2014年10月26日日曜礼拝説教「宗教改革記念日を前にして―『信じるだけで救われる』という信じ難い福音の発見」ローマ人への手紙1章17節

投稿日時 2014-10-26 16:03:55 | カテゴリ: 2014年礼拝説教

14年10月26日 日曜礼拝説教

「宗教改革記念日を前にして―『信じるだけ
   救われる』という信じ難い福音の発見」
 
ローマ人への手紙1章17節(新約聖書口語訳233p)
 
 
はじめに
 
「濡(ぬ)れ手に粟(あわ)の掴(つか)みどり」とか、「一攫千金(いっかくせんきん)」などという言葉があります。
 
濡れた手で粟を掴めば、粟は指の間から零れ出ることもなく、効率的に大量の粟をいっぺに掴むことが可能です。
 
また「一攫」はひと掴み、という意味ですから、「濡れ手〜」同様、大した苦労もせずにたやすく「千金」つまり大金など、大きな利益を手にすることができる様を表した言葉です。
 
でも、これらは前者は自分の手を濡らして、そして濡らした「手で粟を掴む」というある種の行動を起こしておりますし、後者もまた、多大の利益を生むためそれなりに、ちょっとした努力を傾け、知恵を使っているわけですから、まったく何もしないというわけではありません。
 
しかし、まったく何もしていないのに、何の努力も払っていないのに、ただ一方的に破滅の状態から救済をされるとしたならば、これ程いい話はありません。ところが、そんな気味の悪いような何ともうまい話が実は聖書にあるのです。
 
そしてそのことを発見したのがマルティン・ルターというローマ教会の修道僧で、大学で聖書を講じていた教師でした。
 
この一介の教師から始まった運動が燎原の火のように当時の全ヨーロッパに広がって、ある意味では中世のヨーロッパ全体をひっくり返すような歴史的事件となりました。
 
それが「プロテスタント宗教改革」と呼ばれるものであり、これに対し、失地回復を目指し、更には新しい支配地域を獲得するためにローマ教会に起こった運動が「反宗教改革」あるいは「対抗改革」と呼ばれた宗教運動であって、フランシスコ・ザビエルによる日本宣教もその運動の一環として展開されたというわけです。 
 
つまり、ルターなどの改革者による「宗教改革」が起こらなければ、西欧の教会の東洋への宣教的関心、列強における領土的野心による行動などは、もっと先に延びたでしょうし、結果としてキリスト教禁止政策としての徳川幕府による鎖国も違ったかたちになったかも知れませんし、さらに、もしもそうであったならば、日本という国家の形成自体、もっと別のかたちを取ることになったかも知れません。
 
それはともかく、十月三十一日の宗教改革記念日を前にして、宗教改革とは何であったのか、ドイツを中心としたプロテスタント宗教改革が呼び起こした出来ごとは私たちとどのように関係するのかということを考えながら、改めて神による圧倒的な憐れみ、恩恵に目を注ぎたいと思います。
 
そこで今週の説教のタイトルは「『信じるだけで救われる』という信じ難い福音の発見」です。
 
 
1.律法の行いによる義から、信仰による義へ―パウロの戦い
 
以前の説教で、六十六巻の聖書の中で最も重要な文書はどれかと言うならば、それは「ローマ人への手紙」である、と答える、ではその中で最も重要な章は、と問われれば、それは「八章」だろう、ではその八章で最も大事な箇所は、となれば、それは「一節」の言葉であろうと答える、と言いました。
 
「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」(ローマ人への手紙8章1節 新約聖書口語訳242p)。
 
 「罪に定められる」(1節)というのは法廷において「有罪宣告を受ける」ということですので、「罪に定められることがない」というのは、「有罪宣告を受けることがない」という意味です。
 これは、裏を返せば「無罪とされる」ということを意味します。
 
 そして神によって無罪とされるということを聖書は、神に「義とされる」こととしました。
 
 問題はその方法です。罪ある人間がどうしたら神に罪なき者と認められ、無罪とされるのかということです。
 
「文字(もんじ)」(コリント人への第二の手紙3章6節)の教師であった時のパウロは、それは律法を遵守すること、律法の条文をことごとく行うことによって与えられると信じて、そのことを教えもし、自ら精進を重ねてきた、極めて真面目なユダヤ教の学徒であり信徒でもありました。
 
