2013年4月21日日曜礼拝説教「信仰の祖アブラハムは、ついに信仰の真髄ともいうべき段階に導かれた」創世記15章1〜21節

投稿日時 2013-04-21 16:24:31 | カテゴリ: 2013年礼拝説教

20134月21日 日曜礼拝説教 

「信仰の祖アブラハムは、ついに信仰の真髄ともいうべき段階へと導かれた」 
 
     創世記15章1〜21節(旧約聖書口語訳16p
 
 
はじめに
 
 私ごとですが、この数年、血圧を下げる降圧剤を二日に一錠、服用をしているのですが、近所にある掛かりつけの内科クリニックで処方してもらっているその降圧剤は、医師の説明によりますと(この医師は患者の話を良く聞いてくれる評判の名医です。またこのクリニックの受け付けの女性たちは実に感じのよい対応をします)、単に血圧を下げるという効能があるだけでなく、人体の主要な器官である心臓と腎臓の機能を強化する働きもあるとのことです。
 
 そこで今週は、肝心または肝腎と言いますように、人体における肝臓、心臓、腎臓にも比肩される、信仰の中心とでもいうべき段階に到達したアブラハムと神とのやりとりを通して、信仰の真髄とは何か、人は何を手掛かりとして信仰の真髄に至るのか、また信仰を保証するものは何であるのかということをご一緒に教えられたいと思います。
 
 
1.信仰の祖アブラハムの信仰は、ついに信仰の真髄ともいうべき段階に到達した
 
 まさに山あり谷あり、さまざまの紆余曲折を経て、アブラハムはついに信仰の真髄ともいうべき段階に到達します。
 
「神髄」あるいは「真髄」は「物事の最も肝心な点」のことです。肝心は肝腎とも言いますが、肝心は肝臓と心臓、また肝腎は肝臓と腎臓のことであって、肝臓、心臓そして腎臓は人体の中では最重要の器官です。
 
 そしてアブラハムはついに信仰の真髄という、信仰の最も肝心かつ肝腎なレベルへと導かれたのでした。
きっかけは幻のうちに彼に臨んだ神の言葉でした。
 
「これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、『アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう』」(創世記15章1節 旧約聖書口語訳16p)。
 
 その言葉はアブラハムの信仰を鼓舞するために語られたものでした。「これらの事」(1節)とは、東方の大国から派遣された軍隊によって拉致されたロトたちを、彼がそのしもべたちと共に命がけで救出した戦闘を指します。
 
大きな事業のあと、人はしばしば虚脱感に襲われる場合がありますし、また、命の危険と対峙しつつもその時点では夢中であったために記憶の底にしまい込んでいた恐ろしい出来ごとなどが、時が経ってから思い出す、いわゆるフラッシュバックという状態を経験して、不安や恐怖を感じるということもあります。
 
 アブラハムがもしもそうであったとするならば、「恐れてはならない」(1節前半)、「わたしはあなたの盾である」(同)という神の語りかけは、まさに神からの的を射た励ましとなったことでしょうし、特に、「わたしはあなたの盾である」という言葉にはアブラハムは大いに力づけられたことと思います。
 
 しかし同時に、「あなたの受ける報いは、はなはだ大きい」(1節後半)という言葉は、アブラハムを戸惑わせたようです。
なぜかと言いますと、この時点においては、彼ら夫婦には信仰の「報い」ともいうべき兆候はまだ現われていなかったからです。
 
そこでアブラハムは正直な気持ちを吐露します、すなわち、「私たちには依然として、跡を継ぐべき子供は生まれておりません、このまま時間が推移すれば、家を継ぐ者は古くからのしもべであるダマスコ出身のエリエゼルということになります」と。
 
「アブラムは言った、『主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか』。アブラムはまた言った、『あなたはわたしに子を賜らないので、わたしの家に生まれたしもべが、あとつぎとなるでしょう』」(15章2、3節)。
 
 これに対して神は答えます。「エリエゼルはあなたの跡継ぎにはなれない、あなたの跡継ぎはあなたの血を分けた子供です」と。
 
「この時、主の言葉が彼に臨んだ、『この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者はあとつぎとなるべきです」(15章4節)。
 
