2012年8月12日日曜礼拝説教(「信教の自由を守る日」に寄せて)「人間の本分、そして国家の本分とは」伝道の書12章13節

投稿日時 2012-08-12 16:01:51 | カテゴリ: 2012年礼拝説教

2012年8月12日  日曜礼拝説教

「人間の本分、そして国家の本分とは」     

伝道の書12章13節(旧約聖書 口語訳932p)
 
 
はじめに
 
 八月十五日はわたしたちの教会が所属している日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が、「信教の自由を守る日」として重要視している日です。この「信教の自由を守る日」は今からちょうど三十年前の教団総会において制定され、翌年の一九八三年から守られるようになりました。
 
制定の経緯はこうです。一九八一年の教団総会において、「他の教団には『信教の自由を守る日』があるのに我が教団にないのはなぜか。我が教団も『信教の自由を守る日』を定めるべきではないか」という発言がありました。発言したのは東京板橋区にある志村教会牧師(当時)の長屋 勇先生でした。
 
教団理事会は、その問題提起は尤もなことであるとして、総務局会議に対し、「信教の自由の日」の制定に関する検討作業を指示しました。総務局会議とは総務局長と総務局員によって構成された、理事会のブレーン(企画立案担当)という役割を期待されて設置となったばかりの部署で、その中にたまたま私も入れられたところでした。
 
 その作業過程では制定の必要性の有無を論じると共に、制定した場合の具体的な「日」についての検討を行いましたが、その中で私は八月十五日を提案しました。当時、他教団のほとんどは二月十一日の建国記念日を「信教の自由を守る日」としていたのですが、信仰や思想に関する種々の桎梏がとれた日でもある終戦記念日の八月十五日こそ、「信教の自由を守る日」に相応しいのではないかというのがその理由でした。
 
答申を受けた教団理事会は一九八二年秋の教団総会に教団の「信教の自由を守る日」制定案を上程し、総会が提案を可決承認した結果、翌年の一九八三年から実施の運びとなったわけです。
 
「信教の自由を守る」ための啓発活動は、時を前後して教団に設けられた社会問題委員会の所轄事項として展開されることとなりましたが、今年も同委員会から諸教会に対して、八月十五日に近い聖日(日曜日)に「信教の自由」をテーマに礼拝をささげ、関心を深め、祈り合う時を持ってはどうか、その具体的なテーマとしては「日本国憲法に触れてみては」どうかという提案がありました。
   
そこで三日後に終戦記念日を迎える今日、八月十二日の日曜礼拝では、「伝道の書」の結びの言葉を通して人間の本分とは何か、国家の本分とは何かということについてご一緒に考え、祈ることとしたいと思います。
 
なお、現行憲法の成り立ちについては、玉川吉昭社会問題委員長執筆による「日本国憲法の成り立ち」(社会時報第三十七号)に要領よくまとめられていますので、参考になさってください。 
 
 
1.人間の本分、それは神を恐れること
 
 「伝道の書」はヘブル語原名が「コヘーレス」で、その意味は「会衆の指導者」だそうです。そこから新改訳聖書では「伝道者の書」、新共同訳ではそのまま「コヘレトの言葉」を書名としております。
本書は著者も著作年代も不明ですが、書かれたのはおそらくは紀元前三世紀半ばであろうと言われています。
「空の空、空の空、いっさいは空である」(1章2節)などの記述にありますように全体的に虚無的な雰囲気が漂っているところから、日本人にも好まれている文書です。
 
 先週の特別礼拝では、人は神により、神の呼びかけに応答する者として造られたということを確認しましたが、聖書、特に旧約聖書を大別すると、上から、つまり神から人への呼びかけの言葉と、下から、つまり人間から神への問いかけの言葉から成っていると言えます。
 そして下からの問いかけの言葉を知恵文学と言いまして、伝道の書などはその典型です。
 
でも問い掛けは問い掛けのままでは終わりません。回答があります。伝道の書の場合、それが十二章です。伝道者あるいは説教者は長い思索遍歴の末に、人生とは要するに「神を恐れ」ることに尽きるのだと結論付けます。
 
