2012年7月22日日曜礼拝説教「最も大事な戒め、それはただ愛すること」マルコによる福音書12章28〜37節

投稿日時 2012-07-22 16:05:05 | カテゴリ: 2012年礼拝説教

2012年7月22日  日曜礼拝説教

「最も大事な戒め、それはただ愛すること」     

マルコによる福音書12章28〜37節(新約聖書 口語訳73p)
 
はじめに
 
 一般に男性は女性の話しを丁寧に聞くのが苦手です。女性の話しはそもそもの発端から始まって経緯(いきさつ)を述べ、そこに、その時その時に懐いた感情を加えて語る傾向があって、なかなか結論に至らない、そこで気の短い男性(夫)は、ついつい「結論を言ってくれ、結論を。要するに何をいいたのだ」と苛々することになるというわけです。
 
ところで聖書ですが、「聖書って何?」と問われたら、「聖書は神による人類の救済について書いてある文書であって、旧約聖書は神による救済を実現するための救世主が後の時代に到来しますよ、という予告書であり、新約聖書は旧約聖書で予告されていた救世主が到来しましたよ、という報告書なのです」というように説明しています。そしてその救世主がイエス・キリストなのです。
 
 実際のところ、世界の歴史はイエス・キリストの出現によって二分されております。
 
紀元前をBC、紀元後をADと表記しますが、BCは英語の「Before(以前) Christ(キリスト)」を、ADはラテン語の「Anno(年)Domini(主の)」を略したものであって、それぞれ、「キリスト(誕生)以前」、「主(であるキリスト)の(生誕)年」を表します。
因みに昭和や平成という元号は、天皇の即位によって建てられた日本だけの年号です。
 
 ただ私たちにとって問題なのは、「予告書」にしても「報告書」にしてもとにかく聖書は長すぎるということです。日本語訳の聖書は最新の翻訳の新共同訳の場合、旧約は一五〇二ページで、新約は四八〇ページ、合計一九八二ページもあり、しかも二段組みです。
 
私が教会に行き出したのは十五歳の春でしたが、小遣いをはたいて一八〇〇円で購入した口語訳黒革表紙の中型聖書は、創世記からヨハネの黙示録まで読み終わるのに、丸一年かかりました。
私の場合、高校生だったから一年で読めたのであって、忙しい人になると読了するのに何年もかかるのではないかと思います。
 
そこで今週は、この厖大な量と複雑な中身を持つ聖書の中で最も大事な教えは「要するに」何なのかということを、イエスの言葉から教えられたいと思います。
 
結論から言います、聖書の中で最も大事な戒め、それはひたすらに愛するということです
 
  
1.神の教えの究極、それはただ愛すること
 
 死者のよみがえりをめぐってイエスに巧妙な罠を仕掛けたつもりが、そのイエスから、聖書の、それも自分たちが重視をしているモーセ五書によって、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか」(24節)と自分たちの無知を指摘されたのが、知者を自認するサドカイ人たちでしたが、両者のやり取りを聞いていて、イエスの答えに感心した一人の律法学者がイエスに質問をしてきました。
 
「ひとりの律法学者がきて、彼らが互いに論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問をした、」(マルコによる福音書12章28節前半 新約聖書口語訳73p)。
 
 「律法学者」と訳された原語の本来の意味は書記であって、元々は祭司の中で聖書を筆写する仕事に就いていた写字生を指しましたが、聖書を専門に筆写していることから聖書、つまり律法に精通するようになり、その結果、律法学者、律法教師という立場が生じたそうです。因みに律法の教師にも補教師と正教師とがあって、四十歳にならないと正教師になることはできなかったようです。
 
律法学者の役割は聖書の戒めの意味を解釈することと、解釈した戒めを人々の生活に具体的に適用させることでした。その聖書の専門家である律法学者がイエスに向かって、すべての戒め、規則の中で、第一の戒め、最も大事な戒めはどれでしょうかと尋ねたのでした。彼の態度はこれまでにやってきた、表面は慇懃であってもその実、無礼極まる三つのグループとは全く違ったものでした。
彼はイエスを「先生」と呼び、敬意を表しています。そこで使われている原語は「教師」を指す言葉でした。
 