 そしてこのあと神はアブラハムを天幕から外へと連れ出して、「天を仰いで、星を数えてごらんなさい、あなたの身から出た子孫は、いつの日か、あの星のように数え難いほどの民族となる筈です」と言われたのでした。
 
「そして主は彼を外に連れ出して言われた、『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい』。また彼に言われた、『あなたの子孫はあのようになるでしょう』」(15章5節)。
 
 この神の言葉に対してアブラハムはどう反応したかと言いますと、彼はその言葉をただ「信じた」のでした。
 
「アブラムは主を信じた」(15章6節前半)。
 
 驚くのはアブラハムが何のしるしも見ないにも関わらず、ただ「信じた」ということです。
彼は何を「信じた」のでしょうか。もちろん、彼が信じたのは神の言葉ですが、それ以前に、彼は言葉の発言者であるお方の「主を信じた」(6節前半)のでした。
 
信仰とは、「何を信じるか」という信仰の内容以前に、「誰を信じるか」という信仰の対象が問題となります。要は信用の問題です。そしてアブラハムはただただ「主を信じた」のでした。彼はこのときまさに、信仰の真髄とでもいうべき段階に導かれていたのでした。
 
信仰とは何か、ということについて最も有名な言葉がヘブル人への手紙にあります。リビングバイブルで読みたいと思います。
 
「信仰を、どう定義したらよいでしょう。それは、願い事が必ずかなえられるという、不動の確信です。また、何が起こるかわからない行く手にも、望みどおりのことが待ち受けていることを信じて、疑わないことです。神様を信じた昔の人たちは、この信仰で名高いのです」(ヘブル人への手紙11章1、2節 リビングバイブル)。
 
 ここで語られている信仰の定義の前提には、偽ることのない真実の神への信頼があります。
 
 信じるということは重要ですが、大事なことは何を信じるか、そして誰を信じるかと言うことをよく見極めてから信じることです。信じればよい、というものではないからです。
 
実は毎朝見る光景で気になっているものがあります。それは高額な医療機器を製造販売している店の前に、高齢者が集まっているという光景です。
その店は無料体験と称して、店に来る高齢者にその医療器具を使わせているようなのですが、その店に消費者庁が先週、「高血圧や糖尿病も治る」などと、効果を誇大に売り込んでいたことが景品表示法違反にあたる恐れがあるとして、関東、関西、九州など全国各地の同社の営業所に立ち入り検査に入った、という報道がなされました(朝日新聞DIGITAL 2013年4月18日)。
 
報道によりますと、そこでは一台何十万円もする医療器具を販売する際に、「治る」を謳い文句にするだけでなく、「夜寝て使用すると三倍の効果がある」などというセールストークで販売実績をあげていた疑いがあるとのことで、実際、記者の取材に対して、同社は「根拠はなかった」と認めたといいます。
「信じる者は救われる」といいますし、治ると信じて服用すれば疑似薬でも効果が認められるという実験結果がありますから、「治った」ように感じる人もいるのかも知れません。しかし、このような商法で食い物にされるのはいつも高齢者です。
 
脳の専門家によりますと、年をとると脳の記憶を掌る部分が退化して、人を疑うことをしなくなる、その結果、詐欺などに引っ掛かりやすくなるそうで、同じ人が繰り返し被害に会うのはそのためで、その結果、詐欺の業界では被害者の名簿が高値で取引されているとのことです。
 
この報道があった次の日も、その店の前には高齢者が集まっており、また前の日同様、入り口には「昨日の来場者百何十何名」と大書されていました。
問題は何を信じるかという内容の吟味と、誰を信じるかという対象の確認です。
 
 聖書に戻ります。神は「信じた」アブラハムを「義」としました。
 
「主はこれを彼の義と認められた」(15章6節後半)。
 
 この、神に「義と認められ」るという事柄の重要性に関しては、後年、使徒パウロがローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙において、神学的、信仰的見地からの意味づけをしておりますが、アブラハムの場合の「義と認められた」とは、神によって肯定、受容、承認をされたという意味です。神に義と認められるような信仰の真髄に、彼はこの時、ついに到達をしたのでした。
 
 そういう意味では現代の私たちもまた、神をこの目で見たことはありませんが、神の実在を信じ、神の言葉を信じる者である以上、アブラハムと同じように信仰の真髄に到達していると言ってもよいのです。
 
