2012年3月4日日曜礼拝説教「絶対依存の感情こそ、信仰の本質」マルコによる福音書10章13〜16節

投稿日時 2012-03-04 16:18:19 | カテゴリ: 2012年礼拝説教

2012年3月4日日曜礼拝説教

「絶対依存の感情こそ、信仰の本質」

マルコによる福音書10章13〜16節(新約聖書口語訳69p)
 
はじめに
 
子供が「子供らしい」と言われるのは褒め言葉ですが、いい大人が「子供っぽい」とか「子供じみている」あるいは「大人げない」と言われるのは、不名誉なことです。
 
ところが二週間ほど前、政権党の政策調査会長が記者会見から特定の新聞社を締め出してしまいました。理由は「悪口、ペンの暴力のたぐいが受忍限度を超えた」からなのだそうですが、実現しもしないことを次々と発言することから当該の新聞社がこの政調会長さんを「言うだけ番長」と名付けたことに腹を立てたというのが真相のようです。
 
因みに「言うだけ番長」は、「夕やけ番長」という、四十年ほど前に冒険王という漫画雑誌に連載されていた梶原一騎原作の劇画のタイトルをもじったもので、プロレスラーの前田日明(あきら)が長州力を揶揄するために使ったのが始まりであったと言われています。まあ、どうでもいいことですが。
 
しかし政治評論家やネットなどで「政党助成金を受けている議員、しかも政権党の要職にある者がすべきことではない」「あまりにも子供じみている」という批判が続いたためか、数日後に撤回をしたようです。
 
大人は幼稚性を克服して大人らしくなければなりませんが、イエスは大の大人に対して、幼な子のようであることを求められました。
 
今週はイエスの「幼な子のようであれ」というお言葉の真の意味について考えさせられたいと思います。
 
 
1.祝福を求めて御許を訪れる幼な子のような者を、神は優先的に歓迎する
 
 古代ユダヤでは、子供が最初の誕生日を迎えるころになると、子供を高名な律法教師のもとに連れて行って、手を按(お)いて祝福のお祈りをしてもらうという習慣があったそうです。
たまたまエルサレムに向かって旅を続けているイエスとその一行を見つけた沿道の人々は、イエスのところに子供を連れてきて祝福を祈ってもらおうとしました。ところがその親たちを弟子たちが嗜(たしな)めた、つまり注意をしたというのです。
 
「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた」(マルコによる福音書10章13節 新約聖書口語訳68p)
 
 普段でしたら弟子たちも人々をそのままにしておいたかも知れません。でもこの時イエスは一歩また一歩と、何が待ち受けているかわからないエルサレムに向かう途中でした。弟子たち自身、神経がピリピリと張り詰めた緊張状態の中にあったでしょうし、彼らは彼らなりにイエスを煩わしいことから守ろうという気遣いから、親たちを嗜めたのだと思います。
 
 しかしその弟子たちに対しイエスは、彼らの気遣いを評価するのではなく、憤りを露わにして、幼な子たちが私のもとに来ることを止めてはならないと、むしろ、弟子たちの方を嗜められたのでした。
 
「それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、『幼子らをわたしのところに来るままにしておきなさい。止めてはならない」(10章14節前半)。
 
 なぜ、イエスは弟子たちを嗜めたかと言いますと、まさにそこにこそ、イエスの特質が示されていると言い得るのかもしれません。
イエスというお方はご自分のことよりも常に他者を優先されたお方でした。そしてこの場合、イエスが優先的に歓迎した「幼な子」とは文字通りの幼児でしたが、この「幼な子」とは「幼な子のような」心を持つ人の比喩でもありました。
 
イエスが歓迎もし、愛しもしたのは頑是ない幼な子だけではなく、幼な子のような心と姿勢でご自分を求めてくる人々であったのです。それは昔も今も変わることはありません。
 
 
2.絶対依存の感情という信仰の本質を体現するもの、それが幼な子である
 
 弟子たちを嗜めたイエスは言葉を継いで、神の国は幼な子のような人が住むところであると言われました。
 
「神の国はこのような者の国である」(10章14節後半)。
 
 かつて外務省の国際情報局で主任分析官として活躍していた佐藤 優によって、最近、シュライエルマッハーという、二百年前の神学者が脚光を浴びるようになりました。
 
佐藤 優によりますと、中世までの世界の構造は「お椀が何重にも伏せてあって、一番下のおわんが月、その上のおわんが金星、その上に火星がのっかっている。(それは)おわんがいくつも重なっているという宇宙観で、その天辺(てっぺん)に神様がいる、という考え方」(NHK出版新書「はじめての宗教観 左巻」27ページ)であった、しかし、「上にあるとされた神の居場所が、天動説から地動説に変わったことで物理的に証明できなくなったときに、(シュライエルマッハーが出てきて)感情と直観という形で神の居場所を人間の心の中に定義し直した」(29ページ)のだというのです。
 
 シュライエルマッハーは「宗教の本質を、思惟でも行為でもなく、直観と感情である」と定義しましたが、それは幼な子が理屈抜きで親を求めるように、人も受け身の態度で、直観と感情によって神を知る、という意味のようです。そして佐藤によればシュライエルマッハーによるこの宗教の定義は晩年になると、「『絶対依存の感情』」へと変化します」(44ページ)。
 