そこで、この律法学者はイエスに言った、『先生、仰せのとおりです』」(12章32節前半)。
 
 この真摯で率直な律法学者に対するイエスの答えは、「ただ愛するということこそが、聖書の中心であり、そして究極の、最も大事な戒めである」ということでした。
 
「第一のいましめはこれである。『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」(12章29〜31節)。
 
 紀元三〇年のこの時代は、ローマ軍の侵攻を受ける前ですから、まだエルサレム神殿は存在しており、多くのユダヤ人は神殿祭儀といって、神殿において犠牲を捧げることが最も重要な戒めであると思い込んでいたのでした。
 
イエスの答えはこの律法学者の行き詰まっていた考え方を整理させ、彼を神学的カオス(混沌)から解放することになったようでした。
律法学者はイエスの言葉によって永年の迷いから覚めて確信を持ち、「先生、ほんとうにその通りです。ただただ愛するということが、犠牲よりもはるかに大事なことでした」と感激をしながら反応しました。
 
「先生、仰せのとおりです。…『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭(はんさい)や犠牲より、はるかに大事なことです」(12章32、33節)。
 
 律法学者のこの反応に対して、イエスは、肯定的な評価をしています。
 
「イエスは、彼が適切な答えをしたのを見て言われた、『あなたは神の国から遠くない』」(12章34節)。
 
紀元前七二一年、サマリヤを首都とする北イスラエル王国がアッシリヤ帝国の攻撃を受けて滅亡するという事態が起こりました。そのアッシリヤが次の獲物として狙ったのが南のユダ王国でしたが、当時、南ユダ王国で活動していた預言者ミカは民に向かって、国の滅びと神による民族の再興とを預言し、その中で神殿犠牲に優る愛の優先性というものを説いていたのでした。
 
「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもってそのみ前に行くべきか。…人よ、彼はさきによい事の何であるかを告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」(ミカ書6章6、7節前半、8節 旧約聖書1290p)。
 
昔も今も、聖書の教えの究極は、ただただ愛するということなのです。
 
 
2.愛の対象、それは自分が大事に思うもの
 
 では何を愛し、そして誰を愛するのでしょうか。
イエスは愛の対象を二つあげ、それに律法学者も同意を致しました。 
 
 イエスは、「第一のいましめはこれである」(29節)と言いましたが、愛の第一の対象は「神」でした。
 
「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(12章30節)。
 
 イエスのこの答えはモーセ五書の五番目の文書、申命記からの引用です。
 
「イスラエルよ、聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記6章4、5節 旧約聖書255p)。
 
 神が人に求めているのは神への愛、それも半端な愛ではなく、全身全霊での愛でした。なぜならば神の人への愛は決して半端なものではないからです。
 
 愛の第二の対象は「隣り人」です。
 
「第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」(12章31節)。
 
 ただ、当時のユダヤ人にとっての「隣り人」は限定的なものであって、それは同胞のイスラエル民族だけ、しかもユダヤ会堂に属している模範的なユダヤ人を指していて、異教徒はもちろんのこと、同じ民族であっても律法を守らず、あるいは守ることのできないために会堂から除名された者は「隣り人」の範疇には入らず、それゆえ愛の対象外だったのです。
 
しかしイエスは、人間はすべて人種、民族、宗教、文化、習慣の垣根を超えて互いに「隣り人」であるという、新しい、画期的な考えを打ち出しておりました。
ですから、イエスの言葉に同意した律法学者が「隣り人」についてもイエスのように理解したかどうかは疑問です。「あなたは神の国から遠くない」(34節)というイエスの評価は律法学者の理解の不十分さを見てのものだったのかも知れません。
 
 ところで、実は愛にはもう一つの対象があります。それは何かと言いますと「自分」自身です。自分自身もまた、愛さなければならない愛の対象です。イエスは隣り人を愛するにあたって、「自分を愛するように」(31節)と言いましたが、これもモーセ五書の三番目の文書、レビ記からの引用でした。
 