 アブラハムの場合、前人未到ならぬ前人未踏の信仰の高嶺へと、暗中に模索を重ねながら一歩一歩、神に導かれて近づいて行ったのですが、私たちの場合はまことにありがたいことに、信仰の手本ともいうべきアブラハムが眼前にいる上に、礼拝ごとに聖書が正しく解き明かされ、そして共に歩む信仰の仲間がいるという環境にあることを感謝しなければなりません。
そして大切なことは、神の恵みに拠って到達したこの段階に、常に止まり続けることなのです。
 
 
2.信仰の祖アブラハムは、創造者なる神の手のわざを手掛かりに、信仰の真髄へと導かれた
 
 アブラハムがどのようにして信仰の真髄とでもいうべきレベルに導かれたのか。それは、神が手掛かりとでもいうべきものを彼に示されたからであることが、前後の記述でわかります。
 神はアブラハムを天幕の外に連れ出して、夜空に輝く星々を数えるように命じ、そしてあなたの子孫はあの星々のように数え切れないほどに増えるであろう、と言われたのでした(15章5節)。
 
 自然、自然と言いますが、自然なるものは創造者である神の手のわざなのです。アブラハムから千二百年後、預言者イザヤはバビロニヤに捕囚となっている、打ちひしがれたイスラエルの民に向かって、信仰を鼓舞する呼びかけを行いました。
 
「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることがない」(イザヤ書40章26節 998p)。
 
 「これらのもの」とは太陽や月、星のことです。「万軍」も星々を指します。古代では太陽や月、星などの天体は人間の運命に影響を与えるものとして、恐れの対象でした。
尤も、現代でも、星座がどうとかこうとかいう運勢なる迷信を頼って一日を始める人が大勢いるのですから、昔の人を笑えません。
 
 これら天体などの自然は創造主である神によって、神の偉大な栄光を表わすもの、人間や生き物の命、生活、暮らしに便宜をもたらすものとして造られたものなのです。
 
自然と言われているもので、勝手に出来たものはありません。レストランで食べる料理は自然に出来たものではなく、料理人がつくってテーブルに出してくれるのです。だから客は料金を払うのです。料金を払わずに店を出てきたら、食い逃げで捕まります。
 
しかし、ほとんどの人は神が精魂込めて造った自然という産物を、勝手に平然と使って料金も払わず感謝もしません。
神を信じる私たちが献金をするのは、この神の大いなる恵みに対してささやかな感謝の気持ちを表す当然の行為なのです。
 
神の存在を信じない人々が住む地域のなれの果てが現代の中国でしょう。自分さえよければよいという利己主義の結果はすさまじい環境汚染となって、あらゆる疾病の源となっています。問題となっている鳥インフルエンザの蔓延も、どこかでストップすればよいのですが。環境汚染の影響をもろに受けるのが乳幼児なのです。神よ、中国に住む、あるいは住まわざるを得ない幼い子供たちを憐れんでください。
 
作品を見れば作者がわかるといいます。この宇宙、この世界は心ない人間によって汚染されて来はしましたが、それでも神が人間のために造ってくれた作品なのです。破壊される前の中国の自然は見事でした。
神の作品である自然を見れば、作者である神の知恵やセンス、優しさや愛情という神の本性が見えてきます。
 
人体もまた然りです。人間も年を取れば体のあちこちが色々と傷んできます。しかし、人の体は限界があるとはいえ、神の創造の産物、最高の傑作なのです。
 
アブラハムは神の言葉に従い、神の創造のわざである「天を仰いで
星を数え」(15章5節)ることによって、信仰の真髄へと導かれたので
した。
信仰の真髄に至る手掛かり、神の創造のみ業という手掛かりは、私たちの周囲には沢山あるのです。多忙な毎日ですが、日常生活の中で、ふと立ち止まって、周囲の自然に向かい、「目をあげて、だれがこれらのものを創造したか」を考えることも、私たちを信仰の真髄に導く手掛かり、信仰の真髄に止まらせえる効果的な手掛かりなのです。
 
 
3.信仰の祖アブラハムが導かれた信仰は、神の不変の契約によって保証されている
 
その時点ではまだ子供のいなかったアブラハムに、子孫を与えるという神の約束を、彼は信じました。しかし、その子孫が民族を形成するためには国土というものが必要となります。神はアブラハムの子孫が住む土地として、彼がいま仮の宿としているカナンの地を与えるという約束を繰り返されました。
 