「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」(伝道の書12章13節 旧約聖書口語訳932p)。
 
 「本分」とは、人にとってしてもいい、しなくてもいいなどというものではなく、何はさておいてもしなければならない本来の務め、義務を意味します。
 
患者を正しく診断して適切な治療を行うこと、それが医師の本分であり、生徒を正しく教え導くこと、それが教師の本分であり、聖書を正しく解き明かすこと、それが説教者の本分であり、ボールを敵陣に蹴り込むこと、それがサッカー選手の本分です。横パスやバックパスばかりするのがサッカー選手の本分なのではありません。
 
 動物ではない人間にとっての本分とは、「神を恐れ」(13節)ることである、それが、伝道者が模索の末に辿りついた結論でした。
 そしてそれはある種の人間にとっての本分ではなく、「すべての人の本分」です。ということは、日本人もまた、それぞれが持っている宗教は宗教として、天地を創造した「神を恐れ」ること、敬い崇めることは人としてなすべき義務なのです。
 
 
2.神を恐れるとは、神の戒めを尊ぶこと
 
 でも、「神を恐れ」るといっても、漠然としています。そこで伝道者は言います。「神を恐れ」るとは、神の命令を守ることである、神の戒めを尊ぶことである、と。
 
「すなわち、神を恐れ、その命令を守れ」(12章13節)。
 
「命令」というと有無を言わせぬ高圧的な感じがしますが、「命令」は戒めという意味です。戒めでもまだ押し付けられたものというように感じるならば、ルールと言い換えればよいでしょうか。たとえばスポーツは一定のルールに従って展開されます。
 
サッカーのルールはよくわかりませんが、悪質なルール違反にはレッドカード、つまり一発退場の処分がくだされます。悪質度が低い場合はイエローカードで、これが二枚になると退場となります。悪質度がより低い場合でもファウルとされてボールは相手側のものとなり、フリーキックが与えられる場合があります。
 
メダル、メダルと熱狂したロンドンオリンピックは日本時間では明日の明け方に閉幕式が行われます。女子サッカーは残念ながら銀メダルでしたが、出場チームの中でファウルが最も少なかったのが我が「なでしこジャパン」でした。決勝戦でも米国がイエローカード1、ファウル15に対し、日本はイエローなしのファウル7でした。
 
問題は審判でした。前半二十六分、宮間あやのフリーキックの際、ヒースの明らかなハンドをドイツ人の主審は見逃してしまいました。ここは当然、ハンドの判定、そしてPK、さらにそのPKが成功すれ同点となる場面でした。もしも某国ならここで激しい抗議、座り込みということになるのでしょうが、一度は「ハンド」と声をあげたものの、日本チームはそれ以上の抗議はせず、主審の判定に従ってゲームを進めました。
 
人の住む社会もまた、ルールに従って成り立っています。一定のルールがあるからこそ、市民生活は安全かつ快適に営まれます。
そして認めると認めないとに関わらず、ルールの背後には正義の神の意志があります。つまり、地上におけるさまざまのルールとは正義の神の「命令」を具体化したものなのです。しかもその命令はとりわけ、弱者を守るという視点で貫かれているのです。
 
もっとも十七世紀のフランスには「朕(ちん)は国家なり」などといって、絶対権力をふるった王様がいましたし、我が国のプロ野球界にもかつて、「私がルーツブックだ」と言った審判がおりましたが、ルールは特定の人間が恣意的に定めるものではなく、神への恐れを抱きながら、正義の神の意志を反映させるものとして正しい手続きで制定されるものです。
 
私たちが暮らしている日本社会にも各種のルールがあり、それらのルールをまとめて法令と呼んでいます。法令は合法的に、そして定められた手続きに従って決められますが、それには順位というものがあります。法令を上から言いますと、憲法、条約、法律、政令、省令、訓令、要綱、条例となります。
 
憲法は国家の最高の規範であって、法律その他の法令は憲法の範囲内でしか定めることはできません。
条約は国と国、あるいは国際機関との間に交わされた取り決めで、国内法に優先します。
法律は国会が決める国のルールです。政令は閣議で決められた国のルール、省令は省の担当大臣が決めたルール、条例は地方議会で決められたルールです。
 