「あなた自身のようにあなたの隣人(りんじん)を愛さなければならない」(レビ記19章18節 163p)。
 
隣り人を愛するにあたっては、「あなた自身のように」「愛さなければならない」と聖書は言いますが、自分を愛する以上に、とは言っていませんし、自分を愛してはならないとも言っていません。「あなた自身のように」と言うことは、自分を愛すること、自分を大事にすることを前提とした言い方なのです。
自分を真に大事にする者がまた他者をも大事にすることができる、逆に言えば、自分をほんとうの意味で愛していない者は、隣り人を愛することはできないということになります。
 
 ただし、自己愛というものには悪い自己愛と良い自己愛の二種類がありますので、これを見分けなければなりません。人はみな、自分さえよければよいという、自己中心的な自己愛を否定して、自分の長所も弱点もそのまま受けいれるという自己愛から出発することが人生の基本であり、人間関係の基礎なのです。
 
 滋賀県大津市の中学生いじめ自殺事件報道が過熱していますが、これまでの報道を見る限り、加害者の行為は常軌を逸しており、まさに犯罪そのものです。そしてこれを放置してきた学級担任、学校長、そして教育委員会の実務責任者である教育長の悪しき自己愛ぶりは突出していますが、虐(いじ)めなどというよりも明らかな犯罪行為の現場を目撃しながら傍観をしていた同級生が、我が身かわいさの自己愛を優先して、陰湿な犯罪行為の犠牲になっている隣り人への愛から遠いところにいたということも問題です。
 
 この大津市では二〇〇一年の春に、十六歳の少年が二人の少年によって嬲(なぶ)り殺しにされるという事件が起こっています。
被害者は青木悠くんという、障害者でした。彼は中学二年生の時に交通事故に遭い、右脳の強打による脳挫傷で重態に陥りましたが一命を取り留め、その後、左半身不随状態を克服するため、昼間の時間をリハビリにあてるべく、定時制高校に入学しました。そこで、祖父の跡を継いで佃煮の仕事に進むために大学で経営学を学びたいという志を聞いた担任教師から、全日制への進学を勧められ、受験勉強に励んで合格したのでした。
 
ところが高校の入学式の直前、彼の全日制高校合格を不愉快に思った十五歳と十七歳の少年が合格祝いをしてやると言って彼を誘い出し、「障害者のくせに(全日制に行くのは)生意気だ」と言って一時間半にわたって殴る蹴るの暴行を働き、揚げ句にプロレスのバックドロップでコンクリートに頭を叩きつけるなどして、半死半生の彼をその場に放置したのでした。
 
結局、二人のうちの一人が自分らの乱暴狼藉を自慢しているのを聞いた彼の友人が現場にかけつけ、事態を母親に連絡をした時にはすでに三時間が経過しており、結局、この凄惨なリンチから一週間後に青木悠くんは亡くなってしまったのでした。
 
加害者の一人は中学の卒業文集に、「あなたの十年後は?」というテーマに対して、「殺人犯で指名手配されている」と書いたそうですが、自分自身を大事にしようとしていない人間が他人を大事にできるわけがない、という事例です。
 
しかし問題はリンチに立ち合った加害者たちの取り巻きの三人の少年です。彼らは一部始終を見ていながら誰ひとり、警察や消防に通報しようとしませんでした。被害者の母親は事件後、見張り役をしていたこの三人をも、加害者とは別に民事訴訟で訴えましたが、裁判所は「少年らには救護義務があったとは言えない」ということで、訴えを却下したそうです。
 
その後、この陰惨な事件を近隣に住んでいる六十七歳の男性が二階から見ていたことがわかりました。しかしこの男性は現場まで行って脳死状態の青木くんを、まだ生きていると言って警察に通報することもなく、その後、四国八十八カ所巡りに必要な買い物に出かけたとのことです。この男性が通報したら、ひょっとしたら死なずに済んだかも知れません。何が八十八カ所巡りでしょうか。
 
 自分が手を下していないから無罪なのではありません。見て見ぬふりをしている者も加害者の片割れなのです。見張り役の三人も見殺しにした男性も、法的には責任が問われないとしても、道義的な責任は免れません。彼らもまた、自己保身という自己愛で行動したのでした。
 