「また主は彼に言われた、『わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主です』」(15章7節)。
 
 アブラハムはメソポタミア北部の「カルデヤのウル」(7節)からこの地に流れてきた遊牧民です。彼はこの時、カナンに自分名義の土地の一坪も所有してはいませんでした。ですから、アブラハムは「それをどうして知ることができるのでしょうか」と神に尋ねました。
 
「彼は言った、『主なる神よ、わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか』」(15章8節)。
 
 この質問は不信仰から出た問いではなく、素朴な疑問です。素朴な疑問はしばしば人をして大いなる真理へと導きます。
 
 アブラハムの疑問に対して神は、彼に雌牛、雌山羊、雄羊などを用意させ、更にこれらを二つに裂かせ、それらを互いに向かい合わせに並べるように命じました。
 
「主は彼に言われた、『三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊、山ばとと、家ばとをわたしの所に連れてきなさい』。彼はこれらをみな連れてきて、二つに裂き、裂いたものを互いに向かい合わせて置いた」(15章9、10節)。
 
そして、彼の子孫が他国で苦しんだ後に、神に導かれてこの地に戻ってくるという預言を語ったのでした。
 
「時に主は言われた、…あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。しかし、…その後かれらは多くの財産を携えて出てくるでしょう」(15章13、14節)。
 
この預言はアブラハムの孫のヤコブの子供たちである十二部族のエジプト寄留、そしてモーセによる出エジプトによって実現することとなります。
 
 預言のあと、神はアブラハムを相手にして契約を結ばれました。
 
「やがて日が入り、暗やみになった時、煙の立つかまど、炎の出るたいまつが、裂いたものの間を通り過ぎた。その日、主はアブラハムと契約を結んで言われた、『わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで』」(15章17、18節)。
 
 裂かれた動物は、もし契約を破るならばこのようになるというしるしであって、契約という行為に伴う当時の習慣でした。そしてこのことは、神はひとたび結んだ契約は自分からは決して破らないというしるしでもありました。
私たちの信仰は、決して人を裏切ることをしない神が結んでくれた不変の契約によって保証されているのです。
 
人同士の約束や国家間の条約は破られる場合があります。ソ連は日本がポツダム宣言の受諾を表明したあとになって、日ソ友好条約を一方的に破棄して満州に攻め込んできて、南樺太や千島列島など、当時の日本領土を侵略したのでした。でも、神を信じない国家を信じた方もまた、愚かだったのです。
 
しかし、アブラハムが導かれた信仰は、神の不変の契約によって保証されており、偽ることのない神の真実が基礎になって成り立っています。
そしてこの神による契約は、二千年前、救世主のイエス・キリストによって新しく更新されて現在に至っているのです。
 
今日、今一つ、信仰に踏み込めないという方がおられるならば、イザヤ書の次の言葉を噛みしめてください。これは第二イザヤにより、打ちひしがれている捕囚の民に対する最後の励ましとして語られた言葉です。
 
「『山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない』とあなたをあわれまれる主は言われる。
『苦しみをうけ、あらしにもてあそばれ、慰めを得ない者よ、見よ、わたしはアンチモニーであなたの石をすえ、サファイヤであなたの基をおき、めのうであなたの尖塔を造り、紅玉であなたの門を造り、あなたの城壁をことごとく宝石で作る』」(イザヤ書54章10〜12節 1023p)。
 
「アンチモニー」(11節)は神殿などの建築に使用された希少価値の鉱物だそうです。また「サファイヤ」(同)、「めのう」(12節)、「紅玉」(同)は宝石として珍重されました。これらの比喩は、契約の対象である神の民への、神の愛と慈しみを象徴する最大の表現です。
 
確かに私たちは神を信じつつも、時には「苦しみを受け、あらしにもてあそばれ、慰めを得ない」(11節)という、つらい境遇を生きることがあります。
山が移り、丘は動くという驚天動地の災難に遭遇することもあります。
 しかし、いかなる時でも「わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない」(10節)と、わたしたちを神の民として選んだ神は保証をしてくれるのです。
 
 今週もまた、信仰の祖アブラハムの足跡を追いながら、信仰の真髄というレベルに、神に助けられて止まり続けたいと思います。





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