字架に架けられたイエスがもしもメシヤ・キリストであるならば、そのイエスをメシヤ・キリストとして告白することは正しいことであって、それを躊躇すべきではない、という理解であったのだと思います。
 
 損得、利害計算を超えて、正しいことは正しいとする気性は、実は本来の日本人が持つ特性でもありました。
 
明治時代に、欧米に向かって日本人を、そして日本人の精神文化を英文で紹介した作品が三つあります。
 
一つは明治三十三(1900)年に米国フィラデルフィアで発刊された新渡戸稲造の「武士道」、二つ目は明治三十九(1906)年にニューヨークで刊行された岡倉天心の「茶の本」、そして明治四十一(1908)年に日本で刊行され、その後諸外国で翻訳出版された内村鑑三の「代表的日本人」です。
 
 「武士道」はあまりにも有名ですが、内村鑑三が「代表的日本人」として取りあげたのが、西郷隆盛、上杉鷹山(ようざん)、二宮尊徳、中江藤樹(とうじゅ)、日蓮上人の五人でした。
 
 中でも中江藤樹の物語に出てくるエピソードは感動ものです。
 
一人の青年が良き師を求めて岡山を出、近江で宿をとったところ、隣室から二人の武士の会話が聞こえてきた、一人が言うには、自分は都の主人から数百両の金を預かって帰郷した際、その日に限って雇った馬の鞍に金の入った財布を結びつけて、それを鞍に忘れてしまった、馬子を探す当てもなく、あとは責任をとって切腹するしかないと思い定めた夜半、宿の戸を叩く音がし、開けたところそこにいたのが昼間の馬子で、彼は家に帰ってから鞍に置き忘れられていた財布を見つけて届けにきた、という、武士は狂喜乱舞する思いで、礼として四分の一を受け取って欲しいと言ったが、馬子は固辞し、では十五両、五両、二両、ついには一両でよいから受け取って欲しいと懇願したところ、馬子は、では四里の道を歩き通して来たので草鞋代として四文を、という、そして押し問答が続いて何とか百文を押し付けることに成功し、帰ろうとする馬子に、教えて欲しい、君をこんなにも無欲で、正直で、誠実な人間にしたのは何なのか、と問うたところ、馬子が言うには、私の住む村に中江藤樹という方がおられて、その方は、金儲けが人間の目的ではない、正直と正義と、人の道とが大切なのだとおっしゃいます、と。
隣の部屋で聞いていた青年は、この人こそ生涯の師だと考えて中江藤樹の家に行き、弟子入りを求めた、しかし藤樹は応じない、そこで門前で三日三晩、端坐をして懇願し続けたところ、見かねた藤樹の母親が執り成してくれて弟子入りが許可された、その青年が後に岡山藩を建て直した熊沢蕃山(ばんざん)であった、というものです。
 
 この馬子がよい例です。信仰とはある意味では単純なものです。それが正しければ受け入れる、正しいものでないのならば断固退ける、ただそれだけです。
 
 アリマタヤのヨセフにとって、イエスが律法違反者であるならば人心を惑わす者として処罰の対象である、しかし、もしも神が遣わしたメシヤ・キリストであるならば何を措(お)いても信じ、従わねばならない、それがヨセフの生涯を貫く信念であったのでしょう。
 
 天地万物を創造したのみか、人類を創造したという神が実在するならば、その神に臣従するのは当然、イエスが神の子であり、神が遣わしたメシヤ・キリストであるならばイエスを救世主として仰ぎ、そのしるしとして、信仰告白としての洗礼を受けるのは当然のこと、なぜならばそれが正しい選択であり、正当な判断であるからです。
 
 ヨセフの決断が見事なのは、この時点では、イエスがその三日後に復活をする、という信仰までには至っていなかったということです。
彼はユダヤ教の教えの中にいたまま、イエスを信じる決断をし、イエスへの信仰を表明したのです。キリスト教のすべてが理解出来てから信仰を告白しようと思うのであれば、一生涯、その機会はめぐってこないでしょう。大事なのは、イエスがキリストか否か、という一事です。
 
 アリマタヤのヨセフはイエスに帰依したことを公にすることによって多くのものを失いましたが、そのヨセフと同じ心境になったのがパウロでした。パウロの告白を読んで、ヨセフに倣おうとする者は幸いです。
 
「しかし、以前、非常に価値があると思っていたこれらのものを、今ではことごとく捨ててしまいました。それは、ただキリスト様だけを信頼し、キリスト様だけに望みをかけるだけです。そうです。主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もなくすばらしい特権と比べれば、ほかのものはみな、色あせて見えるのです」(ピリピ人への手紙3章7、8節前半 リビングバイブル)。





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