2013年7月14日日曜礼拝説教「信仰の祖アブラハムは、神の恵みに支えられて信仰の高嶺を登り切った」創世記25章7〜11節、26章3、4節

投稿日時 2013-07-14 16:44:36 | カテゴリ: 2013年礼拝説教

2013年7月14日 日曜礼拝説教 

「信仰の祖アブラハムは、神の恵みに支えられて信仰の高嶺を登り切った」
 
創世記25章7〜18節、26章3、4節(旧約聖書口語訳31p)
 
 
はじめに
 
 何事かをやり切った時に感じる感覚を「達成感」と言いますが、これを英語では「ピーク・エクスペリエンス」というのだそうです。「ピーク」は「頂上」、「エクスペリエンス」は「経験」ですから、「頂上経験」ということになります。
 
 近年、山ガールなどといって、登山をすることが特に女性の間でさかんになっているそうですが、インドアタイプの人間としては、山登りは考えただけでも疲れてしまいます。でも、かつて一度だけ、登山に挑戦したことがあります。
 
二十数年前、エジプト・イスラエル旅行に参加したのですが、日程の中にエジプトからイスラエルに入国する前に、シナイ半島南部にある山、伝説ではモーセが律法を授けられたシナイ山として知られている山に登るという計画があったのです。勿論、参加は自由でしたが、最初で最後と思い、登ることにしたわけです。
 
この山はアラブ人が「ジェベール・ム―サー(意味はモーセの山)」と呼ぶ標高二二八五メートルほどの山でしたが、夜、山の中腹だったかか、麓だったかにあるホテルで二、三時間仮眠をとってから、午前一時半か二時ごろ、真っ暗な中を登り始めて二、三時間で頂上に到着し、頂上でいわゆるご来光を仰いだのですが、峰々から昇る太陽を見ながら、十人余りの日本人一行は自然に聖歌四八〇番の「輝く日を仰ぐ時」を歌ったという記憶があります。
 
グループの中には高齢のために登山を断念した者もいましたが、やはり頂上で昇る太陽を仰いだ瞬間はまた格別なものでした。
二千メートルを超える山に登ったのは、後にも先にもこれ一度だけでしたが、頂上に着いた時に感じるものが登り切ったという「達成感」、いわゆる「頂上経験」でした。
 
信仰の祖アブラハムは七十五歳で信仰の高嶺を登りはじめてちょうど百年、彼はついに信仰の高嶺を登り切ることとなったのでした。
 
今年の二月から始まったアブラハムの生涯を追う「信仰の高嶺シリーズ」は十七回目の今回で完了です。そこで今週の説教題は「信仰の祖アブラハムは、神の恵みに支えられて信仰の高嶺を登り切った」です。
 
 
1.信仰の祖アブラハムは、神の恵みに支えられて信仰の高嶺を登り切った
 
永年、連れ添った妻サラの亡骸をマクペラのほら穴に葬ってから三十八年後、百七十五歳のアブラハムが地上の生涯を終える時がきました。
 
「アブラハムの生きながらえた年は百七十五年である。アブラハムは高齢に達し、老人となり、年が満ちて息たえ、死んでその民に加えられた」(創世記25章7、8節 旧約聖書口語訳31p)。
 
 アブラハムの人生の終焉を口語訳はこのように訳しますが、訳文によってはまるで違った印象を与えます。
 
「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(同新共同訳)。
 
 口語訳では「高齢に達し、老人となり」(8節)と訳された部分は、新共同訳では「長寿を全うして」と訳され、「年が満ちて息たえ、死んで」(同)は「息を引き取り、満ち足りて死に」とされています。「年が満ちて」と「満ち足りて」ではニュアンスが大分違います。
 
 アブラハムがメソポタミア西部の、現在のトルコとシリヤの国境付近にあった故郷、いわゆるカルデヤのウル、そしてハランを出て、「行け」と言われたカナンに来てからちょうど百年、彼がそのカナンの地で得たものは、羊や牛、しもべたちなどの財産(古代では人も財産に数えられました)の他には、地所としてサラの墓所として購入したマクペラの畑、そして約束の子イサクだけでした。
 
