2012年9月2日日曜特別礼拝(第四回)「人は神により、男あるいは女として創造された」創世記1章27節

投稿日時 2012-09-02 16:11:12 | カテゴリ: 2012年礼拝説教

2012年9月2日  日曜特別礼拝説教(第四回)

「人は神により、男あるいは女として創造された」  

   創世記1章27節(旧約聖書 口語訳2p)

   
はじめに
 
最近テレビで、化粧をして女性の恰好をし、いかにも女性であるかのような話し方、女性的なしぐさをしている「おじさん」たちをよく見ますが、しかし彼らは決して女装趣味でそうしているわけではありません。そうすることが本人にとっては自然だからこそ、そのような恰好をし、そのように振る舞うのです。
 
 人類は通常、男性または女性のどちらかに生まれます。ただ、ごく少数ですが、脳が感じる自己意識が、自らの身体的性と異なる人がおります。そういう彼ら、彼女らを医学は「性同一性障害(せいどういつせいしょうがい)」として分類するのですが、それは、自身では如何ともし難い一種の「障害」ですので、偏見の目で見たり、差別視したりしてはなりません。
 
 性同一性障害の人も含めて、人はみな、男か女のどちらかとして誕生し、日本の場合は戸籍に男または女として記録されます。
 
現代人の特徴、それは選択の自由があるということでしょう。どこに居住するか、どのような職業を選ぶか、誰と結婚するか、あるいはしないかまで、個人が自由に選択をすることができる時代を私たちは生きています。
 
しかし、それでも選ぶことができないことがあります。第一に、人は子供として親を選ぶことができません。親を選ぶことができないということは自分の民族、あるいは人種を選ぶことができないということを意味します。そしてもう一つ、人が選ぶことができないものがあります。それが自分自身の性なのです。
 
女性として生まれた人誰もが持っている特性の一つは涙を流すということでしょう。英国の女性首相マーガレット・サッチャーを描いた映画が評判となりました。原題は「ジ アンアン レディ」つまり「鉄の女」ですが、日本語のタイトルは「鉄の女の涙」でした。
 
涙を流すこと、つまり泣くということは性格の違いを超えて、女性にとっては昔も今も当たり前のことです。鉄の女と称されたサッチャー元首相も人知れず、涙を流すことはあったのでしょう。
 
しかし依然として男が泣くことは憚られるのが現代です。この秋、四年に一度の大統領改選期を迎える米国ですが、四年前の民主党ニューハンプシャー州予備選において、オバマに対して不利を予想されていたヒラリー・クリントンが逆転勝利をしたのは、彼女が涙を流したことによって女性票の取り込みに成功したからだとされています。
 
しかし一方、一九七二年の民主党予備選において、大気汚染防止法のマスキー法で知られるエド・マスキーが選挙戦から脱落したのは、マスコミによる夫人への批判に反論している最中に彼が思わず落涙をしてしまったことが原因だと言われています。
本人はその後、雪が目に入ったのだと弁明しましたがあとの祭でした。米国では人前で泣くような男は、強い大統領のイメージに合わないからなのだそうです。
 
 しかし、人前で堂々と泣く男性が出てきました。先日のロンドンオリンピックの女子レスリングで金メダルを獲った女性自衛官の夫が感極まって人目もはばからず号泣しているのをテレビ画面で見て、共鳴をする前に異和感を感じてしまったのは、私が昔人間だからなのでしょうか。
男たるものは人前では泣かない、泣く場合には人知れず泣く、それが少し前までの大和男(やまとおのこ)の美学でした。
 
映画「男はつらいよ」の主題歌の二番の歌詞でも、フーテンの寅は「溝(どぶ)に落ちても根のある奴は いつかは蓮(はちす)の花と咲く 意地は張っても心の中じゃ 泣いているんだ兄さんは」と自らの甲斐性のなさを嘆き、「目方で男が売れるなら こんな苦労も こんな苦労もかけまいに かけまいに」と妹のさくらを想って歌い継ぎます(作詞 星野哲郎)。このように男が泣くのはいつも「心の中」でした。
 
