2014年4月13日棕櫚の日曜日礼拝説教「最重要事項として伝えられたこと、それはキリストが予告通り、私たちのために死んだこと―『5W1H』で解説します」コリント人への第一の手紙15章3、4節前半

投稿日時 2014-04-13 16:55:37 | カテゴリ: 2014年礼拝説教

14年4月13日 二〇一四年棕櫚の日曜日礼拝説教 

「最重要事項として伝えられたこと、それ
 キリストが予告通り、私たちのために死ん
 だこと― 『5W1H』で解説します」
 
コリント人への第1の手紙15章3、4節(新約聖書口語訳274p)
 
 
はじめに
 
キリスト教のシンボルといえば、やはり十字架です。そして十字架が古代の処刑方法であって、その十字架にイエス・キリストが架けられて死んだということは、大概の人が知っています。
 
でも、キリストが何で十字架に架けられたのかということになりますと、ほとんどの日本人は知りません。
そしてその詳しい理由や意味ということになりますと、実はクリスチャンであってもうまく説明することができないということがあるようです。
 
ところで新聞記者が記事を書く際の基本的知識として叩きこまれるのが「5W1H(5ダブリュー1エイチ)」です。
これはビジネス社会における報告書などにも援用されて今は一般化しています。
 
先ず、「5W」ですが、「Who(フー 誰が)」「What(ホワット 何を)」「When(ホエン いつ)」「Where(ホエアー どこで)」「Why(ホワイ なぜ)」の五つで、「1H」は「How(ハウ どのようにして、どうやって)」です。
 
そこで、今年の受難週礼拝説教ではイエス・キリストが十字架に架けられたという出来事の深い意味を、この「5W1H」を用いて分かり易く整理をしたいと思います。
 
西暦五十年代の半ば、使徒パウロはギリシャ・コリントにある教会に四つの書簡を書き送りました。
詳しいことにつきましては今年の後半に予定しているコリント人への第二の手紙の連続説教の際に説明させていただきますが、コリント人への第一の手紙として知られる書簡の前に、実は第一の手紙が書かれていたようです。
 
「わたしは前の手紙で…」(5章9節)。
 
ということは、現在の第一の手紙は第二の手紙ということになります。
 
コリント人への手紙の著者パウロは、現在の第一の手紙の十五章において、以前、伝道旅行において彼が伝えた「福音」とは何であったのかということを、もう一度整理し確認をして、信仰と希望の礎をして欲しいという願いを込めて十五章を書き始めます。
 
「兄弟たちよ、わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受け入れ、それによって立ってきたあの福音を、思い起こしてもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである」(コリント人への第一の手紙15章1,2節 新約聖書口語訳273p)。
 
 「わたしが…伝えた福音」「あなたがたが受け入れ、…立ってきたあの福音」(1節)とは何なのでしょうか。
 
「福音」とは「幸福を告げる音信」、「グッドニュース」のことです。これが「ゴスペル」になったそうですが、パウロはコリント集会の会衆に、この「グッドニュース」の二本柱としてのキリストの十字架と、十字架に続くキリストの復活について、「思い起こしてもらいたい」(1節)と言っているのです。
 
そこで、今年の棕櫚の日受難週礼拝では、十字架の出来ごとを「5W1H」で整理することによって、救いのための信仰の土台としたいと思います。
なぜならば、これを「いたずらに信じないで」(2節)、つまり意味もよくわからないままに信じることをしないで、パウロ自らが「宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば」(同)、つまり意味を正しく理解して、確信を持って信じ続けていれば、「この福音によって救われるから」(同)です。
 
 
1.神による人類救済の最終目的、それは人の「神との和解」「神との平和」
 
 パウロが最重要項目の一つとして挙げたものが、キリストの死が「わたしたち」人類のため、それも「罪のため」であったということでした。
 
「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、(である)」(15章3、4節前半)。
 
 「キリストが…わたしたちの罪のために死んだ」(3節)とありますように、「5W1H」の「誰が(Who)」は、もちろん、イエス・キリストです。
 
また「どこで(Where)」「死んだ」(同)のかというならば、それはエルサレム郊外のゴルゴタという名称の刑場でした。
 
「そしてイエスをゴルゴタ、その意味は、されこうべ、という所に連れて行った」(マルコによる福音書15章23節)。
 
それは「いつ(When)」であったのかと言いますと、各種の年代計算によれば、西暦三十年四月七日の金曜日ということになるようです。
 
 そしていよいよ本論です。では、キリストは「何の目的で(Why)」十字架に架からねばならなかったのかということですが、その最終目的は勿論、人類の救済ということでした。
 
ではそれは如何なるものであるのかと言いますと、人類を神と和解させるため、それによって人が神との平和という良い関係の中に入れるため、つまり「神との和解」「神との平和」を実現するためであったのです。
 