市民生活に直結した条例の場合、たとえば犬の放し飼いは大阪府では「大阪府動物の愛護及び管理に関する条例」によって禁止されていますし、寝屋川市では歩きながらの喫煙や吸い殻のポイ捨ては、「寝屋川市美しいまちづくり条例」で禁止されています。
つまり法令とは市民、国民が安全かつ快適に暮らすためのルールであって、ルールがなければ、またルールが守られなければ社会は混乱し、無秩序の状態になってしまいます。
 
そういう意味で神を恐れ、神を尊ぶとは、正義の神の意志が反映されている筈の法令を遵守(じゅんしゅ)することでもあるのです。
そしてそれは神を認める有神論者、神の存在を認めない無神論者、神がいるかどうかは分からないという不可知論者「すべての人の本分」(13節)です。
 
 
3.国家の本分、それは国民を守り抜くこと
 
 我が国の最高の法令は一九四七年(昭和二十二年)五月三日に施行された日本国憲法です。施行以来、一度も改定されることなく今日まできました。同じ敗戦国のドイツの基本法(ドイツ連邦共和国基本法)がこれまでに六〇回近く改定されているのに対し、日本国憲法は施行以来手つかずのままです。
 
安倍晋三内閣の功績の一つは「日本国憲法の改正手続きに関する法律(国民投票法)」を国会で成立させたことでしょう。五年前のことです。これによって憲法の改正が可能となりました。しかし、第九条の護持を至上命題とする勢力は理不尽にも改正論議すら拒みます。
 
現行憲法をめぐる問題の一つはその合法性にあります。玉川教団社会問題委員長の論考(社会時報・第三十七号)は、一般にはあまり知られていない(知らされていなかった)戦後憲法の成り立ちについて分かり易く解説しているものですが、現行憲法は主権を失っていた占領下、しかも占領軍の役人たちによって作成され、日本側がその採択を事実上強制された「占領憲法」です。
本来ならば主権国家の権利として一九五二年(昭和二十七年)の主権回復の直後に、自主憲法の作成作業に入るべきでした。
 
第二の問題は前文と第九条にあります。前文の「日本国民は、恒久の平和を念願し」はいいのですが、日本国の「安全と生存を保持」するための手段が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することとなると、それはどうかと首を傾げる人が増えてきました。
 
一昨日、現職の韓国大統領が我が国固有の領土である島根県竹島に「不法侵入」しました。竹島は戦後の混乱期の一九五二年に、韓国が火事場泥棒的に取りこんでしまった島ですが、あくまでも日本固有の島です(竹島の問題については6月17日の説教「真実と向き合う知恵と勇気を」の「はじめに」で少し触れました。詳しく知りたい方は外務省のホームページをどうぞ。軟弱外交が批判されている外務省ですが、竹島に関する記述は的確であって、根性が入っています。なお韓国併合のその後については2月12日の「敬虔の修練が永遠を左右するー自身に塩を持つ」の「はじめに」をごらんください)。
 
以後、韓国は世界中で竹島(韓国では竹島を独島と呼びます)を我が領土とアピールしています。昨日早朝(日本時間)に行われたオリンピックの男子サッカーの試合後にも、一選手が「独島はわが領土」とハングルで書かれたプラカードを掲げてアピールをしていました。
 
これはオリンピック憲章に違反する行為です。きっと大問題になることでしょう。オリンピック憲章はその第五章51の「広告、デモンストレーション、宣伝」において、「オリンピック開催場所、会場、他のオリンピックエリアにおいては、いかなる種類の示威行為もしくは政治的、宗教的、人種的な宣伝活動も認められない」と定めているのですが、当該の選手の行為は政治的主張そのものであって、それは明らかな憲章違反です。
 
彼等はこのアピールをどこででも行います。でもその彼らが地球上ただ一つ、決してアピールをしようとしないところがあります。それがオランダ・ハーグです。
ハーグには国連の正式機関である国際司法裁判所の本部が置かれています。日本は竹島の問題で過去に二度ほどこの国際司法裁判所に提訴をしましたが、韓国は応じようとしませんでした。
なぜ提訴に応じようとしなかったかと言いますと、歴史的、法的根拠を調べられたら自分たちが敗訴することがわかっているからです。つまり自信がないのです。でも、ハーグ以外の所ではどこででも「独島は我が領土」とアピールしています。
 
