2013年1月1日 二〇一三年新年礼拝説教「信仰の高嶺(たかね)を目指して」詩篇61篇1〜4節

投稿日時 2013-01-01 16:42:48 | カテゴリ: 2013年礼拝説教

2013年1月1日 二〇一三年新年礼拝説教

「信仰の高嶺(たかね)を目指して

詩篇61篇1〜4節(旧約聖書口語訳799p)

  
はじめに
 
ことしは干支(えと)でいいますと、巳年(みどし)ということです。巳は蛇だそうですが、蛇は気持ちが悪いので、今年の年賀状は干支と関係のない図柄を選ぶことにしました。
 
さて、干支には猫がないのですが、干支に猫がなぜないのかというわけを、子供のころ、絵本で読んだか、話しを聞いたかした覚えがあります。
 
昔々のある年の暮れ、神さまが(お釈迦様だったかも知れません)動物たちにお触れを出して、「元日の朝、新年の挨拶に来るように。新年の挨拶に早く来た順に、一番目から十二番目までをその年の代表に任命する」と言ったというのです。
 
ところが、猫は神さまが指定した日を忘れてしまい、そこで友達の鼠(ねずみ)に聞いたところ、鼠は嘘をついて、「それは新年の二日だよ」と言った、そこで猫が正月の二日に神さまに挨拶に行った時には、既に一番目から十二番目までは決まっていて、しかも一番目つまり一月はちゃっかり鼠が取っていた、そこで鼠に騙されたことに気付いた猫は以後、鼠を見ると怒って追いかけるようになったのだ、という話しでした。
 
鼠がなぜ一番だったのかと言いますと、牛は足が遅いので明け方に出発をした、それを牛小屋の天井で見ていた鼠が、牛には知られないよう密かにその背中にただ乗りして神さまの御殿の前まで行き、御殿の門が開いたその瞬間に、牛の背中から飛び降りて真っ先に門の中に入った、それで一番の鼠が一月、鼠に先を越されてしまった牛が二月、そして兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪の順となったということでした。何とも厭な奴、それが鼠です。
 
なお、これには後日談があるそうで、二日になって挨拶に来た猫に対し、腹を立てた神さまが、「顔を洗って出直して来なさい」と言ったので、それから猫は前足で顔を洗うようになったのだ、とか。
 
そこで猫の話しです。結婚した頃、妻はまだ仕事を続けておりました。ある時、帰宅するや否や、嬉しそうに話しかけてきました。
 
妻「猫にも一流と二流と三流とがあるのを知っている?」
私「いや、そんなの、聞いたことがない」
妻「実は、狙った鼠の八十パーセントを捕まえる、それが三流の猫」
私「ほう、三流で八十パーセントか、すごいな」
妻「そう、すごい。そして二流の猫になると、狙った鼠を百パーセント、捕まえる」
私「二流で百パーセント?それが一流だろうが」
妻「違う、二流で百パーセント、ではどういう猫が一流だと思う?」
私「わからない、どういう猫が一流なんだ?」
 妻はにやにや(本人はニコニコのつもりだと思いますが)笑いながら話しを続けました。
妻「その家にいるだけで、家から鼠がいなくなるような猫、それが一流の猫」
 
 そして種明かしをしてくれました。その猫の話しは業界新聞に掲載されていた大手電機会社の社長さんの新入社員への訓示にあった話しで、その社長曰く、
君たち新入社員は、今は三流どころか、鼠を追い掛けて大事な花瓶を割ってしまうような、そんな、会社に貢献するどころか迷惑をかけるだけの五流の猫かもしれない、しかし今後、諸君は三流の猫を目指し、二流の猫を目指し、ついにはそこにいるだけで役に立つ一流の猫のような存在になることを目指して、奮励し努力をするように
という内容だったというのです。
 
 確かに猫の存在意義は、鼠を捕まえることではなく、家から鼠がいなくなることにあります。なぜならば家に鼠がいなくなれば、飼主は心を乱すことなく、安穏に暮らせるようになるからです。
つまり、一流の猫とはそこにいるだけで十分に仕事になっている猫のことだというわけです。
 
私たちもまた、そこにいるだけで役に立っている一流の猫のような存在でありたいものです。
 
そこで今年は、それぞれの人生において、五流は四流を、四流は三流を、そして三流は二流を目指して、そしてついには一流になることができるよう、がんばりたいと思います。
 
 
1.信仰と霊性の高嶺を目指す
 
 私たちが目指すべきものの第一は、神との関係の充実と進歩です。それを信仰の高嶺(たかね)、霊性の高嶺へと登ることと定義したいと思います。
 
 神との関係の正常化こそがあらゆる営みの基盤です。それを聖書は「神との交わり」と言います。
昨年行った月一回の特別礼拝で確認しましたように、哺乳類の中でも人のみが、創造者である神と交わることができるように、「神のかたち」に創造された存在でした。
 