彼は地域の支配者になったわけでもなく、権力者になったわけでもありませんでした。つまり、世俗的な成功、物質的な繁栄などという観点から見れば、「満ち足り」(8節 新共同訳)た生涯であったというには、疑問があるといえなくもありません。
しかし、アブラハムが神から与えられた使命を担い続けたという点において、彼は「満ち足り」た生涯を生き、そして信仰の高嶺を登り切って「死に、先祖の列に加えられた」(8節)のです。
 
神から与えられた使命を担い続けて「息絶えた」(同 口語訳)、あるいは「息を引き取」(新共同訳)ったからこそ、彼は信仰の祖として称えられ、信仰の高嶺を登り切った信仰の勇者として、後に続く者たちの模範なのです。
 
一般に、心がけのよい者は「天寿を全うして穏やかに亡くなる」と言い、反対に道に外れた生き方をしている者には、「そんなことをしていると碌な死に方をしない」などと言いがちです。そういう意味ではアブラハムは日本的に言えば、大往生を遂げたという表現がぴったりの亡くなり方でした。
 
しかし、死に方が必ずしも生き方を評価する基準にならないこともあります。
 
昔、ある新興宗教の信者さんから、「あんたたちが崇めるイエス・キリストは罪人として処刑され、しかも十字架の上で神に向かって、「何で私を見捨てるのか」とみっともなく叫んだそうだが、我がお釈迦様は弟子たちに見守られながら穏やかに亡くなった、その死に方を比べても、こちらの信心が本物であることがわかる」と一方的に捲し立てられたことがあります。
 
狂信的な人には何を言っても無駄と、特に反論もしませんでしたが、しかし、死に方、亡くなり方で優劣を判断するのは間違いです。
 
 
お釈迦様の死を入滅というそうなのですが、その入滅時を描いたものが涅槃図です。横たわるお釈迦さまの周りで弟子も動物も自然界も一様にその死を悼み悲しんでいる図ですが、これはずっと後の時代に描かれたものであって、実際は違ったものだったようです。
 
あまり知られてはいませんが、お釈迦様は何で亡くなったのかと言いますと、作家の五木寛之によりますと、どうも食中毒が原因だったということです。
それも貧しい村を訪れた折、出されたキノコの料理が腐っていることがわかっていたにも関わらず、村人が心を込めてつくった料理だからというのでそれを残らず食べて、その数時間後に腹痛に襲われて亡くなるのですが、亡くなる前に弟子たちに、料理をつくった者への配慮を遺言として遺したのだそうです。
 
五木 ブッダは、出された料理を一口食べると、この料理はほかの弟子に出さないで、土の中に埋めなさいと言う。おそらく腐っていたのを感じたのでしょう。これは体によくない、と瞬間的に思ったけれども、でもブッダは、チェンダという貧しい鍛冶屋が、心をこめてつくったキノコ料理を、一口だけ食べてやめることができなかった。最後まで食べ終える。そして、この料理は自分だけにしてくれと言って、あとは土中に埋めさせて、弟子にはほかの物を食べさせるように言った。それで、何時間かあとに、激烈な腹痛にみまわれて、歩けなくなる。
(中略)ひとりだけ付き従っている(弟子の)アーナンダに、『もしも、自分がここで具合いが悪くなって、死ぬことになったら、チェンダがブッダに悪いものを出してしなせた。そういう男として批判されたりするだろう。だから後日、あの男に伝えなさい、…あなたはいい供養をしたと、ブッダが言ったといいなさい。くれぐれも、(みなが)チェンダを責めないように、彼が自責の念にかられないように、うまく説明してやってくれ』と言う(五木寛之著(対話者 鎌田東二)「霊の発見」191、2p 平凡社)。
 
 このエピソードの出典は明記されていませんので、専門外の者には何とも言えませんが、五木寛之は「これはきっと、ほんとうだろうと考えざるを得ませんでした」と言っています(193p)。
 
食中毒で死んだなどということは、見方によってはみっともないことと言えなくもありません。しかし、キリストは滅び行く全人類のために、そして釈迦は一人の差別された貧しい人への配慮からという違いはあっても、両者の動機は純粋な愛だったのです。
 
つまり、死に方などは問題ではないのです。大事なことはどのように生きたかという人生の中身、生き方の方です。
アブラハムが偉大なのは、彼がこの世の名声や権力のためではなく、神の信任に応えて、直向きに生きたからなのです。
 