今は千葉県知事となっている森田健作主演の青春テレビドラマ「おれは男だ!」の主題歌「さらば涙と言おう」でも、「さよならは誰に言う さよならは悲しみに 雨の降る日を待って さらば涙と言おう」と、男たるもの、涙は女のように所構わず流すのではない、「頬を濡らす涙は誰にも見せない」ものであって、どうしても「堪(こら)え切れぬ時には 小雨に流そう」とその心情を吐露し、これから先「さみしさも悲しさもいくたびか出会うだろう だけどそんな時でも さらば涙と言おう」(作詞 阿久 悠)と、涙との訣別を宣言するのですが、それが四十年ほど前の男たる者の美学でした。
 
世は移り、時代は変わります。しかし、ある人は男に生まれ、またある人は女に生まれるという事実には変化はありません。それは人というものを創造者である神が、男あるいは女として創造したからです。
 
創世記を通して神と人間との関わりを考える今年の日曜特別礼拝の第四回目の本日のテーマは、「人は神により、男あるいは女として創造された」です。
 
 
1.人は神により、はじめから男あるいは女として創造された
 
 旧約聖書によれば、人は創造者である神によって、はじめから男あるいは女として創造されたといいます。
 
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1章27節 旧約聖書口語訳2p)。
 
 「神のかたち」の「かたち」とは外側の形状ではなく、「像」つまり内面的な「イメージ」です(8月5日日曜特別礼拝「人は神により、神に応答する者として創造された」参照)。そしてこれを関係論的な視点で説明したものが、神の呼び掛けに対する「応答性」ということであって、「応答性」があるということは呼び掛けることもできるということです。
 
その「神のかたち」として創造された人間が、「男と女とに創造された」(27節)ということは、男と女とが人としても、互いに応答し合うことのできる存在として、共に等しく造られたということを意味します。
 
 他方、人類の歴史が、強者が弱者を支配する歴史であり、男女の関係の場合、筋肉量が三割多い男性が、力の弱い女性を支配する歴史でもあったということは否定のできない事実でもあります。そのため女性の中にはつい最近まで、「何で自分は女に生まれたのだろう、女に生まれて損をした」と嘆く人がいたこともまた事実でした。
 
しかし、現在はそのように考える女性はほとんどいなくなったと言われています。それは女性の立場が昔に比べて圧倒的に優位になり、多くの権利が保証されるようになってきたからです。それは女性もまた神によって造られた性として、人格的な尊厳性というものが認識されるようになったということを意味します。そしてそれは特に北欧などのキリスト教社会において顕著です。
 
ただ残念なことにキリスト教と同じ一神教であっても、イスラム教の場合は趣(おもむき)を一変します。イスラム世界では女性は男性に比べて一段低い身分に甘んじなければなりませんでしたし、それは二十一世紀の現代も一緒です。
 
昨年、「独裁者」と称されたリビアの指導者カダフィ大佐が反対勢力によって殺害されましたが、ジャーナリストの高山正之氏の「変見自在」によりますと、カダフィ大佐が政権を握ることによって、それまでのリビアにおける一夫多妻制は事実上終了をしたというのです。実はイスラム教では妻を四人まで持つことができるそうなのですが、想像してみてください。それは女性にとっては何ともつらい地獄のような世界です。
 
リビアの政権を掌握したカダフィ大佐がどうしたかと言いますと、二人目の妻からは、正妻の許可を得ることを条件とするという改正案を出したというのです。その際、カダフィ大佐があげたのは、アブラハムがハガルによって跡継ぎを得るにあたり、正妻サラの承認を得たという故事でした。当該の例は、聖書では創世記にあります。
 