 なお、事件から六年後、ある民放のバラエティ番組で少年法についての討論会があり、そこで被害者の母親を目の前にして、当時野党のネクスト法務大臣が、「そういう悪いことをした子供たちはそれなりの事情があってそういうことになったんだろうと思う」などと、あたかも加害少年らを擁護し、被害者の母親の気持ちを逆なでするような発言をしたことが問題となりました。しかもこの国会議員は昨年から今年にかけて短期間ですが、政権与党の法務大臣を務めていました。
 
 今回のいじめという犯罪に対し、担任教師、校長などがキチンと対応していれば、悲劇は未然に防ぐことができた可能性が大であるということですが、しかし一方、周囲の生徒たちが傍観者態度の「触らぬ神に祟りなし」という悪しき自己愛から脱け出して行動したならば、もっと違った展開があったことと思います。
 
改めて二千数百年も前にまとめられたレビ記の、「あなた自身のように、あなたの隣人を愛さなければならない」という戒めが心を打ちます。隣人を愛するためには、自分自身を正しく愛することが前提なのだと、聖書は言います。
 
 
3.愛の基盤、それは唯一の神との個人的な関係
 
 問題はどうしたら「自分を愛するように」(31節)なれるのかということです。実は、真面目な性格の人ほど、自分を受けいれることが出来ず、自分を責めてしまって、どちらかと言えば被害者であるにも関わらず、加害者意識を持ってしまいがちです。
 
 どうしたらよいのかと言いますと、人が自分を愛するためには、自分が無私の愛で愛されてある、という経験と実感を持つことです。それは自分自身でさえ受けいれられない自分、当然他人からはもっと愛されない筈の自分を、あるがままで愛してくれる者がひとりいることを知ることから始まります。それが誰かと言いますと、「ひとり」の神として啓示されている聖書の神です。
 
「イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりである」(12章29節)。
 
「イスラエル」民族自身は、選民として選ばれるだけの値打や取り柄があったわけではなく、神が先祖アブラハムとの約束を覚えていてくれたからこそ、選びの民とされ、唯一の神を「わたしたちの神」と呼ぶことをゆるされたのでした。
 
「あなたはあなたの神、聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプト王パロの手から、あがない出されたのである」(申命記7章6〜8節)。
 
しかし、民族としてのイスラエルは福音に反抗し、その結果、失格をしたため、選民たる立場から失墜してしまいました。ローマ帝国マケドニア州テサロニケのユダヤ人たちへの使徒パウロの言葉は、同胞ユダヤ人への血を吐くような思いでなされた失格宣言でした。
 
「しかし、彼らが反抗してののしり続けたので、パウロは自分の上着を振りはらって、彼らに言った、『あなたがたの血は、あなたがた自身にかえれ。わたしには責任がない。今からわたしは異邦人の方に行く』」(使徒行伝17章6節 212p)。
 
 失格したイスラエルに代って選民とされたのが、イスラエルが蔑んでいた異邦人たちでした。彼らはただただ神の大いなる愛と慈しみによって罪をゆるされ、神の愛の対象とされたのでした。
神はユダヤ人のためだけでなくわたくしたち異邦人のためにも大切な御子を犠牲にしてくださいました。神はそれだけの価値が私たちにあると見てくれているからです。
 
 この神の愛に目覚めるとき、それまでは遥か遠くにいると思っていた神が「わたしたちの神」(29節)となり、人から愛されず、自分も愛せない「自分」(31節)が神から「イスラエルよ」(29節)と呼びかけられて「あなた」(31節)と呼ばれる自分自身となり、その結果、無関係であると思っていた「隣り人」が「あなたの隣り人」(31節)となる、それがイエスの教えの要約です。
 
 神から無条件で愛されていることを知った者は、愛のゆえに「ただひとりの主である」(29節)神に対して、個人的に「主よ、信じます」と告白をし、そう告白することによって神との間に個人的な関係が結ばれるようになります。
そしてその個人的関係こそが神への愛、人への愛、そして自らを愛する愛の基盤となり、源泉となるのです。なぜならば神は、自分は愛されるに値しないと思う者を、愛のゆえに尊い存在として取り扱ってくださる存在だからです。





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