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1章27節)。
 
 「神のかたち」の「かたち」は英語でいう「イメージ」のことです。
 
 人は「神のかたち」に造られた者として、神からの語りかけを聞くことによって神の御心を理解する、そしてそれと同時に、神に向かって思いのたけを打ち明けることができるようになるのですが、それは「あれしてください、これをください」という低い次元での御利益信仰的要求ではなく、「私をして、より高次の信仰を持たせ、神を知るためのより高い霊性へと引き上げてください」という祈りとして表れるのです。
 
 それが詩人の祈りでした。
 
「神よ、わたしの叫びを聞いてください。わたしの祈りに耳を傾けてください。わが心のくずおれるとき、わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。わたしを導いて、わたしの及びがたいほどの高い岩にのぼらせてください」(詩篇61篇1、2節 旧約聖書口語訳799p)。
 
 詩篇六十一篇はイスラエルのバビロン捕囚の時期に読まれたものとされています。私たちもまたこの詩人のように、「心のくずおれるとき」がありますが、どんな状況になっても、そしていかなる場合でも、たとい実感としては自分自身が神から遠く離れた「地のはて」にいるかのような気持ちになることがあったとしても、「わたしは地のはてから」「わが及びがたきほどの高き磐(いわ)にのぼらせたまえ」(2節 文語訳)と祈ることがゆるされているのです。
 
 わたしたちはこの二年間、日曜礼拝ではマルコによる福音書を通してひたすら、イエスの実像に迫る作業を続けてきましたが、愛のゆえに私たち人類の身代わりとなって十字架に命を捨てられたイエスの恵みを基礎にし、今年は「信仰の父」と呼ばれ、生涯かけてひたすら信仰の高嶺、霊性の高嶺を目指して生きたアブラハムの生涯を追うことによって、「及びがたいほどの高い」レベルへと引き上げられたいと思います。
 
 そのためには、今年、聖書の通読を基本とした日々の個人礼拝と、毎週の日曜礼拝を続けることに努めたいと思います。そして、やむを得ない事情で礼拝に出席することができない時などには、教会のホームページで説教を読んで、礼拝を行ってください。
 
印刷やネットで読む説教は、ひとりで味わうという点と、そして耳で聴くのではなく目で読むという点ではマイナスの面があります。しかし、そこに聖なる神の霊の臨在を求めて、あたかも教会で聞いているかのようにして御言葉を味わえば、「何処(いずく)にありても 御国(みくに)の心地(ここち)す」(聖歌467番)となります。
 
 
2.能力とスキルの高嶺を目指す
 
 信仰の高嶺とは、神との関係を管理、コントロールして、その関係を深化させることですが、自分自身をコントロールして、自分が持っているものを高めることも大切なことです。
 
ことし、特に能力の向上、スキルの上達にも心がけたいと思います。猫といえども、ぼうっとしているだけでは鼠にバカにされて逃げられてしまいます。何しろ鼠は鼠で生き延びるために必死なのですから。
 
 私たちもまた置かれている状況、今いる環境に於いて常に切磋琢磨(せっさたくま)することによって、ポテンシャル(潜在能力)を引き出し、あるいは高めていき、暮らしにおける、あるいは職業上のスキル(技術、技能、手法、専門知識)を向上させていきたいと思います。
 
 たとえば、説教者である私の場合、今年、任務である説教の充実により一層、努めていきたいと思います。
ところで「説教は即、神の言葉」ではありません。厳密に言えば説教とは「神の言葉である聖書という素材を、人間がその人自身が持っている知識と信仰によって調理つまり、解き明かした人の言葉」なのです。ですから当然、説教はパーフェクトではありません。
 
通常、医師免許を持っている医師が処方し、薬剤師資格を有している薬剤師が調合した薬剤は、信頼して服用しても大丈夫です。しかし、政教分離の原則が憲法によって確立している我が国では、説教者には国家資格は付与されません。ということは、逆に言えば、教会ならばどこでもよい、というわけにはいかないことをも意味します。つまり、キリスト教を名乗っているからといって、無条件で信じることはしない方がよいということになります。
もちろん、それぞれの教派、教団が資格認定をしてはいます。しかし、だからと言って無謬であるわけではないので、聞く側の方も説教は吟味しながら聞くということが必要となってくるというわけです。
 
説教は大別すると、聖書の解釈(これを聖書釈義といいます)とその適用という二つの要素で構成されるのですが、自分が聴いている説教が正しい釈義に基づいた、バランスのとれた適用で成り立っているかどうかをチェックすることも、説教を聞く上で大切なことなのです。
そこで私も、今年もまた「より正しく、より分かり易く、できればもう少し楽しく聖書を解き明かす」ためのスキルの向上に努めたいと思うのです。
 
 ところで近年、人間の脳というものは鍛えれば鍛えるほど、発達していくことがわかってきました。ですから、「歳だからしようがない」と言ってあきらめないことが肝心です。特に年配の方々は意識をして「脳」力の向上に努めてください。
 