「神との和解」こそ、十字架刑の最終目的でした。ところで、和解が目的であるということは、人類と神との間に不和という関係があることが前提となります。
 
そして、その不和の原因は奈辺にあるのかと言いますと、それは人類の側の一方的な不誠実、神への裏切り、背信にあったのでした。
にも関わらず、和解は被害者である神の側の犠牲、具体的には「御子の(十字架の)死によって」成立したのでした。
 
「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって、神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」(ローマ人への手紙5章10節 239p)。
 
 被害者である神の側の特別な犠牲によって「神との和解」が成立したことを人が知る時、人の中にあった神への敵意が消え、代りに神への感謝と讃美の思いが湧きあがって、神との間に「神との平和」という関係が生まれます。
 
「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」(ローマ人への手紙5章1節)。
 
 「神との和解」「神との平和」という、神との良好で親密な関係が築き上げられること、しかもそれは決して一時的なものなどではなく、未来永劫、永遠に続く関係であるというそれこそが神による人類救済の最終かつ究極の目的なのです。
 
 
2.最終目的達成のための具体的目標、それが「罪からの救い」「罪からの解放」
 
 しかし、「神との和解」という目的を達成するためにはその前段階として、神との不和をもたらした原因を除く必要があります。その原因とはすべての人を支配している罪の根、原罪といわれるものです。
 
つまり、原罪という罪の根からの「救い」、罪の力からの「解放」こそが、最終目的達成のための目標でした。
これは「5W1H」で言いますと、「何を(What)」にあたります。
 
 鈴置高史(すずおきたかぶみ)という朝鮮半島の情勢に詳しいジャーナリスト(日本経済新聞の編集委員)によって書かれ、昨年の秋に出版された、「中国という蟻地獄に落ちた韓国」(日経BP出版)という本が売れています。
 
異常な反日姿勢を保ちながら、共産国家の中国に接近をしている韓国を、中国という蟻地獄に落ちてしまった蟻になぞらえているのですが、一読して、中国と韓国の現在の関係を的確に指摘していると思わされました。
 
 その蟻地獄なるものがどのようなものか、皆さまは実際に見たことがお有りでしょうか。
蟻地獄というのは薄翅蜉蝣(うすばかげろう)の幼虫です。私が子供のころに住んでいた神奈川県、湘南地方の家の縁側の下には、夏になりますとこの蟻地獄が巣をつくっていたものでした。
 
巣は直径で二センチくらいのすり鉢状で、この巣に一度蟻などが落ちますと決して這いあがることが出来ず、外へ出ようと空しく足掻いているうちに、穴の奥に隠れていた蟻地獄によって捕まえられて、その揚げ句に体液を吸い取られ、干乾びた抜け殻状態となって、巣の外へと放り投げられ、そして一巻の終わりとなるわけです。
 
キリスト教神学においては、この蟻地獄にあたるものが原罪といわれるものです。人類は先祖アダムの堕罪以来、原罪という蟻地獄に陥ってもがき続けてきたのでした。
罪には個々の罪と、その基となる罪とがあります。木で言えば、枝と枝に成る実が個々の罪であるとするならば、幹や根にあたるものが原罪です。
 
そして、この原罪という蟻地獄からの救済を指すものが、いわゆる「救い」であり、「解放」なのです。
 
「ふたりが言った、『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます』」(使徒行伝16章31節 210p)。
 
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださったのである」(ガラテヤ人への手紙5章1節 298p)。
 
「救い」、「解放」は原罪及び罪の束縛の状態からの救い、刑罰からの救い、神の怒りからの救い、奴隷状態からの自由への解放など、悪い状態からの救出、そして救済されて、自由な世界へと解放されたという事実を表すことばです。
 
そして、それは人が「神との和解」という最終目的達成に至るまでに成し遂げられなければならない救済目標でもあって、それを成し遂げたのが人となった神の御子のイエス・キリストだったのです。だからこそ、イエスは救世主、ギリシャ語でキリスト、ヘブライ語でメシヤと呼ばれるのです。
 
 
3.最終目的達成のための手段、それがキリストによる「罪の赦し」「罪の贖(あがな)い」
 
そして、最後のポイント、「どのように(HOW)」ということです。
罪びとを神と和解させ、神との平和に導くという、究極の最終目的はどのようにして、どのような手段、方法で達成されたのか、ということです。
これには法的な手続きも含まれますが、聖書はこのことを「罪の赦し」「罪の贖い」という言葉で説明します。
 
昔の子供讃美歌に「ふくいんのきしゃ」というものがありました。数両の客車を蒸気機関車が引くという、今はなかなか見ることの出来ない風景を歌ったものです。
 
なお原文はひらがなです。
 
        福音の汽車
 
福音の汽車に乗ってる 天国行きに(ポッポ) 
罪の駅から出て もう戻らない 
切符は要らない 主の救いがある それでただ行く(ポッポ) 
福音の汽車に乗ってる 天国行きに
(「子どもさんびか79」いのちのことば社)
 