「アブラムの妻サライはそのつかえめエジプトの女ハガルをとって、夫アブラムに妻として与えた」(創世記16章3節)。
 
それは不妊のサラ(サライ)にとっては腸を裂かれるような苦渋の決断であったと思われます。二人目の妻ハガルがアブラハムに生んだイシマエルは、アラブ民族の先祖となったと言われています。
 
実はこれにはイスラムの法学者も困惑したそうです。しかしそのサラがハガルのことを承認したという事実はコーランにも書かれていますから、カダフィ大佐の出した条件を彼らは受け入れざるを得ませんでした。そして当然、正妻は二人目の妻など認めませんから、実質的にリビアの国はカダフィが統治している間、一夫多妻制は影をひそめたということです。一種の善政です。
 
しかし、この女性にとっての幸いな制度はカダフィの死後、すぐに廃止され、一夫多妻の習慣はすぐに復活をし、リビアでは夫は正妻の承認を得なくても複数の妻を持つことができるようになりました。欧米からは「中東の狂犬」と呼ばれたカダフィは、リビアの女性にとっては女性の人権を擁護する指導者であったわけです。
 
 人が「神のかたちに創造」されると共に、「男と女とに創造」されたという事実は、男と女とが同等であるということを意味するのですが、女性の方々は自分がイスラム世界に生まれなかった幸運、現代の日本に生を受けたという幸いを感謝する必要があるかも知れません。
 
 とは言っても、我が国では犬や猫ではあるまいし、「お嫁さんをもらう」などという言い方がまだ残っていることは問題です。それは女性の尊厳を冒涜するものであるからです。当て字だとは思いますが、「娘が嫁(かたづ)いた」などという言い方なども同様です。片付けるのは意志のない物や仕事に限られます。
 
 そういう意味で言うと、スポーツの実況でアナウンサーが「雌雄を決する」という言い方をするのも問題かも知れません。「雌」が敗者、劣った者を意味し、「雄」が勝者、優れた者を意味するからです。
 
 男と女とは神によって、同等な者として創造されたのです。
 
 
2.人が男また女として創造されたのは、助け合うためであった
 
 女は男よりも低い、あるいは劣っているという考えには根深いものがあり、専門家であってもそのような見方から聖書を読んでしまう傾向があります。聖書翻訳は聖書解釈の結果だからです。
 
創世記の二章の記述は一章とは違いますが、それは違った資料に基づいて書かれたからだそうです。一章では人は「男と女」(27節)として出てきますが、二章では最初、男しか登場しません。そのため神は、人がひとりでいるのは好ましくはない、彼に相応しい助け手を与えてやろうと考えます。
 
「また主なる神は言われた、『人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう』」(2章18節)。
 
神はどうしたかと言いますと、男を深く眠らせて、その眠っている男のわき腹から肋骨を一本抜き出して、その肋骨から女を造ったとあります。
 
「そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、そのところを肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた」(2章21、22節)。 
 
 聖書学校にいたころ、同級生の一人(男子)が同級の女子学生たちと意見が合わなくなり、そこで彼が思わず口走ったのが「あばら骨のくせに…」でした。
 
 これらの創世記の記述をそのまま文字通りに受け入れる必要はありません。これらの物語は古代の人々の、男と女との結びつきの堅固さ、密接不可分な関係を示す文学的表現として理解すればよいのです。大事なことは男性にとって女性というものは重要不可欠な存在であり、分身のようなものであるということであり、それはまた女性にも言えるということです。
 
 誤解をもたらすのが口語訳の「助け手」(18節)という訳です。「助け手」からはヘルパーを連想してしまうのですが、「助け手」はヘルパーではなく、むしろパートナーです。なぜならば、「助け手」と訳された原語は、詩篇では神について使われているからです。
 
「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けはどこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る」(詩篇121篇1、2節)。
 