「わたしは…律法の義については落ち度のない者である」(ピリピ人への手紙3章5、6節 311p)
 
 しかし、シリヤの首都ダマスカスの郊外で復活のキリストの顕現を体験した時から、教会の迫害者であったパウロの思想は変わり、その聖書解釈は劇的な変化を遂げたのでした。
どういうことかと言いますと、律法の行いによって義とされるというそれまでの確信が、彼の中で音を立てて崩れ去ってしまったのです。
 
「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである」(ローマ人への手紙3章20節前半)。
 
 それどころか、律法とは何かという深い思索と考察の結果、律法は人に対し、自らが罪びとであるとの意識を持たせるものでしかないことを知るに至ります。
 
「律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」(3章20節後半)。
 
 そのような思索の結果がローマ人への手紙の本論冒頭の宣言となったのでした。
 
「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」(1章17節)
 
 パウロが「これは『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」(17節)と、その確信の論拠とした聖書の言葉は小預言書のひとつであるハバクク書の言葉、ユダの預言者ハバククに対する主の言葉でした。
 
「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる」(ハバクク書2章4節 旧約聖書口語訳1298p)。
 
 この「義人はその信仰によって生きる」というハバクク書の言葉は、実はユダヤ教の「律法の行いによって神に義とされる」という教理の根拠でもありました。
 
彼らが「その信仰」をどう理解したかといいますと、それを「神への信頼」、あるいは「律法への真実」と解し、その結果、これが「律法の行いによる義」の約束とされていたのだと、学者は言います。
 
ヘブライ語の原典では、「義人はその(信仰の)真実によって、(患難の中で)生命に留まるであろう」という表現になっている。パウロと同時代のユダヤ教神学では、この聖句が「業(わざ)による義」の約束と解されていた(パウル・アルトハウス著 杉山 好訳「NTD新約聖書註解(6)ローマ人への手紙 翻訳と註解」36p NTD新約聖書註解刊行会)。
 
 つまりパウロは「律法の行いによる義」という教理の根拠とされていた聖句を再解釈することによって、「信仰による義」という考え方の論拠としたのでした。
 
この結果、人はキリストを主、救い主として信じるだけで救われる、つまり神との和解、神との平和という関係へと導かれるのです。
 
「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」(5章1節)。
 
 「律法の行いによる義から、信仰による義へ」、それはパウロの戦いにおける成果であって、もしもパウロがいなかったならば、キリスト教はユダヤ教の亜流か、ギリシャの密儀宗教の一つとなって、存在意味のないものになっていたことと思います。
 
 パウロを使徒として選んだ主を誉め称えたいと思います。
 
 
2.信仰と行いによる義から、信仰のみによる義へ―ルターの戦い
 
しかし、パウロが挙げた教理的成果は、後代のローマ教会によって変質をしてしまいました。
確かにローマ教会はキリストへの信仰を強調しました。でも同時に、行いをも強調することによって、人が義とされるためには信仰に加えて行いも必要であるという教理を掲げたのでした。
 
そしてその教理によって苦しみ悩み、そして改革の火蓋を切ったのが「中世の夕暮れ時に現われた光」と謳われたマルティン・ルターでした。
 
ルターはもともと、法律家を目指した人でしたが、法律家の道を目指していた法律学徒が家を捨てて修道僧になった理由として伝わっているものが、落雷の経験であったといいます。
 
二十一歳の夏、故郷から大学に戻る途中、山中で雷雨に会い、思わず、「もし命があったならば修道士になります」という誓いを聖アンナに立ててしまい、三週間後、その誓いを守るべく、アウグスティヌス会という修道会に入ったそうなのです。
 
ローマ教会の伝承では「聖アンナ」とは聖母マリヤの母親ということですが、ということはアンナはイエスの祖母ということになるわけです。
勿論、そんなことは聖書正典にはありません。しかし、マリヤが生涯処女であったことの証拠として二世紀末に創作された「ヤコブ原福音書」(副題は「いとも聖なる、神の母にして永遠の処女なるマリア誕生の物語」)にアンナはマリヤの父親ヨアキムの不妊の妻として出てきます。
 
