2013年3月17日日曜礼拝「信仰の祖アブラハムは、見えないものに向かって目を上げた」創世記13章2〜18節

投稿日時 2013-03-17 16:46:25 | カテゴリ: 2013年礼拝説教

20133月17日 日曜拝説教

信仰の祖アブラハムは、見えないものに向かって目を上げた」
 
創世記13章2〜18節(旧約聖書口語訳14p)
 
 
はじめに
 
 汚染大気の極小微粒子のpm2.5に加えて、モンゴルのゴビ砂漠、中国内モンゴル自治区のバダインジャラン砂漠、ウイグルのタクマラカン砂漠から吹きあがった黄砂がこの時期、偏西風に乗って日本列島に飛来しているというので、外に出るときには機密性の高いマスクを着けるようになりましたが、困ったのは、マスクの中で吐き出された息が行き場を失って、マスクの上の隙間から眼鏡にかかり、その結果、眼鏡が曇ってしまうようになることです。
眼鏡が曇ると視界不良になって物や周囲がよく見えなくなり、特に自転車で走るときなどは、まことに危険です。
 
 信仰の祖アブラハムも、飢饉という危機に直面した時に、視界が曇って緊急避難先に大迷惑をかけ、取り返しのつかない事故を起こす寸前までいきましたが、危機一髪というところで、神の強制介入という特別な加護によって事なきを得ることとなりました。
 
そのことで、物事を信仰の目で見るということと、見つめるべきものは何かという、見るべき対象こそが重要であることを学んだのがアブラハムでした。
 
 今週はアブラハムと彼の甥のロトの選択から、見えるものではなく、見えないものにこそ、目を向けるべきであるということを教えられたいと思います。
 
 
1.優先すべきものは、礼拝の回復による信仰の復興
 
 最近、テレビのニュース番組などで頻繁に、謝罪会見を見ることがあるのですが、関係者が現在の心境は、と聴かれて、「内心、忸怩たる思いです」などと答えている場面を目にします。
「忸怩」は「じくじ」と読むのですが、辞書によれば「自分の行いについて、心の内で恥入るさま」とあります。
「忸怩」の「忸(じく)」も「怩(じ)」も共に送り仮名をつけて「恥じる」と読みますので、二つ重ねることによって本当に恥ずかしく思っているという気持ちを強調しているわけです。
 
そして、エジプトからカナンへと帰還したアブラハムもまた、「内心、忸怩たる思いで」帰ってきたことと思います。
 
ネゲブに帰ってきた彼は、自分を妻サラの「兄」とした代償として莫大な財産をパロから受け取っていました。彼はサラのゆえに資産家となっていたわけです。
 
「アブラムは妻とすべての持ち物とを携え、エジプトを出て、ネゲブに上(のぼ)った。ロトも彼と共に上った。アブラムは家畜と金銀に非常に富んでいた」(創世記13章1、2節 旧約聖書口語訳14p)。
 
 しかし、恐らく、彼の気持ちは鬱々として楽しむことがないどころか、忸怩たる思い、慚愧(ざんき)の思いで一杯であったことと思います。
ちなみに慚愧の「慚(ざん)」は自己に対して恥じること、「愧(き)」は外部に対してその気持ちを表わすことで、合わせて、自分の言動を反省して恥ずかしく思うことを意味します。「慚愧」はこの時のアブラハムの心情を最もよく表わしている言葉であると思います。
 
しかし、エジプトからの帰路はまた、アブラハムにとっては信仰への帰還の旅でもありました。カナンに帰ってきた彼は、南部のネゲブで止まるのではなく、さらに中部へと旅路を進めて、先に天幕を張ったベテルとアイの間に戻り、そこで、以前築いた祭壇の前で、自分をカナンへと呼び出した神に向かって礼拝を奉げたのでした。
 
「彼はネゲブから旅路を進めてベテルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ」(13章3、4節)。
 
 彼が取った判断と行動は、神に選ばれた者として、致命的ともいえるミスでした。しかし、神の赦しとサラの赦しを受けて、優先すべきものが何であるかを悟り、戻るべきところへと彼は戻って行ったのでした。
 
カナンに戻ってきたアブラハムが真っ先に優先すべきは、信仰の復興であり、そしてその信仰の復興のために不可欠なものが、神への礼拝の回復であるということを、アブラハムは今さらながらに学んだのでした。
それが「彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所で…主の名を呼んだ」(4節)という記述に表れています。
 
私たちもまた、時には取り返しのつきそうにない失敗を犯し、挫折を経験する場合があり、その時には時間を巻き戻して新しいくやり直すことができたらどんなによいだろうと思うことがあるのですが、そのような、取り返しのつかない状況に至った場合、ただいたずらに自らを責めるのではなく、帰るべきところは救い主が償いの犠牲として捧げられた十字架という「祭壇」であり、今、優先すべきことは信仰の復興、そして礼拝の回復であるということを、肝に銘じる者でありたいと思うのです。
 