十五年前に敬愛する一人の牧師さんが亡くなりました。彼は自宅で風呂の湯加減を見ようとして、足を滑らせて熱湯の湯船に落ちたのでした。救急車で病院に運ばれましたが、治療の甲斐もなく、全身火傷で三日後に息を引き取りました。六十七歳でした。
 
大教会をつくったわけでもありません。大勢の人に洗礼を授けたわけでもありません。高い役職に就いたわけでもありません。また、時代の寵児として全国を講演に駆け巡るということもありませんでした。亡くなり方も思いもかけぬ事故によるものでしたから、畳の上での大往生ではありませんでした。
 
しかし、四十年、日曜ごとに神の言葉を地道に解き明かして、伝道者の道を忠実に歩み続けた生涯でした。この牧師さんは福音を宣べ伝えるという、神から与えられた使命を立派に全うして、信仰の高嶺を登り切り、「満ち足りて死に」(8節)そして神のみ許へと召されたのだと思っています。
 
先週の説教テーマは最後の審判についてでしたが、最後の審判においてはこの牧師さんは公正な審き主であるキリストによって、多くの御使いたちの前で豊かな褒賞を受けることと思います。 
 
 信仰の祖アブラハムは、神の恵みと慈しみに支えられたからこそ、険しい信仰の高嶺を登り切ることができたのでした。今朝は説教後、このシリーズで繰り返し歌ってきた聖歌五八九番「恵みの高き嶺」を歌う予定ですが、特に四節はアブラハムの後に続く私たちの信仰表明として心を込めて歌いたいと思います。
 
   険(けわ)しき坂をも 直(す)ぐなる岩をも み助け有る身は    
   ついに登り切らん
 
 
2.信仰の祖アブラハムの後継者イサクもまた、神の約束の中を生きた
 
アブラハムの亡骸は、アブラハムの正規の後継者であるイサクと、兄のイシマエルにより、サラが葬られたマクペラのほら穴に葬られました。
 
「その子イサクとイシマエルは彼をヘテ人ゾハルの子エフロンの畑にあるマクペラのほら穴に葬った。これはマムレの向かいにあり、アブラハムがヘテの人々から買い取った畑であって、そこにアブラハムとその妻サラが葬られた」(25章9、10節)。
 
 アブラハムの本妻サラの頭に鳴った警戒アラームによって、理不尽にもアブラハムの天幕から追放されて七十二年後、八十八歳のイシマエルは恩讐を超えて弟イサクに協力し、父を葬る葬儀に参加します(9節)。
どこまでも過ぎ去ったことをウジウジと問題にするどこかの民族には、イシマエルの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいところです。男の中の男、それがアブラハムとハガルの息子のイシマエルでした。
 
 イサクもまた、父親のアブラハムが亡くなったとき七十五歳になっていましたが、彼は父を母の傍らに葬ったあと、父親と同様、神の約束の成就を信じてカナンの地に踏みとどまり続けました。
 
そして、神はイサクに対しても、アブラハムに与えた二つの約束を繰り返しました。
一つはイサクの子孫が全世界のための神の祝福の担い手となるということ、そしてもう一つは、その子孫にカナンの地を与える、というものでした。
 
「またわたしはあなたの子孫を増して天の星のようにし、あなたの子孫にこれらの地をみな与えよう。そして地のすべての国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」(26章4節)
 
 当然、重要なのは後半の、「地のすべての国民」がイサクの「子孫によって祝福を得る」という使命の方です。これが目的です。そしてイサクの「子孫にこれらの地を与える」という前半の約束は、この目的達成のための手段でした。
 
 万民がイサクの「子孫によって祝福を得る」という使命を果たすために、イサクの子孫には二つの立場が与えられました。
一つは純粋な信仰を保つモデル民族となるということ、もう一つはその純粋な信仰を全世界に伝えるという役割でした。
 
「あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」(出エジプト記19章6節 101p)。
 
 これは出エジプトをしたイスラエルに、モーセを通して与えられた神の言葉であって、そこにはイスラエルの二つの立場が明らかにされていました。
「祭司」の職務とは神と人の間にあって、神の恵みを伝えると共に、人のために執り成しをする働きです。イスラエルは神なき世界に対して積極的に神を伝える任務を与えられた「祭司の国」だったのです。
 