するとごらんなさい、主の御使いが側に立って言いました、「アンナ、アンナ、主がお前の願いを聴き入れてくださった。お前は孕んで子を生むだろう。お前の子は世界中で語られるだろう。そこでアンナが言いました、「生けるわたしの主に誓って、もし私が子を産んだら、男の子でも女の子でも、私の主なる神様に供え物として捧げます。私の子は生涯全ての日にわたって神様に仕えるでしょう」(荒井 献編 八木誠一訳「ヤコブ原福音書」26p 講談社文芸文庫)。
 
因みに書名の「原福音書」の「原」は「原型」という意味ではなく、「(正典福音書が記述しているイエスの誕生に)先行する出来事の物語、ということ」(上掲書訳者解説472p)です。
内容そのものは、サムエル記の冒頭に出てくるハンナとその子サムエルの物語をパくったと言ったら怒られそうですが、とにかくよく似てはいます。
 
ルターの時代、「聖アンナ」はドイツの炭鉱で働く素朴な人々の崇敬を一身に集めており、炭鉱夫の息子であったルターも当然、聖アンナを崇めておりました。
その「聖アンナ」に誓ってしまったのです。誓いを破ったらどんな罰がくだるかわかったものではありません。迷信がまだ生きていた中世のドイツです。純朴な青年ルターには選択の余地はなかったのでしょう。
 
ということは、ルターがもしも山中で雷雨に出会うという経験がなかったとしたならば、優秀な法律家は生まれても歴史を変えた宗教改革者は出現しなかったかも知れません。
 
さて、アウグスティヌス修道会に入会したあと、真面目なルターは断食をはじめとするさまざまの苦行に耐えて精進に精進を重ね、二十四歳で司祭に叙任され、二十九歳でヴィッテンベルク大学の神学部の教授となり、そして三十二歳の時から「ローマ人への手紙」「詩篇」「ガラテヤ人への手紙」を講じるようになります。
 
そしてローマ人への手紙一章十七節における「神の義」の本来の意味を発見することとなるのです。
もう一度、お読みしましょう。
 
「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」(ローマ人への手紙1章17節)。
 
 この「神の義」(17節)の「の」という所有格を、ローマ教会は主格的所有格としてのみ理解し、その結果、「神の義」とは神がもともと持っている義である、つまり義なる神が罪びとを審く義である、としておりました。
 
 しかしルターはこの「神の義」の「の」という所有格を目的格的に解釈することによって、これを「神による義」、すなわち神が不義である罪びとを義とする義、と解釈したのでした。
これが「信仰による義」、別名「受け身の義」の発見でした。どのような言葉で評価しても評価し切れないほどの大発見でした。
 
そして、この発見と前後して、ルターにとってどうしても看過することの出来ない事態が生起してきたのでした。学校の世界史でならったことのある「免罪符」という御札の販売です。
 
これはローマ教会の財政的必要を満たすために以前から発行されていたお札であって、最初は十字軍に参加する者に対し、罰の赦しを与えるものとして授けられておりました。しかし、時代を経るに従って、多額の金銭を教会に奉納する者に対して下げ渡されるようになりました。
 
「免罪符」という訳語は誤解を与えるのですが、これは正しくは「免罰符(めんばつふ)」というものです。
ローマ教会では、罪はキリストの十字架によって赦されるが、罪の結果である罰の方はそう簡単には赦されず、刑罰は天国に行く前の段階である「煉獄」において受ける、としておりました。
 
通常、人が死んだ場合、行く先は天国か地獄かのどちらかの筈です。ところがローマ教会では聖書正典にはない「煉獄」という場所があるとした上で、多くの功徳を積んだ者は死後ただちに天国に行くことができるが、功徳の足りないものはその死後、天国に行く前に、罪から浄化されるため、具体的には必要な刑罰を受けるためにその「煉獄」という中間状態を経なければならないとしたのでした。
 
でも、ローマ教会にはキリストをはじめ、使徒や諸聖人の功徳が蓄積されていて、教会はそれを自由に分かち与えることができる、そこで「免罪符」(より正確に言えば煉獄での罰を軽減するための「免罰符」、難しい言葉で表現すると神の怒りを宥(なだ)める「贖宥券(しょくゆけん)」というものが発行されるようになっていたのでした。
 
そして偶々、十六世紀はじめのルターの時代、ローマ教会は財政的にピンチで、しかし聖ピエトロ(聖ペテロ)大聖堂の建築という一大プロジェクトの実行を迫られており、そこで、不足している莫大な建築費を賄うために「免罪符」つまり「贖宥券」が大々的に販売されるようになったのでした。
 