また、体力もそうです。体力は確かに年々歳々低下していきます。しかし筋肉を鍛えることによって低下のスピードを緩やかなものとし、場合によっては上昇に転ずることも可能だということが研究の結果、わかってきました。
偏ったアンチエイジング信仰は困りものですが、神さまがひとりひとりに備えてくださった能力を活かし、育成することは大事なことです。
 
今年は特に、自分が持っているもの、与えられている賜物の育成に努めることによって、教会ではもとより、それぞれが暮らしている家庭、働いている職場、居住している地域、学んでいる教室においても、いるだけで役に立つ一流の猫を目指して自らの能力の向上に励みたいと思います。
 
そこでもう一度、詩人の祈りを共にしたいと思います。今度は新改訳で読みましょう。
 
「私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください」(詩篇61篇2節 新改訳)。 
 
 
3.内的人間力の高嶺を目指す
 
 そして、目指すべき三つ目の高嶺が、人間力です。これは性格、思考、感情と言ってもよい、人に内在する機能のことです。
 
目指すべき信仰の高嶺が神との関係の深化であり、能力の高嶺が自分自身の成長であるのに対して、三つ目に目指すべき高嶺、それは、円滑な人間関係の維持と発展のために必要な人間力という機能の向上です。
 
 これは、大きなケースでいえば国家間の外交がそうです。国同士の外交は官僚による下交渉によって進められますが、最終的には最高責任者同士の人間関係、信頼関係の緊密さ、信頼感、つまり人間力というものが決め手となります。
 
大事な同盟国の大統領に、安易に「トラスト ミー」と安請け合いをして、外交関係を低下させた総理大臣もいれば、「How are you?」と言うところを「Who are you?」と言って相手を面食らわせた人もかつていたという噂がありました。もっとも後者の方は当該の総理大臣の場合、いかにもありそうなことですが、実はある新聞記者による作り話だということです。
どちらにせよ、国家間の外交の成否は首脳同士の人間力にかかっていることは事実です。
 
国の命運を左右するようなケースは例外としても、私たちもまた、この世において、日常の対人関係、人間家系から無縁のところにいることは不可能です。であるとするならば、自らの人間力の高嶺を目指すことによって、円滑な人間関係を築いて、自分も生き、他者も生きるという道を進んでいきたいと思うのです。
 
人間関係、対人関係が集約されたものが家族の関係なのですが、ところがこれが意外に難しいのです。それは、お互い、距離が近いために欠点がよく見えてしまうからであり、おまけに関係が近いということから遠慮がなく、他人であるならば口にしないようなこともズバッと言ってしまい、その結果、関係がこじれてしまうという場合もあります。
 
以前、マズロー心理学を基礎にした教育講座を毎週一回、一年くらい受講したことがあります。
とても勉強になりましたが、中でも強く印象に残っている教えが、「家族との関係をよくするためには他人行儀に」というものでした。
 
つまり、他人同士であるならば当然するであろう挨拶やお礼、あるいは謝罪などを、家族の場合、照れもあり、馴れもあり、甘えもあるなどからついつい割愛してしまい、それが積もり積もってしこりとなり、不信感となる場合が多い、だから、家族の場合、もしも他人だったらどういう言葉を発するか、どういう態度、どういう行動を取るかを想像して、他人であったらする、あるいは言うということを家族にもする、言う、それが「家族には他人行儀に」という教えの意味であったと思います。
 
神学生時代、半年ほど、アメリカ人宣教師の働きの手伝いに神学校から派遣されました。
日曜日の夕食は夫人の手料理を宣教師家族と一緒にいただくわけですが、食事中、旦那さんが「これは美味しい」を連発し、それを奥さんが嬉しそうに聞いているという光景を目の当たりにして、日本とは大分違う、という感想を懐いたことを思い出します。
 
「美味しい」という言葉は、料理をつくってくれた者への配慮、感謝の表れなのですが、日本人の場合、新渡戸稲造の「武士道」を見るまでもなく、日本文化の精神が、本来は他者への思いやりを基盤としたものであるにも関わらず、それが対家庭、対家族となると、照れくさくて実践をすることができなくなるという問題があるようです(私も例外ではありません)。
 
他者との円滑な関係の維持、発展のために、人間関係の基礎である家族との関係を豊かなものとする意味で、「家族には他人行儀に」という、この意表を衝いた教えの実践から始めることも一案かも知れません。
 
今年、対人関係を充実させ、とりわけ自分も生き、そして周囲も活かすための内的人間力の向上にも取り組んでいきたいと思います。
人が現状に止まらずに、常に高嶺を目指すことは、神を信じる者に許された特権でもあるからです。そこで最後に、詩編の祈りを新共同訳で読むことに致しましょう。
 
「心が挫(くじ)けるとき 地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に わたしを導いてください」(詩編61編3節 新共同訳)。





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