 人が男また女として造られたのは、どちらかが他方を支配するためでは決してなく、互いに助け合うためなのでした。
 
 
3.男と女は互いの違いを認識することで、創造の目的を果たす
 
 女性差別は歴史的に確かに存在しました。しかし、その女性差別を解消すると称して、近年、行きすぎた運動が国をあげて展開されるようになりました。その運動は男女の平等性を強調するあまり、男と女の性差を否定するかたちで推進されるようになりましたが、それは我が国では「男女共同参画社会」の実現というかたちで法制化され、莫大な予算も付けられて特に教育の現場に浸透しつつあります。
 
 この運動体はこの寝屋川市にもあり、男女共同参画センターとして活動していて、実は私の妻もこのセンターに少し関わっているようで、二年ほど前のことですが、標語の募集があるということで、そこで夕食の折、こんなのはどうかと私が却下を承知で言ったのが「男は男らしく、女は女らしく」で、もちろん予想通り、それは「ダメでしょう」と即座に却下されてしまったのですが、それはこの「男らしさ」や「女らしさ」という表現が男女の役割を固定化するものとして、この運動が最も敵視する概念だったからです。
 
 ところでこの運動の背後にある思想は、高崎経済大学の八木秀次教授によりますと、マルクス・レーニン主義があり、その最終目的は家族の解体、国家の解体にあるということです。夫婦別姓の動きもその一つであるとされていますし、現政権がマニフェストで謳い、財源不足からポシャッてしまった「子供手当て」の理念もそうだと言われています。子供手当ての「子供は社会が育てる」という謳い文句は、育児の責任を親から社会に移行することによって家族制度というものを瓦解させようとする企みであるとも言われています。
 
話しを元に戻しますと、標語の選考の結果、妻が応募した作品が優秀賞に選ばれ、表彰されることになるのですが、その作品が「支え合う、男女の視点 共に生き」でした。
しかし、良く考えれば「男女の視点」が違うからこそ、互いに「支え合う」ことができ、その結果として「共に生き」ることが可能となるのではないでしょうか。
 
はっきり言いますと、男と女とはまったく別の生き物です。身体的な構造が異なっているだけでなく、脳の仕組みが根本から違うのです。だからこそ、両性は互いを必要とするとともに、互いに引き合うのです。最初、神が連れてきた女性を見た男(アダム)は彼女を見て感動の言葉を発します。
 
「そのとき、人は言った、『これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉、男から取ったものだから、これを女と名づけよう』」(2章23節)。
 
 男から取ったから、何で女なのだと思うのですが、ここにヘブライ語の言葉遊びがあります。男は「イーシュ」で女は「イッシャー」です。つまり「イーシュ」から取ったのだから「イッシャー」というわけです。
そして創世記は男の歓喜の言葉を受けて、互いに違った者同士の結び付きを強調します。
 
「それで人はその父と母とを離れて、妻と結び合い、一体となるのである」(2章24節)。
 
 男と女とは人間としての権利は法的に同等であり、人格の尊厳性もまた等しいものであっても、全く違った生き物です。そして人は互いの違いを認め合うことによって、創造の目的を果たすことができるのです。
「その父母を離れて」とは、成人としての自立、成熟を意味します。人は成熟した時にはじめて親の庇護から離れて、ひとりの男性また女性として他者との共同の生活に入ることができる資格を得るという意味です。
そう言う意味では「男がより男らしく」「女がより女らしく」あることを目指すことは、創造の秩序に従ったものであり、自然の理(ことわり)です。男と女とが異なった特質を持っているからこそ、「一体」となる過程を進むことができるようになるのです。
 
もちろん、女っぽい男がいても構いませんし、男っぽい女がいても構いません。それは個性だからです。しかし、男女の違いを否定するイデオロギーこそ、反神的思想、人を不幸にする思想として警戒する必要があります。
聖書は言います、神は(人を)男と女とに創造された、と。男も女も、自らの性が神の選びの結果であることを認識するところから、自分自身とは違った性を尊ぶことができるのではないでしょうか。
 
男と女とは互いの違いを認識することによって、神による創造の目的を果たすのです。





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