今回の現職大統領の竹島上陸を踏まえて日本の外務大臣が国際司法裁判所への提訴を行うかのような発言をしましたので、おや珍しくと思ってよく読んでみると「提訴を…検討する」でした。「提訴する」ではなく、「検討する」とした段階で足元を見られています。
 
李承晩ラインが一方的に引かれたあとの十三年間で、韓国による日本人漁民の抑留者は三九二九人、拿捕された漁船は三二八一艘、死傷者は四十四人、そのうち五人が死亡しています。
韓国政府は抑留者の返還と引き換えに日本国内で犯罪を犯して収監されていた在日韓国人、朝鮮人四七二人の釈放を要求し、しかも彼らの韓国への送還は拒絶し、日本国内での解放を求めるという不法ぶりであったことを、日本の歴史教科書は一切教えませんが、これらのことは昔の話ではなく、わずか半世紀ほど前に起きたことだったのです。なお李承晩大統領は四選直後、不正選挙を糾弾されてハワイに亡命し、ハワイで死去しました。 
 
このように国家というものは国益が第一であって、竹島のように他国の領土であることわかっていても隙あらば自国の領土にしようと虎視眈々と狙っているものなのです。それが国家というものの本能であって、そしてそれが世界の、とりわけ東アジアの現実です。
 
ネットに流れている有名なジョークがあります。
 
神は最初に天と地を造った。海をつくり、山をつくった。
そして日本という国を造った。
日本には四季豊な気候と、世界一美しい風景と、世界一おいしい食べ物を与え、世界一勤勉な民族を住まわせた。
そこで天使が言った、「神様、これではあまりにも日本が恵まれ過ぎています」
神が答えた、「心配するな。となりに韓国をつくっておいた」
 
このジョークはバージョンによっては「となりに」に「中国」や「北朝鮮」が入ります。
尖閣の例でもそうですが、現実離れのした前文は検討し直す必要があるのではないでしょうか。
 
そして第九条です。九条の解釈として、日本には個別的自衛権はある、だから国土を侵略されたら自衛することはできる、そうなのですが、しかし九条の第二項には「国の交戦権は、これを認めない」とあります。要するに日本は戦ってはならないという規定です。
 
玉川師の論考によれば、マッカーサーの指示(いわゆるマッカーサーノート)には「日本は紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてさえも、戦争を放棄する」とあったそうです。しかし、草案作成の段階で、さすがにそれは非現実的として削除され、その後、いわゆる芦田修正を経て現行文に落ち着いたとのことです。
 
憲法を作成させたマッカーサーの当初の狙いには二つあって、一つは日本には米国に歯向かう牙、つまり戦力を持たせてはならないということでした。それが戦力の不保持、戦争の放棄となりました。
 
そしてもう一つの狙いとして、日本に米国のような民主主義を根付かせることによって、日本を米国の良き同盟国として育てようという素朴な意図があったようです。
この思いは一九五二年五月の米上院外交軍事委員会における「日本人は十二歳」という発言に表れていると思われます。この発言は日本人の精神年齢は十二歳であるというように伝えられたため、これを機に日本人のマッカーサー熱は一気に醒めてしまうのですが、マッカーサーの真意は、民主主義の成熟度はまだまだ少年であって、自分は少年である日本を育てるための手立てを講じたのだと、自らの手柄を誇った発言だったのです。
 
しかし、日本の民主主義が未熟であるとの見方は日本の歩みに無知であったマッカーサーの誤解です。戦時中の一時を除けば日本の民主主義は、大正時代以来、欧米に比しても遜色のない成熟度に達しつつあったのでした。
 
国家の「本分」は領土、領海の防衛であり、国民の生命、自由、財産、安全を守ることです。ところが国後、択捉、歯舞、色丹、さらには千島列島、南樺太などの日本固有の領土をロシアに奪われ、韓国には竹島を不法占拠され、尖閣も風前の灯という状態を目にしつつ、ただ手を拱いている、それが現行憲法をいただく日本という国の現状です。
 