また「聖なる」とは特別な、という意味です。つまり、彼らを見れば神がわかる、信仰がわかるという特別な民族、信仰のモデル民族という「聖なる民」に選ばれた民族、それがイスラエルでした。
 
しかし、いつの間にか彼らは「祭司の国」としての立場を忘れて、「聖なる民」という特別な立場にのみ拘るようになって、自分たちを神の選民、特別な民という自意識を過剰に持つことにより、異教徒、異国人を蔑むようになり、ついには交流をさえ、断つようになってしまったのです。まさに本末転倒です。
そしてその高慢がキリストであるイエスへの反抗となったのでした。
 
 カナンの地は、イスラエルが「祭司の国」「聖なる民」という役割を果たすための信仰共同体形成の場、あるいは国土として備えられたものだったのです。
しかし、彼らは驕り高ぶって、本来の使命を忘れてしまい、失格者となってしまいました。この結果、イスラエルの子孫であるユダヤ人はその後パレスチナと呼ばれたカナンの地を追われて流浪の民となってしまったのでした。
 
 ではアブラハム、イサクに与えられた使命は潰えてしまったのかと言いますと、そうではありません。
 
アブラハムの子孫であるダビデのその子孫として生まれたイエスが、祝福の基、祝福の媒介者となってくれたのです。
アブラハム、イサクに与えられた使命はキリストであるイエスにおいて実現したのでした。そういう意味において、イサクもまたアブラハムの使命を継いで、彼の後継者となる息子ヤコブと共に、神を信じて誠実に信仰の高嶺を登り切ったと言えます。
 
「信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ」(ヘブル人への手紙11章9節 新約口語訳355p)。
 
 
3.信仰の祖アブラハムに与えられた神の約束は、イエス・キリストによって最終的に実現した
 
アブラハム、イサクに与えられた、全世界が祝福されるという約束はイエス・キリストの十字架と復活によって最終的かつ究極的に実現したのであって、アブラハムの血縁の子孫は、西暦三十年にすでにその役割を終えているのです。
 
それどころか、アブラハムとは血縁関係がない者も、アブラハムと同質の信仰を持つことによって、アブラハムの子孫と唱えられることになりました。使徒パウロは異教徒出身のガラテヤ人信者に向かって言いました。
 
「もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」(ガラテヤ人への手紙3章29節 新約口語訳297p)。
 
 では、アブラハムの子孫に与えるとされた地、つまりパレスチナを与えるという神の約束はどうなったのかと言いますと、この約束は目的達成のための手段ですから、全世界が祝福されるという目的がイエス・キリストによって達成された以上、不必要となります。
 
ですから、一九四八年にパレスチナに建国されたイスラエル共和国は、アブラハムやイサクに与えられた約束の成就などではありません。
 
でも、流浪の民が国家をつくったということは、神の約束、預言の成就ではないかという見方をする人もいます。
そしてそのような見方は、聖書を単純に神の言葉と信じる保守的な立場の人に多いのですが、しかし、二十世紀半ばのパレスチナにおけるイスラエル国家の建国は、国際政治のパワーゲームの結果であって、具体的にはイギリスという国の卑劣な外交的二枚舌、三枚舌によったといっても過言ではないのです。
 
現代のイスラエル国家の建国にアブラハムの神は関与をしておりません。
 
 一九一四年に第一次世界大戦が起こりました。戦争のはじまりは、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、当時オーストリア領であったサラエボを視察中に、セルビア人の青年から銃撃されたことがきっかけでした。これが世にいう「サラエボ事件」で、この事件が発端となって世界大戦が勃発しました。
 
 この大戦はイギリス帝国、フランス、ロシア帝国などの連合国側と、オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国などの同盟国側に分かれて争われ、最終的に連合国側の勝利で終わりました。一九一八年です。
 
 開戦時、パレスチナを支配していたのは同盟国側のオスマン帝国でした。連合国側のイギリスは敵側に付いたオスマン帝国を混乱させるため、一九一五年から一九一六年にかけてオスマン帝国支配下のアラブ人にオスマントルコへの反乱を呼び掛け、戦争に勝利した暁にはアラブ人の独立国家をつくるという約束を致しました。
 