そしてこれを憂えて立ち上がったのが三十四歳の神学博士、マルティン・ルターでした。
彼は当時の慣わしに従い、「贖宥の効力を明らかにするための討論」という提題をヴィッテンブルク城教会の門扉に掲げて、ローマ教会に対して神学論争を挑んだのでした。一五一七年十月三十一日のことでした。
討論の中心テーマは「悔い改めとゆるし」についてでした。
 
一、私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ…」〔マタイ四・一七〕と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。
 
二七、箱の中へ投げ入れられた金がチャリンと鳴るや否や、魂が煉獄から飛び上がるという人たちは、人間を宣べ伝えているのである。
 
三六、真実に痛悔したキリスト者ならだれでも、贖宥の文書(註 贖宥券のこと)がなくても彼のものとされているところの、罰と罪責よりの完全赦免をもっている。
(マルティン・ルター著 緒方純雄訳「贖宥の効力を明らかにするための討論」73p ルター著作集第一集第一巻 聖文舎)
 
この結果、ルターはローマ教会から破門されることとなりますが、ルターの支持者はドイツ国内に拡大し、「信仰と行いによる義」ではなく、「信仰のみによる義」というルターの主張はプロテスタント宗教改革の一大中心教理としてヨーロッパ中に広がっていくこととなったのです。
 
「受身の義」を発見したルターの功績はまことに大であるといえます。
 
 
3.「これはわたしの体、わたしの血である」とは―聖餐をめぐる戦い
 
しかし、ローマ教会の司祭であったルターは、聖餐の理解に関してはローマ教会から脱却し切れなかったようです。
それはキリストの言葉、「これはわたしの体、わたしの血である」という言葉の理解にありました。
 
「すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』」(コリント人への第一の手紙11章23節後半〜25節 269p)。
 
 イエスは「パンを取り、…『これはあなたがたのための、わたしのからだである」(24節)と言い、また「この杯は、わたしの血による新しい契約である」(25節)と言いましたが、ローマ教会はこれを字義的に解釈して、司祭の祈りによってその実体はキリストの体と血とに変化する、としていました。
この教理はローマ教会では変らぬ教理として現代に続いています。
 
私たちの救い主キリストは、パンの形色の中にささげたのが自分の真の身体であると仰せられたので(マテオ26・26以下…)、主の教会は変わることなく常に信じてきたことを、この聖なる公会議も繰り返して宣言する。すなわち、パンと葡萄酒の聖別によって、パンの実体は悉く私たちの主キリストの実体となり、葡萄酒の実体は悉くその血の実体に変化する。聖なるカトリック教会は、この変化を便宜上、適切に全実体変化と言い表している(トリエント公会議 第一三回総会 1551年)。
 
これを「化体説」あるいは「実体変化説」と呼ぶようですが、この考えは結果的に、人が救済されるためには十字架の上でなされたキリストの死だけでは不十分だという意味になります。
 
これに疑問を持ったルターは、「信仰により義とされる」という理解から、この「実体変化説」を否定し、十字架の身代わりの死だけで十分であると主張したのですが、聖餐論に関しましては、キリストの体と血とは、パンとぶどう酒の「中に」、「下に」、そして「共に」存在すると主張したことから、ルターの説は「共在説」あるいは「実在説」として知られています。
 
ルターは自説の説明として、火と鉄の関係を例にあげ、「鉄を火で熱すれば、鉄は鉄ではあるが、熱が鉄の中に、下に、共にあるのと同じである」と説きました。
 
更に、なにゆえキリストはご自身のからだを、パンの外形的特色のなかに入れたもうようにパンの本質のなかに入れることができたまわないのだろうか。見よ、火と熱との二つの本質は、熱している鉄においては、どの部分も、鉄と火であるようにまぜ合わされている。なにゆえ、キリストの栄光のからだが、パンの本質のあらゆる部分のなかに、いっそう高度に存在しえないのか(マルティン・ルター著 岸 千年訳「教会のバビロン虜囚について」222p ルター著作集第一集第三巻)。
 