 「依存」には相対依存と絶対依存とがあります。
 
幼な子の親への依存は絶対依存です。幼な子は親または親に代る保護者がいなければ生存することはできません。
 
以前、教会で開催した教育講演会に講師として来てくださった亀井俊博牧師(現芦屋福音教会名誉牧師)が、親と子供の関係を、母親を大きな円、子供を小さな円で説明をして下さいました。妊娠中、子供を示す小さな円は母親を表す大きな円の中に納まっていますが、出産後、生まれてきた子供がまだ幼い場合、小さな円の半分は大きな円の中にあります。
 
しかし、小さな円は大きくなるに従って段々と大きな円から離れていくようになります。それはつまり、親がいなければ生きていけないという「絶対依存」の状態から、少しずつ独立していく「相対依存」の関係に変わっていくという過程を表したものでした。
 
 確かに親と子の関係は、成長に従って子供は親離れをしていきますし、むしろそうでない方が異常です。しかし、人と神との関係は、人がどんなに知恵を得、知識を得たとしても相対依存ではなく、絶対依存の関係でなければなりません。
 
そして人間として最も完成された人間性を持っていたイエス・キリストはその生涯を通じて、創造者である父なる神に対し、「幼な子のように」(15節)神を求め、神を感じる「絶対依存の感情」で向かい合ったお方だったのです。
 
 イエスが例にあげた「幼な子」とは神への「絶対依存の感情」を、日々の暮らしの中で無意識のうちに体現している存在でした。「神の国とはこのような者の国である」(14節)というイエスの言葉は、神を信じるということを困った時の神頼みのように考える相対依存的信仰から脱却して、幼な子のような絶対依存の感情と姿勢で生ける真の神を求め、またその神に聞くという信仰に転換することを促す言葉だったのでした。
 
 
3.神の国は幼な子のように絶対依存の感情で神に寄り縋る者の世界である
 
 イエスは神の国は幼な子のような者が住む国である、と説くと共に、神の国を幼な子のように受けいれるものでないと、神の国には入ることができない、とも言われました。
 
「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(10章15節)。
 
 イエスの話には「神の国」という言葉が何度も出てきますが、「神の国」を別の言葉で説明すれば、ユダヤ人が人生の最終目標として獲得することを願っている「永遠の生命」のことであって、それは「永遠の滅び」の反対です。
 
唯一のまことの神と共に、そして神を信じる者たちと共に永遠に暮らすことが「永遠の生命」であり、命の神から切り離されて、孤独の中で自分が犯した罪を永遠に悲しみ続ける状態が「永遠の滅び」です。 
 
そしてこの「永遠の生命」に入るには、「幼な子のように神の国を受けいれる」(15節)ことが絶対条件であるとイエスは言うのです。
 
その幼な子の特徴は二つあります。
 第一に、幼な子は相手の言葉を信用し、差し出されたものを疑うことなく素直に受け取ります。
神の独り子のイエスがキリストとしてこの世に来られたのは、神に背を向けている私たち人類に神の国、永遠の生命を与えるためでした。そしてイエスは神の言葉を信じるだけで、具体的にはイエスを主キリストとして信じ受けいれるだけで、信じる者を神の子供としてくださり、永遠の生命の中に入れて下さっているのです。
 
しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネによる福音書1章12節 135p)。
 
 「幼な子のように神の国を受けいれる者」とは、神が差し出してくださった救いを、疑うことなく素直に感謝をもって受け取る人のことを意味します。
 
 幼な子のもう一つの特徴は、差し出されたものを受け取るにあたり、相手への信頼から、それを取引などとは考えていなことです。
 確かにこの世界は取引で成り立っています。ユダヤ人も永遠の生命を手に入れるために、神と取引をする必要があると考え、具体的には十戒とその細かい規定を集めた律法、その律法をさらに細かく定めた「先祖からの言い伝え」を遵守することが代価となる、と考えたのです。そしてその中でもポイントの高い善行が「施し」と「断食」と「お祈り」でした。
 
でも神の国に入るための権利はとても高価で、どんな宝を積んでも高嶺の花であって、もしも神の国に入ることができる人がいるとするならば、それは人なるイエスだけでした。なぜならばイエスだけが律法の要求を隅から隅まで全部守り切ったただひとりの人であったからです。
 
 そのイエスが人類に代って罪と罰を受けてくださったので、イエスを信じる者は誰でもイエスのお蔭で神の国に入ることができるようになったのです。ですから取引は不必要なのです。
 
高価な代価はすでにキリストであるイエスによって払われています。あとは、信仰を取引などとは考えず、差し出された恵みを幼な子のように、素直に感謝して受け取ればよいのです。
 
 食事のたびに食費を計算して親に支払う幼な子はいませんし、支払い能力がないからお母さんのおっぱいはここらへんで我慢しよう、という乳飲み子がいないように、人に求められているものは幼な子のような絶対依存の感情と姿勢で、安心して神に寄り縋ることなのです。
 
 実はこの「絶対依存」という姿勢を持つことは、女性の場合、比較的容易なのですが、自尊心の高い男性には苦手な事柄なのです。そういう意味で「だれでも幼な子のように」(15節)というイエスの言葉は、特に男性に向けられて語られたものなのかも知れません。
 





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