また北朝鮮による数百名にのぼるといわれる拉致被害者の奪還もできないという点でも、第九条のある現行の日本国憲法は国家の「本分」を実現するための法令とは思えない、つまり、神の「命令」(13節)を守っているとはとても言えない、それが前文と第九条に集約されているという見解には耳を傾ける必要があるかと思います。
 
憲法はあくまでも国民を守るものでなければならず、国家の本分もまた、最高の法令を定め、その法令に則って国民を守るものでなければなりません。それが「神の僕」(ローマ人への手紙13章4節)としての国家の本分なのです。
 
そして考えなければならない最後の問題は、現行の憲法第九条の位置です。この問題はキリストを主と告白し、福音の宣教を重要視するクリスチャンにとっては看過することのできない問題です。
 
二〇〇五年、日本福音同盟の総会で「戦後60年にあたってのJEA声明」が採択されたのですが、その声明文要旨をクリスチャン新聞で読んで、愕然とさせられました。
 
声明では「戦後六〇年間、日本が戦争に加担せず、世界と平和に過ごすことができたのは、日本国憲法があったから」だと主張しているのですが、日本が戦争に巻き込まれなかったのは、むしろ日米安全保障条約という米国との条約によって守られていたからであると考える方が理にかなっております(日米安保の問題については、7月8日の説教「神の国の民として地上の民を生きる」の「1.地上にあっては良き市民、良き国民であれ」で触れております)。
 
 もちろん、この安保条約は米国の国益に適うからこそ締結されているものであって、決して日本のために結んだのではありません。あくまでも米国の国益のためです。国家というものは自国の利益が第一であるということは自明のことだからです。
 
また、「声明」には憲法第9条の改正の動きを阻止し、「第9条を守るために、キリストにあって『心を一つにし、共に奮闘』することを誓う」とまで書かれているのですが、『 』の中の言葉はピリピ人への手紙の一章二十七節の引用であって、著者であるパウロが願う「心を一つにして、ともに奮闘」すべきこととは「憲法9条を守るために」ではなく、あくまでも「福音の信仰のため」なのです。
声明は聖句を使って「福音の信仰」と、憲法第九条とをすり替えているのです。
 
そして更に大きな問題は「21世紀を真に平和の世紀とするために憲法第9条を世界に広め、福音宣教の使命を果たすために、『私をお遣わしください』(イザヤ6・8)と祈りつつ、自分自身を主にささげます」という結びの言葉です。
ここでは可変的である筈の、そして人がつくった憲法と、不変かつ主からもたらされた至上命令である筈の「福音宣教の使命」とが同等の扱いとされており、しかも「憲法第9条を世界に広め」ることが、「福音宣教の使命」の前に置かれているのです。
「憲法9条を世界に広め」よと言ってからイエスが昇天したとは、福音書のどこにも、また使徒行伝のどの個所にも記録されていません。 
「日本福音同盟」はいつのまにか「日本憲法第9条福音同盟」になってしまったかとさえ思えてきます。
 
現行の憲法に関しては玉川委員長が論考の「おわりに」で触れているように「護憲、論憲、改憲と、様々な意見があると思われます」。大切なことは人の意見や、自分が所属している団体、職場などの思想傾向に影響されず、自らの頭と心で考えることが大切です。
 
「信教の自由」とは要するに信仰の自由ということであって、憲法でも保証されている各種の自由の根幹をなすものです。そして怖いのは知らず知らずのうちに信仰の自由という大事な自由が、無神論的、あるいは不可知論的イデオロギーの影響を受けて、自分自身では神を恐れていると思い込んでいながら、神を恐れることのない思想に浸食されてしまうことです。
 
すべての人が、そして国家がその「本分」として「神を恐れ、その命令を守」(13節)らなければならない理由は、人が「善」であると思い込んでした行為であっても、神が是とするとは限らないということ、また反対に「悪」と批判されたことが神から是とされることもあるということです。つまり最終判断は神のみが行うという原則が存在しているからです
「伝道者」の言葉の結びで強調されていることが、まさにそれだったのです。
 
「神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」(12章14節)。





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