 キリストの偏在という点から言えばルターが言うように、キリストがパンの中に、下に、共にあるということは論理的には有り得ます。しかし、問題はその必要性です。
確かに現在のキリストは神の能力的属性としての遍在性というものをお持ちですから、望むならばどこにでもいるということは可能です。
しかし、何も聖餐のパンという物体の中や下にわざわざ臨在する必要はありません。聖餐式という式典に聖霊において臨在してくれればそれで十分です。
 
ルターもまた時代の子として限界を持つ人でした。ですからこれをもってとやかく言う必要はありません。化体説を否定すると共に、パンと杯の二種陪餐を回復させただけでもその功績は大ですし、受け身の義という信仰による義を掲げて教会の改革の先駆けとなってくれたことで十分です。
 
では、私たちはどう理解すべきかということですが、主が「わたしの体、わたしの血」と言われた時、それは当然、比喩として理解すべきです。
イエスが「わたしはぶどうの木である」と言ったからイエスがぶどうの木、あるいはぶどうの木の精だったのだ、などとは誰も思いません。
喩えて言えば、ぶどうの木のようなものだ、という意味です。
 
つまり十字架がキリストの犠牲によってもたらせた福音を示すシンボルであるように、聖餐式における「パン」と「杯」は十字架にかかって身代わりとなったキリストの体と、そこで流された犠牲の血を「象徴する」ものであって、パンがキリストの体になり、杯の中のぶどう酒がキリストの血に変わるわけではありません。
また、パンと杯の中や下にキリストの体や血が共にあるわけではありません。
 
それはあくまでも、「信じるだけで救われる」という福音の根拠であるキリストの贖いの事実を、無知で悟りのない人間に目に見えるかたちで示すためのものなのです。
 
聖餐自体に、そして聖餐式という式典自体にご利益があるわけではありません。その点で、ルターはローマ教会の影響から脱し切れていないようにも思えます。
 
また主イエスは、これを記念として行うようにと言われましたが、それはキリストの死を告知するためである、と述べています。
 
「飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい。…それによって、…主の死を告げ知らせるのである」(11章25節後半、26節)。
 
 つまり、聖餐式の意義は主のわざを「記念」(25節)するためのもの、キリストが私たち罪びとのために十字架にかかって死んだという事実を「告げ知らせる」(26節)ことにあるというわけです。
 
 では、聖餐式はどのような頻度で行うことが相応しいのかということですが、特に決まりはありません。そこで私たちの教会ではいつごろからか、年に一回、イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城した棕櫚の日の日曜礼拝で行うようになりました。
 
 今回は宗教改革の意義を学ぶための礼拝ですので、それならば聖餐式も、ということで例外的に行うことになりました。
 
なお、コリント人への第一の手紙におけるパウロの言葉で、誤解をされている部分があります。「ふさわしくないままで」という一句です。
 
「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである」(11章27、28節)。
 
 時々、真面目な人の中に、「ふさわしくないままで」(27節)、あるいは「自分を吟味し」(28節)という言葉にひっかかって、自分自身の生活や言動を「吟味し」た結果、今の自分は聖餐式を受けるには「ふさわしくない」信徒だと勝手に思い込んで、聖餐式を辞退するというケースがあるそうです。
 
 しかし、「ふさわしくない」とは神を恐れないこと、悔い改めることなく、自分自身、神のようにふるまう状態を維持していることを意味します。
 
 逆に、自分自身の信仰の不足、弱さを自覚して、神を離れてはやっていけないと思う者こそ、実は「ふさわし」い人と言えるのです。
 
 改革者のひとりであるジャン・カルヴァンが言ったそうです、「聖餐式は私たちの信仰の弱さを補うために備えられたものである」と。
カルヴァンも性格的には色々と問題があったようです。だからそう思ったのかどうかはわかりませんが、聖餐式が恵みの手段の一つであることは事実です。
 
 勿論、私たちの弱さを補うものは公同の礼拝であり、日毎の御言葉であり、祈りであり、聖霊の働きです。
しかし、形に示されないとなかなか理解することのできないという人の持つ弱さを補うために、聖餐式が備えられたのかも知れません。
 
 何はともあれ、決して忘れてはならないことそれは、「『信じるだけで救われる』」という信じ難い恵み」が、何もしない、何も出来ない私たちに無代価で提供されているという事実です。
 
 この事実をさまざまの方法で確認をしつつ、共に信仰の歩みをご一緒に続けていきたいと思います。





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