その際に交わされた書簡が「フサイン・マクマホン書簡」です。「フサイン」はメッカの太守で、「マクマホン」はイギリスの駐エジプト高等弁務官でした。
なお、この時あくまでもイギリスの国益のためにアラブに協力したのが、映画「アラビアのロレンス」で有名なイギリス陸軍将校トマス・エドワード・ロレンスです。
 
その一方でイギリスはフランス、ロシアとの間で、戦争終結後にオスマン帝国のアラブ人地域をイギリスとフランスで分けるという秘密協定を結んでいます。「サイクス・ピコ協定」です。
この協定の原案がイギリスの中東専門家マイク・サイクスとフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ・ピコによって作成されたため、このように呼ばれました。一九一六年のことです。この時点ですでに二枚舌です。
 
 そして三枚目の舌が、ユダヤ人たちに対するもので、連合国側が勝利をしたならば、ユダヤ人がパレスチナにユダヤ人による「国民的郷土(原文はナショナルホーム)」という、言うなれば「国家のようなもの」を創ることに努力するという約束をします。「バルフォア宣言」です。
 
これはイギリスの外務大臣アーサー・ジェイムズ・バルフォアからイギリスの大金持ちのユダヤ人資産家であるライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに、一九一七年に宛てられた公的な文書で、いわゆるシオニストたちからの戦争協力、具体的にはロスチャイルド家からの多額の資金援助を当てにしたと言われています。
 
そして第一次世界大戦が終わるとイギリスの隠れた思惑通りにパレスチナは何と国際連盟によってイギリスの委任統治領ということになり、そうこうするうちに第二次世界大戦が始まります。
 
 
 
この大戦の行方が明らかになりますと、イギリスに不信感を抱いたパレスチナのユダヤ人たちは反イギリスに転じ、パレスチナに駐留するイギリス軍にゲリラ攻撃、テロ攻撃を仕掛けるようになるのですが、これに嫌気が差したイギリスはパレスチナの放棄を決め、第二次世界大戦後に、国際連盟にかわって新しく出来ていた国際連合にパレスチナ問題を丸投げしてしまいます。
 
そして、これを受けた国際連合は一九四七年、パレスチナをユダヤ人とパレスチナ人に分割する決議をします(国連決議181号、エルサレムは国際管理とすることから、実際には三分割案)。
 
この分割案はパレスチナ人には極めて不利、不公平でユダヤ人に有利であったため、アラブ側はこれを拒否しますが、ユダヤ側はこれを喜んで受け入れて、スラエルの建国を宣言することになります。一九四八年のことでした。
 
国連決議による分割案がなぜ、ユダヤ人に有利な案であったかと言いますと、米国のトルーマン大統領が選挙のために国内のユダヤ人の支援を当てにしたからであると言われていますが、ユダヤ人に有利な案が通ったその背後にあるものは、ヨーロッパ諸国のユダヤ人迫害に対する贖罪意識であって、パレスチナ人を犠牲にして、ユダヤ人に負債を払ったというわけです。
 
たとえて言うなら、借財を処理するにあたって、自分の懐は少しも痛めないで、貧しい人たちのなけなしの財産を勝手に処分して返済にあてるようなものです。
 
 一九四八年のイスラエル共和国の建国はヨーロッパ、特にイギリスの丸出しの国家的エゴとヨーロッパのキリスト教諸国の罪滅ぼし意識、そして固定の国家を欲したユダヤ人の事情による産物であって、聖書の預言の成就などではないのです。
 
信仰の祖アブラハムへの神の約束は、実は、西暦三十年四月七日のイエス・キリストの十字架刑、そして三日目の四月九日の墓からの復活という歴史的、神学的事実によって既に成就しているのであって、キリストの教会こそ、アブラハムの信仰の子孫なのです。
 
私たちは今日、このことを確認してアブラハムの物語「信仰の高嶺を目指して」を終えたいと思います。
 
ただし、アブラハムは神の大いなる恵みに支えられて、ついに恵みの高嶺を登り切りましたが、私たちはまだまだその途上にあります。
これからもアブラハムを信仰の祖として仰ぎ見上げながら、一歩一歩、恵みの高嶺を登っていきたいものです。そのためにも、日曜ごとの礼拝をこれからも大事にしたいと思います。





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