私たちもまた、そのような場合には「初めに築いた祭壇の所に行き、その所で…主の名を呼」(4節)ぶ者でありたいと思うのです。 
 
 
2.持つべきものは、真の価値を見分ける霊的な判断力
 
 しかし、一難去ってまた一難、カナンに戻ってきたアブラハムとハランから彼と行動を共にしてきた甥のロトとの間に、共存を不可能にする事態が発生したのでした。
エジプトから戻ってきたとき、アブラハムとロトの双方の財産が急速に増加していたため、家畜に与える牧草と水の供給に関して、限界状況が生まれたのです。
 
「アブラムと共に行ったロトも羊、牛および天幕を持っていた。その地は彼らをささえて共に住ませることができなかった。彼らの財産が多かったため、共に住めなかったのである」(13章5、6節)。
 
 これに加えて、双方のカウボーイたちの間で牧草と水の取り合いによる揉め事が生じるに至りました。
 
「アブラハムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に争いがあった」(13章7節前半)。
 
 隣国が抱えている問題は大都市の汚染大気だけではありません。不法投棄されたゴミや廃棄物によって土壌、地下水は汚染され、垂れ流された廃液によって河川や海の汚染が進み、それらは住民の生存と健康を脅かすだけでなく、汚れた海で魚が獲れなくなった漁民は韓国や日本の領海を侵犯して漁をするため、紛争が絶えません。
 
 最近の話題は数千頭の豚の死骸が上海近くの河に不法投棄されていたことで、しかもこの河は上海の飲料水の供給源でもあることから、先週末、米国の日刊紙のウオール・ストリート・ジャーナルの社説には、中国人による笑うに笑えない自虐的ジョークが載っていました。
 
 「ある北京市民が言った、『窓を開けるとただでタバコが吸えるのだから、我々は幸運な市民だ』。するとある上海市民が反論した、『だからなんだよ、我々は蛇口をひねるだけでポークスープがのめるんだぞ』」
 
その隣国が狙っているのは他国の領土、領海だけではありません。いま、我が国が深刻な案件として優先すべき課題は何かと言いますと、豊富な資金を用いての隣国による買い占めから、貴重な森林や水資源を防衛することなのです。それほど、隣国の水不足は切羽詰まった状態なのです。
 
 アブラハムとロトの場合、牧草と水資源争いの解決策は別居しかありませんでした。そこでアブラハムは骨肉の争いを避けるため、痛恨の思いでロトとの離別を決断し、そして別れを提案します。
 
「アブラムはロトに言った、『わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも、わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましょう。全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください』」(13章8、9節前半)。
 
 今度は以前と違って、祈った末の判断であった筈です。その証拠が、選択権を目下の甥に与えたことでした。
 
「あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう」(13章9節後半)。
 
 これはアブラハムが、彼に対して最善の道を備えておられるという確信を、礼拝と祈りの中で持つことができたから、つまり残り物には福がある、神はご自分に拠り頼む者に対して、常に最善をなし給うという信仰に戻ったからであると考えることができます。それが、選択優先権をロトに与えた理由でした。
 
そしてもう一つ、彼がユングのいう、いわゆる内向的人間になっていったからであると考えることもできると思います。礼拝という神との交わりがアブラハムを内向性の人間に変えていたからこそ、思い切って、ロトに選択権を渡しすことができたのではないかと思われるのです。
            
 精神分析の権威としてフロイトと並び称されたユングは、一九二〇年に著わした「人間のタイプ」において人間のタイプを二つに大別し、一つを外向的、あるいは外向性タイプ、もう一つを内向的、あるいは内向性タイプとしました。
 
この区分は一般的にはユングの意図とは別の意味で理解されていて、外向的というと誰とでも打ち解けることのできる社交的な性格を、そして内向的は引っ込み思案の人みしり、というように分類されるのですが、基本的には人が何に価値を見出すかという、価値観をめぐる区分、それがユングの本来の区分なのです。
 
外向性タイプとは、関心が外の世界に向かっている人で、お金や物の豊かさ、社会的、経済的成功、高い地位や名声、大きな権力などといった、目に見えるものに価値を置くタイプです。必然的に自らが持つエネルギーは関心を持つ外の世界に注がれます。
 
そして内向的タイプとはその反対に、自己の内なる世界に関心を持ち、その結果、神の存在、神の教え、永遠というもの、人間の魂や心のあり方、人と人の絆や関係、あるいは愛や情愛という、目には見えないものに価値を見出す傾向の人を指します。そして当然、自らが持つエネルギーは関心の対象である内なる世界に注がれます。
 
