2014年4月6日教会開設記念野外礼拝説教「我らこの宝を土の器に持てり」コリント人への第二の手紙4章7節

投稿日時 2014-04-06 16:50:52 | カテゴリ: 2014年礼拝説教

14年4月6日 教会開設記念野外礼拝説教

「我らこの宝を土の器に持てり」

コリント人への第二の手紙4章7節(新約聖書口語訳281p)
 
 
はじめに
 
今年の教会標語は「神の恵みの通りよき管となる」で、聖句はパウロがギリシャ・コリントの集会に宛てた書簡、コリント人への第二の手紙から選びました。
 
「通りよき管」という言葉は聖書にはなく、聖歌五七八番の「主の愛のながうちに」の折り返しと三節にある言葉です。調べて見ましたら元の英語の歌詞にある「チャンネル オブ ブレッシング(祝福の水路)」を「通りよき管」と訳したようなのです。見事な訳だと思います。
 
「チャンネル」、水路つまり水管は、内部に垢や泥が詰まったりしますと、水の流れが悪くなるというだけでなく、蛇口からは汚れた水が流れてくることになります。
 
そういう意味でも水管である私たち自身の手入れは大切ですが、何と言いましても、二つのこと、一つは自分を通って流れるもの、つまり自分が媒介するものがどれほど素晴らしいものであるかということと常に意識することと、もう一つ、自分が何者であるかということを忘れないことが最も大事なことだと、パウロは言います。
 
そこで今年の教会開設記念の野外礼拝では、「福音」という宝を輝かせるために、その入れ物として神が土くれを捏(こ)ねて、「寝屋川福音キリスト教会、ファミリーチャーチねや川」という土の器を造ってくれたのだということを、改めてご一緒に確認したいと思います。
 
 
1.私たちは持っている、福音という宝を土の器の中に
 
 最初にパウロの書いた手紙を読みましょう。
 
「しかし、わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている」(コリント人への第二の手紙4章7節前半 新約聖書口語訳281p)。
 
 「この宝」とあります。「この宝」とは何かといいますと、「この宝」とは人を罪と死、滅びから救済をしてくれるキリストの福音を指します。
 
「神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝き」(4章4節)。
 
 では「この宝」(7節)はどこにあるのか、それは、「土の器の中に」(同)です。
 
 人気長寿テレビ番組に「開運なんでも鑑定団」という番組があります。
特に茶碗などを名工の作と思い込んで、自信満々で出演した出品者にとって、それを偽物と鑑定されることは失望の極みでしょうが、中島誠之助という陶器専門の鑑定人の、「いい物ですから大事にお使いになったらどうでしょう」という配慮ある言葉に感心することがあります。
 
 私たち「土の器」の製作者は天と万物を創造した神さまです。神はその全知全能を傾け、土くれを捏ねて土の器を造り上げました。それが私たちの教会です。
そしてその「土の器」の中にキリストの「福音」という「宝」を入れてくださったのでした。
 
私たちは土の器の中に持っているのです。何をかと言いますと、キリストが命をかけて仕上げた「福音」という宝を、です。
 
そのことを先ず、驚きを持って認識したいと思います。私たちは福音という「宝」を内側に持っているのです。
 
 
2.それは宝が宝として、正当に評価をされるため
 
そのような尊い「宝」がなぜ、脆くも弱い「土の器の中に」なのか、ということですが、それは「宝」が宝として正当に評価されるためです。
 
「その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」(4章7節後半)。
 
 どんな人の罪も清め、どんな人であっても新しい人生を生きることができるようにさせるもの、それがキリストの「福音」です。
 そして「福音」の「その測り知ることのできない力」(7節 口語訳)「並外れて偉大な力」(同 新共同訳)は生ける「神のものであって」(同)、人である「わたしたちから出たものではないことがあらわれるため」(同)、つまり証明されるためなのです。
 
大体、中身の「宝」よりも入れ物の方が目立ってしまったら、本末転倒です。だからこそ「宝」の入れ物はあえて、土から造られた「土の器」なのです。それは「宝」が「宝」として正当に評価されるためでもあるのです。
 
 
3.と同時に、土の器が本来の立場にとどまるため
 
「宝」の入れ物が「土の器」であるのは、同時に、入れ物が入れ物本来の立場にとどまるためでもあります。
 
人というものは愚かであって、自らの分を超えて高く評価をされたがる者です。人が腹を立てる場合、自分が低く評価されたと思う場合です。過大に評価された場合、真剣になってその評価を否定する人は多くありません。なぜか。自身ではそれを過大評価とは思わず、正当な評価と思っているからです。
 
そして実はそれこそが罪の根である原罪のしるしなのです。原罪は人が入信する際に、つまり、「イエスは主なり」と告白をしたときに、原理的には処理されてはいるのですが、人が生身で生きている限り、信仰を持った後、放っておくと雑草のようにいつの間にかしぶとく生えてきてしまいます。
 
では、「宝」の入れ物が本来の立場にとどまるために何が必要かと言いますと、その最良の予防方法は自分自身を知るということ、自分が何者であるかということを熟知するということです。
自分を本当に知っていれば、驕ることもなく、また徒に腐ることもなく、どんな場合でも淡々として生きることが可能であるからです。
 
パウロという使徒はその持てる実力とすぐれた活動とから、「パウロ教」とでもいうべき宗教の創始者になることも可能でした。
しかし、彼は自らをイエス・キリストの福音の使者という立場に徹して、毀誉褒貶(きよほうへん)の渦を乗り越えて生涯、キリストのしもべ、神の下僕としての立場に固執して、神と教会に仕え続けました。
 
「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神のしもべとして自分をあらわしている」(6章8節前半)。
 
 人の幸せは自分の分を知り、自分の本来の立場にとどまりつつ、その存在をもって、神の栄光を現わすこと、通りよき管となることだからです。
 
 米国やカナダでは会計年度は「一月、十二月」です。そのせいか、私どもが所属している教団も会計年度は「一月、十二月」です。でも、わたしたちが暮らす日本社会は上から末端まで現在のところ、「四月、三月」です。
 
 四月になりました。四月は入園式、入学式そして入社式など、年度始めに行われる行事がある月です。社会人にとっては職場での配置換えもあるかも知れません。
今年の四月には経済の腰折れの心配もある消費税の増税がついに始まりました。すべてが一斉に値上がりをする厳しい年度始めです。
 
 だからこそ、希望をもって課題に取り組みつつ、内なる「福音」の輝きをもって周囲を照らしたいと思います。そこにいるから皆が元気になると言われるような存在になることができたらと思います。
 
 先ほど、「土の器」という讃美を歌いました。
 
土の器 欠けだらけの私 その欠けからあなたの光が零(こぼ)れ輝く
土の器、罅(ひび)だらけの私、その罅からあなたの愛が溢れ流れる
こんな私でさえも 主はそのままで愛してくださる
だから今 主の愛に応えたい 私のすべてで
用いて下さい 主よ 私にか出来ないことが必ずあるから
                    (作詞 田中留美子)
 
 私たちの教会自体、集会自体が、今年も神によって造られた「土の器」となり、「神の恵みの通りよき管」として用いられたいと思うのです。新年度も、互いに祈り合い、励まし合いながら日々の務めに邁進しましょう。





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