 この場合、「天国」というのは場所ではありません。それは神の住まいという意味で、「天国行き」とは神との和解という関係、神との平和の状態を意味します。
 
 
「罪の駅」から「天国行き」の「汽車」に乗るためには「切符」が必要ですが、「切符は要らない」と歌います。なぜかというならば「主の救いがある」から、です。
「それでただ行く」のですが、この「ただ」は無料という意味でなく、副詞の「唯(ただ)」つまり「ただただ」ということだと思われます。原詞がどうなのかは確かめていませんが。
 
 「切符は要らない」とありますが、無料の汽車だからではありません。それどころか「天国行き」の「汽車」なのです。その「切符」は高価も高価、目の玉が飛び出るほどの値段の筈です。到底、人が自費で購入できるようなものではありません。
 
では、それなのに「切符は要らない」のはなぜかと言いますと、誰かが前以て莫大な料金を支払って「切符」を購入してくれているからです。その結果、本人は購入代金を払っていないにも関わらず、大きな顔をして乗車することができるので、「切符は要らない それでただ行く」ということになるわけです。
 
 この「切符」にあたるものが何かと言いますと、「罪の赦し」「罪の贖い」と言われているものなのです。
そして、これが無ければ「罪の駅」から出発することができません。そうなりますと、「罪からの救い」も「罪からの解放」も画餅、つまり絵に描いた餅となり、そうなると「神との和解」、「神との平和」という「天国」へも行くことはできなくなってしまいます
 
 しかし、神はキリストによって、「罪の駅」から「神との和解」「神との平和」という最終目的地に達する道、手段、方法を完成してくださいました。
それが「罪の赦し」であり、「贖(あがな)い」または「贖罪(しょくざい)」であって、この二つはほぼ同じ意味です。
 
「神はこのキリストを立てて、その血によるあがないの供え物とされた」(ローマ人への手紙3章25節前半 237p)。
 
 「あがないの供え物」と訳された言葉「ヒラステーリオス」は、新共同訳ではより分かり易く「罪を償う供え物」と訳されていますが、ヘブル人への手紙では「贖罪所」と訳されました。
 
「箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた」(ヘブル人への手紙9章5節 351p)。
 
エルサレム神殿が建立される前、犠牲は「幕屋」で奉献されていました。
そして、幕屋の奥殿である至聖所(しせいじょ)の分厚い幕の奥に置かれていた契約の箱の蓋が「贖罪所」であって、ここに大祭司が年に一回、身代わりの動物を犠牲として、その血を注いで「罪の贖い」のための儀式を行っていたのでした。
 
しかし、この儀式は来たるべき本体を示す影のようなものであって、本物の身代わりの犠牲となって死んでくれたのがキリストだったのです。
 
「わたしがもっとも大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと」(コリント人への第一の手紙15章3、4節前半)。
 
 キリストは十字架に架かることによって、ご自分を人類の罪の身代わりの犠牲、「罪を償う供え物」(ローマ3章25節)となり、そうして人類の「罪の赦し」のための手続きの一切を完了してくださったのでした。
 
 本日は説教のあと、聖餐式を行いますが、聖餐式におけるパンは十字架で割かれたキリストの体を象徴し、ぶどう酒は「罪の赦し」を完成するために十字架上で流されたキリストの血を象徴します。
 
そこで、最後の晩餐におけるイエス・キリスト自身の言葉を、ご一緒に味わうことに致しましょう。
 
「また杯(さかずき)を取り、感謝して彼らに与えて言われた、『みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である』」(マタイによる福音書26章27、28節 44p)。
 
 罪のないキリストの身代わりの死による「罪の贖い」、「罪の赦し」という出来事を経ることによって、信じる者を「神との和解」「神との平和」へと導く神の救いを、信仰と感謝をもって確認する儀式、それが聖餐式です。
 
 
 このように、
「誰が」というならば神の御子のイエス・キリストが、
それは「いつ」のことであったのかといえば、西暦三十年四月七日の金曜日に、
「どこで」とかといえば、エルサレム郊外のゴルゴタという名称の刑場において、
「何のために」かというのであれば、答えは一つ、救いの最終目的である人類と「神との和解」「神との平和」を実現させるため、
そのために「何を」したのかというならば、「罪の救い」「罪からの解放」という目標を成し遂げて、
それは「どのようにして」なされたのかというならば、「罪の贖い」による「罪の赦し」という手続きを経てで、
その結果、人類の救済という困難な事業が「私たちの…ために」完成されたのでした。
 
ただただ、感謝、そして讃美あるのみです。
 
今日は棕櫚の日曜日ですが、この日、イエスは「わたしたちの罪のために」十字架に架かって死ぬべく、ろばの子に乗ってエルサレムへと入城されたのです。そのことを覚えて神の御名を誉め称えたいと思います。





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