 このタイプを当て嵌めた場合、これまでアブラハムと行動を共にしてきた甥のロトが、実は外向的タイプであったということを、いみじくも彼が下した判断で示すこととなったのでした。
叔父から、あなたが先に、と言われたにせよ、長幼の序としては彼は選択権を年長者であるアブラハムに渡して、「いえ、叔父さんから先に」と言うべきでした。
しかし、彼は叔父の言葉を幸いに、選択権を最初に行使し、ビジネスチャンスが待っているように思えたヨルダンの低地を選んだのでした。
 
「ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。そこでロトはユルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互いに別れた。」(13章10、11節)。
 
 しかし、エジプトで手痛い失敗をしたアブラハムには見えていたのだと思われます。何がかと言いますと、ヨルダンの低地から漂ってくる腐敗の悪臭の元が、そして悟っていたのだと思われます、そこが、神を否定する、外向性タイプの人々が住む世界であるということを。 
 
「アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった」(13章12、13節)。
 
 持つべきものは真の価値を見分ける霊的な判断力であり、その判断力を持つ人こそが、内向的タイプの人なのです。
そしてアブラハムはエジプトに下った際の、一時的な見えるものに目を向ける外向的タイプから、見えないものに目を注ぐ内向的タイプに変わっていったのでした。
 
「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである」(コリント人への第二の手紙4章18節 新約口語282p)。
 
 ロトは「一時的」な「見えるもの」に目を注ぎましたが、アブラハムは「永遠に続く」「見えないものに目を注」いだのでした。
 
 
3.見上げるべきものは、変わることのない神の約束
 
 カナン中部の高地に残ったアブラハムでしたが、そこで彼は神の約束の言葉、あなたがそこから見渡す地は、あなたとあなたの子孫に与えましょう、という言葉を、神からの約束の言葉として聴くこととなります。
 
「ロトがアブラムと別れた後に、主はアブラムに言われた、『目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます』」(13章14〜16節)。
 
 アブラハムが見渡した地は、ロトが向かったヨルダンの低地をも含めたカナン全体でした。
そしてそこは彼が自らの野心や欲望を充足させるための土地ではなく、祝福の基たるべく、祝福の媒介者たるべく召されたもともとの召しの目的を実現するための、手段としての土地であったのです。
 そして、その召しの目的は紆余曲折を経ながら、救世主の誕生に至って実現することとなります。
 
「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイによる福音書1章1節 新約1p)。
 
 「子」とは子孫という意味です。イエスは人としてはアブラハムの子孫のダビデの子孫として誕生し、これによって神の約束がついに実現することとなるのですが、そういう意味において、アブラハムの血族のイスラエルの使命も既に完了をしているのです。すなわち、肉のイスラエルの使命は霊のイスラエルであるキリストの教会に引き継がれたのでした。
 
ではアブラハムの役割はどうなっているのかと言いますと、アブラハムは、信仰とは如何なるものであるかということを示す、信仰の模範、信仰のモデルとして今も私たちの前に、そして私たちが踏むべき足跡を残してくれています。
 
選択に当たって、ロトもアブラハムも共通した行動をとりました。それは「目を上げ」るという行動でした。
 
「ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、…」(10節)。
「ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、『目をあげて…見わたしなさい』」(14節)。
 
しかし、同じ行動をとったとしても、見えるものに専らの価値を見出したロトは信仰の模範たり得ませんが、変わることのない神の言葉を約束の言葉として受け止めたアブラハムは今も、全信仰者の生きた目標であり、模範です。 
 
彼は「目を上げ」(14節)て、全地を見渡し、その見渡した地を縦横に廻ったのち、天幕を南のヘブロンに移して、神の時期を待つこととなるのです。
アブラハムが見上げたのは、約束の地の向こうにいます神ご自身であったのでした。
 
そして、移り住んだヘブロンにおいてアブラハムが最初にしたことは、礼拝のための祭壇を築くことであったのでした。
 
「アブラムは天幕を移してヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわらに住み、その所で主に祭壇を築いた」(13章18節)。
 
 紀元前六世紀、アブラハムの子孫でありながら、神の恵みを忘れて囚われの身となった捕囚の民に向かって預言者イザヤが取り次いだ神の言葉が、神の言葉はいつまでも変わらない、という約束でした。
 
「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息が吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変わることがない」(イザヤ書40章6節後半〜8節 旧約996p)。
 
 挫折と悔恨の日々のあとにアブラハムが仰いだもの、それは「とこしえに変わることのない」(8節)「神の言葉」(同)であり、決して約束を違(たが)えることのない生ける神ご自身だったのでした。
 アブラハムの信仰の子孫である私たちもまた、見上げるべきものは、変わることのない神の約束であり、共にいてくださる神なのです。





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